帝國の書庫番   作:跳魚誘

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望むと望まざるとに関わらず。


帝國の書庫番 廿九幕

灯りの落とされた部屋の中、四辻鞠哉は長椅子に横たわっている。見慣れない部屋に充満する血の臭い。いや、これは鼻腔にこびり付いた記憶の残滓だろうか。激しく疲労を訴える肉体に反して、鞠哉の頭はその目を冴えさせていた。目線を上げれば、その元凶の姿が目に入る。向かい合わせに並んだ長椅子に仰向けに横たわって目を閉じているのは、有坂孝晴。頭は包帯で覆われ、顔は左半分しか見えていない。普段は束ねられている彼の長い髪が、今は解けて長椅子の端から零れ落ちていた。鞠哉は小さく息を吐くと、重い体を引き摺り起こす。その時、静かに扉が開いた。入って来たのは、女のような美貌に似合わぬ錆色の軍服を着た男。この屋敷の主である衣笠理一だ。彼は手にしたポットを洋燈の隣に置く。中身を注ぐ音が静かな部屋に二度響き、そして彼は鞠哉の前まで歩み寄ると、両手に持ったカップのうち片方を鞠哉に差し出した。

「カミツレ茶なら、洋外様の生活にも馴染みがあるだろ。」

「……。有難う御座います。」

手を伸ばすと、予想以上に腕が重い。筋肉痛だろう。カップを落とさないように気を付けながら受け取り、鞠哉は茶を口に含んだ。柔らかな甘い香りは、確かに脳の奥底にある記憶をくすぐる。そんな鞠哉の隣に、衣笠理一が静かに腰を下ろした。カップの中身を一口飲むと、彼は鞠哉に向かい小さく笑みを浮かべる。

「悪かったな、服が無くて。寒く無いか。」

「いえ、滅相もございません。私の身分で、衣笠様の着物をお借りしているのですから。」

そう言いつつも、鞠哉の身に付けた着物は着慣れていない為に肌蹴ているし、裾の部分も短く、脛から先が見えてしまっている。鞠哉の方が、理一よりも頭半分程上背があるので当然ではあるのだが、部屋以外で素足になる事は無い為、どうも落ち着かない。ただ、部屋には火鉢が置かれており、寒くはない。そもそも、此処に来た時は、寒さを感じるどころの話では無かったのだ。茶の香で落ち着いたのか、ふう、と息が漏れる。理一が横目でそれを見た。

「……四辻。」

「はい。如何なさいましたか。」

「済まないな、迷惑かけちまって。」

思いも寄らない言葉だった。鞠哉は驚いた。何方かと言うなら、理一は迷惑をかけられた側だろう。鞠哉と同じように。

「私は、貴方様に迷惑をかけられたとは、思っておりません。」

「そうだな、けど、こいつは俺のダチ公だ。お前が見付けて無かったら、くたばってたかも知れないからな……。」

「……。衣笠様。」

鞠哉は、まだ温かいカップを両手で包む。膝の上で、水面がゆらと揺れた。

「本当なのですか、先程……有坂様が仰った事は。」

理一は一つ息を吐く。

「ああ、そうだよ。本当だ。孝晴以外にあんな治療しないさ。」

そして理一は立ち上がり、今度はポットを持って戻って来た。有無を言わさず、鞠哉のカップに茶が追加される。

「どうせ眠れないんだろ。落ち着くまで話してやるよ、孝晴の『病』について。俺が言える範囲内でな。」

「……お願い致します。」

二人は静かに言葉を交わす。その声は、部屋の薄明りの中に溶け込ませるように、密やかなものだった。

 

 

初めにそれを見付けたのは、衣笠家の門衛だった。深夜、日付が変わる頃。よろよろと近付いて来る人影を認めた門衛は、その様子に驚いた。人を一人背負って近付く白髪の男も、背負われた男も、血塗れだった。余り邸宅に客を招かない衣笠家だが、有坂孝晴は何度か訪れており見知っている。背負われたのがその有坂孝晴であると気付いた門衛は、急いで家中に知らせ、確認に出て来たのは、長女である衣笠初だった。理一は未だ帰宅して居なかったのだ。彼女は驚愕し、また鞠哉も、状況を説明出来るような状態では無かった。が、その時、身動ぎ一つしなかった孝晴が、小さく呟いた。

