帝國の書庫番   作:跳魚誘

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一度転がして仕舞えば、二度と同じ景色は見えない。


帝國の書庫番 廿六幕

 

 走る、走る、走る。

 視線等、気にしている余裕は無い。

 何を間違えた。何がいけなかった。

 どうして――こうなった?

 

 

 鋭い音に続き、小気味よい衝突音が響く。軽く息を吐いて手を下げた道着姿の男の手には、よく手入れされた弓が握られている。的心している事は既に分かっているが、男は的を確認する前に背後にちらと目を向けた。

「其許(そこもと)も、良く諦めも懲りもしないものだ。」

「貴方の矢を学び得たいという心に、変わりはありませんからね。」

寂れた町の弓道場に、たった一人の道場主。そんな空間に似つかわしくない、鳶色の軍服が男の背後に正座している。切長の目を細めて、鳶服は言った。

「かの今河流弓術の後継者の看板を掲げて、此処が寂れている理由の方が、私には理解出来ませんよ。」

「実戦弓術は今の世には合わん。其以上の理由など御座らん。極めた処で、最新兵器の前には無力故。」

高く結った男の髪が、背ける顔の動きに合わせて揺れる。鳶服の青年はくつくつと笑った。

「本当にそうお思いですか、今河先生。」

「其許を弟子に取った覚えは無いが。」

「教え子は、師を見て技を盗むものです。」

 立ち上がった青年は、射場に向かって一礼すると、男の隣に立つ。右手を構えると、左手で弦を引き、指を離す。青年の放った矢は、的に突き立ったままの男の矢を砕いた。目線だけを向けた男の顔を見て、青年は穏やかに微笑んだ。男は目線を僅かに下げる。青年は素手だ。通常矢を射る時に「かけ」を着けない事は無い。そもそも青年は、利き手は右であるのに態々左で引く。指先は擦り切れて皮が固くなっているようだ。初めて彼が姿を現してから一月と少し。男はその青年の柔らかな笑みの後ろにある、軽蔑と強い利己心を見抜いていた。故に、入門を拒んだ。だのに、再び彼は現れた。そして包帯の巻かれた痛々しい指先で、見事に的を射抜いて見せたのだ。そして今。

「……その努力の才を、利他の心で用いれば、一廉の者になれように。」

目を上げて低く吐いた男に、青年は表情を変えずに言った。

「向上心は悪であると?」

「武は、自らの快楽(けらく)の為に用いるものでは無い。」

「それは、真でしょうか。」

青年は笑みを深める。一見すれば、人好きのしそうな笑み。

「古来、狩りは生活の一部でした。獲物を仕留めれば、糧が得られる。其処に悦びは無かったと思いますか。武を以って國を征した王に、歓喜の情は湧かなかったと思いますか。大将首を上げた武者は、何を考えながら、首を大切に持ち帰ったのでしょうか。理屈を後から付けても、力を振るうのは自らの為、ただ根源的な快楽を満たす為ですよ。他者の為に振るう武など存在しません。」

「詭弁だな。」

「そうかも知れませんね。思い込めば、其れが当人にとっての事実となりますし。」

男は眉を寄せる。

「……目的を達したのであれば、某に愛想を使う必要も無かろう。此方もこれ以上構ってやる義理は御座らん。其許が道着を着ない理由も、某は訊かぬ。ただ、才は正しく扱え。此は某からの、忠告だ。」

 微笑んでいた青年の口角が僅かに下がったのを、男は見逃さなかった。直ぐに表情を戻し「そうですか、それでは」と言い残して青年が立ち去った後、男は暫しの間身じろぎもせずにその場に立ち、じっと周囲の音を聞いていた。周囲には誰もいない。窓から差込む光が、時の流れを伝えてくれる。

「……時間か。」

男は呟くと、弓と矢を取り、一番端の的の前までゆっくりと歩く。一呼吸置いて、男は真っ直ぐに端から端まで弓場を無音で駆け抜ける。男が足を止めた時、一つを除いて全ての的の星に矢が突き立っていたが、残りの一つは先程青年が中てた矢を、筈(はず)から真っ二つに割いていた。

 

 

