帝國の書庫番   作:跳魚誘

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光は時に、心の底に毒を生む。


帝國の書庫番 廿一幕

 格子の外では、ちらちらと舞う雪が提灯に近付き過ぎて消えて行く。一夜で醒める夢のように儚い熱が、今宵も体を包み込む。

 廓の内では、男と女の立場は逆になるのだと、外から入って来た一人の遊女が言った。外でどれ程地位があり、女を躾け従えていようと、廓では只、一人の男に過ぎない。遊女が頑として首を振れば、望んだ女を目にする事さえ叶わない。

しかし乍ら遊女とて、望みの相手とだけ床を共にする訳にはいかない。どんなに金払いが良かろうと、どれだけ美しい優男であろうと、目の前に居るのは本当に抱かれたい男では無いのだ。口吸いを望まれて応えながら、これが"妹"であったならと想ってしまう自分は、最低の「ねえね」だと内心自嘲しながら、錦木は男の首に白い腕を絡ませた。

 

 

 寺前の店も板戸を替え、油売りや炭売りが家々を訪れる冬。人々は襟巻を身に着け、はたまた外套の襟を立て、其々の行先を目指して足早に去って行く。有坂孝晴は普段と歩調を変えず、薄く積もった雪を素足下駄で踏鳴らしてぶらつきながらも、首に巻いた襟巻を口許まで引き上げた。冬は好きだ。頭が冷えて肉体が制御し易くなる。孝晴が余り寒さを感じないのは、他者に倍する筋肉が熱を生成している為らしい。その分腹は減るのだが、冬場に食う蒸(ふか)したての饅頭がまた美味いのだ。しかし。

(今の時分、頸の印なンて探すにゃ向いてねぇやな……。)

孝晴は白い息を布の隙間から吐く。太田邸からの帰り、四辻鞠哉が言い残した言葉。

 

(『頸に赤い印のある者』を見たら、注意して頂きたく存じます。)

 

 あれから、現在までの犯罪記録や人相書、著名人、伝説上の人物――そうした架空の存在であっても、その特徴を真似る事で、行動に正当性を持たせたり、求心力を上げたり、箔を付けたりできる――に至るまで、あらゆる記録と記憶を掘り起こしてみたが、首や肩、全身の飾り刺青や顔や腕に入れられた入墨が特徴の者は居ても、頸の位置にある赤い模様を特に強調されている存在は見つけられ無かった。傷痕等に関しても同様である。そもそも傷であれば、色よりも形や大きさの方が印象に残る。あの瞬間によく機転を利かせたものだとは思うが、何処から「赤い印」の情報が出たのかも、其れがどの様な印なのかも分からない。そして季節柄、外で首元を露出させている人間は殆ど居ない。

 歩き回って得られる情報には限りがあると分かってはいるが、昨今の新聞では、生仏やら神女やら異能者等と呼ばれる人間を引っ張り出して、斬裂き事件の犯人探しと娯楽を兼ねたような記事が頻繁に掲載されるようになっていた。名乗りを上げて見世物になっておいて、結局犯人を見付けるに至って居ないのだから詮無い事だ。念写やら千里眼やら透視やら、よくもここまで「異能の者」を見付けて来られるものだ、と孝晴は内心苦笑する。この短期間でこうも簡単に異能者が見付かるのなら、とっくに自分にも同類が見付かっていてもおかしくないのだから。という訳で、新聞記事の情報も当てにならないとなると、別の方法を探すしかないと、孝晴は腕を組んで歩いて行く。

(この時節でも、家以外で人が襟を緩める場所と言やあ、長屋の風呂か、置屋か、廓……廓は立ち入る人間が限られるし、置屋は帝都からは無くなったし、俺ぁ長屋なんて入った事もねぇからなァ。『当たり』を引くかは分からねェが、念の為、リイチにも情報を渡しとくか……?四辻の野郎なら、坊っちゃん程リイチを毛嫌いしてねェだろうし。)