「嫁と喧嘩して深酒して転んじまったンだよ、うちには帰り辛いから休ませてくれ……。」

初は門衛と顔を見合わせたが、どうやら孝晴にも意識はあるようだと納得し、そうして門が開けられた時、丁度帰って来た理一が、家の前に人影がある事を不審に思って走って来たのだった。

 

理一は状況を悟ると、即座に姉を部屋に返した。そして門衛にも何食わぬ顔で仕事に戻るように言うと、この真冬に大汗をかいて門柱に縋るようにしている鞠哉に囁く。

「よく此処まで来たな、あと少し頑張ってくれ。」

鞠哉はその言葉で、衣笠理一は孝晴が「重い」事を知っているのだと察したが、既に疲労困憊しており、無言で頷くしか出来ない。何処をどのように通ったか、鞠哉はわからなかった。ただ目の前にある衣笠理一の背中を追い、離れの一室へ辿り着く。

「元々は来客の宿泊用だったんだがな。俺は客を呼ばないから普段は使ってない。年末の掃除を済ませた後で丁度よかった。」

そう一人ごちるのは、此方に聞かせているのだろうか。そうして部屋に入った後、鍵を閉めた理一は、部屋の隅の洋燈に火を入れ、やっと鞠哉の背から孝晴を引き摺り降ろした。

「で……!?今度は、何をしやがった、手前はよお……!」

「はは、俺ァ何もしちゃいねェよ……。」

背後の声を聞きながら、鞠哉はがくりと膝をついた。幼少期の経験により我慢強さと負けん気を得た鞠哉であったが、今回ばかりは糸が切れた。孝晴はそのまま、向かい合う長椅子の間に置かれた重い長机の上に寝かされる。息を吐いた理一が再度尋ねた。

「一体何があったんだよ、手前が怪我するなんざ只事じゃねぇだろ。」

「奴に聞いてくれ。」

目を閉じたまま、指差す孝晴。その先には座り込む鞠哉の背がある。

「四辻、お前は何を見た?一体此奴に何があった。」

「……。」

鞠哉は迷った。孝晴は今も言葉を話し、生きている。自分が見た光景は本当だったのだろうか?しかし、あれ以外に何と言えば良いのか分からない。鞠哉は床にへたり込みつつも、理一の方へ向き直る。

「有坂様は、頭を……撃たれております。恐らく、狙撃銃で。」

「は!?」

「銃声と思しき音の後、有坂様が頭から血を流して倒れられたのを、私は見ました。辺りには誰も居りませんでしたので、拳銃では無いのではないかと……。」

目を剥いた理一に、だんだんと声を窄めてしまう鞠哉だったが、理一は顔色を変えて孝晴に顔を近付け、詰め寄る。

「手前の頭、今どうなってる。」

「弾は抜けてる……額で受けて、骨と皮の間通して、後ろから出した。」

「……、」

「向こうさんにゃ、当たるのが分かってただろうから、避ける訳にもいかなかったンだよな……刀も持って無ェし……持ってた所で、叩っ切るのを見られたか無ェし……。骨で受けりゃ、当たったように見える……当てた後に、弾の角度に顔を合わせりゃ、頭蓋に沿わせて飛ばすくらい出来っからな……。」

絶句し、そして何かを言おうとしながらも其処まで聞いた理一は、取り出した手巾で孝晴の顔を素早く拭った。額から噴き出した血で顔中が赤く染まっていたが、それを除くと、既に顔の半面が紫色に染まりかけている。

「大馬鹿野郎め!」

「頼むぜ、リイチ。頭が破裂しそうに痛ェ。俺ぁ朝まで『寝る』からよ、好きにしてくれ……。」

絞り出すように言った理一に向かって言葉を吐き出すと、孝晴はすぐに静かになり、深い息を始めた。本当に眠ったらしい。しかし、余りに突飛なその言葉の内容を、鞠哉はすぐには理解出来なかった。銃弾を、頭の皮と骨の間を通して、後頭部から抜いた?刀で切る?そんな事が出来る訳が。

「四辻。動けるか。」

理一の声が、鞠哉の思考を遮る。執事として染みついた性質が、鞠哉の喉から自然と声を出させた。

「はい。お申し付けがございましたら。」

立ち上がる時に少しよろけたが、立ってしまえば何とかなった。理一は苦虫を噛み潰したような表情をしていたが、その目は真剣だ。

「俺はこの馬鹿野郎を救ける。手を貸してくれるか。」

「何をなさるおつもりか、お尋ねしても?」

鞠哉の言葉に、理一は大きく息を吐いた。

「此処で、此奴の頭を切る。」

 

