静かな表情に端正な長身、腰まである艶やかな長い髪。その所作と纏う雰囲気は、相手が話に聞く木偶の坊である事を忘れさせる程だった。既に決定付けられた婚姻話であるが、腐っても有坂家の実子。木偶というのは、妬みやっかみによる風説だったのだ。こんな男に嫁ぐならば、悪くは無いと思った。思ったのに。
『俺はあんたを不幸にする。だから、あんたが俺を振ってくれ。』
余りに甲斐性の無いその言葉を聞いた瞬間、頭の中が沸騰し、気付けば宣言していた。
わたくしが妻として、貴方様の性根を叩き直して差し上げます、と。
「勘解由小路さん!」
「えっ?」
ぱちん、と音が鳴り、留子の手に握られた花鋏の先で、ぼとりと花の頭が落ちた。同じ組で作品を製作していた同輩の声に、我に返る留子。花器に生ける為に剪定しようと手にした枝に、ぼんやりとしたまま鋏を入れてしまった。その先に花が付いている事にすら気付かなかったのだ。
「ああっ、わ、わたし……御免なさい!」
慌てて鋏を置き拾い上げるも、覆水は盆に返らない。先程まで美しく枝を飾っていた筈の真っ赤な山茶花は、哀しげに留子の手の上に咲いている。
「勘解由小路さん、ぼうっとしていては危ないわ。どうなさったの?」
「御免なさい、その……考え事を。」
「お怪我が無くて良かったわ。けれど、その枝はもう、使えませんね。」
真っ赤になって縮こまる留子。その後ろから、穏やかな声が聞こえた。
「そう思うん?」
「椿先生……。」
振り返った少女達の前に立つ椿は、柔らかに留子の手から花を取り上げ、じっと眺めた。
「間違って切ってしもたんは、元には戻せへんね。けど、皆んなと違う場所を用意したげたらええんやないの?」
そう言った椿は、花器の棚に向かい、深さのある小振りの平皿と剣山を持って戻って来る。白地に灰の釉が散った皿に水を張り、花が一つ落ちた枝を見つめながら鋏を取ると、迷いなく振るう。ぱちぱちと小気味良い音が数度鳴り、新たに与えられた小さな世界の上に生き生きと枝が立つ。最後に水面に花を浮かべれば、一枝の山茶花だけで作られた、小さく愛らしい作品が出来上がった。
「花を生ける時に大事なんは、誰の為に、何の為に、どんな心で生けるかです。でも、花の顔を見てあげるんも同じくらい大事です。枝も、花も、皆んな違う見た目やからね。同じ花でも、必ず同じ場所に収まる訳やない。収まる場所を見付けてあげるんも、うちらの役目や。忘れたらあかんよ。」
「はい!」
いつの間にか此方に注目していた少女達は、椿の言葉に返事をすると、再び自分達の作品作りに取り掛かる。椿の所作に見惚れていた留子も戻ろうとしたが、その前に椿が留子の肩に手を置いた。
「……せやけど、留子さん。花も見んと迷ってたら、生け花はできひんよ。放課の後に、話しましょ。」
そう囁いた椿の顔に、怒りの色は見えない。留子は眉を下げながらも、こくりと頷いた。
午前の訓練を終え、解散の号令と共に烏羽達が散ってゆく。其れを廊下の窓から横目に眺めながら、麟太郎は扉を開けた。
「お待たせしました、中尉。」
「いえ、今到着したばかりです。」
部屋の中からの声に首を傾げつつ、麟太郎は応える。男の腕章には医官の徴があるが、色は獣医のものだ。彼は麟太郎の言葉に苦笑した。
「検査に時間がかかりましたから、お待ちになったかと思いまして。」
そう言いながら男は、手にした大きな金属の籠を机上に置く。籠の横には「クロスケ號」と書かれた札が結ばれており、中には羽に包帯を巻かれた鴉が入っていた。首をぐるりと動かして麟太郎を見る様子からすると、どうやら傷以外に不調は出ていないらしい。
