刀祢麟太郎は、歩いてゆく。一見普段と変わらない、仮面のような無表情。しかしその面(つら)の下で彼は、それが何なのか判別できないモノがゆっくりと、いや高速で、渦巻いているような、奇妙な感覚を覚えていた。これは一体何なのだろう。考えながら、彼は歩む。渦を巻く脳裏を掠めるように過ったのは、孝晴と理一の言葉。彼女に対して何の対応もしないのでは礼を失するという認識は、二人共一致していた。
(お詫びも、しなければならないか。)
麟太郎は歩みを止め、一度も入った事のない着物屋に足を踏み入れた。店主が一瞬硬直する姿は見慣れたものだ。何故そこに入ったかといえば、女用の小物が並んでいるのが目に入ったからに過ぎない。持ち合わせの銭で購入できる一番よいものを、と頼み、金を払う時も顔を強張らせている店主に礼をすると、早々に麟太郎は店を去る。これから自身の向かう場所の事を考え、麟太郎は少しだけ、瞼を伏せた。
(どうして、こうなったのだろう。)
出逢った日には、気持ちを抑え切れず無謀にも軍の屯所に走り、帰されてからは父に無理を言って夜中に許可を発行してもらったが、その後も熱に浮かされたようで、寝所でも猫をずっと抱いていた。翌日彼に怪我をさせてしまったと知られると、流石に父や兄に怒られてしまったが、彼女はあまり落ち込まなかった。あの時の「彼」は、全く怒っていなかったから。だから、彼女は諦めなかった。あの五弁花の木のある広場は、彼女のお気に入りの場所。彼女は、木陰で幹を背凭れにしながら、本を読むのが好きだった。あの場所を彼も時折訪れているのなら。軍に押しかけるような事をせずとも、もしかしたら、また逢えるかも知れない……。そう思いながら、二日、三日。気持ちが褪せる気配は一向に無かった。そして、あの時。空から降って来た、心地良くて静かな低い声。まさかと見上げた瞬間、彼女は再び、恋をした。
「お嬢様、本当に宜しいのでございますか。」
「良いんです、外で見られなければ問題ないでしょう?心配しないで、じいや。」
「しかしお嬢様。警兵を無闇に御屋敷に入れては、閣下にとって不都合ではございませんか。」
玄関の扉の前に待ち構えるように立つ少女は、困り顔の老人に向かい、頬を膨らませて見せる。
「お父様はもう、あの方が警兵であるとご存知です。それに、そんな言い方。お父様に疚しい事があると、じいやは思っているの?」
「そういう訳では……。」
少女は返答を聞くと、にっこりと微笑んだ。
「『政治屋には飲まねばならぬ毒もある』、それはわたしでも知っています。でも、あの方は、誰彼構わず不躾に探っていくような方ではありません。」
「何故、そう言い切れるのですか?」
半ば諦め顔で老人が訊ねると、少女は胸を張り、言った。
「わたしが、そう感じたからです!」
真紅が縁取る烏羽色の軍服は、國家警兵の象徴だ。「平和護持」の四文字を掲げ、どんな闇の中にでも入り込み、巣食う悪を炙り出し、排除する。彼らの身体を飾る真紅の線は、彼ら自身の血の犠牲を厭わない事を表しているという。任務の為なら冷酷非道を体現するような彼らであるが、組織された当初は、実力主義で優秀な者を集めたが故に身分差に端を発する軋轢も多く、派閥争いが頻発し、決して統率の取れた組織では無かったという。数年毎に制度が整えられてゆく中、創設者の名を冠した警兵専門の士官学校が設けられ、教育を施し帰属意識を高める事で、組織の安定化が図られるようになったのが廿年程前。それでも広範囲に及ぶ権限を有する警兵は恐れられ、逆に怨みや憎しみの対象になって襲撃を受ける事件も絶えなかった。人員の入れ替わりも激しく、結果、常に任務を共にする一個分隊単位での結束が最も強く、それ以上となると(表向きは協力任務を行う事があっても)相互監視状態であるのが、警兵の現状。その程度の知識は、國務大臣の娘であるからして、当然頭に入っている。
