帝國の書庫番   作:跳魚誘

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漆黒の衣と獣面を纏うは、旭暉の盾にして剣。


帝國の書庫番 廿幕

 万華とは、万の華であり、万の華にあらず。

 八色(やしき)の華は、帝の輪菊を花芯にいただき、八ツ花弁の華として咲く。

 一片(ひとひら)の花弁落つるとも、華は新たなる花弁を生ず。

 万の華を散らし、万の華を咲かす。其が、万華菊紋隊なり――

 

 

 丹色の柱が目を引く円形の部屋には、丹塗りの扉以外にも、二箇所の出口が設けられている。二人の獣面が向かい合う後ろで、男が静かに円卓から立ち上がった。

「なんや清(せい)さん、行かはるん?おもろいこと、始まりそうやのに。」

女が優雅に言う。漆黒の軍服を纏い、切れ長の目元と唇に紅を差し、真っ直ぐな髪を顎の下で切り揃えた美しい女。男は彼女を一瞥すると、直ぐに手元に置かれた面を取り、手早く着けてしまう。

「深緋(こきひ)と朱華(はねず)、浅葱(あさぎ)で話すべき事ならば、我々が聴きだてする必要も無かろう。……話が着くまで深緋が動けんのだ、某(それがし)が警戒に当たる。」

「流石『鷲』さんやねえ。」

「それに、いざとなれば、銭形殿が居る。」

やんわりと首を傾げて笑う女の隣で、男の言葉に苦笑しながら手を振る女。その手元には洋紙と鉛筆が置かれ、顔の下半分を黒い布が覆っている。言うまでも無く、あの「透子」だ。彼女もまた、他の全員と同じように漆黒の軍服を身に付けている。透子の隣で「うちも同類や思われてるんは心外やわ」と女が笑みを浮かべるが、透子は手元で鉛筆を動かした後、「鷲」の面を付け矢筒を背負った男に、書き記した紙を見せる。

【藤黄君、気を付けてきてね】

鷲面――藤黄(とうおう)は、紙を持って微笑む透子に頭を下げると、片方の扉から外へ出て行った。

 

「危ないやんか、深緋。面に擦りでもしたら、また俺『つるちゃん』に怒られてまう。」

「面には触れていない。話を逸らそうとしても無駄だ。」

「逸らそうとしてる訳やないねんけどな。」

温度を感じさせない深緋の口調に、朱華は内心で溜息を吐いた。深緋は自分に覆い被さるような体勢で目の前に立っている。相手が深緋で無ければ逃げようもあるが、そもそも朱華に逃げるつもりは無かった。朱華の口調は、全く普段通りのものだ。

「何時から気づいてたん?」

「『初めから』だ。お前が最初に弟に接触した時から、と言えば理解出来るか?」

「……あー、もしかしてやけど、春先に三日開けたん、その所為か……敵わんわ。」

今度こそ息を吐くと、朱華は両手を挙げた。深緋は狼面の奥からじっと視線を送りながら、扉から手を離し、一歩退がる。

「何言うたらええ?」

「お前が浅葱を引き込んで共謀した理由と目的だ。如何によっては、私がお前達を処分しなければならない。」

深緋の口調は静かなものだが、この場合の処分は、文字通り、命を「処分」される事を意味する。顔を此方に向けた浅葱に、朱華は軽く手を振った。大丈夫だ、と言うように。

「理由も目的も分からへんのに、『共謀』ちゅうんは乱暴やで、深緋。浅葱は元々関係あらへん。俺が協力を頼んだだけや。」

「ならば、はぐらかさずに答えろ。」

「……。俺の目的は、あんたをもっと知る事や。此処で仕事してるだけの付き合いやない、もっと深いトコを知るには、育った環境と周りの人間――家族との関わりを知るのが一番ええ。せやから、家と兄弟に近付いた。理由は、……万華の為や。そうとしか言えへん。」