「具合は?」
「落下したとの事でしたが、頭や他の箇所にも傷はありませんでした。幸い矢傷も、骨を傷付けずに貫通しております。ただ、元通りに飛べるようにするには、傷が完全に塞がってから、訓練する必要があります。それまでは安静にさせて下さい。」
「分かりました。」
籠の出口を開けてやると、「くろすけ」はトコトコと歩いて出口に足を掛け、ぴょんと机上に飛び降りた。獣医は麟太郎に向かって微笑む。
「本当に賢い鴉ですね。傷は痛むでしょうに、動かないように言えば、ちゃんと止まってくれる。人間の子供より物分かりが良いかも知れませんよ。」
「そうですね。ある程度言葉を理解しているのは確かです。」
麟太郎は、「くろすけ」の足元に黒い布を敷く。その上に布切れを丸めて重ねてやると、「くろすけ」は分かっているとでも言うようにその上に飛び乗った。ずっしりと温かい身体を布で包み、胸元に抱き上げると、更にもう一枚の布で体に固定する。「くろすけ」は嫌がる様子もなく、麟太郎の胸に収まった。布の隙間から嘴を出し、心地良さそうに目を閉じている。
「私の元でも大人しかったですが、やはり中尉は特別なようですね。」
「確かに『くろすけ』は、人懐こいという訳ではありません。私が教えた相手は、問題無く覚えますが。」
私は彼の献身に甘えているだけです、と呟く麟太郎に、獣医は「そのような所が気に入られているのでしょうね」と笑った。
戸を閉めて廊下に出た麟太郎は、胸元の鴉に目を向ける。視線に応えるように、「くろすけ」も嘴を麟太郎の顔へ向けた。麟太郎は思い返す。この鴉との付き合いが始まったのは、警兵入隊試験を受ける前。縁側に干した楜実(くるみ)の具合を見に出た時だった。一羽の鴉が、縁側の板の上で、じっと楜実を睨んでいた。麟太郎が眺めていると、鴉は殻を突いてみるでもなく、麟太郎を見上げて「があ」と鳴いた。
「欲しいのですか。」
麟太郎が尋ねると、鴉は体ごと麟太郎の方を向く。近付いても逃げる様子は無い。屈んで一つ楜実を拾い、鴉の目の前に置いてやる。どうするつもりなのだろうと眺めていると、鴉はまるで麟太郎に返すように、嘴で軽く殻を転がす。
「要らないのですか?」
麟太郎が首を傾げると、鴉はがあ、があ、と声を上げながら一度跳ねた。少し考え、麟太郎は腰を下ろして胡座をかく。そして楜実を摘むと、そのまま指先で押し潰した。固い音を立てて弾けた殻の内側には、柔らかな実が詰まっている。鴉はすかさず嘴を伸ばし、器用に殻を外して啄み始めた。
「……割って欲しかったのですね。」
「があ。」
鴉は返事をするように一声鳴いた。それから鴉は、――「くろすけ」は毎日のように麟太郎の元にやって来るようになり、そしてどうやら言葉を覚え、共に軍務を果たすまでになった。自分が文を送る時だけでなく、鳩を飛ばす時に護衛に付ければ、他の鴉に鳩が襲われる事を防いでくれる。軍が研究している鴉も、どうやらある程度簡単な指示には従うようだが、「くろすけ」には特別な訓練を行った訳では無い。
「お前が居なくなっては困るとはいえ、私に他の鴉を見させるのは間違っている気がしませんか。」
胸元に声を掛けるが、「くろすけ」は素知らぬ顔で目を閉じている。いや、眠っているだけかも知れない。人間相手でさえ分からないのだ、鴉の気持ちの機微など、麟太郎に分かる筈が無かった。
(『くろすけ』を射たのは、二年前の『北讃会事件』を煽動した小田切の実弟。彼奴は毒を飲んで自死したが、此れで終わりだとは誰も思って居ない。そして、私は此の件が終わるまで、宿舎を抜け出す訳にいかない……。)
