帝國の書庫番   作:跳魚誘

19 / 38
来訪者の胸中は、如何に。


帝國の書庫番 十九幕

 東都の冬は身に染みる。そう感じるのは、単なる環境の変化が理由だろうか。いや、それだけでは無い。

(湊じゃ殆ど毎日、町中を走り回ってたってのに、此方じゃ訓練と立ちんぼの繰り返しやし、『御参り』もせなあかんし、元気なつもりやけど、疲れはあるんやろなあ。)

 多聞正介は、制帽の庇の下から周囲に目線だけを走らせながら思う。警備中は、顔の向きを変える事すら許されない。勿論、何か察知すれば真っ先に駆け付けるのが仕事なのだが、そんな事態は、そう起こりはしない。それでも、そんな事態はそう起こりはしないと油断も出来無い。巷の事件が、思いも寄らない場所で危機と繋がっている場合もあるのだ。護衛官が姿勢を正して立つ姿そのものが抑止にもなる。その意味では、街中を闊歩する警兵達の烏羽軍服が、敢えて闇を思わせる黒色を選んで制定された事と、自分達の存在は似ているかも知れない。

(ま、もっと黒いんもあるんやけどな……あー、実家が懐かしわ、偶には帰省したいもんやで。)

余り注意を散漫にしないよう、正介は思考を切り上げる。そして視界の端にその姿を認めた。

(……有坂孝晴。麟クン……は、おらへんみたいやな、今日は。)

 絣の着物に、結っても腰まである長い髪。流石にこの季節だからだろう、襟巻きをしているが、足下は相変わらず裸足下駄だ。背後に宝物殿を護る正介から位置は離れているが、遊歩道まで視界を遮るものは無い為、姿形ははっきり見えた。彼はそのまま道なりに歩いて去って行ったが、視野に映るか映らないかの際で、一瞬だけ立ち止まったように正介には思えた。

 

「なんでおるん……?」

 もう日もすっかり暮れた終業後。本部に戻った正介は、上司から問答無用で追い立てられる侭に、応接間へ向かった。何がなんだかといったまま部屋に飛び込んでみれば、革張りの長椅子には、有坂孝晴が座って茶を飲んでいる。と、ばしん、と頭の上から衝撃が降って来た。

「痛ったぁ!」

「馬鹿者!此方は有坂公爵家御三男の孝晴様だぞ!口の利き方に気を付けろ!」

「えっ、なん……なんも言うてくれてへんの孝晴クン!?」

上司に警棒でしばかれた頭を抱える正介を見て、薄く笑みを浮かべていた有坂孝晴は、その言葉に軽く手を上げ、笑いながら椅子から立ち上がる。

「はは、悪ぃ正介。『多聞正介を出してくれ』としか言ってねェや。と、彼と私は、この通り気安い関係なので。気になさらないで下さい、巡査長。」

有坂孝晴は、後半がらりと口調を変え、遊び人の風体であるにも関わらず、その纏う雰囲気までも一瞬で変えてしまった。呆気に取られる上官が滑稽で、笑みを堪えていたら、また叩かれた。

「痛ったぃ!」

「多聞、その締まらん顔は何とかならんか!」

「今のは巌さんの照れ隠しやろぉ!?八つ当たりやん!」

「上官を下の名で呼ぶな!畏れ多くも我々は帝の……、ごほん、失礼。此奴と居るとどうも締まりませんな。」

口許に手を遣り笑う孝晴を見て我に返ったのか、上官――早瀬巌は咳払いで誤魔化すが、孝晴は緩く笑みを浮かべて言った。

「そう仰らずに、早瀬さん。それが彼の美点でもありますよ。しかし勤務中とは別人ですね、普段の多聞君は。」

「気色悪っ。『多聞君』やて。」

「ひっでェ事言いやがる。前言撤回だ、好きなだけ殴られとけやぃ。」

「あ痛ぁっ!」

三度目で、衝撃に耐えられず制帽が飛んだ。仕方なく屈んで拾ってから咎めるように早瀬を見れば、仏頂面の上司は正介には目もくれず孝晴に頭を下げた後、漸く目線を此方に向け「呉々も粗相の無いように!」などと言い捨てて出て行ってしまった。正介は溜息を吐くと、勤務は終わっている為不要ではあるのだが、一応は来客との面会だと帽子を被り直し、孝晴に向き直った。

