貴族の娘の婚姻は、父親か相手先の親が縁談を進めるか、貴族の息子自身が女学校等を探して目星い娘を娶る。しかし、衣笠家の娘三人は、誰一人として嫁に出ていない。縁談が無かった筈は無いだろう。彼女達に話があっても、取り合って来なかった父の問題だ。理一が貴族の集まる機会で、自分より二回りも歳上の当主達とばかり話すのは、姉達の嫁ぎ先を探す為だ。しかし当主としては新参の理一は、他の当主達と子供の話が出来る程深い付き合いがある訳では無い上に、話したとしても、専ら自分に対して娘や孫を娶らないかという内容ばかり。自分より歳上の姉達の婿を探すとなると、難しいにも程がある。しかし、女に不自由を強いるような相手の元に渡したくない。自分の娘達を、結果的に家に縛り付けている「あの男のような」相手の元には。何故、女の一人や二人や三人を幸せにしてやるだけの事が、こうも難しいのか。そもそも、女の幸せって何なの。あたしが男だから分からないだけなの?それとも、――あたしが幸せを知らないから、分からないの?立場とか、世間体とか、この世は柵(しがらみ)が多すぎるよ。分かんないよ。投げ出したいよ。でも、自分にしか出来ないのだから、やるしかない。例え何もかもが暗中模索であろうとも。
有坂家の「母屋」の応接間。珍しく着物を着崩していない孝晴の前に座っていたのは、勘解由小路留子だった。彼女は椅子の上で頭を下げる。
「わたしの為に機会を設けて頂いて、有難う御座います。」
「此方こそ、態々出向いて下さるとは思わず、満足なもてなしも出来ずに申し訳ありません。」
苦笑する孝晴であったが、女中達が用意した茶と菓子が卓には並んでいる。彼女達は既に下がらせたものの、話の内容によっては場所を変えなければならないと、孝晴は留子の言葉を待つ。此処は有坂家の「母屋」。母の目の届かぬ場所など無い。留子が姿勢を正すと同時に、孝晴も内心で少しだけ身構える。
「先ずは、改めて謝罪させてください。先日の……その……わたしの失態で、お怪我をさせてしまい、本当に済みませんでした!」
「ああ、それはもう、気になさらないで下さい。怪我も単なる打身でしたし、この通り、すっかり治りましたから。」
「でも、父とも相談したんです。やはり、お詫びは必要であると。それで今日は、孝晴さまを、お誘いに参りました。」
孝晴はぱちぱちと目を瞬かせる。有坂家三男の出不精は、貴族ならば皆知っている。勘解由小路伯爵が大臣職にあろうと、孝晴が殆ど親睦会等に顔を出さない事は承知しているだろう。そんな孝晴を何に誘おうというのか。孝晴の疑問を感じているのかいないのか、いや、この娘は心の微妙な変化を感じ取っている。何故なら、表情が変わったからだ。まるで悪戯っ子のような、愉しげな顔に。そのまま彼女は、手を胸の前で合わせ、にっこりと笑った。
「匂坂(さぎざか)に、わたし達の別荘があるんです。孝晴さまのお休みに、別荘でおもてなしをさせて頂けませんか?」
「匂坂ですか。」
匂坂は、旧國境を越えた先、内陸部の山麓にある保養地だ。黒岩連山の湧水を湛える紫水湖の景観は異人からの人気も高く、周囲には各國大使らの別荘が並ぶ。夏には船遊びや水浴を楽しめるが、匂坂が最も美しいのは春だ。湖に至るまでの長い山道に、野生の五弁花が咲き誇る。そして現れる紫水湖の水面には、薄紅を裾に纏った連山が逆さに映る。
しかし、今は冬真っ只中。邸宅の管理者がたまに確認に訪れる程度で、この時期を選んで滞在する話は余り聞かない。怪訝そうな顔をする孝晴に、留子は両手で口を隠して笑う。
「こんな時期にどうして、とお思いでしょう?」
「それは、まあ。」
「わたし、雪が好きなんです。帝都にも雪は降りますが、すぐに片付けられてしまいますでしょう?だから、毎年、冬の匂坂へ行くんです。冬の景勝地の旅亭もよいですけれど、慣れ親しんだ別荘で過ごす冬も格別で。有坂さまは、雪遊びをしたことは?」
