帝國の書庫番   作:跳魚誘

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僅な揺れは、重なり合って波を起こす。


帝國の書庫番 廿五幕

 貴族に生まれたならば、何かしらの形で婚姻する。それは至極当然の事であり、寧ろ其処から外れた者は奇異の目で見られる。親同士が縁談を進める事も、珍しくもなんとも無い。しかし、これだけ木偶の坊を貫いて来れば、生涯妻など娶らずに済むのでは無いかと思っていたのも事実だ。勿論、力を出さない理由はそれだけでは無い。しかし、廿三にもなって女っ気も無い出来損ないの三男に、今更結婚話も無いだろうと油断していた。あの母のやり方を思えば、それくらい有り得た筈なのに。この期に及んで、自分の見通しが甘過ぎたのを悔いる事になるとは。孝晴は手元に文字や図柄を書き付けた大量の紙を纏めながら、先程口に放り込んだ飴をがりがりと噛む。暫く自由に動けなくなるかも知れない。いや、この先自分に自由など来るのか。有坂家は、分家を作らない。継子と未婚者以外は基本的に、例え同じ有坂を名乗ろうと、「一族」とは扱われない。一つの罪で、一族郎党諸共に処分される事のあった時代に、「家」が潰れても「血」が残るようにと定められた家令。当時、血を家より重んじる家系は珍しかっただろう。家の記録には残っていないが、有坂に囚われず一から新たな家を興し、成功した者も居る筈だ。しかしこの家令に従う事は、其れまで持っていた立場も地位も、一度全て無くなる事を意味する。それが、孝晴には致命的だった。流石にこの御時世、就いている職を取り上げられる事は無いだろう。だが、立場の後ろ盾が無ければ、今迄のように軽い気持ちで抜け出す訳にいかなくなる。そして、――自分の給金だけでは、「食っていけない」。普段から部屋でごろ寝し、更に朝晩の食事が充分にあって、やっと自由に動ける。しかし、貴族でなくなれば、生きているだけで飢えて、いずれ死ぬ。

(もう、潮時なンだろなァ。俺ぁ生き過ぎた。この首、かっ切りゃ済む事だ。けど……、)

孝晴は、喉元に当てた手を強く握る。指先に脈打つ血管が触れている。唾を飲み込むと、喉仏が掌の中でぐりりと動く。

(どうしてだ……俺ぁ、消えるべきだって、ずっと思って来たじゃあねぇか。師匠みたいに、すっぱり断ち切って、逝くべきだろうが……。)

 あの男は、自身の全てを孝晴に与える事にしたと書き残した。けれど、孝晴は彼の足元にも及ばない。彼はずっと静かで、今際の際に笑みを見せた時すら、その心は凪いで穏やかだった。自身はどうだ。心は濁り、波打ち、執着に揉まれている。けれど、自分が有坂家に残る方法は、取るわけにいかない。――継子に男児がない時は、その兄弟が子を成す。つまり、孝晴が嫁に男児を産ませれば、有坂家に残る事が出来る。だが、それこそ孝晴が最も恐れている事だった。自力で母に認められる程の麟太郎や、文武共に同世代からは抜きん出ているであろう理一。彼らは、自分の身を守る力を持っている。だが、自分は、……情け無い事この上ないが、留子への嫉妬で麟太郎にさえ手を上げそうになった。其れが無くとも、自分は理由さえあれば、人の命を奪える。何も知らず、力も無い女を孝晴の側に置くというのは、猫の皮を被った虎と共に生活させるようなものだ。そして万一、上手く自分を制御し切ったとしても。

 

『――逃げろ。こいつは、化け物、だ――』

 

化け物の子は、化け物。子の見た目や才は、親に似通うものだ。もし、自分が子を成してしまったならば。

(俺みてェな思いして生きる事になンなら、生まれねェ方がましだ。)