 衣笠理一は、白衣のポケットに両手を突っ込みながら、中庭の雪を軍靴で踏み締める。鍛錬場帰りだと言うのに、その表情は、普段彼に接している者が見れば驚く程に覇気がない。明らかに心此処に在らずといった様子に、通りすがりの者も思わず振り返る有様だ。理一はふと立ち止まり鈍色の空を見上げる。ちらちらと舞う雪にふうと息を吹けば、白は透明に変わって消えて行く。余りに頼り無いそれは、今の理一の心に似ていた。

 お月の具合は、目に見えて良くなっている。こうも早く透子に診せた結果が現れるとは思わなかったが、お月にとって良い方向に向かっているのならば良かった、と、素直に思えていたならば。深く吐いた白い息が、再び雪を溶かしながら散って行く。理一は当主となってから、三人の姉を疎かにしたつもりはない。寧ろ、大切に尽くして来た。その結果分かったのは、自分は、おきりには嫌われ、お初には要らぬ心労を掛け、そしてお月には「よい医者」ですらないという事。お月が理一に対して不調を隠しているだろう事は分かっていた。だが、透子が診てから、お月の声に少しずつ張りが出て、よく笑うようになってきていた。嫉妬ではない。これは無力感だ。そも、母の復讐も糸口にすら辿り着けていないのだ。自身で選んだ道と言え、医者としても、復讐者としても半端者である事を突き付けられた。そして、もう一つ。

 

『錦木は、もう衣笠の旦那とは寝ないって事でさぁ。これは錦木からどうしても伝えろと言われたから言うんですがね、別の客を好いたそうで。で、もう一つ。これも錦木が言えってんで……あっしが言いたい訳じゃねぇですからね……【お前も、そろそろ身を固めろ】ってね。てな訳で、申し訳ねぇが、お引き取り下せぇ。』

 

年の末に忙しくなる前にと、訪れた時。茶屋者からそう伝えられた。……錦木も女なのだ。それに、南天に芸を仕込まれた賜物だと笑っていたが、彼女は店の中でも最上級の遊女。心底惚れ込む客も当然居る。その中で、添い遂げたい相手が出来たのなら、祝福しなければならない事は分かっているのだ。彼女の決意に口を挟む事は出来ない。理一がどれだけ彼女達を大切に思えども、立場はただの客に過ぎないのだから。けれども。

(ねぇねは、何であたしに教えてくれなかったんだろう。あたしたちは、家族じゃなかったのかな。会って話してくれたら、あたしは笑ってお祝いしたのに。だって、大好きなねぇねが選んだ幸せなんだもの。でも、あたし、もう会えないの?身請けされるにしても、ねぇねが誰に貰われるかも、あたしはわかんない……その時が来てからじゃ、遅いじゃない。)

さく、さく。氷が霜柱か分からないような雪を、靴底が砕く。その速度は徐々に落ちてゆく。

 さく。音が止まった。

(それに、俺は……女人を愛せるのか?ねぇねはどうして、あたしに身を固めろって言ったの?衣笠家【うち】の事は、ねぇねには関係無いんだから、後継者を心配してる訳じゃない。だったらどうして……どうして、家族のままで居させてくれないんだ。お前に嫉妬なんてしない。家族として祝福させてくれれば、それで……。)

 風を切る音が聞こえた瞬間、理一の体は勝手に反応し、身を屈めて頭上で竹刀を受け止めると、その勢いのままに背後の男を前方に投げ飛ばした。

「気配が漏れ過ぎなんだよ。」

地面に転がったのは、鍛錬場に理一が現れる度に、何かと突っ掛かってくる男だ。どうも、同期入隊の医官が純粋に軍務に就いている彼より強いのが気に食わないらしい。興味も無いので、名前すら覚えていないが。流石に男も弱い訳ではなく、素早く体制を立て直すが、既に理一は取り上げた竹刀の先端を男の鼻先に突き付けていた。