「あまり、ありませんね。幼い頃に、庭で団子を作ったくらいで。」
「まあ!なら是非、わたしと雪合戦を……ではなくて、ええと、失礼しました……一緒に、別荘で雪見を楽しみませんか?」
孝晴は口許に片手を添え、小さく笑った。
「分かりました。一度、母に尋ねてみます。」
余りにも呆気なく許可は降りた。母は、孝晴が仕事を放っぽって惰眠を貪っていようと、夜中に消えていようと、一度たりとも何か言って来た事が無い。あの時――麟太郎を拾った時――に分かった通り、ずっと母は自分に興味が無いのだから、当然と言えば当然だ。雪道を行く馬車の中から、孝晴は外を眺める。確かに帝都にも雪は降るが、ここまであらゆる物が真っ白な風景は、生まれて初めて見た。有坂家は、と言うよりも母は、自身が帝都を離れる事を好まない。あれだけ情報を握っているのだから、各地に手駒が居るのだろうが、それが何処の誰であるか等、孝晴は知らない。故に、孝晴にとっては、此れが初めての帝都外へのまともな旅行と言っても良かった。
到着すると直様、勘解由小路家の使用人に囲まれ、袷羽織を身に着け、下駄の歯で雪を踏み締めながら玄関の階段を上がる。改めて雪に囲まれてみると、音の響き方が違う、と孝晴は感じた。理屈は分からないが、何もかもが吸い込まれるような静けさがある。人は居るのに、居ないような、そんな感覚。其処に自分の「世界」を重ね、孝晴はかぶりを振った。周りに合わせる事には、もう慣れた。それでも、自分の感覚はやはり、人のそれとは違う。孝晴が「しばらくの間」茫っと邸を眺めていた事に全く気付いていない使用人達を見て、孝晴はそう思った。
「ようこそおいで下さいました、孝晴さま!」
玄関口で履物の雪を落としていると、ぱたぱたと留子が走り寄って来た。着物に滑らかな毛皮の上着を羽織って楽し気に微笑む彼女に、孝晴も頭を下げる。
「此度はお招き有難う御座います、お嬢様。」
「どうか、畏まらずに……此処ではゆっくり、寛いで頂きたいんです。」
「はは。では、お言葉に甘えて。」
「ええ、あっ、孝晴さまの荷はお部屋に運んでおいて下さいね。まずは私たちの邸をご案内しますから!」
言うが早いか、留子は上履きに替えたばかりの孝晴の手を引いて歩き出す。
「とと。」
少し慌てた素振りをしつつも、孝晴は驚く。貴族の娘が、こうも簡単に男に触れるとは。しかも彼女には、麟太郎という意中の男が居るというのに。そんな孝晴を尻目に、留子は気にする素振りも無く、邸内を歩いて回る。此処は食堂、此方に遊戯室、此の先が御手水場、等々。交わす会話も、なんと他愛の無いものだろうか。他に何の感情も見えない、只々楽し気な留子。
(やっぱし、女の考える事なンて、わかんねェや。)
孝晴は手を引かれるまま、内心で溜息を吐いた。
一通り案内が終わり、同時に孝晴が邸の間取りを頭に入れ終えた頃。老人の呼ぶ声に、留子が立ち止まる。
「お嬢様、御食事の支度が整いましたよ。」
「有難う、じいや。孝晴さま、お腹は空いていらっしゃいますか?」
「ええ、あまり遠出はしないもので。それに、御邸中を歩き回ってしまいましたし。」
「まあ。」
留子は孝晴の軽口に、口に手を当ててくすくすと笑い声を立てた。
食堂に案内されると、整えられた食卓の上に、美しい磁器の皿が並んでいる。その皿の数を見て、ふと、孝晴は首を傾げて留子を見た。
「お嬢様、旦那様はお忙しい中でしょうが、兄君方はいらっしゃらないのですか?」
「ええ。鐵心お兄さまは川田先生の所でお勉強中ですし、務お兄さまは執筆のお仕事、大志お兄さまも、お義姉さまのお腹にお子がおりますから、今回はわたしだけなんです。」
「……。」
流石になんとも言い難い表情を浮かべる孝晴に、留子は笑って続ける。
「それに今回は、わたしの失態をお詫びする為のご招待ですから。お父さまにも、ちゃんと許可を貰っているんですよ?」