孝晴は額に手を当て、目を閉じる。運良く自分と同じような力を持たなかったとしても、有坂の次の後継者になれば、確実に運命を縛られる。どうしたらいい。がり、がりと飴を纏めて噛み砕く。考えれば考える程、思考の糸が絡まり無駄に体力が減って行く。紙束を入れた封筒を閉じて、孝晴は息を大きく吐いた。これ以上周りを巻き込む前に、静かに消えるのがやはり良いのだろう、と思った時、同時に一つの考えが浮かび、孝晴の動きが止まる。……どうせ、自分は出来損ないの人間くずれなのだ。自分だけが恥をかくならば、それで済む方法が、無い訳ではない……。

(其処までして、生きるべきかは分からねェ……けど、帝都のきな臭さは、強くなってやがる。まだ果たしてない約束事もある。あと少しばかり、時間貰っても、悪かねェだろ……そしたらあんたの処(とこ)に、刀返しに行くからよ、師匠。)

暗い水面の向こうに立つ、気高かった男の影を瞼の裏に見ながら、孝晴は独り自嘲した。

 

 

 三人部屋の中に飛び込んで来た黒い影が、そのまま部屋を横切り窓へ向かう。しかしその足元に差し込まれたサーベル刀の鞘が、麟太郎の足を止めさせた。刀を握って片胡座で座っているのは、同室の柄本(つかもと)だ。

「何か。」

無感情な目を向ける麟太郎を、柄本は三白眼でじっと睨む。

「俺の領分を踏んだ。」

「……。」

言われて首を後ろに傾げれば、もしかしたら、僅かに足が入り込んだ、かも、知れない。同室の者の割当区画内に入ってはならないという規則は無いが、自身を探られる事を嫌い立入りを禁じる者も居る。柄本もそのような質(たち)故、普段から気を付けていたのだが。

「申し訳ありません、お詫びなら後でします。今は行かねばなりませんので。」

「何処へだ?刀祢。」

窓際からの声は、もう一人の将校・白鞘(しろさや)のもの。丸眼鏡に白髪混じりの容姿だが、歳はまだ二人と同じく廿代だ。彼の問いに、麟太郎は口を噤む。それを見た白鞘は、横目で柄本を睨んだ。

「目的があれば難癖を付けて良い訳ではないぞ、柄本。刀祢は貴様の区画に踏み入ってはいない。」

「るっせジジイ。」

悪態を吐きながら刀を立てる柄本に、麟太郎が顔を向ける。

「どういう事ですか。」

「テメェの様子が妙なのに俺達が気付いてねぇと思うのか?」

当然のように返された言葉に、無表情のまま絶句する麟太郎。白鞘も眼鏡を入れる小箱を手で弄びながら、窓の外に目線を向けつつ言う。

「貴様はよく分からん行動を取るが、貴様が急いている事くらい分かる。行先もな。貴様の主人の元へ、だろう?『有坂の犬』。」

「分かっているなら、何故止めるのです?」

微動だにしないまま口だけを動かす麟太郎だが、その小柄な細身は今にも弾かれたように飛び出しそうに見えた。柄本が一つ舌打ちをする。

「テメェが夜中窓から飛んでくのを、何で俺達が見逃してたと思う。」

「もう見逃してはくれないと?」

「違ぇよ。」

柄本が片胡座の膝に掌を乗せる。白鞘が眼鏡の位置を直して言った。

「俺も柄本も、貴様を認めている。」

「……。」

麟太郎は首を傾げるまではしなかったが、数度瞬く。

「宿舎暮らしの将校が無届の夜間外出を禁じられている理由は、貴様とて分かるだろう。俺達は何時でも告発出来た。だが、貴様は有坂の縁者だからな。態々言わずとも、そのうち潰れるのを待つ事にしたのだ。しかし、いつまで経っても貴様は音を上げん。職分が疎かになっている様にも見えん。認めざるを得んだろう?貴様の根性は本物だと。だからこそ、消灯後の行動には目を瞑っていた。柄本もだ。」