廓内部の人間から情報を得るには、理一に訊ねて貰うのが最も穏便だ。麟太郎を忍び込ませた事もあったが、あれは他に手段が無かった為だ。自分は人に見られず動けても、それを人一人抱えて目的の部屋に着くまで続ければ、自分に限界が来る以前に、抱えられる常人の側が耐えられないだろう。廓内は法外の世界、理(ことわり)は廓の中にある。正当に門を潜る以外の方法で入れば、どうなっても文句は言え無い。

(今のお麟にゃ、お留お嬢様が居るからなァ。)

孝晴は息を吐いた。襟巻の隙間から白い息が漏れる。あの二人の状況を詮索するまではしていないが、少なくとも関係が悪化した様子は伺えない。このまま穏便に、とまでは行かずとも――身分違いの戀なのだ、多少の混乱は避けられない――兎に角、麟太郎が有坂家から離れて所帯を持てるならば、それが一番良い。相手が勘解由小路留子なら麟太郎を任せても良いと、あの日思えたのだ。麟太郎は変わらず孝晴の為なら何でもするだろうが、今までの様に麟太郎だけを危険に晒すような真似は出来ない。

 もう帝都の人間に、事件に対する危機意識は殆ど無い。自分が動く必要があるのか?何度となく繰り返した問いを頭の中で思い浮かべる。ただ、会期が終わってみれば軍事関連法案は通過し、更なる軍拡に向かって政治の舵が切られたにも関わらず、四辻鞠哉が密かに送って来た文によれば、異人街で大きな混乱はまだ起きておらず、どうやら自治組織が上手く旭暉側と話し合って動いているらしいとの事だった。それだけでは無いだろうと、孝晴は太田卿の顔を思い浮かべる。

(あの人も、事業を相当抱えてっから、異人街以外でも動いてンだろな。)

太田卿の目は、哀し気ながら、何処までも優しかった。榮羽音に嫌われているのは仕方ない。しかし、太田卿の悲しむ顔は何となく、見たく無いと思った。元々、孝晴は誰と関わる事も諦めていた。必要以上に他人に関心を持つ事も無かった。なのに、麟太郎を得ただけで、こうも変わった。自己満足の材料に他人を使うのは気に食わないが、太田卿と、律儀に情報を送って来る四辻の為に、もう少し力を入れても良いかも知れない。

 そんな事を考えつつ道の向こう側に目を向ければ、一台の辻馬車が視界に入る。降りて来た男女が何か話した後、男が女を背に乗せ、そのまま建物に入ってゆく。この距離と、背中を気にしている向こうは気づいていないだろうが、此方からであれば姿形と行先で分かる。

(姉貴を背負って街医者通いたぁ、リイチも苦労してんなぁ。)

口許に手を添えて孝晴は笑う。あんな様子を見て、態々今、理一の負担を増やす事もあるまい。暫くは他の伝手を当たってみようと、孝晴は踵を返してその場を離れて行った。

 

 

 戸を潜って来た客に目を向けた透子は、その姿に目を丸くする。衣笠理一は、不思議そうな表情を浮かべる女を背負ったまま、透子に向かって、にかりと笑った。

「悪い、透子さん。何処かに座らせても良いか?」

透子は急いで畳から降りると、入口の戸に「診察中」の札を下げ、土間に出る扉を開ける。そして、開けた扉の先を右手と両手で一度ずつ示した。はっとした顔をする理一に微笑めば、理一は頷いて扉に足を向ける。

「どうして透子さんは、二回も御手を出したのかしら?」

「後で話すよ、姉さん。」

背中から聞こえた声に応える理一と、背中から声を発した女。そんな二人を微笑ましく思いつつ、透子も扉の先へ向かった。

 土間を通り、診察室を兼ねた客間へ。上がり框に姉を座らせ靴を脱がせてから、衣笠理一は彼女を支えながら立ち上がる。真っ直ぐな美しい髪をした、少し青白い顔色の女。透子は椅子を出しながら、ちらと彼女に目を遣った。微笑みに、妹の面影がある。髪質もそっくりだ。歳はもう、妹が嫁いだ時より上の筈だが、どこか幼く見える。