思い返せば、初めに迎えに出たのが留子だけであったのに違和感を覚えてはいた。しかし、彼女に引かれてついて行ってしまった事で、その違和感を頭の片隅に追いやってしまっていた。幾ら交流のある家で、使用人も控えているとて、そして孝晴にその気は全く無いとしても、婚姻前の男女が別荘に二人で過ごすなど、有り得ない。本当に勘解由小路伯爵が許可しているのなら、それこそ何か裏があるのでは無かろうか。
「……それは流石に、お転婆が過ぎるのでは?お嬢様。」
「あら、孝晴さまは、そうした世間体はあまり気になさらない方だと思っていました。」
「自分事と他人事は別ですよ。」
苦笑いで答えるも、留子は動じない。
「それでもこの度の招待は、わたしから孝晴さまへのお詫びです。沢山楽しんで頂きたいのは、わたしの心底からの気持ちですから、受け取って下さると嬉しいです。」
周囲に控えた使用人達の落ち着いた態度で、彼らも全て分かっているのだと察しがついた。孝晴は一つ息を吐くと、「分かりました」と卓に着くのだった。
タレを絡めてよく焼かれたビフテキ、裏漉しした芋のスープ。食後には、甘い小麦の生地を膨らませ、クリームをまとわせたケーキ。以前晩餐会に招待された時よりも美味く感じるのは、料理人が腕を上げたのか、それとも環境が違うからか。何事もなく昼餐を済ませた後、孝晴は留子に連れられるままに、只々「休日」を過ごしていた。食後の運動と言われ、広い庭に積もった雪の中で、雪を丸めて積み上げたり、玉にしたものを当て合ったりと、子供じみた遊びに興じる。濡れた着物を替えて、座敷から一面の白に覆われた湖を眺め、茶を飲みながら景色を楽しむ。晩餐までの間には、遊戯室で碁を打つ。一手毎に勝ち筋が見えてしまう孝晴ではあるが、わざと負けるような事も出来ない性分故、長めに考える振りをする。最終的に留子が負けるのだが、彼女は頬を膨らませて悔しがり、もう一度とせがむ。そんな留子に付き合ってやりながら、孝晴はふと思った。
(何ンにも情報を頭に入れねぇ日なんて、ここ何年も無かったかも知れねェなぁ……。)
朝は出立の準備をしていた為、新聞すら読んでいない。仕事も普段のように抜け出すのではなく、休暇届を提出してきた。遊びに興じるだけの、無為な時間。
(こんなにのんびりしちまってて良いもんかねぇ。)
そんな事を思いつつ最後の石を置けば、留子が「また負けましたーー!」と頭を抱えるのだった。
「孝晴さまは、碁が大変お強いのですね。わたしだって弱くはないと、お父さまや孝雅さまにお言葉を頂いた事もありますのに。」
「兄が?」
長椅子の上で、孝晴は少し驚いた表情を浮かべる。晩餐と湯浴みを済ませた二人は、談話室で寛いでいた。留子は大きな瞳で孝晴を見ながら微笑む。
「わたしは父と遊びたくて碁を覚えたので、父が忙しい時は、秘書をされていた孝雅さまが、父の代わりにと相手をして下さいまして。そのご縁で、時々お相手をお願いしているんです。」
「そんな事が。」
「それで、わたしもどのようにしたら勝てるか、お互いにとって楽しい対局が出来るか考えて……それで、観察する事にしたんです。わたしの一手に対して、どのような反応をなさるか。余裕そうであったり、嫌そうであったり。そんな反応から、相手の方がどんな運びを考えていらっしゃるかを推測するんです。」
「其処まで相手の反応が分かるものですか。」
「何となく、ですけれど。」
にっこりと笑う留子に、孝晴は内心舌を巻く。同時に、他人の感情に対する彼女の敏感さは、そのような生活の中でも磨かれたのかも知れないという納得も感じる。でも、と留子は唇を尖らせた。
「孝晴さま、わたしが何をしても、全く動じないんですもの。まるで、最初から終局の盤面が見えているみたいでした。だから色々試して頑張ってみましたけれど、どうにもならないくらい、孝晴さまは強かったです。」
「……。基礎の打ち方と、有名な対局の流れを幾つか覚えれば、殆どの状況には対応出来るものですよ。」
