帝國の書庫番   作:跳魚誘

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それぞれの「子供」達。


帝國の書庫番 十幕

「で、どうなったんだぃ?お嬢様とは。」

 外は、全ての音を掻き消すような蝉時雨。部屋の中から聞くならば、それも風流だ。しかし、文机に片肘を付く孝晴と、畳に正座し背筋を伸ばしている麟太郎は、そんな音を気にしてはいない。半笑いで訊ねる孝晴に、麟太郎は淡々と答えた。

「小隊長と石動が、私が頭を打った所を見ていましたので、病院にやるから話は後日、と言ってくれて、彼女には帰っていただきました。」

「なんだぃそりゃお前……。」

何とも言えない表情を浮かべる孝晴。麟太郎は首を傾げる。

「それ以外にどう仕様がありましたか。私はそのような時にどうしたらよいか、教えられておりません。」

「ま、確かに、女の方から男に詰め寄って結婚を迫るなんてのは、殆ど聞かねェわな、貴族士族の間じゃ特に。型破りなお嬢さんだ。」

孝晴は、ふう、と珍しく大きく息を吐く。彼女が訪れたのが休暇明け翌日、しかも、前日夕刻にも一度守衛に詰め寄ったという。猫の件が昼過ぎで、そこから数刻も経たずに、屯所に駆け込んだ事になるのだ。

「一目惚れ、ってやつかねぇ。」

「ひとめぼれ。」

孝晴の呟きを、鸚鵡返しに麟太郎が口に出す。孝晴は掌に頬を乗せながら言った。

「一目見ただけで相手を好きになっちまう事さね。」

「そんな事がありますか。そもそも彼女は私を怖がっているように見えましたが。」

「俺に訊くんじゃねぇやい。大体、女の心なんてのは、男にゃ分からねェもんなんだよ。」

「……。私は、どうしたらよいのでしょう。」

膝の上で手を握り、俯く麟太郎。表情が無くとも、彼が戸惑っているのが手に取るように分かる。ただ、孝晴には彼の迷いが、女の件だけではないような気がした。どことなく、なんとなく。麟太郎に何か変化とでも呼ぶべき事が起きている、ような。しかし確信が持てるほどでもないと、孝晴は頭から手を離し、麟太郎を見遣る。

「……リイチなら、そっちの話に強いかも知れねェな。あいつにゃ女兄弟が居るし、廓の女とも関係持ってる。それに医者だからな、心やら精神やらにも多少は詳しいんじゃねぇかぃ。」

「確かに、そうかも知れません。」

「俺ぁ、そういう女関係についてはからきしだからな、礼節の問題として、早く返事なり会ってやるなりしてやらねぇと失礼だ、って事くらいしか言えねぇ。勘解由小路も古い家柄で、大臣も厳格な采配を取られる人だが、お嬢さんがそんな性格なら、どう転ぶかも分からねぇからなァ。」

 考えながら頭を掻く孝晴をじっと見る麟太郎。麟太郎にその記憶はないが、普通ならば、一番近しい男女の関係は「親」の筈だ。しかし、有坂家はどうなのだろう。麟太郎自身は孝晴に拾われた後、彼の母親にも作法等を教わったが、父親の姿を見た事は無かった。隠居したと聞いている為、死んだ訳ではないのだろうが……。

「奥方様と旦那様のご関係は、参考には……、」

「ならねェ。」

珍しく孝晴は、麟太郎の言葉を遮ると、一刀両断に切り捨てた。

「寧ろ、母上には言わない方がいい。それこそ、お前の人生を髄までしゃぶられる事になる。それに俺ぁ、あの二人がどうして夫婦(めおと)になったのか、知らねェんだよ。」

孝晴の語調は静かだったが、その目に浮かぶのは、有無を言わさぬ薄暗い色。麟太郎は口を閉ざす他無かった。

 

「……で、俺を頼って来たって訳か。」

 窓の閉じられた静かな執務室の中。頁を捲る手を止めて話を聞いていた理一は、唇から紙巻きを離し灰皿に押し付けると、改めて手を組み直し、来訪者ーー麟太郎を眺める。

「とんでもねぇお嬢さんに惚れられたもんだな、リン公。」

「その『とんでもない』は、彼女の立場ですか、それとも行動ですか。」

「どちらかと言えば行動について言った。けど、立場も『とんでもない』のに変わりないか。」

そんな部分を律儀に確認する麟太郎に、理一は思わず笑みを浮かべたが、相手は現大臣の末娘だ。勿論公に口にする者は居ないが、この二日で確実に求婚の噂は拡がった。麟太郎がその場で名前を明かさなかったのが幸いといったところか。