「……それだけ呆けた顔をして置いて、何故気付けた。」

男は口惜しさを声に滲ませる。負けて口惜しいと思えるのは良い事だ。それを発条(ばね)にして成長出来る。

「好機と思って急いた時点で、それは油断だぜ。それに、意識せずとも体が動くようになるまで鍛えりゃ、この程度気付くまでもないさ。」

「それも、貴様が数多の武道を修めたからか?」

理一は肩を竦める。

「それもあるが、慣れてるからな。この形(なり)なんでな、若い頃は夜道を歩いてりゃ襲われ放題だ。」

一瞬男は呆気に取られたが、安堵と嘲りの混ざったような表情で言った。

「な、なんだ貴様、怪我の功名というだけではないか。」

「誰が負けたなんて言ったよ。全員叩きのめして邏隊に突き出してやったさ。」

「ぜっ……、き……出任せばかり吐くな!その顔で傷物でないなど信じられるか!」

「あぁ?手前ぇ俺を、」

淡々と返していた理一が僅かに苛立ちを語調に込めた時、唐突に目を見開いて硬直する。相手の男は思わず背後を振り返ってみるが、特に異常がある訳でもない。向き直ってみれば、理一は血の気の失せた真っ白な顔をしている。流石に異様だと思った男が「どうした?」と声を掛けるが、理一は踵を返して走り去って行く。敷地内は広い。しかし、周りの音を全て振り切って軍病院に辿り着き、執務室の扉を勢いよく閉め、鍵を掛ける。中には誰も居なかった。息を上げたままふらふらと数歩、そして理一は膝をつく。

 

『俺を、売女だとでも思ってんのか』

 

口から出掛けたその言葉は、理一を酷く動揺させた。その直前まで、身を削って売る家族の幸せを思っていたのに、何故そんな言葉が浮かんだのか?男なら平気でその言葉を吐けただろう。女なら、大切な身内を揶揄するような言葉は使わない筈だ。ならば、自分は?自分は一体。

 わからない、わからない、わからない。

 男の事も、女の事もわからない。

 男なら斯くあれ。女なら斯くあれ。ならば、男でも、女でもない自分は、何を選ぶのが正解なのか。

「あたしは……あたしは一体、『何』なんだ。どうして俺を、女として育てたの、かかさま……。」

天を仰いで呟かれた、余りにもか細いその声は、天井に塗られた漆喰に吸われて消えていった。

 

 

 「あ〜、流石に山は冷えるなぁ。」

 白い息を手に吹き掛け、多聞正介は一人呟く。冬の山道を登るその背には、背負子に山積みの炭があった。目指す山頂から立ち昇る煙が目に入ると、正介は歩みを早める。こんな場所に他人は立ち入らない。これも鍛錬と全速力で駆け上がり始めた彼の足元に伸びる山道は、並の人間が簡単に走って行けるほど平坦ではない。木の根を爪先で蹴り、階段代わりの石を踏み越え、雪を飛ばしながら登り切れば、流石に正介の息も弾んでいた。

「ふぅ、はー……ま、こんなもんやろ。」

よいしょ、と軽く声を出しつつ、一度荷を跳ね上げて整えると、正介は藁葺きの小屋へ向かう。

「弦爺ー、炭持って来たでー。」

無遠慮に戸を引きながら声を掛けると、正介は一瞬きょとんと目を丸くした。上り框に腰掛けて、草履を脱ごうとしている男と、正介の目が合う。

「あ、こらどうも。」

「其許も、刃物の受取に?」

頭を掻く正介を見て、壮年の男は僅かに表情を緩める。

「そんなとこです。居候させてもろてる下宿の包丁を頼んでまして。ついでに爺さんが麓まで降りるんは大変やろから、これも。」

「左様か。」

背中に目線を向けて笑う正介に、男は穏やかな表情で答えた。と、奥で物音がしたと思うと、背が曲がった老爺が笑いながら顔を出す。その片目は布で覆われているが、表情は柔かだ。

「お二人さん、何をやっとるんじゃ?周りに誰も居らんのは分かっとるじゃろ。」

「他人の振り。」

「……の、練習?」

男と正介がそれぞれ答えるが、二人が顔を見合わせた瞬間、正介は噴き出した。

「ぷっは!あー、きっついわあ!弦爺(げんじい)、上がるで!」

「ほいほい、ちょうど芋汁を煮たでな。清(せい)ちゃんも、腹は減っとるじゃろ。たんと食ってけよ。」

「忝(かたじけな)い。」

男は一礼して、老人の後に続き奥の間へ向かう。後に来た筈の正介は、既に戸の先へ姿を消していた。

 