嘘だ。孝晴は、碁や将棋等の遊び方を覚えた後、一度たりとも勉強した事は無い。ただ、思考の速度が違う為に、あらゆる手の先にある道が見えるだけ。本当は、勝つ為に努力している留子の足元にも及ばない。自分は助言など出来る立場に無いと思いつつも笑って見せれば、留子は「成程、基礎がやはり大切なのですね」と微笑んだ。
それから二人は翌日の予定について軽く話すと、それぞれに分かれて部屋を出た。来客用の寝室を案内された孝晴は、翌朝起こしに来ると告げて去って行く使用人を見送り、一つ息を吐いて扉を開ける。
奥の暗闇で、何かの目が廊下の灯りを反射した。
瞬間的に孝晴は身構えたが、相手が動き出す前に暗闇に目を慣れさせその姿を捉えると、呆気に取られる。
「お麟……?」
「……何故、ハル様が此処に?」
麟太郎も無表情ながら、同じ事を感じたようだ。きっちり扉を閉め鍵を掛けてから、孝晴は窓際に近付くと、机上の洋燈に火を入れ、ふう、と息を吐き出す。
「そいつぁ俺の台詞だぜ……此処が勘解由小路家の別荘だって知らねぇ訳じゃねぇだろぃ。」
麟太郎は無表情のまま首を傾げる。
「おかしいですね。私は『明日は必ず休暇を取って、今夜此方に来て欲しい』と留子お嬢様に頼まれまして。先だって最寄りの駅まで日向さんに迎えに来て頂き、別棟で雪を払った後、此方の部屋に留子お嬢様が向かうので、灯りを点けずに待っていて欲しいと、そう聞いていましたが。」
「そういや、昼飯の後から見てねぇなァ、あの爺さん。」
「それで、何故ハル様がこの部屋に……、」
言い掛けた麟太郎が、ぴたりと動きを止め、真っ直ぐに扉を見遣る。
「居ンのか。」
「はい。」
二人は口を噤む。麟太郎が静かに動き始めた。軍服でなくとも、麟太郎は足音を全く立てない。そのまま扉まで近付くと、麟太郎はゆっくりと無音で鍵を開け、素早く扉を引くと、扉に張り付いていたそれを隙間から引き込み、元通りに鍵を閉める。麟太郎の腕に抱えられた留子は、余りにも一瞬の出来事に何が起きたか理解出来ず、目をぱちぱちと瞬いたが、次の瞬間、爆発でもしたように顔を赤くして、目を見開いた。
「り、り、りんたろうさま、」
「お静かに。」
動揺の余り口も回らなくなっている留子に、淡々と麟太郎は告げる。その様子に孝晴は大きく息を吐いて、額に手を当てた。麟太郎に抱かれた留子の表情は、疑いようもなく、彼を愛する女の顔だ。これだけ強く心が変わっていないのならば、そして此れが彼女の狙いであったなら。許可した勘解由小路伯爵も大概だ。孝晴は頭を掻きながら額から手を離す。
「……お嬢様。『少し』、お話をしましょうか。」
麟太郎に支えられながら立たされた留子は、まだ真っ赤な顔をしながらも、ゆっくりと頷いた。
暖炉で薪の爆ぜる音に、紙の擦れる音が加わる。拡げた紙を眺める瞳が細められ、美しい口許が弧を描く。有坂十技子は、自室の柔らかな長椅子の上で、ぽつりと呟いた。
「矢張り、今夜向かったか。」
手紙の内容は、軍内に居る手駒からのもの。十技子は彼らを通じて、勘解由小路留子の求婚話の相手が、刀祢麟太郎であると知っていた。其れから季節が二つ過ぎただろうか。麟太郎は常に孝晴に着いていくが、今回正式に招待を受けたのは孝晴のみである為、麟太郎が随伴するとは考え難い。そして平常、麟太郎は非番以外の休暇を取らない。併せて考えると、勘解由小路留子が孝晴を隠れ蓑に、麟太郎を呼び寄せた可能性が高い。そして、それに麟太郎が応じたならば。
「……孝晴の方は、見切りを付ける頃合いかのう。」
有坂十技子は飽くまでも優雅に立ち上がると、通りすがりに暖炉の中へ手元の紙を放り込んだ。そして机に掛け、書状用の美しい紙を取り出すと、筆を取る。彼女がその文を何処へ送ろうとしているのか、中に何を記しているのか。今は彼女以外、知る者は無い。
「帝國の書庫番」
廿ニ幕「銀雪の下」