「何の用か知らへんけど、まあ、座りや。」

「ん?あぁ、お前さんの万才を見に来た訳じゃ無かったなァ。しッかし、あんなにぱかぱかと景気良く殴られるもんかね。」

「普通やろ。軍ならケツしばかれんねんで。」

ふゥン、と含み笑いを浮かべる孝晴。何を考えているのだろうか。そんな孝晴に相対し、彼が腰掛けようとしない事を不思議に思いながら、正介は訊ねる。

「で、何しに来たん?」

短い問いを聞いた孝晴は、何故か少し口を噤む。まさか自身が訪ねて来た理由を忘れた等と言う事はあるまいと少し待ってみると、孝晴は頭に手を当て、眉を寄せた。

「……場所、変えっか。」

「は?」

「んにゃ……最初はお前さんをウチに呼ぼうと、言伝を頼むつもりだったんだがねぃ。突然有坂に呼び出されたなんて、十中八九お前さん、ある事無い事言われンだろうと思ってなァ。だったら、俺が直接迎えに行く方が早ぇと思って此処に来た。有坂は有坂でも『三男』なら、大した事ぁ無ェ。で、誰も聞いてないなら此処で話しても良いと思ったンだが……、」

其処で孝晴は息を一つ吐く。

「この部屋は無理だ。俺ぁ外で待つから、着替えて出て来てくれねェか。」

「はぁ……なんや分からへんけど、とにかく話したい事があるんやな?それは別にええけど……何で此処は駄目なん?」

正介は怪訝そうに孝晴を見たが、ふと気付く。どうも顔色が良くない。

「なんかあったんか?」

孝晴は首を振って、答えた。

「この部屋は臭くて堪らねぇ。やっぱり俺ぁ、煙草は嫌いだ。」

 

 

 そして今。制服を脱いだ正介は、有坂家の「離れ」――と、孝晴は呼んだが、庭と言い佇いと言い、正介にとっては充分過ぎる程の豪邸だ――の書斎に居た。文机と火鉢の置かれたその部屋は、畳一枚取っても、丁寧な手入れがなされているのだろう、正介の実家の書院のそれとは大違いだ。孝晴が部屋から人を払い障子を閉めると同時に、正介は畳に飛び込むと床に転がった。

「おっと……『寛げ』なんて言う暇もねぇたァな。座布団は要るかぃ?」

「いらへんいらへん!あー、こないふかふかな畳は久々や、こんなええ畳の上で敷物なんて使(つこ)たら親父の雷が落ちるわ。」

「そうかぃ。」

孝晴は笑うと、敷いた座布団にどかりと腰を下ろした。正介は身体を其方に向けると片肘を床に付け、掌に頭を乗せる。そんな態度で孝晴に臨む相手など、彼以外にない。

「んで、何があったんや。遊びの誘いに来た訳やないんやろ?」

「ん、そうさな。そのまま、平常にして聞いてくれ。」

「……。」

表情を変えないまま、すっと僅かに目を細める正介に、伊達に邏隊をしていないなと孝晴は感じた。話の内容を大声で語るべきでは無いと、暗黙の了解を得た後、孝晴は懐から一枚の紙を取り出すと、正介の目の前に差し出す。