 囲炉裏の周囲に其々座り込んだ三人の手には、木の削り跡が美しい椀がある。よく煮込まれた芋と肉の入った味噌味の汁は、材料は少ないが深い風味を感じられる。

「美味いで、弦爺。これ、肉は猪(しし)か。」

「お前さん達が来るなら、たんと食いもんが必要じゃろうと思うてな。仕留めておいたんじゃ。」

かっかっと笑う老人。

「思い立ってすぐ槍一本で猪狩れる爺さんが、炭も買いに降りられへんなんて、自分で言っといて噴き出すかと思たで。我慢したんやから褒めてや、清兄(せいにい)。」

「うむ、普段から惚(とぼ)けた素振りをするのは骨が折れるだろう。良くやっている。」

「や、そこは素なんやけど……。」

老人は御座に胡座、男は床に正座、そして正介は床に胡座。三様に座しながらも、三人の会話は和やかに他愛無く進む。大の男が二人もいれば、たちまち鍋も空になり、湧水を引いた水場で片付けを済ませると、さて、と老人が声を上げる。

「そろそろ『工房』へ行かんとのう。お前さん達も来るじゃろ?」

黙って二人が頷くのを確認すると、老人は床の片隅の板を素早く動かした。

 開いた床の下に飛び込んだ三人は、暗闇の先へ向かう。先導する老人が辿り着いた先にある扉を開くと、其処はまさしく「工房」であった。使い込まれた鎚や鉄床、素人では使い方も分からない器具。その一角にある石の台座には、赤々と火が燃えている。此処は、万華だけが立ち入る事を許された地の一つ、「衛士(えじ)の兵庫(つわものぐら)」。隊員の得物の手入れや修繕を一手に担う「玄(くろ)」の色を持つ者の仕事場である。玄は宮中から「神火」を分けられ、その火で仕事を行う。神火が台座に灯っている日は、玄が仕事を行なったという事。

「さて、お火様に挨拶じゃ。」

老人――万華菊紋隊の「花弁」・玄、名を柾弦蔵(まさきげんぞう)――は、背後の二人に声を掛け、最敬礼の姿勢を取る。火だけが音を立てる厳かで儀式的な空間の中、顔を上げた三人は、台座から少し離れた位置に腰を下ろす。兵庫に入ってから神妙な顔をしていた正介は、何処か居心地悪そうに言った。

「なあ、ほんまに此処で喋くってええの?面も着けずに?」

「良いんじゃよぉ。寧ろ、お火様の前で隠し事なんぞ要らんわい。のう、清ちゃん。」

「弦蔵殿が仰っているのだ、遠慮は要らぬ。それに、某も、そして他の万華も、此処で弦蔵殿の世話になって来た。」

「……。」

そう言った男――面は「鷲」、色は「藤黄」。名は、今河清吾(いまがわせいご)。弓で知られる家柄の当主であったが、万華に入隊した折に全てを捨て、寂れた道場を隠れ蓑にしている。正介の目の前に居るのは、現万華の中で最古参の二人。その中でも最も長く入れ替わりを見て来たのが、玄だ。瞼を伏せる正介。躊躇う素振りを感じ取ったのか、弦蔵が穏やかに言う。

「正ちゃんや。お前さんの役は、今までの朱華……いや、万華の誰よりも厳しいかも知れん。儂等に打ち明けるにも悩んだじゃろ?何といっても、帝からの御言葉じゃからの。じゃがの、後輩に頼られて嫌な事なぞありはせんよ。清ちゃんも同じじゃ。じゃから、儂等はお前さんを此処に連れて来たんじゃよ。」

正介は左手を目に当て「かなわんわ」と苦笑した。

 