「言えない理由は。」

「約束やからや。」

そこで深緋は、一つ呼吸を入れた。

「つまり、お前の交わした『約束』の相手は、万華に上ずる存在という訳か。」

「俺は誰とした約束でも守る。身分職分は関係あらへん。」

「先に『万華の為』と言った以上、お前が如何(どう)言おうと、結論は覆らない。」

「……せやな。けど、其処まで分かったなら、言えへん理由(わけ)も分かるやろ。俺は万華にも、あんたにも、不利益になる事はしてへんし、せぇへん。」

応酬は、あくまで静かだった。しかし、部屋の気温が下がったと錯覚する程に、その場の空気は冷え切っている。だが、それは唐突に消え去った。深緋が圧を解いたのだ。

「時間だ。後は浅葱に聞いておく。」

「……、」

一瞬言葉を失う朱華と対照的に、深緋は全く調子を変えずに言う。

「帝に、お前を寄越すようにとの御下知を賜っているからな。もう戻られる。」

「さよか。それで今……、まあええわ、時間無いんやろ。」

朱華は肩を竦めると、あからさまに不機嫌な顔をしている女と、隣で見守っている透子の方を深緋越しに一度見遣る。

「すまんな、おもろいことにならへんで。」

「は?あんたがうちらの前で阿呆晒したちゅうだけで噴飯物やわ。」

「なら良(え)かった。」

何がや、と舌打ち交じりに呟く女の声を背に、朱華は入ったばかりの丹塗りの扉を再び通り、出て行った。

 

 一人が消えた部屋の中、不機嫌そうに女が頬杖をつきながら、面を着けたままの二人を見遣る。そのうちの一人、小柄な狐面――浅葱は、その場から動かないまま、面を綴じる紐を解いた。中から現れたのは、簪で留められた金色の髪に、同じ色の長い睫毛。開かれた瞳は空色。まるで舶来品の洋人形が命を持ったかのようなその顔立ちは――

「朱華の言は真実(まこと)か?浅葱。」

「ええ、彼の行動目的に嘘はありません。」

はっきりと「男の声」で深緋の問いに応えたのは、あの「ユリア」だった。深緋の声音は落ち着いており、責めているようには聞こえない。流石に女が首を傾げる。

「なんや、男の癖に女生徒に成り代わって、うちの生徒をぎょうさん可愛がってはる『ユリアさん』は、あの阿呆と組んでお転婆してたんと違うん?」

「どうしてそんな意地悪な言い方するんですか、『椿先生』。僕は学校に戸籍も提出して、ちゃんと許可を受けているんですからね。勿論、女性の装いと振る舞いも。」

ユリア、いや、その美しい異人の少年の話す旭暉語に、違和感は全く無い。常に瑛國語を話し、少女達と鈴を転がすように笑い合う姿からは想像出来ない大人びた少年の様子は、彼女とは別物だ。顔さえ違っていれば、の話だが。深緋が小さく息を吐くと、女――女学校の教師、冷泉椿は口を噤んだ。それを確認し、深緋は言う。

「『匂坂(さぎざか)』には、朱華の動きを報告させていた。だが、方法まで私が決めた訳では無い。女学校への潜入が、お前の趣味以外である事を願おう。」

「深緋さんまで……そうでは無い事なんて分かってるでしょう。あくまで、朱華さんに協力する為……より正確に言うなら、協力している振りをして観察する為、ですよ。」

「しかし今は『振り』では無い。違うか?」

深緋の言葉に、にこりと、優しく笑みを浮かべる浅葱。しかしその笑みは、内にある感情を悟らせないような笑みだ。浅葱は柔らかに口を開いた。

「そうですね。僕は、朱華さん『にも』協力する事を選びました。」

「解せんな。先の理由が事実ならば、私を探っても何も出ない事くらい、お前は理解出来るだろう。」

「それなら、僕らの行動にも問題は無いでしょう?朱華さんが言った通りです。万華にも深緋さんにも不利益は出しません。僕が断言します。」

「理由は。」

「朱華さんは、『頼み事を断れる』人ではありません。ただし、物事の優先順位は選択出来ますし、自分で下した決断の結果は、『何があろうと』受け入れる人だと、僕は判断しています。そんな人が、……帝の『お願い』で動いているんです。深緋さんは、あの帝が、万華の破滅を望まれると思いますか。」

浅葱――匂坂と呼ばれた少年は、一瞬、直接「帝」と言う事を躊躇ったように見えた。彼がちらと目を向けると、案の定、椿が苛立ちを隠しもせず眉を寄せている。

(椿さんは、帝への執着が激しいからなぁ……だからと言って、朱華さんにいつも当たられるのも困り物なんだけれど。)