理一は鞠哉に対し、湯を沸かす事と、洋燈を追加で二つ用意し、一つは傘を取り払って火を露出させた状態にしておく事を指示した。それが終わると湧いた湯で布と火鋏の消毒、深鉢の用意、手元に火を持って来る事……。次々に繰り出される指示をこなしているうち、治療は終わっていた。気付いた時には頭を包帯で固められた孝晴が長椅子に移されて眠っており、理一は血を捨てに行くと言って出て行った。鞠哉の体から力が抜け、手足が疲労で震え出す。理一は鞠哉に考える隙を与えない為に、指示を出し続けたのだろう。何もしていない時間があれば、恐らく、立っていられなかった。耐え切れなくなり、鞠哉は体を空いている長椅子に体を俯せにして凭れ掛ける。こんな姿は榮羽音等には見せられたものではない。くたりと力を抜きながら、鞠哉は改めて思い返す。理一は本当に、その場で孝晴の頭皮を切り開いてしまった。そして、痛み止めや麻酔薬は一切使っていなかったと言うのに、孝晴は目を覚まさなかった。孝晴は眠ると言ったが、例え意識を失っていた所で、強烈な痛みを与えられれば覚醒してしまう筈だ。医官である理一とて、そんな事知っているだろうし、大の男が痛みで暴れ出したら、施術しながらそれを抑え込むなど、いくら衣笠の当主と言えど不可能だろう。それでも理一は孝晴の言葉に疑いを持たなかったのだ。

(衣笠理一は、有坂孝晴の病……いや、異常性について、知っていたという事か。)

そう考えた所で、鞠哉は自分の服が血でじっとりと濡れている事に気付き顔を顰めた。この燕尾服は、亡き養父が仕立ててくれたもののうちの一着だ。四辻喜十郎は、まだ若年当主と言われていた太田伯爵を常に支え、彼が鞠哉を旭暉に連れ帰ると決めた時には、即座に鞠哉を養子にすると申し出た。あの頃はまだ、鞠哉は彼らに心を許しては居なかったというのに、御人好しにも程があると未だに思う。鞠哉が養父の仕事を継ぎたいと申し出たのは、旭暉に渡って二年後だ。養父について仕事をこなせるようになる度に、そして身長が伸びてゆく度に、養父は鞠哉に燕尾服を仕立ててくれた。流行の型にならないよう、かつ見窄らしくもならないよう。その、最後に仕立てた一着で、あったのだが。鞠哉はゆっくりと上着を脱ぐ。孝晴の頭が凭れ掛かっていた肩口から胸の方に向かって血が染みて、触れた指に赤が付いた。内に着ているシャツまで、やはり赤黒く染まっているのを確認し、鞠哉が小さく息を吐いた時、部屋の扉が開き、理一が戻って来た。

「ほら、着替えだ。俺に合わせた着物だから流石にお前にゃ合わないだろうが、洋装よりはマシな筈だ。」

そう言いながら理一は着物の他に手桶と薬缶、そして手拭を机上に置き、鞠哉の手元にある上着と鞠哉を見比べると、目を細めて「先に体を拭いた方がいい」と付け加えた。疲労と戸惑いで即座に反応出来ず、一瞬茫然としてしまう鞠哉だったが、理一は気にする素振りも無く、同じ目線までしゃがみ込んだ。

「服も髪も血塗れじゃねえか。明朝、太田公に直接俺が話に行ってやるから、さっさと体拭いて、着替えて寝ろ。その椅子ならまあ、多少狭いが横にはなれるだろ。脱いだら此方(こっち)に寄越せ、出来る限り染みは抜いといてやる。」

そう言って立ち上がると、理一はポケットから紙巻きの箱を取り出したが、何かに気付いたように再び仕舞い込んだ。使用人の立場で、衣笠伯爵その人に其処までさせて良いものかと迷った末に、今はそうするしかないと結論付けた鞠哉は、丁寧に礼を言った後、服を脱ぎながら理一に訊ねた。

「お煙草は、吸われないのですか?」

「……。此奴の体に良くない。」

理一は僅かに黙った後に一言答えると、鞠哉から受け取った血染めの服を持って部屋から出て行った。

 

(あの大馬鹿野郎、何を考えてやがる……。)

理一は井戸から汲み上げた冷水に服を放り込みながら息を吐いた。孝晴の傷の処置は問題無い筈だが、それでも、設備も道具も最低限にすら足りない環境では不安が残る。相手が孝晴で無ければ、直ぐにでも病院に運んで処置しただろう。