後ろで口腔の奥から息を吐く柄本。麟太郎が目を向けると、その先を彼が引き取る。

「けど、今時分に出てこうとするなら話は別だ。見ぬ振りは出来ねぇ。知らぬ存ぜぬでも通せねぇ。」

言いながら立ち上がる柄本を麟太郎は見上げる。柄本は鞘に入ったサーベル刀を振り上げ、

「だから俺らも巻き込めって言ってんだ。テメェの情緒はガキ以下なんだからよ。」

ごん、と軽い衝撃と共に、鞘の先端が麟太郎の頭に触れた。黙り込んで固まる麟太郎。

「…………白鞘君も、そのつもりで?」

やっと口から出た言葉を聞いた白鞘が、小さく頷く。

「他隊の者同士を同室にされた所で、互いに探り合うのが常なのだがな。良い意味で貴様に毒気を抜かれたのだろう。俺も、柄本もな。然うしてやろうとしている事が規則破りの隠蔽なのだから詮無い事だ。」

「つー訳で、消灯前に出るならテメェの頭ん中にある計画を吐いてけ。絶対バレねぇと俺らが思えたら行かせてやる。」

麟太郎は二人の顔に交互に目を遣る。まさか、その様に思われているとは毛程も考えた事は無かった。二人とも警兵らしく、感情を表に出さない。柄本は口が悪く語調も荒いが、その実、感情的に怒りを顕にした所は――少なくとも同室になって以降――麟太郎は一度も見た事が無い。そんな彼らが、麟太郎に協力する等と言い出すとは。此れも「欠け」故に、自分には気付けなかったのだろうか。

「有難う、御座います。」

一先ず頭を下げると、柄本が「少しは落ち着いたかよ」と顔を顰める。言われてみれば確かに、先程までの自分は孝晴の元へ向かう事しか頭に無かった。

「私は焦っていたんですね。」

「貴様が其処まで取り乱すのならば、主人の事しか無いだろう。何があった?」

「それは言えません。」

間髪入れず応えた麟太郎に、白鞘が小さく喉を鳴らす。

「引っ掛かっていたら、本格的に警兵に向いていないと諭す所だ。」

「ジジイめいた事してねーでさっさと話進めろや。」

柄本の一言で白鞘が口を閉じる。二人に目を向けられ麟太郎も黙った。兵よりは自由な外出が認められているとは言え、宿舎に入る以上は将校も規則に従う必要がある。身内の訃報等例外はあるが、基本的に平日夜間の外出は事前の届出が必要だ。それに届出があったとしても、頻繁な夜間外出は評価を下げる。だから無断で抜け出すというのも褒められた事では無いと理解はしている。ならば通いにすれば良いのだが、刀祢の家に毎日警兵が出入りすれば、必要以上に目立つ。――養父は既に、有坂家との縁者を警兵に持つ身として、以前よりも好奇と畏怖の目で見られているのだ、彼をこれ以上目立たせる訳にいかない。麟太郎の業と体力があれば、隠し通す事は出来る。出来ていた。と、思っていた。

「……今は、出来るだけ早く有坂様の元へ向かいたいと思っています。軍関連施設であれば、消灯までは出歩いていても規則違反にはなりません。軍病院に知人が勤めていますので、『くろすけ』に文を付けます。なので、何かあれば病院に行ったと口裏を合わせて下さいますか。」

麟太郎の言葉に、白鞘が眼鏡の山を軽く押さえて応える。

「其方の協力者は信用出来るのか。」

「はい。」

短い肯定に、二人が目を合わせる。柄本が瞼を一度閉じた。

「悪くは無ぇ、か。」

「先方の事まで信じて下さるんですね。」

「貴様は嘘を吐かんだろう。」

すげなく返された麟太郎が再び黙った隙に、柄本が目を開ける。

「ただ、行くのは鴉が戻ってからだ。相手が確実に居て、テメェに協力するって返事が無けりゃ、俺らも乗る訳にはいかねぇだろ。それまでは待て。」

「分かりました。……?」

麟太郎は答えるが、直後に首を傾げた。

「『くろすけ』は、戻って居ないのですか。」

「ハァ?見ての通りだろうがよ。」

呆れたような声音で柄本が眉を寄せるが、麟太郎は部屋をぐるりと見渡し、目を細める。

「私が文を付けていないのに、此処に来ていない……?」

「小屋に居るんじゃねーのか。」

麟太郎は首を振る。

「ここ最近はずっと、文を頼まない限り、真っ直ぐ此方に戻っていました。」

今度は柄本が黙り込む。窓際の白鞘は確認するように硝子の外へ目を向けた。目を凝らすと、暗闇の奥に弧を描くようにして動く影が見える。

「いや、どうやら其処に、」

そう白鞘が言い掛けた、その時。

 