同室の二人も麟太郎も、其々に聴取を受けている。更に麟太郎は、鴉の訓練と研究を監督するよう命じられた。その状況で宿舎から抜け出しては迷惑がかかる事くらい理解出来る。次の休日は明後日だが、辻堂から報せを受けて早や三日。当然孝晴からの音沙汰は無い。貴族の縁談は、両家で話が決まれば先へ先へと進んでしまう。……人を寄せ付けずに生きて来た孝晴が、自ら妻を娶ると決めたとは、麟太郎には思え無かった。
(ハル様の世界が変わる時に、私はお側に居られ無かった。あの時誓ったというのに……、)
其処まで考えた麟太郎は、足を止めて、硝子窓を見た。冬の青空に射す日の光は、黄色がかっていて、か弱い。
(まさか、此れが目的……?ハル様の大変な時に、近くに人を寄せ付けない為に、……私の行動を封じる為に、『くろすけ』を狙った?いや、しかし、理由も、予兆も無い。有坂家に、ハル様に害を成そうとする輩など、この帝都に存在する筈が無い。)
麟太郎は頭を振る。孝晴の事ばかり考えて、些か過敏になっているのかも知れない。万一、「あの」有坂家を標的としたものであるならば、態々麟太郎のような羽虫に拘(かかずら)う必要が無いのは事実だ。いつの間にか、「くろすけ」が再び目を開けて此方を見上げている。麟太郎はその首元の羽毛を指先でニ、三度梳った。切り替えなければならない。先ずは、漸く時間が取れる今夜改めて、部下である辻堂に話を聞く事にしようと、麟太郎はその場を後にした。
授業用の茶室の戸を引くと、午後の光が障子紙を透かしている。ぼんやりとした山吹に彩られた冷泉椿の輪郭は、くっきりと美しい。目許に引かれた紅が、そこはかとなく感じる「大人の女」の色香を引き立てている。留子は暫く見惚れたが、椿が手で口許を隠して小さく笑ったのを見て、慌てて畳に上がった。
「何を見てはったん?」
留子が前に座ると、椿は尋ねた。
「椿先生は、とてもお綺麗なので……。」
「あら。」
素直に答えた留子に、椿は再びふふと笑い声を上げる。自然な所作で茶碗を渡し、「これは授業と違いますからね」と前置きすると、椿は言った。
「それで、留子さん。鋏の先も見えへん程、気になってる事、あるんやろ?悩むんは、悪いとは言わへんよ。せやけど、うちは評価を付ける立場やから、ただ授業に集中して無かったんなら、成績を下げなあきません。何考えてたか、教えてくれはる?」
「……はい。」
受け取った碗に口を付けた後、留子は頷く。椿の切れ長の目や、西都語(ことば)を怖いと言う者も居るが、留子はそうは思わなかった。冷泉椿は常に、自分を律して生徒に向き合おうと努めている。そんな彼女になら……。
「わたしには、想い人がいます。」
「せやね。うちでも知ってます。」
「一時は、大きな騒ぎになってしまいましたから。」
留子は苦笑すると、ぽつぽつと語り出した。
「わたしは、その方と添い遂げたいと思っています。いつも、お手紙を読み返したり、思い出の中のあの方に想いを馳せたり、そうしても気持ちが収まる事はありません。」
――貴女の猫なのでしょう。もう離してはなりませんよ。
低く抑揚の無い声と、手に載せられた猫の柔らかな毛、温かな体温。真っ直ぐで穏やかな瞳。あの瞬間は、きっとこの先も忘れられないだろう。自分は、麟太郎の容姿や立場に惚れた訳では無い。麟太郎が麟太郎であるから、好きになったのだ。
「わたしは心底、あの方を愛してしまいました。けれど、わたしの愛するあの方は、今、わたしの事など、考えられる状況にありません。きっと、主(あるじ)と慕う方を案じて、何時ものように走り回っておられるでしょう。」
――本当に、着いて来るンだな?