 拘束されて顔を覆われた時、とうとう自分は処理されるのだと思った。邏隊に汚点を残さない為だ。覚悟は出来ていたし、後悔もしなかった。あの男の無念を背負って死ぬ、それが、自分が最期に果たすべき事だった。左目の傷は痛んだが、その痛みが、死に臨む正介の心を穏やかにした。ただ、両親と弟妹に真実を伝えられない事だけが、心苦しかった。懲罰房から出されて、一昼夜程であったか。拘束され続けていた体は言う事を聞かなくなり始め、死を考え過ぎた頭も、それ以外の事を想像していなかった。跪かされた状態で覆いを外された時、目の前に現れたのは、自分は既に死んで天上に来てしまったのかと思った程、余りにも眩く美しい部屋だった。御簾の後ろの声が正介の拘束を解いて退がるように言い、広い広い部屋の中に呆然と座り込む自分だけが残された。事実を認識出来ない程に鈍った頭に響いたのは、低く穏やかな声だった。

 

 正介は息を吐く。そして笑った。

「弦爺、清兄……俺が入って、万華は変わったか?」

二人はその言葉が、自嘲を伴って吐かれた事に驚く。多聞正介は、自薦や隊員からの推薦ではなく、帝からの推薦によって万華に入隊している。そして、彼は帝に「万華を変えて欲しい」と託された。時代は変わった、万華も変わらなければならない、と。

「其許は、誰も変化しておらぬと?」

今河清吾が静かに訊ね返す。正介は、邏隊員だけあって、人の変化には敏感だ。気付いていない筈が無い。

「清兄が言いたいんは、つるちゃんと、ろっしょさんやろ。」

正介が苦笑する。現在最年少の白橡(しろつるばみ)、そして緑青。清吾は頷く。

「面を渡す以外に付き合いが殆ど無かった白橡が、詰所に宿題帳を持ち込むようになったのも、緑青が感情を顕にするようになったのも、其許が来てからだ。」

「ろっしょさんは俺が嫌いなだけやし、つるちゃんには面を傷付ける半人前て怒られっぱなしや。……ま、憂さ晴らしになってるんなら、俺はそれでええねんけどな。存分に怒りをぶつける相手がおらへんのもきっついもんやし。」

正介は膝に肘を立てる。その表情から笑みが消えた。二人は黙って続きを待つ。

「まだ、伝えてへん事があんねん。俺が帝に託されたのは、万華やけど、万華やない。」

 

『私は屹度、君のような者が現れるのを待っていたのでしょう。』

『君の犯した罪も、君の成した功も、私は総て知っています。』

『その上で、君の命を貰い受け、お願いしたいのです。』

『君ならば成し遂げられると、私は信じます――』

 

「……深緋なんや。帝がいっちゃん心配してるんも、いっちゃん変えなあかんと思ってるんも。」

正介は、息と共に吐き出した。

「帝は、御身を護る万華が、使い捨てになってくのが嫌やねん。せめて、誰が其処に居るのかを記憶に留めたい。それが帝の願いや。けど、筆頭の深緋が認識を変えへん事には、意味が無い。その為に、俺は皆んなを知ろうとした。皆んなが自分を、いつか散ってまう『花弁』やなくて、『万華』の仲間やと思えるようにするんが、初めにやるべき事やと思った。せやから、弦爺と清兄には、知っといて欲しかったんや。いっちゃん長く今の万華を見て来た二人やから。せやけど……。」

正介は頬に付いていた手を、そのまま額に滑らせて俯く。弦蔵と清吾は、じっとその動きを見詰めたまま、先の言葉を待った。正介は眉を寄せ、目を細める。

「せやけど、深緋は『完璧』や。深緋としてな。万華の中だけやない、兄弟に近付いてみても、軍の方から探っても同じや。世間用の顔以外の『人となり』が全然見えへん。けど、『深緋』として完成されたあいつを、俺はどうにか突き崩して、『人』にせなあかんねん。帝の御心で打てば響くように。だから、弦爺と清兄に、もっぺん話したかったんや。」

深く息を吐く正介。清吾は、正介は答えを求めている訳では無いと感じた。ただ、何かしらの欠片を、より付き合いの長い自分達から得られたならばと、僅かな可能性を頼っている。清吾は弦蔵に顔を向けた。弦蔵は、優し気だが、何処か哀しそうな顔をしていた。