「いつも、此処でお薬を貰っているの?」

「普段は表で薬を買ってる。今日は……姉さんを一度、透子さんにも診て貰いたいと思ったんだ。透子さん、これは俺の二番目の姉で、名前は『月』。」

「衣笠月と言います。透子さんは女の人なのに、お医者さんでいらっしゃるのね。」

穏やかに、ゆっくりと話すお月。透子は笑みで応えた。不思議そうな顔をするお月に、透子は素早く紙を見せた。

【私は唖なんです。】

「まあ、そうなの。」

お月は驚いた様子だったが、それ以上何も言わないで、微笑んでいる。感情の起伏が薄いという訳では無い。単に口数が少ない、という訳でも無さそうだ。透子は先の文字に線を引き、書き足すという慣れ親しんだ筆談で、こう切り出した。

【まず、脈をみてもよいですか。】

 

 透子がお月を診ている間、理一は邪魔をしない為だろう、お月の隣に黙って座っていた。透子は考える。普段理一が買って行く薬は、気虚(ききょ)に効くものが多い。確かに、彼の診断は間違っていないだろう。しかし、お月の痩せた体と冷えた手足、良くない顔色。透子はかりかりと筆を走らせてから、一度手を止めて理一に目を向ける。理一は透子の目を見て、更に両手の動きを見ると、一つ頷き、静かに目を伏せた。それを確認した透子は改めて、お月に紙を見せる。

【首を振るだけで答えてください。理一くんに、月のものについて話したことはありますか?】

お月は一瞬顔に疑問符を浮かべたが、目をはっと開き、そしてゆっくりと首を振る。

【ひと月のうち、毎月同じ頃に、月のものは来ていますか。】

再び彼女は首を振った。

【頭が痛くなる日は多いですか。】

お月はそこで、こくりと頷く。透子は一つ納得した。恐らく、彼女は気力不足だけでなく、瘀血(おけつ)の症状も持ち合わせている。疲れ易く、頭痛やのぼせも起こり易い。故に、あまり長く話すと疲労が勝ってしまうのだろう。透子は再び書き足した紙を、お月の手を優しく握りながら見せた。

【月のものは、本当は、毎月同じ頃に来るんです。お腹が痛くなることも多いのではありませんか。どうして、理一くんに伝えていないか聞いてもいいですか?よければ、この続きに書いてください。】

透子はお月の顔を見て、安心させるように、にっこりと微笑む。紙と共に鉛筆を受け取ったお月は、戸惑いの表情でちらりと理一の方を見たが、やがて言われた通りに書いて、透子に渡した。

【トシちゃん先生は忙しいから、私にとって当たり前の不調は、特に伝えていません。それに、男の人だから、恥ずかしいのです。】

透子は、成程と思った。だから理一は、彼女を自分に診せたのだ。彼は、お月が症状を伝え切っていないと気付いている。しかし、何故お月は、弟である理一を「先生」などと呼んでいるのだろう。ひとまず疑問は脇に置き、透子は卓の奥に受け取った紙を押しやると、次の紙を取り出してから理一の前に手を差し出した。その手が彼の肩に触れる前に、理一はぱちりと目を開け、笑みを浮かべる。