「なんやこれ。」

「何て読める?」

「……『キ……リ、サキマ、ノ、』……、」

途中まで寝転んだまま口にしていたが、正介は素早く座し直すと紙を取り、無言でその文を何度か目で追った。その眼光は鋭い。言わずもがな、その紙は孝晴が太田公爵から預かったものである。暫く其れを観察し尽くした正介は、顔を上げて静かに言った。

「どういう事や。」

「太田公爵家に届いた脅迫文を、俺が預かった。邏隊のお前さんに見せりゃ、何か分かるんじゃねぇか、ってな。」

 そして孝晴は、事の顛末を掻い摘んで話して聞かせた。じっと耳を傾ける正介の表情は、真剣そのものである。「街のお廻りの方が性に合う」と言っていただけあり、事件にはやはり敏感なようだ。正介の短い問いにもそれは現れており、孝晴は好感を持った。単純に「其れが何か」を訊ねるのではなく、「何を意味するか理解した上で、其れが手に渡った状況」を問える。間違い無く逸材と呼ばれる人間の一人だろう。太田家に赴いた日の騒動、異人の状況、公爵から話をする許可を得た事まで話して、孝晴は一度口を閉じた。正介は暫し目を伏せる。そして、目を開くと先ず、左右に素早く目線を走らせた。そうして気配を確かめてから、漸く彼は言った。

「異人に切裂き被害が無いっちゅうんは、まだ邏隊に伝わってへんやろうな。確かに一つ手掛かりにはなるかも知れへん。ただこの文(ふみ)自体は、ほんまに事件と繋がってるかまでは分からへんな。」

「ん、そりゃそうだ。単に切裂きの件を利用した嫌がらせの可能性もある。」

「ただ……異人絡みとしたら面倒やな。犯人でも被害者でも、どっちでもや。せやけど、太田公爵は実害を被ってるねんな。小っさい嫌がらせとしてもや、あの家は『異人窟』なんて言われるくらいやから、受けてる支持と同じくらい、排斥派からは疎まれてるやろ。雇い人に異人はようけ居てても、身内に異人はおらへんちゅうにな。」

成程貴族の内情にも通じているようだ、と孝晴は口端を上げる。太田榮羽音は元非嫡出子とは言え、父の血を確りと引いている。だからこそ、本家次期当主――現当主である太田公爵――の醜聞として問題となったのだ。榮羽音が鐵國で得た嫡出の身分が旭暉で認められたのが、十年前。しかし太田の御曹司は、帰国してみれば妻とは離婚しており、更に息子と共に異人の少年を一人連れて帰って来た、その状況で再び揉めたという経緯がある。太田榮羽音を異人と扱わないのは、それを知っているからに他ならない。孝晴は探るような内心を隠し、からかい口調で言う。

「なんでィ、お前さんも帝都にちったァ詳しくなったみたいじゃねぇかぃ。」

「アホ、俺かて帝宮邏隊員やで、有力貴族の家族構成くらい頭に入れて仕事してるわ。見た事無かったから分からへんかっただけや、孝晴クンの事は。ちゅうかそないな格好でフラフラしてる孝晴クンも孝晴クンやで、……あかん、話戻そか。」

正介は事も無げに言ってのけると、ガシガシと頭を掻いた。こうしていると、本当に勤務中とは別人のように見える。昼に孝晴が通り掛かって観察した正介の姿は、きっちりと整えた頭に、被った制帽の影を顔に落とし、その下から傷のある目で鋭く睨みを効かせる、精強な護衛官そのものであった。全く人の事を言えた義理ではない。心の内でそう笑っている孝晴から目を離し、正介は紙を見遣る。

「で、や。結論を先に言うと、邏隊は異人街の捜査はできひん。警邏権持ってても実質は治外法権のままやからな。ほんで俺も、邏隊員としては仕事が違てるから直接出来る事は無い。」