「で、お前はどう思ってんだ。」

「どうも何も、私は彼女の事を知りません。何故そんな思いを抱くに至ったのかも。ハル様は『一目惚れ』だと仰っていましたが、私の何に『惚れ』たのか……心当たりもないので。」

「一目惚れねぇ。そうでもなけりゃ、説明はつかないかもな。」

「そもそも、そんな事が起こるものなのですか。」

言われて、改めて理一は麟太郎を観察してみる。ちびで痩せぎす、目付きは悪い、表情は無い、そして威圧的な警兵服。顔立ちはよく見れば整っているし、子供のようで可愛らしいと言えなくもないが、それは理一が彼の性格を知っている為に、そう見えるのだろう。外見だけでは到底、一目惚れなどされそうに無い。しかし。

「リン公、お前にも似たような事はあったんじゃねぇのか。」

「はい?」

「『孝晴に出会った瞬間から、人としての生を与えられた』。そんな事を言ってなかったか。」

麟太郎は二度ほど瞬きをして、首を傾げる。

「それが何か、関係があるのですか。」

「お嬢さんのは『恋慕』だから別に考えてるのかも知れないが、似た物だって事だ。お前が自分の世界そのものに喩えたあいつへの慕情は、『その瞬間』に起こったんだろ。人の心ってのは不思議なもんで、理性とは別の所に、そういう感情が生まれちまう事はあるんだよ。お前の経験で言うなら、『世話になったから恩返しする』ってのが理性、理屈の部分になるだろうが……それだけじゃないんじゃねぇのか。」

「……。」

 そうなのだろうか。麟太郎は考える。自分の記憶の始まり、あの瞬間。何故、自分は大人しく孝晴にされるがまま、連れて行かれたのか。勿論、あの時の自分に、暴れられるような力は既に無かっただろう。突然の衝撃に驚いてもいた筈だ。けれど、孝晴のあの目に、寂し気で諦めを孕んだ哀しい笑顔に「囚われた」と言うのが正しいのかも知れない。そういう事、なのだろうか。だから自分は、理一に訊ねられた時、無意識のうちにその言葉を選んだのだろうか。自分事なのに、自分ではよく分からない。麟太郎は首を振る。

「そうだったとしても、やはり、彼女が私に求婚までした理由は分かりません。」

「そりゃあ、本人に聞くしかないだろ。女ってのは、繊細かと思えば、意外に大胆で思い切りのいい所もある。秋の空なんて言われる事もあれば、一途に死ぬまで想い続ける事もある。お嬢さんが移り気だと決め付けて熱(ほとぼ)りが冷めるまで待つか?それも失礼だろ。お前の立場的にも勧められねぇな、きっとすぐに親父さん……大臣閣下がお前の事を突き止めて圧をかけてくるだろうし、その時には有坂家は守っちゃくれねぇだろ。」

「そう、ですね。その通りです。」

理一の声は穏やかだ。彼は、麟太郎が混乱している事を理解していた。今まで麟太郎の世界に存在しなかったものと、突如として向き合わねばならなくなったのだから、彼の単純で真っ直ぐな感情がついて行けないのも無理はない。降って湧いた荒療治だ、注意は払わねばならないだろう。麟太郎は顔を上げ、無表情に理一を見た。

「衣笠先生は、彼女について何かご存知ないのですか。」

訊ねられた理一は腕を組み、少し考えて言う。

「勘解由小路家は五人兄弟だ。けど、あの娘が晩餐会なんかに出て来たのを見た事はねぇな……有坂のは見覚えがあったみたいだが、兄貴に政治家が居るから、其方(そっち)の関係かもな。俺が推測できるのは、あの娘はまだ社交の場に出る程の歳じゃ無さそうってくらいか。あとは、お前と同じ。あの時見たのが全部だよ。」

「……そうですか。」

 理一は黙り込んだ麟太郎に代わるように息を吐くと、箱から新しい紙巻きを取り出し、燐寸(マッチ)を擦る。細く白い管の先端は、新たな煙を上げ始めた。

「今日は休みか?」

「はい。……小隊長が計らってくれまして、『頭の傷の経過観察のため』と、一日暇を下さいました。」

「お前、なんだかんだ周りの人間には恵まれてるよな。」

「そう、ですね。いつの間にか、そうなっていました。」

麟太郎の返答を聞きながら、理一は紫煙を吐き、笑みを浮かべる。

「お前を誤解してる奴は多いが、その分、知ってる奴には慕われてんだ。お前が人徳を失わなきゃ、多分、なんとかなるんじゃないか。ただまあ、俺も一応、伯爵家当主だからな。不味い事になったら力添えくらいはしてやるよ。」