と、

 

軽い音を立て、窓の下額縁に、何かが突き刺さった。尻に羽根の付いた棒――矢だ、音が小さかったのは窓の外だからだ、瞬時に頭が警戒態勢に入る。何処から、何故、視界に一直線に飛んで来る黒い鳥が飛び込む。まさか狙いは。射手は窓に対して並行方向から射ている、ならば、窓を開けるより此方が早い――

白鞘が手にしていた眼鏡入れを窓硝子に叩き付けた。派手な音と共に硝子が砕け、背後の二人が此方に向いた気配を感じる。その音で鴉が怯んだが、鴉は白鞘の予想外の行動を取った。その場に留まり、文句でも言うように、があ、と鳴いたのだ。

「莫迦者!『其処』で止まるな!」

叫んだ瞬間、鴉の翼を一筋の影が貫く。その時には既に走り出していた麟太郎が、頭から割れた硝子に飛び込み、突き破って飛び出して行った。数秒の間室内がしんとしたが、白鞘が静かに静寂を破る。

「……、柄本、俺は施設への攻撃があったと報告する。刀祢を頼む。」

「応。」

短く言うと柄本は窓に近付き、刀の鞘で割れた窓を開け、突き立った矢を確認する。其処から窓枠に足を掛けた柄本は、ふと白鞘の顔に目を遣り、眉を寄せた。

「顔色が悪ぃな。」

白鞘は目を逸らし、「問題は無い」と呟く。舌打ちを一つして窓の外へ飛んだ柄本が、鞘を壁に擦って落下の勢いを殺す音が聞こえる。無事に着地したらしい柄本が麟太郎を呼ぶ声と、下階が騒めく音を背に、白鞘は部屋の出口へ向かいながら強く拳を握った。

(射手が操ったのは、――俺だ。)

 

 

「ほう、見事だね。流石、天才と言われるだけある。」

 背後に立つ男の声に、流石の武橋金次も弓を持つ手を下げると細く息を吐く。金次は、軍施設を攻撃する事が何を意味するか知らないような馬鹿ではない。

「あの窓に居た野郎は矢が当る瞬間を見てんです。射角と風向きから此処が割れるのも早い。さっさと退散しましょうや。」

「まあ、落ち着きなさい。それは此処に置いていかなければならないだろう?」

男はそう言って足元を見た。暗闇の中に転がるその男は、信じられないと言った目付きで、床から二人を見上げている。汚物でも見るような目で男を見る青年と、微笑みを浮かべる男性の二人組。青年――金次は舌打ちすると、男へ弓と残りの矢を纏めて突き出す。男は「おやおや」と気にする風でも無く言うと、倒れる男の手を取り、痺れる指を丁寧に解すと弓柄を確りと握らせた。

「さて、小田切君。きっと君の亡骸は直ぐに発見され、紙面を飾るだろう。君は政府の犬に文字通り『一矢報いて』死んだ烈士となれる。喜び給えよ。」

男は穏やかに語っているが、その口調から、感情のようなものは一切感じない。体が麻痺している小田切は、ひうひうと細い息を漏らす。

「貴様……らは……一体……何……、」

「教えてやる義理が俺達にあると思うのかぁ?手前の任務すら失敗して、黒服共に情報まで絞られた滓に、最期に役割を与えてやっただけ有難い話だろ。さっさと死ね、無能。」

「おやおや、手厳しいね、武橋君。」

ふん、と息を吐く金次に笑いかけると、男は小田切の鼻を掴んで、喉奥に何か丸薬のようなものを落とした。そうして男は立ち上がると、もう背後には目もくれず、既に階段の方へと向かっている金次の後を追った。