「そうかぃ。」

其処で正介は孝晴の顔に目を戻す。孝晴は笑みを浮かべたままだ。正介も話を終わらせる気は無い。

「ただ、帝宮邏隊にも、この辺の邏隊員から引き抜かれた奴はおんねんな。そういう奴の一部は、邏隊に伝手がある筈や。文の事は伏せて、異人の状況を内密に調べるように言ったるわ。……文はまだ公にすべきやない、別所にも脅迫文が届くか、二通目が来るかして、嫌がらせ犯の目的が確定してからにせぇへんと、あの家、『どっちの』信頼も失くすで。それは避けなあかん。」

「成程な、流石はお廻りだ。」

孝晴は口許に手を軽く添えて笑みを浮かべた。当然、孝晴もその考えには至っている。異人排斥派には燃料を与え、異人側には罪を擦り付けたと受け取られるであろう、榮羽音への文。だからこそ孝晴は、太田公爵に許可を得て預かるに留めたのだ。正介は「せやろ」などと笑って、一つ伸びをすると、胡座をかいた膝に片肘をつき、言った。

「孝晴クン、やっぱええ奴やな。」

「なんだぃ、藪から棒に。」

怪訝そうに手を下ろす孝晴の様子に、正介は穏やかに目を細める。

「初めて会うた時も俺の為に付き合うてくれて、今は太田の家が困ってるから付き合うてるんやろ。」

孝晴は僅かに目を開く。そして楽しそうな笑みを浮かべる正介に、努めて普段通りに言った。

「そんなんじゃねぇ、俺ぁ早く帝都を気軽にぶらつきたいだけさね。」

「照れんなや。」

ばっさりと切捨てられた孝晴が口を噤んだ間に、正介は窓を見遣る。月は見えないが、夜はとっくに更け切っている。

「ほな、他に用が無ければ帰るわ。俺の下宿は蓼町さかい、気ィ向いたら来てもええで。まあ夜勤やと、夜もおらへん時あんねんけど。」

「ん、そうさな……新聞には目を通しとくかねぃ。」

そう言って孝晴が立ち上がろうとすると、正介は軽く手を振ってそれを制した。

「見送りはええよ。もう遅いし、ゆっくりしときや。」

「なんでぃ、滅多にない機会だぜ?」

「せやかて、この寒空にもっかい孝晴クン引っ張り出すなんて、俺はできひんわ。歳上の言う事は聞いとくもんやで。」

言いながら、ひょいと跳ぶようにして立ち上がる正介。孝晴は動きにつられてその横顔を見上げた。頬骨の上から眉まで、一直線に引かれた傷が、殊更に目立つ。

「なァ、一つ良いかぃ。」

「なんや?」

振り返る正介。孝晴は、指先を自らの右の目に沿わせながら言った。

「それ、何時の傷だィ?」

ぴたりと、正介の動きが一瞬、止まる。おや、と孝晴は思った。正介は直ぐに笑みを浮かべたが、その直前に見せた表情は……。

「……東都に来る前のもんや。邏隊は荒事も多いん、知ってるやろ。」

そう言った正介は、部屋を出るまで笑顔を崩さなかった。

 

 多聞正介の気配が消えるまで座していた孝晴は、そのまま後ろにごろりと身体を倒し大の字に寝転がった。一先ずの目的は達したし、正介も職分に関しては誠実だ。自分に接触した理由や、今も見送りを断った理由などは気になるとして、信頼出来ない相手では無いだろう。そう結論付けてから、孝晴は頭の後ろに手を組み、思い返す。

(何だ、あの顔は?奴が帝襲撃を防いだ邏隊員ってンなら、傷くらい誇りそうなもんだが……。)

 目を閉じ、「その報道」の記載された新聞を脳裏に呼び起こす。群衆の後ろで小刀を袖に隠して身を潜めていた男に、いち早く気付いて飛び掛かり、「顔に創(きず)を負いながらも」取り押さえた巡査。あの目の傷は、その時の物では無かったのか。いや、理一の言った通り、複数の新聞の中には巡査の姓を記載した物もあった。「多聞」。西では珍しくも無い姓なのだろうか。しかし、邏隊員、姓、傷まで揃っていて、同一人物でないとは思い難い。では、先程見せたあの複雑な顔は。人好きのする笑みの後ろに後ろめたさを隠すような顔は、何だったのだろう。傷を隠そうとしたり、恥じたりしている様子は無かった。やはりあんな反応を見せた理由は分からない。