だから警兵というのは――少なくとも軍服を着ている時は――常に何かを威圧し、誰かを警戒し、鋭いがどこか不安や哀しみを孕んだような目をしているのだ。彼女はそう理解していたし、それは間違いでは無かっただろう。しかし、今彼女が待つ、彼は違った。まだ名前も知らない、赤みがかった褐色の髪の、小柄な警兵。あの広場の木の上から「一緒に居る所を見られないような場所で話がしたい」と言った彼に対して、彼女が提案したのは、彼女の家――勘解由小路邸だった。勿論、彼が屋敷を訪ねる所を誰かに見られる事も、今は避けるべきだと分かっている。「先に帰って、あなたを待ちます。わたしの家に忍び込めますか」と尋ねると、彼は少し目を細め、「可能です。しかし、御屋敷には玄関から参ります。誰にも見られないように致しますので」と答えたのだ。そして今、彼女は目付け役の老人と共に、玄関で待っている。合図は五度のノック。聞こえたら直ぐに扉を開け、中へ入れるのだ。彼は「何故五度も」と首を傾げたが、彼女が五番目の子であるからだと告げると、黙って頷いた。今か、まだか。そうして少女は待っている。彼が来ないという選択肢は無い。何故なら彼は、「そんな人ではない」から。少女は待った。きっと、もう、
こ、コ、
コ、コ、コン、
彼女は沸騰した湯沸かしのように扉に取り付いた。老人は反応できない。力いっぱい押された扉が僅かに開いた瞬間、無音で、黒い影が滑り込む。一瞬だった。少女と同じほどの背丈の小柄な影は、扉を閉める事すら忘れている少女を見、呆気に取られている老人を見ると、少女の手の上からハンドルを握り、ゆっくりと扉を引き、閉める。静かになった玄関の大広間で、彼は帽子を取ると姿勢を正した。
「突然の訪問をお許し下さい。國家警兵東都中央兵団第一五七分隊・分隊長、……刀祢麟太郎警兵中尉です。」
深々と頭を下げた少年――いや、少年と言うにはあまりにも冷酷な表情をした男に対して、少女は頬を真っ赤にし、老人は思わず一歩後退りするという、正反対の反応を見せたのだった。
「此の度は、私のような者にお話のお時間を頂きまして、恐悦至極にございます。」
有坂家の離れでは、いつものように絣を着崩した孝晴が畳に胡座をかいている。しかしその前には、旭暉様の部屋に合わない燕尾服を纏った異人の男が、正座で向き合っていた。片や公爵家の息子、片や公爵家の執事。互いに素性は知れている。指先をついて下げられていた白髪頭が、ゆっくりと上げられる。風通しのよい部屋の中とは言え、その異様に白い貌には汗一つかいていない。孝晴は目を細めた。
「俺ぁ『暇』してんので知れてんだろぃ。寧ろ、太田の執事が俺なんかに割く時間、あンのかぃ?」
「主人の命で参りましたので。」
ふわり、と微笑む燕尾服の男。四辻鞠哉は太田公爵家の使用人の統括責任者であり、太田公爵の秘書・従者でもある。しかし、太田公爵は彼を息子である太田榮羽音の監督に付けている事も多いため、実質的には榮羽音の従者であると言った方が正しいかも知れない。今回も、彼に命令を下したのは太田公爵では無いのだろう。
「それで、用ってのはなんなんだぃ。」
孝晴の問いに、鞠哉は少し困ったような表情を作る。
「はい。実は、命というのが、榮羽音様より受けたものでございまして。」
「予想はついてらぁ。大方、衣笠の件だろぃ。俺がお父上に告げ口したから怒ってんだろ、榮羽音の奴ぁよ。」
鞠哉は苦笑したが、その笑みが孝晴の言葉を肯定している。鞠哉は柔らかな表情を崩さぬまま言った。
「流石、有坂家の令息であらせられますね。確かに私は、貴方様に対しての抗議を命じられ、参りました。しかし……私としては、貴方様に感謝しているのでございます。」
「へえ?そりゃまた意外だな。」
膝に頬杖をつき、口端を上げる孝晴。姿勢を保ったまま、鞠哉は僅かに目を細めた。
「分家の者とは言え、一族の恥を炙り出して頂きました事に、御礼を申し上げます。旦那様も、榮羽音様も、御心が大変高潔であらせられますが……些か、優し過ぎますので。警戒して頂く切掛にはなりましたでしょう。」
「ンな事俺に言う必要、お前にゃねェだろ。」