 内心でそう考えつつ、少年が深緋へと目を戻すと、口許に手を持って来て考えるような素振りをしていた深緋は、すっと手を下ろした。

「帝が我々をどのように捉えているかは、我々には関係無い。我々万華は、只、帝を守護する為の存在であり、帝の御用聞では無い。理解した上で言っているのだろうな?」

「勿論。でも、帝室庁に命じたら勅命になっちゃいますし、帝が御自身の意志を『願い』という形で出せる相手なんて、深緋さんと朱華さんだけでしょう?役人と政治家と軍人以外で帝と直接言葉を交わせるのは、お二人だけなんですから。帝が何故、御自ら朱華さんを万華に推薦したか、僕は納得出来たので。僕が朱華さんを信用しているというだけでは、判断材料にはなりませんか?」

浅葱は金色の髪を掻き上げながら、穏やかに語る。浅葱自身も、朱華が具体的に帝から何を求められたかは知らない。ただ、彼は。浅葱は空色の瞳を狼の面に向けて上げた。

「……それに朱華さん、僕が朱華さんを監視して深緋さんに報告してた事、気付いてたと思いますよ。そうで無ければ、さっき深緋さんが僕を尋問するって言った時、もっと僕の事を心配した筈ですから。異例の入隊とは言え、試験にもちゃんと合格してる以上、『朱華』の適任者ですよ、あの人は。だから、いずれ詰められると分かっていてもやめられない程、大事なお願いだって事じゃないかなと思うんです。でも、身の回りを嗅ぎ回られる深緋さんが不愉快なのもよく分かりますから、どうするかは深緋さんが決めて下さい。……深緋さんは、直接確かめる事だって出来るんですから。」

誰に、の部分を敢えて暈(ぼか)して、浅葱は話を終える。深緋はじっと浅葱に面を向けていたが、やがて黙って腕を組んだ。全て納得した訳では無いだろうが、帝が関わっていると知ったのだ。深緋は冷酷だが、非情では無い。何せ、帝の玉体を守護する衛士の「統率」が深緋の任務だ。万華部隊員は其々が旭暉中から集められた文武智謀に優れた精鋭であり、其の指揮を取る「深緋」は、他人を力と恐怖で支配するような人間に勤まる職では無い。今日強く詰め寄ったのは、下知により帝の元へ送る前に、朱華の真意を確かめる必要が生じた為だろう。それに朱華も、あの程度で動揺する程弱くは無い。万華は年齢・性別・在籍年数問わず、名目上の立場に上下は存在しないが、単純に武の技量のみを比せば、「深緋」の次点に挙げられるのは「朱華」なのだから。

 やがて、深緋は腕を解く。狼面の内から声が発せられた。

「……お前の見識を容れよう、匂坂。」

「有難う御座います。」

「但し、お前達の任務が疎かになった時、そして私の任務が阻害された時。その時には、私はお前達が適任ではないと判断する。」

「構いません、その時には処分して貰っても。」

にこりと微笑む浅葱に、一瞬、深緋が動きを止めた。しかし、それがどの感情に由来する挙動かは、面があっては分からない。再び発せられた声音にも、深緋の感情は顕れていない。しかし。

「これは命令ではなく、忠告だ。……『有坂十技子』には近付くな。」

「……。」

浅葱は笑みを消した。有坂家を実際に管理しているのが彼女である事は、周知の事実だ。だが、態々その名を今、出すという事は。

「理解(わか)りました。気を付けます。」

浅葱は頭を下げる。深緋は踵を返すと、漆黒の洋羽織を旗めかせ、丹色の扉から出て行った。

 

 

 夜も更けた執務室に充満する紫煙。揺めく空気を照らすのは、何かの資料が山積みにされた机上の、石油ランプのみ。しかしその机には誰もおらず、代わりに長椅子に向き合って座る男が二人。

「全く、俺はお前と違って通いなんだがな。」

「しかし、衣笠先生は大概、この時間でも此処に居ます。」

「……まあな。」

ふう、と大きく息と一緒に煙を吐き、短くなりかけた紙巻きを灰皿に押し付けると、衣笠理一は目の前に座る麟太郎に目を遣る。いつも通りの烏羽軍服、姿勢正しく、唇以外は微動だにさせない、見慣れた姿。