(新聞にゃ出てない所で、何かあったのかも知らねぇなぃ。)

そうして孝晴は思考を切り上げ、身を起こす。膝の上に肘を乗せ、頬杖をつくと、一人ごちた。

「しッかし、『ええ奴』ねェ。俺の何処がそんな風に見えンだか……。」

太田卿の時に驚いた分、今回は其処迄の動揺は無い。それでも、自分の黯(くら)い心には、雫が落ちた程度の波が立った。麟太郎は「人を作るのは行動です。それが打算や偽善の心に根差していても、です」と言ったが、自己満足の行為で人間性(と言うのも可笑しな物ではあるが)を判断されるのは、やはり奇妙だ。其処まで考えた孝晴は、何処か拗ねたような顔で、ぽつりと零す。

「……照れてなンかねぇやぃ、ちくしょうめ。」

部屋を暖める火鉢の中で、炭がぱちりと微かな音を立てた。

 

 

 吐く息は白いが、寒さは感じない。多聞正介は闇の中を疾駆する。燈を避け裏道に入れば、見廻の邏隊員や警兵と出会す確率も減る。周囲を警戒しつつ、息を上げないように、かつ最大限速く。やっと帝宮外苑が見えると、正介は速度を緩め、静かに歩き始める。誰も居ない神社から、地下へ、そして小部屋へ。衣を替える間、正介は無言だった。

(今迄なんも言わんと、あない急に言われたら、誤魔化せられへんやんか。)

自身の目に走る傷がかなり大きく目立つものであると、正介は知っている。そもそも、眼球を傷付け無かったのが奇跡だと医者に言われた程なのだ。逆手で振られた刀の鋒が頬に減り込んだ瞬間に、咄嗟に背を逸らした為、瞼から上は皮一枚で済んだ。自分の運命を変えた傷だ。

(多分、気付いてんねやろな、孝晴クン。俺が襲撃犯を取り押さえたっちゅう事。)

二年前――もうそろそろ三年になる――の事件は、新聞でも大きく取り上げられた。しかし、新聞には載らなかったその先がある。多聞正介は、血塗れの包帯を巻いたまま、移送中に犯人と二人きりで話した。その男には家族も無かった。ただ、世に対する不満と、それを正さんとする大義だけが胸にあった。正介は目に見える範囲だけが世界ではない事、自身の命を捨てるには早過ぎると男を諭し、監視の隙を突いて、捕らえた犯人を自ら解き放った。

 

――あんたには真っ直ぐ生きる力がある、其れをこんな事に使ってどないすんねん。自分一人しかおらんのやから、もっと命を大事にしい。残りの人生、道を見失わへんように生きるんやで――

 

泣きながら何度も頷いた男を、正介は忘れられない。正介が男を逃した事は、仲間にばれた。懲罰房に自分が閉じ込められている間に、男は捕まり、「脱走」の罪も加えられ、処刑された。邏隊は隊員の功績だけを広めたかった為、犯人を逃したのが正介だという事実は揉み消された。自分の決断が、彼の罪を重くしてしまったのだ。この傷は決して名誉の負傷等では無い。正しき事が、時に人を残酷に殺すという戒めの傷だ。そして、閉じ込められたまま首を落とされる筈の正介の命を救ったのは。

 

 

 廊下の終わりにある輪菊の扉の両側には、顔を隠し槍を持った男が二人。しかし、今日はその間にもう一人、小柄な人影――「狐面」が立っていた。正介が立ち止まると、狐面は静かに近付き、正介の前に立つ。