 

 

 鋭い硝子片の飛び出た窓を突き破った為、麟太郎の軍服には所々裂目が出来ている。服だけでなく、その下の皮膚まで傷付けた箇所も無い訳ではないが、軍帽を深く被っていた頭には傷は無い。流石に頭皮を切れば出血が多く面倒だと麟太郎は知っていた。硝子の欠片と共に地面に落ち、間髪入れず地を蹴る。既に落下して地に蹲る黒い影が、動いていないとしても。

「『くろすけ』!」

麟太郎の声に、影がぴくりと震えた。生きている。麟太郎は一度止まって身震いし、体に付いた破片を振り落とすと、ゆっくりと鴉に近付く。矢が左の羽を貫通して血に濡れている。しかし、頭や胴体には傷は見えない。麟太郎がそっと身体を抱き上げてやると、「くろすけ」は首を動かして麟太郎を見た。今の所、毒などを使われた様子も見て取れない。安心は出来ないが、致命傷ではないようだ。

「オイ、生きてたか?」

背後から聞こえた柄本の声に、麟太郎はゆっくりと頷く。

「……柄本君、私は獣医の元へ向かいます。後を任せても?」

「テメェのご主人サマはどうする。」

ぴたりと麟太郎の動きが止まった。数秒間黙り込んだ麟太郎だったが、やがて、ぽつりと言う。

「…………『くろすけ』を放っては置けません。彼は、出会ってからずっと私に尽くしてくれています。有坂様には、後日お話に行きます。」

「わーった。報告は俺と白鞘がする。早く行け。」

 一度深く頭を下げて駆けてゆく麟太郎を少しばかり眺めていた柄本は、その鋭い目を宿舎の外、柵の奥、街の灯りにうっすらと浮かぶ高い影の方角へ向ける。矢の刺さり方からして其方の方角の、二階建て以上の建物の何処かに、射手がいる筈だ。窓枠に一射、そして空中に一瞬止まった鴉に向かって一射。それを両方的てているのだから、相当な腕の弓遣いであるのは間違い無い。だが、何の為に?確かにあの鴉は伝令として重宝されているが、何故、今なのか。それに、白鞘の動揺っ振りも気になる。大抵の物事は先回りして予測している白鞘が、あれ程露骨に……。其処まで考えた時、俄かに鳴り響く鐘の音と、駆けて来る上官達の姿を認め、柄本は革帯に挟んでいた軍帽を取ると目深に被った。

 

 

 案の定というべきか、警報が鳴り響いているのが遠く聞こえる。金次は細めた目を隣の男に向けた。こいつも無茶を言うものだ。利腕とは逆の手で弓矢を扱うようになったばかりの金次に、高さはあるとは言え、丗間も離れた的を射ろと言うのだから。二人がやって来たのは、一軒の旅亭。掛けられた行燈が照らす戸を引けば、直ぐに女将が現れた。

「あら、禮さんが先にお戻りですか。先生はまだいらしていませんが、御夕食は如何なさいます?」

「ふむ……そうだね、先に頂く事にしようか。部屋へ運んで貰えるかな?」

 男の言葉に了承すると、女将は去って行く。勝手知ったる馴染みの旅亭に彼らが居る事は、全くもって不自然ではない。黙って男の後に着いて部屋に入った金次は、敢えて男より先に、座布団に腰を下ろす。「外」では、敬語を使わないように、そして「彼の方が立場が上に見えるような振る舞いをしない」ようにと言われている為だ。先の小田切は勿論例外である。どうせもう死んでいるのだから。しかし、と金次は思い返す。

 

『ほら、武橋君、見えるかい?』

『あの窓に向かって飛んで来る鴉を、射ち落として欲しいんだよ。』

『ああ、鴉の方は今、鷹に追わせているからね。あと四半刻もしたら、一直線に窓に向かって飛んで来るよ。』

『おや、その前に……人影があるね。うん、先に彼の警戒を煽ろう。』

『あの階に入っているのは、皆将校だからね。頭も回る。窓の灯りを頼って射ていると気付けば、窓を開けるより、暗がりへ追い返す筈だよ。窓が開けば、屋内まで射程に入るからね。』