――私は貴方を一人にはしません、ハル様。
あの日触れた、二人の関係。頼って貰えた事は、嬉しかった。けれどその時はまだ、知らなかった。孝晴の抱えた闇がどれ程深いのかを。
「わたしは今、好いた方の力になれません。こんな寂しい事はありません。そしてわたしは、愛する人と会話すら気軽に出来ない身分です。せめて、この身分を利用して解決出来る事があったなら、わたしは喜んでどんな誹りにも耐えたでしょうけれど。わたしの行動は、悪戯にあの方を傷付けただけでした。」
――貴女なら分かったでしょう?私について知った所で、貴女には如何しようも無い事が。……私にだって、如何にも出来ないのですから。
優しく、穏やかな、容赦の無い拒絶は、悩み苦しんだ孝晴が辿り着いた、周りを守る手段。しかしそれを知るのは、自分達だけ。常識や柵(しがらみ)は、否応無しに踏み躙る。孝晴の思いも、そして留子の心も。
「わたしは、……苦しいです。わたしの、勘解由小路家の娘という立場は、何の役にも立ちません。寧ろ、この立場に無ければ、知らなかった事まで知ってしまいました。……先生。どうしてわたし達は、自らの心に従って生きられないのでしょう。自らの気持に正直に生きるのは、何故こんなにも難しいのでしょう。」
留子は話し終わると、泣きそうな顔で椿を見た。そして、驚きに目を開く。余り感情を面に出さない椿が、今はその顔の裏に、まるで紙に落とした紅がじわじわと沁みていくように、溢れんばかりの哀しみを滲ませていた。
もう日も落ちる夕暮れ時。だというのに、転がり込んだ厄介事は、簡単に放り出せるようなものではない。箪笥一つと卓だけの部屋に、取り敢えず女将に借りた座布団を敷き、其処に二人――孝晴とあまねを其々座らせている。あまねは背筋を伸ばして茶碗を口に運び、孝晴も何故か正座をしていた。孝晴は疲れた顔で黙り込み、あまねも口を開く素振りが無い。正介は溜息を吐いた。
「お二人さん、何でそないな事になってんねや。あまねちゃんは孝晴クンの嫁になるんやろ?言いたい事があるんなら、話し合うべきやないん?」
「子供扱いなさらないで下さい。わたくしはもう、十八になります。」
「……あまねサンは、何が気に入らへんの?」
ぴしゃりと言ったあまねに腹を立てるでもなく、正介は不思議そうに頬杖をついた。そんな正介に毒気を抜かれたのだろうか。「貴方達が如何様な関係かは知りませんが」と前置きすると、彼女は言った。
「わたくしは、ただ、孝晴さんに立派な男子(おのこ)になって欲しいだけです。孝晴さんと来たら朝は遅起き、気分で遅刻早退なさり、かと言ってお家で勉学なさる訳でも無く、読む物と言えば新聞ばかり。節制も出来ず、毎日のように菓子ばかり求めてほっつき歩いているとの事。故に、結納までの間は、わたくしが生活を正して行こうと決めたのです。」
正介が孝晴に顔を向ける。その目に咎めるような色は無い。孝晴はゆっくりと頷いた。正介は少し考えると、今度はあまねに向き直る。
「それ、あかんのやろか。」
「良くないに決まっているでしょう!」
「うへぇ。」
即答され、苦笑する正介。あまねは眉を寄せ、やがて溜息を吐いた。
「無関係の貴方を巻き込んだ事、そして殴ってしまった事は、申し訳ない限りです。後日お見舞いの品を届けさせていただきます。ただ、……話が出来ると思ったわたくしが愚かでした。悪い交友関係も絶って頂きませんと、貴方の悪評は払拭出来ませんよ、孝晴さん。」
「……。」
無言の孝晴。正介は、何故一切反論しないのかと内心首を傾げる。
「もう良いでしょう、これ以上の迷惑はかけられません。帰りましょう。」
「あー、ちと待ってや、あまねサン。」
「何でしょう。」
眉を寄せたままのあまねの目線を意に解する事無く、正介は立ち上がり、箪笥の中から手帳を取り出すと、頁を開いてあまねに手渡した。其処に記された正介の身分を見た彼女は分かりやすく目を丸くすると、困惑の表情で手帳と正介の顔を交互に見比べる。正介は笑った。