「……感謝します。」

 麟太郎は表情を変えないままに、いつもよりも深く頭を下げて、扉を出て行く。煙る部屋の中でそれを見送った理一は、背凭れに身を預け、静かに呟いた。

「俺に出来る助言は、これくらいか……よく考えろよ、リン公、手前の事は、手前にしかわからねぇんだからな……。」

 

 蝉の声がしゃわしゃわと降り注ぐ中、烏羽の陰が道を行く。その冷酷そうな無表情を目にした人々は自然彼を避ける為、麟太郎の歩みを妨げるものはない。夏の日差しの下、真っ黒な軍服を着ていても暑そうな素振りすら見せず、無言で脇目も振らずに歩いてゆく彼の姿は、不気味でさえある。しかしそんな事を気にする麟太郎ではない。辿り着いたのは、あの広場だった。猫を枝の先に引っ掛けていた五弁花の木は、全く変わらない様子で葉を茂らせている。あの日と違うのは、人だかりが無い事だけだ。麟太郎は木に近付くと、軽く勢いをつけて幹を登り、枝の根本に腰掛けた。青々とした葉が影を作り、また枝葉の間を通り抜ける風が心地良い。戦ぐ葉の音に暫し耳を傾けながら、麟太郎は暫く、道行く人々を眺めていた。荷運びの車曳き、何処かへ急ぐ様子の洋装の紳士、会話しながら歩く婦人達。皆、活き活きとした表情で、笑ったり、焦ったり、真剣な顔をしたり。

(平和な日常とは、このようなものか。)

 麟太郎は木の幹に頭を預ける。どちらかと言えば荒事の方に縁深い麟太郎は、昼の世界をこんなにのんびりと眺めた事が無かった。こんなにゆったりと生きたいなどと思った事も無かった。孝晴の世界は、こんなにも明るく、穏やかではないから。

(やはり私は、ハル様から離れては生きられない。)

麟太郎は木の幹に凭れながら目を閉じた。風の音、葉の音、少し離れて聞こえる静かな喧騒。その中に楽し気な少女達の笑い声が混ざり始めたのを感じ、麟太郎は目を開く。終業時間なのだろう、制服を纏った女学生が何人かの塊となって、鈴のように笑いながら歩いてゆく。木に身体を預け、木の葉に隠れた麟太郎の姿は、たまたま木の下から見上げでもしなければ、見つからないだろう。その上で、気配を消す。空気に、木に、自身を溶け込ませるように。微動だにせぬまま麟太郎は待った。よく通る声と、ぱたぱたと軽い足音が、木の下にやって来る時を。

 友人と分かれ木の元に走って来た少女は、何かを探すように忙しなく顔や体の方向を変えている。麟太郎は、少女が上を向く前に声を発した。

「勘解由小路様。」

少女の動きが、ぴたりと止まる。そしてゆっくりと、枝を見上げた。視線の先に烏羽の姿を認めたのだろう、少女の目が徐々に開かれて丸くなり、そして、健康的な白い頬がみるみる紅くなってゆく。どういう感情なのだろう。これが、恋慕の表情なのだろうか。少女は言葉を探すように口を開閉し、やっとぽつりぽつりと音を吐く。

「あの、わ、わたし、ここに来たらまた、あなたにお会い出来るかもしれない、って……。」

麟太郎は静かに応じた。

「私もそう思って、此処で待っていました。貴女を。」

 

 その屋敷は建てられて十数年経つものの、未だに新築のような美しさを誇っている。完全洋式の石造りの建物は、旭暉では見られない装飾が散りばめられ、敷地内は門構から庭まで、全てが外ツ國からの輸入品と様式で構築されている。その屋敷の一室で机を挟んで向き合っているのは、初老を過ぎた白髪混じりの男と、光の加減で金色にも見える、波打つ琥珀色の髪をした青年だった。白いシャツに青のループタイを締め、肩下まである髪を三ツに編んだ青年は、深い碧(みどり)の目で男を睨む。対して男は溜息を吐き、宥めるような表情で口を開いた。

「何度も言っただろう?あの件で、衣笠君に非は無いんだよ。武橋の金次君にも話を聞いた事は、お前にも伝えたね。仲間を見下したり、蔑んだりしてはいけない。それを正そうとしてくれた衣笠君には、寧ろ感謝すべきではないかね。」