『ふふ、確かに普通の警兵なら、たかが鴉を助けてやろうとはしないだろうね。ただ、刀祢君の近くに居る者は、彼に感化されて行くようだから、きっと動く筈だよ。そしてあの鴉は賢過ぎるが故に、一瞬だけ隙を見せるよ。なに、獣の領分にそぐわ無い程の頭を持ってしまうとね。その賢さが仇となるものさ。』

 

「……。」

目の前に座し、自分で淹れた茶を啜っている男は、あの場で起こる事を全て予測した。金次は目を細め、「おい」と一言声を出す。男はいつもの笑顔を金次に向けた。

「当たらなかったら、どうしてた?」

金次の言葉に、男は茶碗を置くと、ふうん、と息を吐く。

「今と、特に変わらないよ。」

 和やかに細められた目は、何処を見ているか分からない。「『父さん』はまだ軍病院かな」等と空々しく呟いている男を頬杖で眺めながら、金次は考える。自分が外したとしても、そして万一怖気付いたとしても、彼は小田切をあの場で殺した。それが、巡り巡って彼の目的を達成させる。しかしその成果も、最終目標までの通過点でしかない。途方も無く回りくどいそのやり口は、何里も何夜も走り続けて獲物の息切れを待つ狼のようだと、何故かは分からないが金次は思った。

 

 

 薬品と鉄の臭いが部屋に充満している。その中で動き回る人影は、皆全身を覆う白い服を着ていた。真夜中と思えない程部屋が明るいのは、彼らが扱うものが、非常に危険であるからだ。手術台には一人の男が拘束されて呻いている。その生白い体には既に何箇所も被覆用の綿紗が貼り付けられており、横に置かれた台の上には、赤黒い液体が入った試験管が並ぶ。男の下腹部に新たに針が突き刺さり、液体が吸い上げられると、男の見開かれた目から涙が散る。鉄製の口枷で押さえられている為、声を上げて苦痛を発散させる事も出来ないのだ。

「阿片は使わないんですか?」

慎重に液体を試験管に移した後、一人の白服が訊ねる。もう一人が淡々と答えた。

「もう効かん。それにこれ以上使って、中毒にさせる訳にいかん。大切な研究材料だからな。」

その後も全身のあらゆる臓器に針を突き立てられ体液を採取され続けた男は、失神と覚醒を繰り返し、気付くとその場には全身を包帯で留められ横たわる男と、背広を着た壮年の男だけが残されていた。男の拘束は既になく、口枷も外れているが、動く事はせず、ただ目線だけを動かすと、自分以外のもう一人に目を留める。

「動けるかな、『天竺』?」

背広の男が言った。部屋の中、距離は離れているが、他に音が無い為に声が響く。男――天竺は弱々しく頷くと、顔を歪めながら身を起こす。背広は手助けしようとはしない。天竺の身体に、正確にはその血や体液に触れる事がどれ程危険か、識っているからだ。天竺は青い顔をしながらも、薄らと笑みを浮かべる。自身の身体に抱え込んだ「病達」は、研究を経て、やがて「父」の力となる。この痛みが、自身の生きる証。無数の子供の中から選ばれ、「天竺鼠」としての生を与えられた自分。

時間をかけて身支度を整えた天竺が濃紅の襟巻で口元を覆った事を確認すると、背広の男は微笑んだ。

「然て、帰ろうか。我らが『父』の元へ。」

 

 