「もういいのか?」

頷く透子。そして、「少し待っていてください」と書き残し、一度部屋を出る。

 盆に茶と小鉢を載せて戻った透子は、一度盆を卓に置き、かりかりと書いた紙を二人に見せ、微笑みかける。

【月さんは、初めてで緊張したでしょう。お薬は後で渡しますから、お茶を飲んで行きませんか。お茶うけもどうぞ。】

「よいのかしら?」

戸惑うように理一を見るお月。理一は安心させるように笑って見せた。

「大丈夫だよ、寧ろ姉さんは貰った方がいい。」

返答を得てから、透子はそれぞれに茶碗を渡す。理一に渡したのは普段自分でも愛飲している焙茶(ほうじちゃ)だが、お月の碗には紅花茶が入っている。紅茶よりもより鮮やかな色をした茶が珍しいのか、お月はゆっくりと赤みがかった水面を眺めてから、少しずつ口に含む。次に、鉢の中の干果実のようなものを指先で摘んで一口食べた彼女は、目を丸くした。こくりと飲み込んでから、お月は理一と透子を交互に見て言った。

「トシちゃん先生、それに、透子さん……このお茶……それと、これは何かしら?とっても美味しいわ。」

【棗(なつめ)を蜂蜜で炊いています。お口に合ったようでよかったです。】

紙を掲げ、にっこりと微笑む透子に、お月もほっとした表情を浮かべる。理一は黙って茶を啜っていたが、その顔は満足と安堵が混ざったような、優し気なものだった。

 

【今日お渡しするお薬は、先ほどのお茶と棗です。】

「そうなの?良薬は口に苦しって嘘ね。ねえ?トシちゃん先生。」

「それは、文字通りの意味と言うよりは、喩えだからな……。」

苦笑しながら応える理一に、不思議そうに首を傾げるお月。此処に来た時よりも、随分と気が楽になったようだ。透子はお月を診て、彼女は他の家族にも体の辛さを明かしていないのではないかと感じた。それが何故かまでは透子にはまだ分からないが、継続して通ってくれたらもう少し助けになるかも知れない。

 あとは、普段理一が出しているであろう薬も欠かさず飲み、理一の判断に従うようにと伝える。理一は少し恥ずかしそうに笑うと、水平にした左手の上に右手で作った手刀を載せ、そのまま垂直に右手を上げた。透子もまた、それを見てにっこりと笑う。

「ねえ、トシちゃん先生。初めから思っていたけれど、一体それは何なの?」

お月が首を傾げて言う。理一は椅子に掛けた彼女の頭を撫でると、優しく微笑んだ。

「これは手詞って言って、耳が聞こえなかったり、色んな事情で言葉が話せない人が、手の動きと表情で気持ちを伝える為のもんだ。俺もまだ余り覚えてねえけど……透子さんにも教本を渡してあってな。今のは通じた……んだよな?」

最後の部分は透子に問うた理一に、笑顔のまま深く頷く。お月は驚いたようだった。

「言葉が話せなくても、お話しが出来ると言う事?」

「ああ。」

「不思議ね。」

お月はふわりと微笑み、そして透子の方を向く。

「私も、手詞を覚えてみたいわ。私には時間が沢山あるもの。」

理一は驚いた顔をしたが、お月の目は透子に向いている。透子は鉛筆を取った。

【来れるときは、ぜひ来てください。また、お茶しましょう。】

 

 来た時と同じように、お月を背負って出て行った理一を見送り、戸に下げた札を外した透子は、薬棚の前に敷いた座布団に座りつつ、僅かに目を伏せる。

(お月ちゃんは、何故あそこまで体が弱ってしまったのかしら。大病を患っているようには見えなかったけれど……。)

 背負われて移動しているのは、足が立たない為だろう。支えられながら少しの間立つ程度は可能なようだが、現に彼女の足は痩せ細っていた。妹の子なのだから、病弱であってもおかしくは無い。ただ、妹は透子と演武を見せ合ったり、手合わせをする程度には体も動いたし、だからこそ衣笠家に嫁いだ。それに、衣笠理一自身がおぶって連れて来るというのも妙である。遊び好きという話はあるが、金が無いという噂は聞かない。医師として付き添うにしても、人や車を用意するのは容易い筈だ。