「でも、あいつは……衣笠のヤロウは、金次の将来まで奪った!それはいいんですか!?」

「確かに『やり過ぎだ』と思わない事もないし、衣笠君には良くない評判もあるけれどね、彼は簡単に暴力に訴える人間ではないと、私は思っているよ。それに、既に半月、謹慎を受けていたそうだからね。充分だろう。逆の立場になってみなさい、お前が友達や仲間が悪口を言われているのを見たら、彼のように助けに入れるかい?」

男は、表情も口調も穏やかだ。しかし青年は、男の言葉に眉を下げ、口籠もってしまう。

「それは、でも。」

「金次君は、お前ともよく遊んでくれていたね。しかし、彼には少し、悪い癖もあっただろう?お前も分かっていた筈だよ、『榮羽音』。そこを正してあげるのも、友人の役目だろう。もっと早く、お前が導いてあげるべきでは、無かったのかな。」

ヨハネ、と外ツ國の名で呼ばれた青年は、静かな男の言葉を聞いて泣きそうな顔になったが、頭を振って叫ぶ。

「それでも、あんな痛い方法じゃなくてもよかった!確かに金次はちょっと口が悪いけど……それでも守ってやるのが仲間だ!それにパパは、有坂のヤロウに言われなければ、あんな奴の味方なんてしなかっただろ!パパも衣笠の奴も有坂も大っ嫌いだ!」

「榮羽音!」

既に涙を浮かべながら、青年は勢いよく部屋の扉を閉め、走り去ってゆく。男は大きな溜息を吐くと、机上の呼鈴のうち、青い持手のついた方を取ると、数度鳴らした。一分も経たないうちに扉が三度叩かれ、黒の燕尾服を纏った青年が現れる。着衣とその立ち居振る舞いから執事なのであろうと分かるが、此方は先の青年――太田榮羽音よりも更に、異人然とした容貌をしている。血の気のない白い肌、色硝子で作ったような真っ青な瞳、そして白にも近い銀色の髪。青年が一礼すると、緑色のループタイが襟元で揺れた。

「如何なさいましたか、旦那様。」

「少し聞きたいんだが、良いかね。」

「ええ、何なりと。」

青年は背筋を伸ばして微笑んだ。絹を織り込んだ燕尾服の上を、青年の動きに合わせて光が滑る。

「お前は、武橋金次君を知っているね。榮羽音の周りに居る時も含めて、彼についての忌憚無い意見を聞かせて欲しい。」

「先日、『怪我の後遺症』で選抜隊から抜けられた方ですね。」

微笑みを崩さぬまま青年は言うと、少し考える素振りを見せ、更に目を細めた。

「彼は旦那様の従甥御でいらっしゃいますが……太田本家唯一の子である坊っちゃんの名を利用せんと、近付いている節はございます。私共の姿が無い場所では、坊っちゃんの事も、私の事も異人だと見下しているようでございますよ。坊っちゃんの前では善人のように振る舞っておりますが、私が坊っちゃんのお側におります事を、疎ましく思っているのも確かでございます。……武橋家の中でも、武の才は別として、評判は余り良いとは言えません。衣笠伯が手を出さなかったとしても、いずれ軍で問題を起こしたであろうと推測いたします。」

「お前から見ても、やはりそうかね。」

「私が虚偽を申す理由がございませんよ、旦那様。」

男は再び大きく息を吐いた。青年は気遣わし気に「珈琲をお淹れしましょうか?」と問うが、男はゆっくりと首を振った。

「済まないが、榮羽音を追ってくれないかね。最近では、榮羽音は私よりもお前の言う事の方をよく聞くんだよ。あの子には文武の才は無いが、周りの人間を大事にする優しい子に育ってくれた。けれど他人(ひと)を疑わないあの子の純粋さは、時に凶と出る。お前には苦労をかけるが、暫くあの子を見張ってやって欲しい。」

「承知致しました、旦那様。」

青年は白い手袋を嵌めた片手を胸に当て、右足を一歩引いて深い礼をすると、静かに扉を閉めて部屋を去って行く。屋敷の主である太田公爵は、その姿を見届けて目を細めると、机の上にあるもう一つの呼鈴――こちらの持手は深い紅だ――を眺める。

「お前のお陰で、私のもう一人の息子は、随分立派に育ったよ。四辻(よつつじ)……。」

そう呟くと、彼は机から便箋を取り出し、羽根ペンをインク壺に漬けると、曲線の多い横文字で何かを書き始めた。

 