「なんだ、出迎えか?」

正介――「鼬面」――の、標準語抑揚は完璧だった。狐面は肩を竦め、声を潜めて言った。

「『あの人』絡みで遅れたんでしょう、どうせ。」

「敵わないな、『浅葱』には。」

それを聞いた狐面は、くるりと身を返し、その後ろに続く鼬面と共に扉を通る。形式上の挨拶を最敬礼と共に行い、顔を上げる。

 地下とは思えない煌びやかな、しかし夜らしいぼんやりとした灯火が照らす、荘厳な空間。金箔で模様の描かれた板張りの壁には、八方位を守護する神獣の姿が彫り込まれている。正面の階段は地上に通じており、この階段を直接登る事が許されるのは、本来は万華菊紋隊の"筆頭"、「狼面」を冠る者のみであるのだが、正介もこの階段を通り先へ行く事が出来る。ただ、命令があれば、という制限付きだ。

 神代(かみよ)に天より降りし初代の帝は、金色に輝く鳶に導かれ國を平定し、八の華の咲く野に辿り着く。華を刈り陣を敷こうとした武神を止め、野を去ろうとした帝の恩に応え、八の華は帝を守護する戦士を生んだ。それが万華菊紋隊、通称万華部隊の起源とされている。現在の八人の身分は「衛士」である。幕府が倒れ、其の存在が問題となったが、軍・邏隊と相互に連携する条件で存続している。隊員には個々に役割と張子の動物面に加え「色」が与えられ、其の色が隊員の名となる。狐面は「浅葱(あさぎ)」、正助は鼬面に「朱華(はねず)」の色。

 広間には、二人の他に人の姿は無い。二人は無言で広間を横切ると、東側にある大きな扉へ向かう。丹塗りの厚い扉を引くと、先は隊員の詰所となっている。八人掛けの机には、男が一人、女が二人座っている。この中でだけは、面を外してよい決まりなのだ。しかし、二人の足は扉を開けたまま止まった。正面には、漆黒の軍服が静かに立っている。纏う洋羽織の内側に見える赤、面は、――「狼」。

 

「扉を閉めろ。」

 

万華筆頭・「深緋(こきひ)」は、低い声で言った。黙って従う二人。厚い木の戸が閉められた瞬間、朱華の目の前には深緋の面があり、その掌が朱華の顔の真横――面を掠めないぎりぎりの位置――に叩き付けられていた。鈍い音を立てた扉が丈夫で良かった等と考えながら、朱華は息を一つ吐く。

「気付いてたんか。」

「私が気付かないとでも思って居たのならば、お前は相当の阿呆だ。」

深緋は朱華より少しだけ背が低い。しかしその発する気は、並の人間なら気を失うかも知れないほど強い。強く、静かで、冷酷だ。深緋は隣で気まずそうにしている浅葱にも顔を向ける。

「お前とも後で話をしよう。だが、先にお前だ、朱華。」

ゆっくりと深緋は朱華に顔を向け直し、言った。

「お前が有坂孝晴に接触を図ったのは、先の春だった。理由は何だ。お前は『私の弟』に近付いて、有坂家の……いや、『私』の何を、探ろうとしている、朱華?」

 

「帝國の書庫番」

十九幕「縁と恩」

  1. 目次
  2. 小説情報
  3. 縦書き
  4. しおりを挟む
  5. お気に入り登録
  6. 評価
  7. 感想
  8. ここすき
  9. 誤字
  10. 閲覧設定

▲ページの一番上に飛ぶ
X(Twitter)で読了報告
感想を書く ※感想一覧 ※ログインせずに感想を書き込みたい場合はこちら
内容
0文字 10~5000文字
感想を書き込む前に 感想を投稿する際のガイドライン に違反していないか確認して下さい。
※展開予想はネタ潰しになるだけですので、感想欄ではご遠慮ください。