「俺は別に気にしてへんから、見舞いは要らへんよ。で、『ソレ』に免じて、ちーっと俺に旦那、貸してくれへんか。安心し、あまねちゃんの悪口言うたらケツしばいといたる!」
「おい。」
漸く一言発した孝晴にも、にひひと笑って見せる正介。尚も戸惑う素振りを見せてから、あまねは手帳を閉じると正介に手渡す。
「人は見かけに寄らないものですね。」
「堅苦しいのは好きや無いねん。」
むうと頬を膨らませるあまね。正介が送ると言うも、彼女は一人で帰れると素気無(すげな)く告げる。それでも正介は彼女が車を拾うまで見送り、部屋に戻る。
孝晴は、卓上にべたりと突っ伏していた。
「お、おお!?どないしたん!?や、ここ来た時から顔色悪いとは思たけど!」
「……悪り、正介。」
孝晴は握った手の中から小さな塊を取り出し、それを指先で正介の方へ弾く。正確に卓の縁で止まったそれは、鈍い銀色の、文字が刻まれた金属の塊。
「『それ』、やっから、今此処にある米、取り敢えず全部食わしてくれ……。腹、減った。」
「……丁銀やんけ!?」
思わず頓狂な声を出したものの、正介はどう女将に言ったものかと呟きながら、銀を受け取る事無く部屋から出て行った。
白飯の入った櫃に、炙った鯖の干物。小鉢には大根の漬物と梅干しが入っている。狭い卓上がどんどん埋まってゆく様を、孝晴はぼんやり眺めていた。正介は最後に茶碗と箸を二膳持って戸を閉めると、一組を孝晴の前に置き、もう一組を持って孝晴の正面に座った。
「取り敢えず、今炊いてあった米は貰て来たわ。夕飯前で良(え)かったで。」
孝晴は目だけを動かして正介を見る。実際、胃痛と吐き気で気分が悪くて堪らない。しかし、無茶な願いをしたというのに、正介は嫌な顔一つしない。
「他んのは女将が『白飯だけなんて恥ずかしい』ちゅうて出したやつや。気にせんでええっちゅうたんやけどな。ま、明日俺が買いに行くて言うてあるから、気にせず食いや。」
「お前さんは。」
正介は一度目を瞬いてから「これの事か」と茶碗を軽く持ち上げる。
「二人で食うって事で、多目に出して貰たんや。孝晴クンが大飯食らいやって分かってるしな。俺は昼食って来たし、空きっ腹には慣れっこや。気にせんでええよ。」
「……。」
正介に邪気は無い。それは麟太郎が保証した。しかし、出会った日の自分や麟太郎への態度、推察力の高さ、そして、隠し切れない隙の無さ。諸々合わせて考えたら、正介は何かを知る為に自分に近付いているのだろう。けれど、――背に腹は替えられない。同じ貴族相手に飯をせびる事など出来ないし、頭と体が何か食えと急かすのを、同じ頭で押さえ込んでいるのだ。櫃の縁に差し込まれた杓子に手が伸びる。立ち昇る湯気からは、甘い米の匂いがした。
「自分で飯よそえたんやな。」
「やった事ぁ無かったが、やり方くらい分かる。」
すっかり空になった食器を脇に寄せ、孝晴と正介は向かい合っている。珍しく孝晴は眉を下げて、苦笑した。
「悪ィな、正介。こんな事頼めンの、お前さんしか思い付かなくてな。」
「まぁ、しゃーないて。急に生活丸っと変えられたら、そら逃げたくもなるやろ。」
言いながら、正介は開いた卓の上に向かって、銀の塊を弾き返す。
「流石に『それ』は高過ぎんで。そないなもん、軽々しく出さん方がええ。」
「俺ぁ餓鬼の頃から小遣いはコレだったぜぃ。」
「公爵家の金遣いどないなっとんねん……。」
一転して、砂を飲み込んだような表情を浮かべる正介に喉を鳴らして笑うと、孝晴は一つ息を吐く。
「しッかし、よくあまねを追い返せたもんだ。俺が何を言っても聞きやしねえってのに。」
「そら、あの子は肩書きに弱いからな。」
当たり前のように返す正介に虚を突かれ、孝晴は目を数度瞬いた。
「お前さん、あまねを知ってんのかぃ?」