 銀髪の青年は、屋敷内の雑務を他の使用人に任せ、外に出た。まだこの國では、完全な洋装で歩く外ツ國の人間は、異人街やその近辺以外ではあまり見られないが、太田家の周辺では、公爵の息子である太田榮羽音と彼の存在は既に知られている為、特に奇異の目で見られる事はない。寧ろ「またお坊ちゃまが家出したのかい、四辻さん」などと話しかけられた青年が、苦笑を返す場面などもあった。

 彼は目的地である公園に辿り着くと、迷わず広場や池を通り過ぎ、森の近くの林に踏み入って行く。木々の青々とした葉が日差しを遮り、空気も心地良いのだが、蝉の大合唱が耳を劈かんばかりだ。顔を顰めながら青年は奥へ進み、一本の木の前で立ち止まった。

「……坊っちゃん、降りて来て下さい。木が傷みますよ。」

枝の上で膝を抱えている榮羽音に、青年は呼びかける。榮羽音は不器用な癖に、木登りだけは昔から得意だった。目の前に立つ木も、幼い頃に「この木が一番登りやすい」と二人で登った。榮羽音は背が伸び体が重くなった後でも登れるのだから、不思議なものだ。

「坊っちゃん。貴方はもう十六なんですよ。少しは大人になってください。」

「……。」

少し口調を強めに言うと、榮羽音はのろのろと顔を上げ青年を見るが、すぐに顔を背けてしまった。青年は息を吐いた。

「一体、何が気に食わないのですか。聞いて差し上げますから、降りて下さい。」

木の上の榮羽音は暫く無言だったが、やがてぽつりと言った。

「……口調。」

「……。」

「いつもみたいに話せよ。」

今度は青年が一瞬黙った。

「……ここは御屋敷ではありませんし、貴方は主人、私は執事の立場なのですよ。」

「執事が主人の命令を聞かないのかよ。」

「……。」

 青年は、ふう、と小さく息を吐いた。仕方ない。青年から穏やかそうな表情が消えた。

「分かった、早く降りて来いバカ息子。」

「ば、バカって言うな!」

「自力で降りないなら蹴り落とすぞ。」

「わーーっ待って待ってよお前、自分で木が傷むとか言ったくせに!!」

青年が片足を構えて見せると、慌てて榮羽音が枝から幹を伝って降りてくる。これだけ出来るのに、何故武道はてんで駄目なのか。不思議でならないと内心思っている青年の胸に、降りて来た勢いそのままに榮羽音が飛び込んだ。無言のまま青年は、金茶色の柔らかな髪を撫でる。

「……パパ、最近ボクの言う事を聞いてくれない。」

「それは旦那様が、お前の事を想ってるからだ。」

「金次だって、ボクらが旭暉に来た頃、すぐ話しかけて友達になってくれたんだ。最近はたまにしか会ってないけど……。」

(それは、旦那様が外ツ國の女と作った子供とオレまで連れて来たばかりで、風当たりが強かったから、お前に恩を売れば後で役に立つと踏んで近付いただけだ。)

だから、直接太田家に関係のない自分には関わらなかったし、それに気付いている自分を疎ましく思っているのだ。その内心を一切口に出す事は無かったが、青年には分かっていた。似たような悪知恵の働く子供は、昔、彼の周りにも沢山いたから。けれど、それは榮羽音には関係ない事だ。ぐずる子をあやすように、青年は彼の頭を撫で続ける。無愛想な表情と裏腹に、その動きは酷く優しかった。

「やっぱり許せないよ、衣笠の奴も、アイツに味方した有坂の奴も。」

「武橋は今の所軍に留まっているが、いざとなれば他の職を見付けるのも容易いだろう。自業自得なんだから、お前がそこまで思う必要はない。」

「……金次がほんとは悪い奴だって言いたいんだろ。でも、悪い奴を、仲間が庇ってやらなかったら、誰が庇ってくれるんだよ。悪い奴ほど、助けてやらなきゃダメなんだ。」

「榮羽音、」

「そうだ!」

青年が言いかけた時、突然、榮羽音は顔を上げた。目を瞬かせる青年に、榮羽音は言う。

「鞠哉、お前、有坂んとこに文句言ってこい!文官風情が軍人の諍いに首突っ込むんじゃないってな!」

「文官風情って、お前、無職だろ。あと何でオレが。」

「う、うるさい!ボクは……、っ、いいんだよ、ボクよりお前の方が頭いいんだから、お前が行った方がいいんだ!命令だからな!」

碧の目の縁を紅くしながらそれだけ言うと、もう一度抱き着いて来た大きな子供を受け止めながら、青年――四辻鞠哉(まりや)は、大きな溜息を吐いた。

 

「帝國の書庫番」

十幕 「子らの心」

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