「正ちゃんや。」

 弦蔵の声に、正介は顔を上げる。その表情には、期待も無ければ落胆も無い。この男は、自分の使命を果たす事に躊躇しない。道が見つからなければ、何度でも違う道を選び、最後には新しい道を作る、そんな男であると、まだ一年程の付き合いでも分かる。

「儂も、まだ言うとらん事があってな。」

「そうなんか?」

「儂は、深緋が『ああ』なった理由に心当たりがある。」

正介が目を見開いた。隣の清吾は目を細めるが、無言を通す。

「深緋の母君……いや、儂は『お十技ちゃん』と呼んでおった。」

その一言で、意味する事が分かったのだろう。正介はなんとも言い難い表情を浮かべた後、一言絞り出す。

「…………冗談やろ?」

「真の話じゃよ。深緋の母は、元『浅葱』じゃ。『深緋』にどんな素養が必要か、よーく知っておる。」

そして弦蔵は、哀しそうに言った。

「あの子は隠しておったからの、儂は言わずにおったのじゃが……得物には、使い手の心が現れるものじゃ。あの子は、『浅葱』の位置に満足しておらなんだ。あの子も可哀想な子じゃ、特別な家の娘じゃからのう。あの子自身を、あの子が認めてやれなかったのじゃろうな。」

黙り込んだ正介を見ながら、清吾も思い出していた。もう十年も前、郷里(くに)で足を悪くした父から家と道場を継ぎ、子を儲け、妻と恙無く暮らしていた清吾が、突如妻子を離縁し帝都へ出て行くと言った時。其迄に一度も向けられた事の無いような、悲しみ、恨み、怒りの籠った言葉を投げ付けられた。親は自らの望みが叶わぬ時、それを子に託す。清吾は万華の為にそれを裏切った。しかし、その意思すら芽生えないような環境で育ったならば。

「……はは、成程なぁ。そら、上手くいかへん訳や。」

 頭をがしがしと掻くと、正介は大きく息を吐き、そして、両手で自身の頬を思い切り叩いた。ばちん、と、静かな空間に反響する音。弦蔵と清吾は一瞬呆気に取られる。正介は、笑っていた。

「おおきにな、弦爺、清兄。別の道が見えただけでも話せて良(え)かったわ!」

そのまま立ち上がる正介。暗い工房の中、驚く程にその笑顔は眩しい。その裏に、ほんの僅かに何か小さな違和感を覚え、咄嗟に清吾は口に出した。

「正介、急いてはならん。」

「や、焦ってる訳と違うで、清兄。」

慌てて手を振る正介。彼はいつもの調子で言う。

「俺かて、いつ任務で死ぬか分からへんのや。その前に約束、果たしたらな。その為なら人身御供になってもかまへんよ。」

「……。」

清吾は眉を寄せたが、それ以上追求しなかった。正介にも、自分達に明かしていない何かがある。其れを知る術が無い以上、掛ける言葉は選べない。

「正ちゃん。」

「ん?」

弦蔵がゆっくりと立ち上がり、その片方の眼(まなこ)でじっと正介を見上げる。

「儂にも、協力させてくれんかの。」

「そら、もう充分協力してもろてるで。ほんまは自分だけでやらなあかん事やし。」

「いや、違うんじゃよ。」

硬く使い込まれた力強い手が、正介の手を握る。

「儂も、そろそろ後継に『玄』を譲らにゃならん。その前に一つくらい、後輩の力になってやっても罰は当たらんじゃろう。」

「……何か、考えがあるんか?弦爺。」

その穏やかな口振りに、正介も再び声音を落とす。弦蔵はゆっくりと首を振った。

「考えなんて大層なもんは無いんじゃがの。深緋の刀を儂の所へ持って来てくれんか。」

「本気で言うてる?」

「誰も盗んで来いとは言っとらんぞい。」

弦蔵は穏やかに笑みを浮かべた。

「儂の役目は全員の得物の手入れと管理じゃ。じゃが、深緋は未だ儂に刀を預けた事が無いんじゃよ。儂もこのままでは玄としての御役目が果たせん。じゃから、儂に頼まれたと言えば、深緋も断る訳にもいかんじゃろう。お前さんが深緋と話す切欠にもなるじゃろ?」