「や、今初めて会ったし、別に付き合いも無いで。けど、態度見たら分かる。せやからさっき、隊員手帳見せたんや。」
正介は手を左右に振ってから、真顔になって頬杖をつく。
「さっき『だらしない行動はあかんのか』て聞いた時、良い訳無いて即答したやろ。教えられた物事が全てで、善悪は常識に従うかどうかで決まる。厳しく教えられて来たんやろな。あまねちゃんは、良くも悪くも世間知らずや。ああいう子の常識の中じゃ、偉い役に就くには人間が立派でないとあかんし、その逆も然り。子供扱いを嫌うってのも、無理に大人の立場に殉じようとしてるって事やし。せかやら、自分が認める相手の言う事は聞いてまうし、認められへん相手には反発する、分かりやすくて純粋で真っ直ぐな子やで。せやから一旦帰らせへんと、孝晴クンとは話でけへんと思てな。俺は身分ひけらかすんは好きやないけど、効いたやろ?」
成程、と孝晴は内心舌を巻く。出会った瞬間から正介はあまねを分析していた訳だ。彼の邏隊員としての性(さが)が為せる業だろうか。散らばった事実を組み合わせて線にする能力に関しては、恐らく孝晴の右に出る者は居ないだろうが、心の動きは暗記出来ない。そのような性格の人間が居ると言う事実も、人との深い関わりを避けて来た孝晴の中には蓄積されていない。
「邏隊員ってのは凄ぇもんだ。」
「何や、褒めても何(なん)も出ぇへんで。で、孝晴クンは何で嫌なら嫌って言わへんの?言葉で言わな伝わらへん事もあるもんやで。」
「……。言えねェよ。」
正介に答えながら、孝晴は肘をついた掌の上に頬を乗せた。あまねが言った「だらしない」生活は全て本当だ。しかし、仕事を放るのは、集中して片付けた方が自分の体には合うから。家で勉強も読書もしないのは、新聞のように毎日更新される情報以外は、全て「記憶して」いるから。菓子は、食わなければ「頭が保た無い」からだ。それを、あまねは知らない。あまねだけでは無い。周りから見ればあまねの行動は、木偶の伴侶を持った妻として頗(すこぶ)る正しい献身だ。その上、あまねは先ず自分が生活を律する。女中と同じ時間に起き、広い屋敷を清掃する。食材選びに同行し、台所にも立ち、その合間に竹刀や薙刀を振る。就寝前には、使用人から会計帳簿の付け方を教わっていた。全て、結婚後の生活を見据えての事。彼女は自分を支える為に努力しているのだ。その努力は、孝晴であれば簡単に踏み躙ってしまえる――見れば全てを覚えるし、作業も一瞬のうちに終えられるのだ――そんな事を、言える筈が無い。「少しの間」黙った孝晴を見て、正介は手を頬から膝に下ろした。
「孝晴クンには孝晴クンの考えもあるやろし、強制はでけへん。せやけど、ああいう子はある意味騙され易いし、依ってるもんが崩れたら脆いもんや。擦り合わせはした方がええと俺は思うで。」
「ん。わぁってる。あまねは、真っ当にこの先の事を考えてる。出来た女さ。」
しかし、その行為が孝晴にとっては文字通りの死活問題だ等と、どうして言えるものか。当然、命を断つ選択も出来ない。あまねが責めを負う事になってしまう。まだ十七の少女が、婚約者を死に追い遣った等と責められるのは酷だ。孝晴の頭でさえ、結論は出せず思考が回る。
と。
ぐわり、視界が揺れた。
何だこれはと思う間もなく、目の前に黒い幕がかかり、そのままその中へ意識が吸い込まれてしまった。
唐突に糸が切れたように床に突っ伏した孝晴に慌てて駆け寄った正助は、その呼吸が深く規則正しい事を確認し、安堵と困惑の呟きを吐いた。
「寝とる……。」
先程まで違和感無く会話していたものだから、さしもの正介でも異変を察知出来なかった。
(まだ、こないだの件の続き、話せてへんっちゅうに……。何か病気でもしてるんか?別に食に不自由してる訳やないやろに、この食い気もおかしいやろ。透子さんに聞いてみるか……?)