(それに……お月ちゃん、まだ何か、話したがっているように見えたわ。多分、理一くんの居ない所で。でも、お月ちゃんは理一くんの助けが無いと、外出は出来ないのね……。)

透子は薬紙や袋を整理しつつ、考える。自身の仕事を疎かにする訳にはいかないが、仮にも彼女は自分の姪だ。彼女は自分に何を伝えたかったのか。

(澄子……私は貴女の代わりにはならないけれど、医師としての仕事は出来るわ。だから少しだけ、私が貴女の子に関わる事を許してね。きっと、お月ちゃんを元気にしてみせるから。)

暫くしたら仕事の合間に休みを作って、衣笠家に問診に向かおう。声を持たない透子が心の内側で静かに決めた事に気付く者は、誰も居なかった。

 

 

 硝子から漏れる光が、濃い翳を落としている。薄暗い殺風景な廊下に立つと、外の世界が朝の光に包まれているのが嘘のようだ。まあ、この廊下の東側は壁になっているというのが、光の届かない理由なのだが。何故壁になっているかと言えば、その壁の先に東に面した部屋があるからだ。部屋の中には半日だけ光が差し込む。廊下にまで部屋から漏れ出た光が届いているのは、ある一つの部屋のみ、壁に面した窓がある為。その窓から十数歩離れた位置で、二つの影が交差した。一人は着物に刀を差した老人。もう一人は、鳶服の青年。

「止まれ。」

言葉を発したのは老人。青年は小さく息だけで笑い、そのまま歩き去ろうとした。

「儂の『蝙蝠』を勝手に使った弁明を、未だ聞いておらん。」

老人の嗄れた声が響く。ぴたりと、青年の足が止まった。そして半身だけ老人の方へ体を向ける。

「それがどうしたってんだよ?あの餓鬼共だって、毎日毎日布切りばかりじゃ退屈だろ。使い道を見付けてやったんだから、有難がっても良いんじゃねぇかぁ?」

「貴様がどう思おうが、貴様の行動は『アカツキ』の目的に沿ってはおらんのだ。『蝙蝠』は無駄遣い出来る物では無い。」

「その『アカツキ』様が、俺を連れて来たのを忘れたのか?あぁ、盲(めくら)にされた時、頭もやられちまってるのかぁ。」

喉の奥でくつくつと笑う青年。老人は内心で溜息を吐いた。あの男の行動に口を挟む事はしないが、本当に何故、「これ」を連れて来たのだろうか。

「貴様は狂人では無い。が、内腑が腐り切っておるわ。貴様と関わる者は皆腐り果ててゆく。何れその身も腐り落ちよう。」

「あぁ?」

切長の目を細め青年が凄むが、老人はふと、廊下の先へ顔を向ける。

「口を閉じろ、『天竺』が来る。」

「……チッ。」

 まだ誰の姿も見えない廊下。しかし数秒後には、その角の先の階下から、一人の若い男が現れた。色白の優男で、葡萄茶(えびちゃ)の着物と同じ色の羽織。濃紅(こいくれない)に染め抜いた襟巻が、肌によく映える。青年はにこやかに二人に向かって手を振ると、無言のまま、硝子窓の部屋へ入ってゆく。その後、部屋の中から声が聞こえて来た。

『飛鼠さん、金次くん、まだ居るかい?』

「……。」

老人は微動だにせず、青年は怠そうに振り返る。硝子窓の窓掛けが開けられ、間から笑顔の男が手をひらひらと振っていた。老人が反対側の暗がりへと歩み始めると、『飛鼠さん今日は機嫌が宜しくないようだね』等と、あっけらかんとした声が聞こえて来た。取り残された青年――武橋金次は内心でもう一度舌打ちをしたが、仕方なく硝子に近寄る。