「で、何があった。有坂のとは、今は上手くいってるだろ?」

「はい。今回は、別の相談に乗って頂きたいと思いました。ハル様や、他の友人ではなく、医師である衣笠先生の意見を聞きたいのです。」

理一は瞼を僅かに細めた。つまり、体に何か不調があると言う事か。頑丈さが取り柄の麟太郎が気にする程の不調ならば、常人であれば手遅れの場合もある。

「どうした。何処か痛むのか。」

「……いえ、痛みは無いのですが。音、です。」

「音?」

鸚鵡返しに訊ねた理一に、麟太郎は淡々と話した。留子に呼ばれて会いに行った事、其処で自分の感情に「欠落」があると気付いた事、そして、その時に聞いた「水音」の事。留子が孝晴と理一について気に掛けている点は伏せられていたが、概ねその夜にあった事を聞き、理一は眉を寄せる。

「大臣邸に忍び込んだ事については、何も言わないでおく。……が、お前は『喜べない』って事以上に、その『水音』が気になってるんだな?」

頷く麟太郎。

「初めは、幻聴であると思いました。確かにあの日、あの場所に、水の落ちたような形跡は有りませんでしたので。いえ、幻聴なのは間違い無いと思います。問題は、それを私が今でもはっきりと思い出せるという点……そして、あの音に、別の感覚が付随している事に気付いた点です。」

「……。詳しく話せるか。」

「『闇』です。」

余りにも端的な答えに、流石の理一も暫く硬直した。しかし、麟太郎は冗談を上手く扱える程、器用な会話はしない。改めて理一は訊ね直す。

「どういう事だ?その音を聞いた時は夜更けだったんだろ。夜だったって以外に、引っかかる所があるのか。」

「はい。私は、水が特に苦手ではありません。溺れた経験も無ければ、雨に打たれようが滝に打たれようが、限界を越えなければ体が壊れる事もありません。雫の落ちる音を、気にする理由はありません。けれど、あの音には、何も無いんです。他の音も、景色も、感覚も、感情も、全てが消え去ったような、闇、と言うより、無、とでも言った方が正しいような。『このような記憶は、私には無い』んです。」

「!」

ぽつぽつと呟かれた、最後の一言を聞いた瞬間、理一の顔色が変わる。理一は麟太郎が口を閉じた事を確認し、ゆっくりと言った。

「もしかして、お前、それが『失くした記憶の一部』だと思ってるのか?」

「……そうなのではないか、と思い至りました。これまで……ハル様に拾われてから、今までの間、一度も感じた事の無い感覚なので。故に、先生に訊ねるべきだと思いました。医学的に見て、失った記憶が戻るという事は、あるのでしょうか。」

それを聞いた理一は片手で頭を抱え、麟太郎はじっとそれを見ている。暫く考えて、理一は息を吐いた。

「例えば、強い衝撃を頭に受けて、記憶が保存された部分が死んじまった、なんて場合には、もうそれまでの記憶は戻らないと思っていい。他に、病や精神的な衝撃で、記憶が無くなる事もある。前者は治療で治せる可能性があるが、お前は少なくとも、頭に傷が残ってたり、体自体に病気の症状が出たりしてる訳じゃ無い。つまり後者……心に何か強い衝撃を受けて、それを全部忘れた。その可能性が高いと俺は思う。」

「心、ですか。」

「戦争なんかの時に屡々あるらしい。酷い体験をすると、その体験自体を忘れる。お前の場合は、『何があったか』も分からねぇがな。」

一度言葉を切り、理一は麟太郎の反応を伺う。目線を下に向けて少しだけ考える素振りを見せると、再び理一を真っ直ぐ見詰めた。

「では、以前の私に何が起こったか分かれば、記憶が戻る可能性もあるのですね。」

「……話聞いてたか?今の話はあくまで俺の見立ての上での話で、お前が『そう』だと断定出来る訳じゃねえ。仮にそうだったとしてもだ、リン公、お前が失くした記憶は、お前にとって『どうしても忘れたい物だった』って事になるんだよ。それを無理に思い出すなら、今の自分を全部捨てる事になるかも知れねぇぞ。」