 その日の新聞は、警兵宿舎襲撃の話題で持ちきりだった。有坂家三男御成婚か、という話題も無いではなかったが、のらりくらりと躱されたのだろう、具体的な事は何一つ紙面には載っていない。その為、衝撃的な事件の方を大きく取り上げたのだろう。貴族の婚姻話は続報で如何とでもなる。四辻鞠哉は息を吐くと新聞を横に置き、洋燈の灯りの下、分厚い封筒を手に取る。表には「四辻鞠哉殿」、裏には「從壱位勲壱等公爵 有坂督孝参男 有坂孝晴」と記されている。明らかに公的ではないと分かる、鞠哉の名だけを記した宛名。孝晴が己の役職を記さなかったのは、より悪戯と疑われない肩書を選んでの事だろう。一書記官の身分より、公爵家三男の身分の方が圧倒的に高い。しかし解せないのは、この包みが門番の詰所にいつの間にか置かれていたものだという事。あの日以来、門番の警戒体制は上がり、不審な人物や郵便物に目を光らせて来た。だと言うのに、誰も知らぬ間に、敷地内に何者かに入り込まれたという事実。門番が焼き棄ててしまうか迷ったのも分かる。しかし、最終的に有坂家の名に負けて鞠哉の元へ届けて来たのだ。門番達がただ困惑していた事から、内部犯という線も薄いだろう。暫く分厚い包みを眺めた末、鞠哉はその上部にペーパーナイフを差し込んだ。榮羽音への悪意を防げなかった自身への憤りは消えてはいない。だが、自身が誹りを受ける事ならば冷静に受け止められる。この包みの中身が何であっても、驚く事は無い。差出人が真に有坂孝晴ではない可能性を頭に置き、慎重に封を切った鞠哉は、中身を取り出して確認を始める。しかし、鞠哉の決意はいとも簡単に崩れ去る。

『何だ、これは』

思わず母國の言葉で呟き、頭を押さえる。中身は間違いなく、有坂孝晴からのものだ。始めの一枚目には、筆字で無ければ版で刷ったかと思うような整った字で、こう書かれていた。

 

 常の情報提供を感謝する。只、此方では君の期待に沿える成果が出せず申し訳なく思っている。代わりにはならないだろうが、「赤い印」に関する資料を纏めた。参考にして欲しい。

 

 鞠哉が武橋金次の首に一瞬認めた「赤い印」について、知っているのは孝晴だけである。しかし、鞠哉が頭を抱えたのは、その前書きが理由では無い。資料の内容が、余りにも精緻で、膨大であったからだ。あれは冬の初め、初雪が降った日の事だ。其れからまだ二月も経っていない。なのに、頁毎にびっしりと記された版のような文字、詳細な絵図、その図の来歴や使用された例等が、洋の内外問わず延々と書き記されている。これだけで、図版研究の一端を担えそうな文量だ。幾ら有坂孝晴が書庫番として筆記に慣れているとしても、全て手書きでこれを記すには、其れだけに掛かり切りだったとしても、到底二月で収まる仕事量ではない。そして何より恐ろしいのは、人を使って仕上げた訳ではないと、筆跡で分かってしまう事だった。

(これ程の調査を、この短期間に、一人で……?)

鞠哉は混乱した。食えない男だとは思っていたが、これ程の調査能力を持つなら――それが如何にして為されたかは皆目見当も付かないが――それこそ軍や先端の研究機関から引く手数多だろう。木偶の坊と言われるには有能過ぎる。そう考えつつ、鞠哉の指先が紙を捲ってゆく。赤という色彩の意味、旭暉史上の扱い、古代の紋様……吉兆、凶兆、日、月、炎、血、生命、誕生、死。あらゆる文字列が青い瞳の中を流れて行く。しかし、やがて彼は手を止めた。

(有坂家……いや、有坂孝晴が、俺に協力を持ち掛けた真の理由は何だ?奴は一体、腹に何を抱えている?)

銀色の髪をぐしゃりと掻き上げ、鞠哉は目を閉じた。資料は当然利用するとして、有坂孝晴があの薄い笑みの裏に何を隠しているのか、それは探って行かねばならない。彼が真に、太田家の害にならないと証明する為に。開かれた鞠哉の色硝子のような瞳には、洋燈の紅い光が映って揺れていた。

 

「帝國の書庫番」

廿五幕「昏天来りて乱擾す」

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