「貴方様には、お伺いしなければならない事もございますので。」
目を細めたまま笑みを消した孝晴と裏腹に、鞠哉は穏やかに微笑んだままだ。
「孝晴様。貴方が衣笠伯を庇われた……直接的に申し上げれば、そうなさる程の親交を結んだ理由を、お教え願いたく存じます。文官の貴方様が、軍内の諍いに口を出した事が、榮羽音様には納得いかないようで。お二人の親交の切掛をお伝えできれば、榮羽音様の怒りも解けましょう。」
(成程、そう来るか。)
つまり、一族の内情を明かした代わりに、理一との関係を教えろ、と言う訳だ。貴族同士だからと言うだけではない。「人間同士の結び付き」は、あらゆる場面で使える有用な情報だ。この慇懃な物腰の異人は、その穏やかな微笑みの下に別の本性を持っていると、専らの噂だった。政界から離れ、文化振興・学術研究・経済活動と、あらゆる分野に多大な援助を行っている太田家を、あらゆる手段を講じて守護する番犬。下心を持って太田家に近付いた者は、いつの間にか手を引かされている。数年前には、榮羽音を誘拐しようとした狼藉者を、彼が一人で叩きのめしたという話もある。人格者として知られる太田公爵が昼ならば、彼は太田の夜を背負う人間。柔らかな物腰でするりと相手の内に入り込み、いつの間にか弱味を握っている。誰が呼んだか定かではないが、
(――「太田の白狐」とはよく言ったもんだ。)
改めて笑みを浮かべると、孝晴は答えた。
「大した切掛じゃねぇさ。有坂家(うち)で育った刀祢って奴が、今は警兵をやってンだが、俺の持病を心配して、奴がよく世話になってる医者を紹介してくれたってだけだ。勿論うちにゃ侍医も居るが、同年代の方が相談もしやすいだろう、ってな。そいつが衣笠のご当主様だった、ってだけの事さね。」
「……そのようなお話は伺っておりませんでした。ご病気であったとは……大変失礼な事を。」
驚いた表情を浮かべた後、頭を下げる鞠哉。孝晴はからからと笑う。
「そりゃ、知らねェに決まってらぁ、刀祢と衣笠以外にゃ『言ってねぇ』からな。大した事はねぇんだが、少しばかり無理すると倒れっちまう。だからこうして、のんべんだらりと暮らしてんだ。裏が取りてぇなら、孝成の方の兄貴に訊きな。母上も知ってるが、俺が倒れたのを実際に見たのは兄貴だからな。そう言う訳で、たまに相談なんかしてるうちに親しくなった、って事で、納得してくれるかぃ。」
「はい。そのような事情も知らず、不躾でございました。ご無礼をお許し下さい。」
「気にすんな、今後『有坂の三男は病(やまい)持ちだ』って噂が流れりゃあ、出所はお前さんだって事になるからなァ。」
「……。」
一瞬、鞠哉の表情が消えた。孝晴は細めた目の間からじっと彼を見据える。
「意味は、分かるよな?お前さんほどの男なら。」
「承知致しました。貴方様のお身体について、口外は致しません。」
「頑張って誤魔化すこったな。」
苦笑する鞠哉だったが、孝晴にそれ以上話す気はないと感じ取ったのだろう。姿勢を正すと、再度深く頭を下げる。
「改めまして、お時間を頂戴致しました事、御礼申し上げます。」
「『大した話もできなくて、悪かったな』。」
釘を刺すかのような孝晴の言葉にも柔らかな笑みを返し、燕尾服の白狐は去って行った。
縁側から差し込む光の色で、既に夕刻なのだと知る。孝晴は一人、畳にごろりと横になった。
目を閉じて、考える。辻褄の合わない事は言っていないが、実際一対一で話してみると、四辻鞠哉は噂通り、一筋縄ではいかない相手のようだ。普段はのらりくらりとした振る舞いを見せる孝晴だが、その実、状況から相手の思考を先回りして予測できるというだけで、腹の探り合いや駆け引きが得意な訳ではない。その点四辻は、孝晴が「取引」だと気付く事まで織り込んだ上で、主人の名を出し、孝晴と理一の繋がりという情報を手にして行った。太田榮羽音は公爵家長男、孝晴は三男で、純粋な社会的地位は榮羽音の方が上だ。その榮羽音を納得させる為、と言われれば、此方もある程度応じざるを得ない。その上で自身の立場や引き際を弁えており、必要以上に踏み込みはしない。敵に回せば恐ろしい男である事は間違い無いだろう。