部屋に漂っていた白い煙は、いつの間にか消え去っていた。静かに、ゆっくりと語られる理一の言葉をじっと聞いていた麟太郎は、僅かに目を細め、そして再び、ぽつりと言う。

「先生は、私の体の傷痕を知っていますか。」

「知ってるも何も、何回治療したと思ってんだ。切傷も刺傷も矢傷も体中にあるじゃねぇか。」

「背も見ていますよね。」

「笞痕か?確かに古い……、」

其処で理一は目を見開き、そして強く細める。察しの良い理一が、気付かない筈が無かった。

「……あれは、お前が孝晴に拾われた時からあったんだな?」

麟太郎は、こくりと首を縦に振る。

「私は、此れが笞刑の傷なのではないか、と思っていた事があるのです。」

「馬鹿言え、笞刑なんざ俺達が生まれる前に廃止されてる。」

「地域によっては、廃止後も続けられていました。」

「それでも、完全廃止は十年以上前だ。有り得ねえよ。」

首を振る理一。麟太郎は瞳を伏せた。何かを思い出すように。そして再び、理一を真っ直ぐ見遣る。何処か、決意を孕んだような目だった。

「同じ事を、ハル様にも言われました。私には、ハル様が居た。ハル様が私の全てでした。だから、今まで気にして来なかったのです。『私が何者であったのか』を。」

「……。」

「衣笠先生と出会い、隊の仲間……部下を得、そして留子様の言で、私には、感情にさえ欠けがあると気付くに至りました。以前、勘解由小路大臣が私に言いました。私の中には私が居ないと。其れはもしや、この『欠け』の事なのではないかと。私は皆に良くして貰っています。しかし、私が私に向き合わずに好意を享受するのは、不誠実に思えます。なかんずく、私が何者か分からないまま、留子様の思いにお応えしてはならない気がするのです。」

微動だにせず淡々と語る麟太郎だったが、理一の中には一種不安とも呼べる感情が、じわりと滲み出していた。確かに、麟太郎には過去が無い。しかし理一が出会った時には、既に麟太郎は彼としての自己を確立していた。勿論、彼が犯罪者であった等とは思って居ない、いや、思いたくないだけだと、改めて気付かされた。当然、麟太郎自身が最も不安な筈だ。それでも、記憶というのは妙なもので、昔の記憶を取り戻す代わりに、新たに得た記憶を全て忘れる、という事もあるのだ。失いたくない、と思ってしまった。今の――友人、と呼べる者の一人を。理一は自身の頬に手を触れる。

(医者が贔屓なんて、しちゃだめなのは分かってる。けど、そもそもあたしは、復讐の為に医者になったはぐれ者だもの……少しくらい、医者らしくなくても、構わないよね、かかさま。)

「……俺は、思い出して欲しくない。俺の知るお前は『刀祢麟太郎』だけだからな。お前がお前じゃなくなるのは嫌だ。それが率直な気持ちだ。」

麟太郎は、ぱちぱちと目を瞬かせる。

「驚きました。先生らしくありませんね。」

「俺も友達が少ないのは知ってるだろ。」

理一は自嘲したが、直ぐに真剣な顔で麟太郎に言った。

「だが、お前がその気なら、俺に止められる事じゃない。それでお前の懸念が解消されれば、それこそ万々歳だ。けど……少しでもおかしいと思ったら言え。その時俺が出来る事はしてやる。」

麟太郎は暫し理一を見ていたが、有難う御座います、と頭を下げた。その顔には当然、何の感情も浮かんでいない。しかしその目の奥に見えた、決意のような何か。理一は新たな紙巻きに火を着けると、消えない微かな不安を煙と共に吐き出した。

 

 

 薬棚の並ぶ板の間の奥には、畳敷きの客間と、寝所が連なっている。薬や器具が入った棚が壁に沿って置かれた客間は、以前から診察室としても使われて来た。部屋の中央の卓に置かれた灯明皿の火と共に、座した二人の影が揺れる。かりかりと紙に鉛筆を走らせる透子の隣に座って茶碗を口に運んでいるのは、冷泉椿だ。当然、透子も椿も纏うのは普段通りの着物である。椿は茶碗から唇を離し、切長の目を細めると、ほう、と息を吐いた。