「んだよ。」

『【父上】に、一先ず指示通りにできたと、伝えてくれないかい?』

「それだけか。」

『うん、それで充分だ。あまり長く僕の近くにいると、硝子越しでも良くないかも知れないし。』

金次は息を吐いて、去り際に男を睨む。

「俺がお前なんかの伝言役の為だけに居ると思ってんじゃねぇぞ。」

『思っていないさ。寧ろ僕はもっと君と話したい。君は僕に無い物しか、持っていないから、とても興味深いんだよ。』

「るせえ、実験動物の癖に。」

『あはは、その通りだ。金次くんのそういう所、本当に面白いね。』

 盛大に舌打ちをすると、武橋金次もまた、男が来た方向とは反対側に向かって歩いて行く。男は気を害した風も無く、屈託ない笑みを浮かべて手を振っていた。しかし奴は、「アカツキ」の息子――という事になっている――であり、「ただの人懐こい男」では全く無い。かと言って、言葉に裏がある訳でも無い。空洞の中に仮初の人格を載せたような奇妙な男。そしてそれ以上に、あの男は恐ろしい力を持つ。呪われたような力を。故に、「アカツキ」が彼に直接会う事は無い。今迄に出会った人間と、此処に居る人間達は別物だ。飛鼠はあんな事を言っていたが、自分もまた「アカツキ」に選ばれた特別な人間なのだと理解出来ないとは、愚かな老人だ。まあ、腕が立つのは確かだ。用心棒にはなるのだろう。

 武橋金次は蝶番を軋ませながら扉を開けた。薬品棚には本が詰め込まれ、鋳鉄の金庫からは糸で綴った本がはみ出ている。殺風景ながら雑多な部屋の中に、「アカツキ」は居た。

「武橋君か。そろそろ来るだろうと思っていたよ。天竺が帰ったのだね?」

「はい。『一先ず指示通りにできた』だそうです、『アカツキ』さん。」

アカツキと呼ばれるその男は、机に肘をつき、微笑みを浮かべる。

「それは良かった。しかし、蒔いた種が芽を出すには、時間がかかるものだからね。此方は暫く観察しておこう。」

独り言なのか、語りかけているのか分からないが、その微笑みは金次に向けられている。

「さて、君は弓で遊んでみる気はあるかな?」

「はい?」

唐突なアカツキの言葉に、眉を寄せる金次だったが、アカツキは手の甲に頬を載せながら笑う。

「君の狙撃の技術を使ってみたくてね。先ずは弓で練習してみ給え。」

「……しかし、」

言い淀んで、金次は唇を噛む。確かに弓術も相当習ったが、自分の肩は。

 心の奥から湧き上がる怒りが金次の顔を歪ませるのを見て、アカツキは頬から手を離す。

「いや、言葉が足りなかったかな。今迄使っていた腕と逆を使うんだよ。左手で弓を引き、左手で銃を撃つんだ。」

「は?」

呆気に取られた金次に、アカツキは手を顔の前で組み、言った。

「人間、時間さえ掛ければ、やって出来ない事など無いのだよ。君には才能があるし、私は君を否定しない。勿論、私の言を聞かないのも君の自由だが、私は君と共にあれたらとても嬉しいよ。」

「そうですか。なら、やってみます。『遊んで』良いんですよね?」

「勿論。」

にっこりと笑うアカツキに笑みを返すと、金次は部屋を出て行った。

「……『育てる』というのは、本当に楽しい物だね。」

組んだ手の上に顎を乗せた男の唇が、弧を描く。

「思い通りに育てば嬉しい、予想と違う花が咲いても、咲く前に枯れても、それはそれで面白い。しかし、育つ迄の間、只無為に待つ訳にもいかない。『蝙蝠』も慣れて来た頃だろうし、そろそろ、『採集』を始めても良いか。」

天井の洋燈すら灯していない、自然光だけが差し込む部屋の中で、アカツキは独り、呟いた。

 

「帝國の書庫番」

廿一幕「辰砂」




幕間二 主要人物イラスト・小ネタ落書きなど
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