彼は十年前に太田公爵の息子――榮羽音と共に鐵國から連れて来られ、太田家執事の四辻喜十郎の養子となり、太田家で育てられた。先代の喜十郎氏が二年前に亡くなり、仕事を引き継いでいる。
(四辻の爺さんに、そんな物騒な噂は無かった筈なんだがな……。)
表立って敵対する事は無くとも、鞠哉については調べておくべきかも知れない。そう思ったが、孝晴は目を開け、畳にべたりと張り付くように転がった。
「ハラ減った……。」
目を閉じて、開けるまで。「普通」ならば、瞬き程の時間だ。頭を回し過ぎた。麟太郎が居れば、こっそり饅頭でも買いに行かせられるのだが。
「……お麟は今頃、お嬢さんの所だよ、畜生め。」
『麟太郎が居れば』。そんな考えを持ってしまった自分に嫌気がさす。夕食までは眠って空腹を誤魔化そう。溜息を吐いた孝晴は、今度は思考の為ではなく、眠りの為に目を閉じた。
有坂家の広い庭から門外へ出ると、そこには少年が一人立っている。太田家の使用人ではあるのだが、まだ見習いの立場だ。故に、長である鞠哉の付き人として仕事を学んでいる。未熟な使用人を助け教え導く事も、統括責任者である執事の役目だ。
「四辻さん!お疲れ様でした。」
「有難うございます、新良(しんら)さん。少し長く待たせてしまいましたね。」
少年に向かい優しく微笑むと、鞠哉は歩き始める。大通りまで出て人力車を拾ったのは、自分の足に合わせて歩き続ければ、少年が疲れてしまう為だ。異人の鞠哉は、長身で歩幅も広い。少年には「話に時間をかけてしまった為」と言いつつ、通常は乗り物を使わないように、使っても馬車には乗らないように、など使用人としての心得を説いてゆく。話を終えると、鞠哉は少年に言った。
「車に乗るのは、初めてですか。」
「は、はい!僕……じゃなくて、私は、太田家にお仕えするまでは、このようなものとは無縁でしたので……。」
「でしたら、折角の機会です。少しの間ではありますが、景色を楽しんでいきましょう。」
「いいんですか!?」
「勿論、騒がずに、ですよ。」
元気よく返事をした少年が、普段よりも少しだけ早く流れてゆく景色に目を輝かせている間、鞠哉は先程の面会について思い返す。
(まさか、有坂孝晴が「病身」とはな……。有坂家からそんな話は出た事がないし、体が弛んでいるようには見えなかったが。ただ、刀祢中尉が引き合わせたという話は、納得できる。武家ながら医療の道を選んだ変わり者の一匹狼と、『有坂の犬』の接点は、陸軍病院か。)
孝晴が何らかの病を患っているという話は予想外だったが、少なくとも、衣笠理一の背後にいるのは「有坂家」ではなく、有坂孝晴個人のようだ。だが、だとしたら彼はどうやって、軍病院内で起きた諍いの事実を突き止めたのだろう。それに、病身だと明かしたのも、それを詮索しようとすれば、直ぐに分かるという警告付きだった。あの時は流石に、表情を作れなかった。警告を受けたからと言うだけではない。彼の目の奥に、得体の知れない闇が見えた気がしたのだ。世間が言うような道楽息子だとは、とてもではないが思えない。
(……食えない奴だ。)
鞠哉は一つ息を吐いた。心なしか疲れたような気がする。そう言えば、小麦と卵に少し余裕があった筈だ。鞠哉は相変わらず楽し気な少年に向かい、呟いた。
「今夜の御夕食につけるお菓子は、私が作りましょうかね。……皆さんの分も一緒に。」
「えっ!?四辻さんのお菓子がいただけるんですか!?」
「大声を出してはいけませんよ、新良さん……。何となく焼きたい気分になったので、厨(くりや)を使わせて頂けるよう、お願いしてみようかと。……皆さんにはまだ内緒ですよ。」
「は、はい!楽しみです!」
はしゃぐ少年が使用人として働けるようになるのはまだまだ先だ、と思いつつ、鞠哉は背凭れに身を預ける。仕事を急いで片付ける事にはなるが、少しはこうして気晴らしでもしなければ、やっていられない。料理人と相談する献立の内容を考え始めた鞠哉の表情は、先程までよりも少しだけ穏やかだった。