「それは……そうかも知れへんけど、」

少々躊躇いがちに正介は言い掛けたが、そこではっとして口を噤む。弦蔵は頷いた。

「儂が見れば、深緋が何を思って刀を振るっておるか、分かるじゃろう。どうじゃ、助けになるかの?」

正介は弦蔵の穏やかな目を見詰めていたが、やがてその手を強く握り返した。

 

 

 蓼町。此処には昔ながらの民家が多く、立地を利用して素人下宿を営む家も多い。山を降りた正介は、弦蔵に預けていた包丁の箱と、分けて貰った猪肉の包みを背負子に括って自身の下宿先へ戻る道を歩いていた。下宿先の包丁を依頼したと言う話は嘘ではない。弦蔵は、山の上で鍛治を行いつつ、街で刃物屋を開いており、その評判は非常に良い。毎年冬には山に篭っている為、物資を届けるついでに刃物の手入れを依頼しに行くと提案すれば、喜んで包丁を預けられた。勿論、其方の仕事も完璧であるし、美味い肉も手に入った。女将も喜ぶだろうと歩いていると、どうも周囲の雰囲気が何時もと違う。事件という程ではないが、ざわざわと何かを話している者が多い。尋ねてみようかと思ったが、緊急で無いなら、一先ず荷物を片付けてからでも遅くは無い。

 と、その時。男が一人、前方から物凄い勢いで走って来る。裸足下駄で絣の着物。明らかに見覚えのあるその姿は正介に向かって一直線に近付くと、肩をひっ掴み、盾にするように背後に隠れた。

「頼む正介!匿ってくれ!」

「は!?え……孝晴クン!?何して……、」

あれだけの速さで走って来たにも関わらず、殆ど息を上げていない孝晴に一瞬違和感を覚えるも、その思考は前方から響いた声に遮られた。

「他人を盾にするとは卑怯なり、イヤーッ!」

張りのある女の声。顔を前に向ければ、気合い一閃、振りかぶられた――竹箒。棒立ちになった正介の頭の頂点に、箒の長い柄が真っ直ぐ振り下ろされた。メキ、ともバキ、とも付かない音が鳴り、「えっ」と驚く女の声を聞きながら、正介は頭を押さえてゆっくりと踞る。一瞬見えた孝晴は、流石に痛そうな顔をしていた。いや痛いのは自分なのだがと言いたくもなったが、始めに口から出たのは呻き声だった。

「……お、おぉ……。」

「ど、どうして避けないのですか!」

「避けたら、後ろの坊ちゃんに、当たる、やろ……。」

「当てようとしたのです!毎度毎度逃げ出して。こんな素浪人まで頼るなど、恥ずかしく無いのですか!」

「素浪人て。」

顔を上げると、其処には柄に割れ目が入った箒を地面に突き、腰に手を当てて凛々しく立つ女の姿があった。男のように首の後ろまで切り詰めた髪に、袴に羽織。長身も相まって、傍目には少年のようにも見える。背後の孝晴が大きく息を吐いて立ち上がるが、その憔悴したような表情に只事では無い何かを感じ、正介も急いで割って入った。

「ちょ、待ちぃや!お姉さん、コレが誰か分かってはるんか?てか孝晴クン、こんなお嬢ちゃんに何の恨み買ったんや!?」

「恨んでなどおりません。」

孝晴が答える前に、女が涼やかな声で言った。

 

「わたくしの名は、東郷あまね。婚約者として、孝晴さんの怠惰な性根を入れ直し、一人前の武士(もののふ)にするのが、わたくしの務めです。」

 

「…………婚……約、者?」

背後を見れば、孝晴は目を逸らしたが、諦めたように頷く。東郷と言えば、武の名門の一つであったなあなどと現実逃避じみた知識が脳内に浮かんだが、正介は二人を交互に見て、言った。

「……取り敢えず、お二人さん、茶でも飲んで行きぃや。ウチの下宿、すぐそこやから。」

女――東郷あまねも、誤って正介を殴った負目がある為か、少し躊躇うも頷いた。一体何がどうなっているのだと思いつつ、正介は二人を連れて下宿へ向かうのだった。

 

「帝國の書庫番」

廿六幕「万華鏡(ばんかきょう)」


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