考えつつも、寝返りを打って当たったらいけないと、卓を部屋の隅へ引き摺ってゆく。そして、取り敢えずと孝晴の頭の下に座布団を入れてやり、襖から掛け布団を出して被せる。すやすやと寝息を立てるその顔は無防備そのものだ。正介は思わず頬を緩めつつ、孝晴の艶やかな髪を整える様に軽く撫でた。
(なんや、家のチビ共を思い出すなぁ。元気やろか。)
左目の傷を指先でなぞる。この傷を負ってから、正介の立場は目紛(めまぐる)しく変わった。そして、帝の「願い」を叶えられるまで、家には戻らないと正介は決めている。だが、家族との思い出は消える訳では無い。遠くなった家族との触れ合いを思い出しながら、正介は穏やかな笑みを浮かべる。元は深緋を知る足掛かりに近付いたとは言え、頼られて悪い気はしない。
(こないな事深緋に知られたら、またどやされるかも知れへんな。)
一つ、大きく伸びをして立ち上がる。卓に放置された食器をまとめた正介は、空腹を紛らわせる為に白湯でも貰おうなどと考えながら、静かに部屋を後にした。
消灯直前の宿舎内。自室に戻る為に廊下を歩く麟太郎は、今まさに辻堂と、通訳を買って出てくれた石動から聞いた内容を頭の中で反芻していた。
――「あまねは、心が強う、自分にも他人にも厳しか女子じゃ。おやっどんが厳しゅう鍛えたで、手ん豆が剥くっくれ毎日竹刀(しね)を握っちょったし、銃も撃つ。おいが爺どんにびんた割られて泣いちょっと、『男子がそげんこっで泣っとは何事か』ゆっせぇ、竹刀を振(ふ)いて来た事もあっと。」
「……何と?」
「辻の額の傷はお爺さんとの鍛錬中に負ったもので、あー、辻堂は東郷の分家筋ですが、辻の母とあまねさんの母は旧大名家の姫で姉妹なんだそうで、その縁で従妹のあまねさんとも幼少から付き合いがあったみたいです。あまねさんは父君に大変厳しく教育されて、自身も刀や銃を扱うそうですが、辻が鍛錬中に怪我をして泣いていたら叱られたと。あまねさんは、幼い頃から自分にも他人にも厳しい方のようですね。」――
東郷あまねがどの様にして孝晴の妻に選ばれたかは、辻堂も知らなかった。何処から出た話かは分からないが、世間では有坂孝晴が彼女を見初めたと言われている。だが、麟太郎はそれに疑問を抱いていた。人となりを知ればあるいはと考えたが、話を聞いても、彼女が何か特別な――孝晴の人離れした力と釣り合うような――才を持っている訳でも無さそうだった。
(ならば、やはり有坂家が……奥方様が、ハル様の知らぬ間にお決めになったと考えた方が、納得できる。)
麟太郎は歩みを緩め、息を吐く。この予想は恐らく正しいのだろう。
『俺ぁ、母上が怖い。他人が怖い。んでもって……俺自身の事が、一番怖い。』
麟太郎に向かいそう吐き出した孝晴の言葉と表情は、はっきりと覚えている。そんな孝晴が、事情を知らない他人と一緒になれば、きっとまた苦しむだろう。元は「犬」であった麟太郎であるが、今は「友」と呼ばれる身。「心配」して、おかしな事は無い筈だ。
(最近は、奥方様に諜報を命じられていない。私は奥方様が何を考えておられるのかを全く知らずに来たが、私は……ハル様の為に、間に立てるだろうか。盾くらいには、なれるかも知れない。)
次の休日に、どのように動くべきか。麟太郎は考える。有坂十技子との面会は、必ず呼び出しがあって行われる。麟太郎の側から向かったのは、有坂家を出る日に挨拶した時だけだ。突然麟太郎が自らの意思で会おうとすれば、恐らく良い結果にはならないだろう。ならば、あまねはどうだろうか。自分は一応、辻堂の上官である。部下の親戚に慶事があれば、挨拶に向かうのは、恐らく不自然では無い……。そこまで考えて、ふと気付く。
(私が教わって来たのは、一人で生きるに必要な常識であったのだな。)
有坂家で多くを学んだが、友を得、部下を持ち、妻を娶り、子を育てる為の知識は学んで来なかった。孝晴の話を考えれば、麟太郎にはそれ以外求められていなかったという事だろう。その辺りは石動に相談してみようと思いながら部屋の戸を低くと、丁度軍帽を被って出て行こうとする白鞘と鉢合わせた。正確には、近付く気配を感じて麟太郎が立ち止まったのだが。
「遅かったな、刀祢。」
「……? 何か用でもありましたか。」
「あったのだが、俺の隊に招集がかかった。」
眼鏡の奥から見据えられ、麟太郎は目を細める。
「所用があったもので。話はまた明日に。」
「ああ、構わん。しかし……貴様は、首無事件に呼ばれていたな。また駆り出されるやも知れんぞ。」
無言で見上げる麟太郎の前で、白鞘は洋羽織の首元を引き上げる。
「『首無』の次は、『顔無』の死体だ。年の瀬だと言うのに、兇徒共も勤勉な事だな。」
無言で強く眉を寄せた麟太郎をその場に残し、白鞘は歩き去る。それまで布の中に収まっていた「くろすけ」が、いつの間にか顔を出してその背中を眺めていた。
「帝國の書庫番」
廿七幕「噛み合わぬ歯車」