麟太郎が通された応接間では、大きな机を挟んで、身が沈んでしまいそうな大きな長椅子に座った二人が向かい合い、少女の椅子の後ろには老人が立っている。有坂家の離れと母屋の食堂、そして板張の質素な平家と軍の屯所しか知らない麟太郎は、この椅子は合わないと早々に感じたが、仕方がない。帽子と外套を預け、普段よりも更に小さく見える麟太郎は、一度老人に目を向けてから、少女を真っ直ぐ見据えた。彼女には、一体何が見えているのだろう。傍目には普段と変わらない様子で、麟太郎は口火を切った。
「初めに、謝らなければなりません。私はきっと、貴女の気持ちを傷付けます。けれど、お伝えしなければならない事ですので、どうかお聞きください。」
「はい。」
短く答えた少女は落ち着いており、微笑んでいる。今の言葉を聞いて、何故。しかし言わなければ仕方がないのだ。
「私は、貴女と結婚はできません。私は貴女に相応しい身分ではありませんし、何より、貴女は私を知りません。何も知らない貴女の気持ちに付け込むような事は出来ませんし、私も、貴女が何故、私にそのような気持ちを向けるに至ったのか、分かりません。……なので、本日は、申し出を断る為に、貴女を探していたのです。」
申し訳ありませんが、ご理解ください。ぽつぽつと最後まで言うと、麟太郎は頭を下げる。老人は安堵したような息を吐いたが、少女は無言だった。やはり彼女は、傷付いただろう。一方的に向けられた恋慕とはいえ、よい気持ちではない。長く頭を下げ、重い頭を上げると、少女は――微笑んでいた。
「あなたなら、そう言うだろうと思っていました。刀祢、麟太郎さま。」
「……どういう事ですか。」
「あなたはとても、お優しいからです。」
言って少女は、にっこりと笑う。反対に麟太郎は混乱した。言葉を間違えただろうか。いや、確かに「断る」と言った筈だ。無表情のまま固まった麟太郎を他所に、少女は背後の老人の方を向いた。老人も同じく混乱しているようだが、少女が気にする様子はない。
「じいや、わたしの部屋から、ハルを連れてきてくださいな。」
「はっ……!?わ、分かりました、お嬢様……。」
老人が急いで出て行き、二人が部屋に残される。少女は麟太郎に顔を向け直した。
「覚えていらっしゃいますか?麟太郎さまが、わたしの猫を助けて下さった時の事。」
「……はい。何か特別な事をしたつもりもありませんが。」
麟太郎の答えを聞いた少女は、口許を手で隠しつつ、小さく声を上げて笑った。
「この先は、じいやにも聞いて貰っていた方が良い話ですね。少し待って居て下さい。」
「……はい。」
壁の時計の針が二度程動く間、二人は無言だった。戻って来た気配は急ぎ気味に部屋の中へ入り、扉を閉める。その手に抱えられているのは、確かにあの時、木から下ろしてやった子猫だ。彼女は老人から受け取った猫を胸元に抱くと、そのまま服の中に入れてしまう。洋装にも懐のようなものがあるのだろうか。時折、猫が服の縁に手を出して顔を覗かせる。
「この子は、『コハル』と言うんです。」
「知っています。貴女が叫んでいましたから。」
「はしたなかったですね、わたし。でも、あの時は必死だったんです。」
少女は話し始める。年が明けて、一月ばかり経った頃。その日は小春日和で、彼女は稽古後の気分転換に庭を散歩していた。すると一匹の野良猫が、繁った垣根の中に入ってゆくのを見かけた。数日間観察してみると、どうやらその辺りを寝床にしているらしい。周りから見られない為、安心できるのだろう。彼女はそれを家族には知らせず、内緒にしておいた。