「変わった味やけど、美味しいわ。」

【マツリカをお茶に入れてあるの。気持ちが落ち着くから。】

「マツリカ……知らない薬やわ。」

予め書いてあった文字を見せ、微笑む透子。椿は苦笑すると、音を立てずに茶碗を卓へ置いた。

「ほんま、すんまへん。こんな遅くに、おぶぶまでいただいてしまって。」

【面を着けてる時だけが仕事じゃないもの。皆の体や心を見るのは、普段から変わらないわ。椿ちゃん、少し辛そうだったから気になってたの。だから、むしろ来てくれてありがとう。】

「……。」

椿はその文字を見て目を伏せる。かりかりと、紙を掻く音が暫く響いた。

【椿ちゃんの思っていること、私には全部話してもいいのよ。私は話したくても話せないから、口を滑らせる心配はないもの。それに、自分の嫌なところは、他人から見たら良いところだったりするものよ。ため込むのは体に毒だわ。】

「先生は、なんでもお見通しやね。」

椿は、息を一つ吐く。切り揃えられた髪がさらりと揺れた。語られる彼女の半生が恵まれて居なかった事は、透子は既に知っている。彼女は臣籍降下した元宮家・冷泉家の姫として育てられたが、実際は先代帝の「不義の子」だ。腫物の様に扱われて来た彼女が唯一求めたのは、腹違いの兄――帝に、「認められる」事。女が実力を以て、最も帝に近付ける場所は、万華である事は事実だ。しかし、万華に居る限り、彼女は帝にその存在を知られる事も無い。何故なら、帝がその素性を知るのは、「深緋」の立場にある者だけだから。……本来ならば。

「うちは……どうしても我慢できひん。うちがずうっと欲しかったもんを、あの阿呆は簡単に手に入れて……へらへらしよって……『お願い』やて?ほんに、反吐が出る。」

絞り出すように吐き捨てた椿の背に、透子は優しく手を触れた。椿も分かっているのだ。朱華――多聞正介の実力も、隊員としての働きも、申し分無いという事を。そして、その彼を選んだのが帝自身である為に、深緋以外で帝との会話を許された初めての万華であるという事実も。それでも、気持ちはどう仕様も無い。必要なのは、吐き出す場所だ。尤も、正介は椿の感情を受け止めた上で受け入れているようだが、朱華は万華の中でも深緋・浅葱に次ぐ激務を強いられる。そんな隊員達の身体面・精神面での負荷を緩和し、治療し、薬や、必要があれば戦う為の毒を作る。敵が毒を使うなら、分析し解毒する。それが、透子――梟の面と「小紫」の色を持つ者の仕事だ。

(『小紫』を譲れそうな子を見付けたと思ったけれど、あちらも大変そうだし……もう少し私が頑張らないとね。皆、まだまだ若いんだから、無理をさせないように気を付けなきゃ。)

背をゆっくりと撫でられているうちに、椿は申し訳無さそうな表情を透子に向け、ぽつりと言った。

「……こんな僻みだらけの汚い女、兄様に相応しく無いやんな。うちかて分かってるんや。」

【誰しも、ひがんだり妬んだりはあるものよ。これは内緒だけど、有坂君にもそんな相手がいるみたいよ。】

「あの有坂はんに……?」

素直に驚いた表情を浮かべる椿に、透子はにっこりと微笑んだ。

【大切なのは、その気持ちを否定しないこと、そして、気持ちの中身を理解すること。できることをやって、できない時には無理をしないこと。それでも力を出さなきゃいけない時は、がんばった後にしっかり休むこと。だから今日は、もう寝ましょう?】

「……せやね、銭形先生、今日は甘えさせてもらいます。」

 二人は立ち上がり、灯明を持って襖を開け、寝所に移動した。茶を沸かす為に土間の火を焚いた為、部屋の中も暖まっている。椿が残りの湯で顔を拭いている間に手早く布団を出してから、透子は灯明を消す前に紙に文字を書き足し、戻って来た椿に見せる。

「『銭形やのうて、透子って呼んで欲しい』?何か理由があるんですか?」

【少しね。お客に姓を知られたくない子ができたの。】

「ふふ、じゃあ透子先生やね。今日はおおきに、ありがとう。」

透子は顔の布を取らないまま微笑むと、それまで書き記した紙を灯明に翳し、燃やしてしまった。

 

「帝國の書庫番」

廿幕「花は風に惑い、鳥は水に揺蕩う」

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