しかし、それから二月経ち、春の陽気に草木が芽吹き始めると、庭の手入れが始まり、驚いた猫は逃げ出してしまった。しかし、そこには産まれたばかりの子猫が残されていたのだ。庭師からそれを聞いた彼女は、垣根に走った。繁っていたそこは綺麗に剪定され、内側も露わになっていた。猫とも呼べないような濡れた小さな塊は、放置されている間に死んでしまっていたが、死んだ兄弟達に守られるように、一匹だけ微かに動いていたそれを、無我夢中で彼女は取り上げ、湯で洗い、姉や母に泣き付き、女達総出で毎日世話をした結果、小さな塊は命を繋ぎ止めたのだ。そしてその子猫は、母親を見付けたのが小春日和の日であった事、そして毛色が小春日和の陽の光を思わせる、橙のかった茶虎であった事から、「小春」と名付けられる事になった。
「コハルには親がいません。だから、わたしが毎日一緒に寝ていました。お父様には、使用人に任せなさいと言われましたけど……この子のお母さんが逃げてしまったのは、猫がいると教えておかなかったわたしの所為でもありますから、わたしが責任をもって助けなければならないと思ったんです。幸い、今はこうして元気に育ってくれています。あの時、木の下で転寝(うたたね)してしまったわたしの胸元から抜け出して、あんな所まで登ってしまうほどに……。」
「そう言う訳だったのですね、木の上に子猫が居たのは。」
麟太郎が呟くと、少女はこくりと頷いた。当初の苦労を知っているのだろう、老人も静かに彼女の話を聞いている。
「コハルが居ない、そしてあんなに高い所に行ってしまったと分かった時、わたしは心臓が止まってしまうかと思いました。例え猫でも、コハルはまだ子供ですから、落ちたら死んでしまうかも知れない……そこに現れたのが、あなたでした。麟太郎さま。」
「……。」
彼女の目は、真っ直ぐ麟太郎を見ている。その瞳の奥に、他の者が見せるような恐怖心は、全く浮かんでいない。
「初めは勿論、怖かったです。だって、警兵様が来る時と言うのは、悪い事をした人を捕まえる時です。騒いでしまったのはわたしですが、原因になったコハルは、処分されてしまうのではないか、って。だからわたしは、あなたに訴えました。皆はわたしの為に集まったのだと、わたしが悪いのだと。それでも麟太郎さまは、木から離れるようにと言われました。」
「そうですね、そう言いました。」
「その時に、目が合ったでしょう。」
「はい。」
「……わたし、その時に、感じたんです。『この人はコハルを助けようとしてくれているんだ』って。麟太郎さまの目は、とても優しかったんです。だからわたしは、その後をお任せしました。どうなさるのか分からなかったので、不安はありましたけれど。」
今度こそ麟太郎は首を傾げた。自分の目を見て優しいと感じた?そんな風に言われた事は、今まで一度もない。彼女はその様子に微笑みを浮かべ、そして膝の上で組んだ両手に僅かに力を入れた。
「わたしが感じた事は、間違っていませんでした。麟太郎さまは、烏羽色の軍服を召していらっしゃったのに、それを砂で真っ白にしながら、コハルを助けて下さいました。本当に嬉しかった。安心もしました。そしてそれ以上に……こんなに優しくて素敵な方は他には居ないと、思ったんです。」
「買い被り過ぎです、それは。」
「どうしてですか?わたしはまだ麟太郎さまの事を知らないのに、どうしてそうだと言い切れるのですか?」
「私はただ……、」
言い掛けて、麟太郎は口を噤んだ。あの場に孝晴が居た事は言うべきではない。有坂の名を出せば、有坂家までもがこの話に巻き込まれてしまうだろう。彼女がその沈黙をどう受け取ったかは、麟太郎には分からない。ただ、彼女は。
「わたしには、そうだと思えばすぐに動いてしまう癖がありますけれど、あんなにも胸が高鳴って、我慢が出来なくなったのは初めてでした。わたし、あなたが好きです、麟太郎さま。そしてこれから、もっと好きになるでしょう。だから、麟太郎さまの事を沢山お聞きしたいですし、今はわたしの事を知らない麟太郎さまにも、わたしを知って頂きたいんです。……そうして互いを知った上で、お返事を下さい。わたしはずっと待ちますから。」
彼女は、麟太郎が思っていたような子供ではない。突っ走るきらいはあるものの、寧ろ、真っ直ぐで意志の強い女性のようだった。
「帝國の書庫番」
十一幕 「晴と狐と犬と猫」