(そもそもあの野郎、背負われて来たんだったな……あの状態で何時間耐えやがったんだよ。四辻の根性も大したもんだぜ。俺でもあんなに重けりゃ簡単には運べねぇぞ……。)

考えつつも理一の手は迷い無く動く。まだ血が乾き切っていなかったのが幸いして、冷水で粗方落とす事が出来た。水を替えて薬用の重炭酸曹達をまぶし、擦り合わせる。確認の為に一度引き上げ、小さな燭台の灯りで照らしてみるが、元の色が黒い為見た目には全く分からない。再度水中に沈めて血が溶け出さなくなるまで濯ぎ、折り畳んで水を切る。軍生活と、手当たり次第に詰め込んだ雑多な知識と、医者の経験が役立った。

(それでも、俺の目的には、全く近付いてねぇ……何やってんだろうな、俺は。だから、ねえねにも……。)

息を吐き、首を振る。今はそんな事を考えている場合ではない。「あの」孝晴が、負傷したのだ。しかも、誰かに狙われたというおまけ付きで。孝晴の立場が低いとしても、有坂家に牙を剥いた事実は変わらない。何処の誰が、というより、何が目的なのか。議員である長男・有坂孝雅には、多かれ少なかれ政敵と言える存在は居るだろうが、彼には妻子が居る。脅すにしても、弟の命を狙う意味は無いに等しい。家自体にしても、貴族院の構成員は全員が爵位持ちであるし、軍の将校も貴族・旧貴族が多数を占める。その中で有坂家は、少なくとも表向きは、現在の軍事・政治に直接介入しているとは言い難い。太田家のように手広く事業援助を行なって居る訳でも無い。強いて言えば、旧幕府勢力から恨みを買っているであろう立場ではある。衣笠家のように転向した訳ではなく、帝の縁者――宮家の者と婚姻する事で新政府と繋がりを作り、殆ど害を被る事無く最高位貴族に名を連ねたと、逆恨みを受けたかも知れない。ただ、それは当主の手腕が優れていたというだけの事。孝晴個人の話にしても、北讃会事件の主犯は全員死んでいる上、それが孝晴の仕業だと知る者は自分だけだ。それこそ、あの件は麟太郎にすら明かしていないのだ。

(奴が自分からばらす訳がねぇ、今こうして死に掛けても誤魔化してるくらいだ……起きてから問い詰めるしかねぇか。)

固く絞られた布を持ってその場を離れると、仕方がないので自室へ戻り、衣紋掛けに濡れた上着とシャツを掛けて煖炉(ストーブ)の近くに置く。そうして置きっぱなしの安楽椅子に腰掛け、休もうと思ったが、理一は直ぐに息を吐いて立ち上がった。四辻鞠哉には寝ろと告げたが、あの様子では、恐らく神経が昂っており、簡単には寝付けないだろう。

(落ち着ける茶でも持ってってやるか……少しは医者らしい事、しねぇとな。)

理一は静かに部屋に鍵を掛けると、頭の中で茶葉を選びながら、三度離れに足を運んだ。

 

 

「分かりやすく言えば、此奴は、肉体を自分の意思で制御できる部分が、常人よりも多い。かつ、そもそもの能力が常人じゃ及ばない程高い。で、その理由は、自分でも分からないんだと。『生まれつき周りより速かった』って此奴は言ってたし、それが事実だ。」

そう理一が言うのを、鞠哉は両手で空になったカップを持ちながら、神妙な様子で聞いていた。聞くだけでは信じられない話でも、実際に孝晴の異質さをその身で感じれば、嫌が応にも信じない訳にはいかない。自分も同じだったな、と孝晴との出会いを思い返していると、鞠哉が口を開く。

「有坂様を運んでおりました時、人一人の体重とは思えない程の重さを感じましたのも、それが理由でございますか。」

「ああ、そうだ。目方を比べたら、力士よりも重いんじゃねぇか。お前、よく倒れずに此処まで来れたもんだよ。」

「……恐れ入ります。」

一度笑って見せてから、理一は続けた。

「今、此奴は自分の意思で『朝まで昏睡状態』になってる。手前の脳味噌で考えるだけで、手前の不随意筋すら操る奴だからな。今なら此奴は、刺しても起きねぇ。」

「不随意筋というのは、名前から察するに、意識的に動かせない筋肉という事でございましょうか。」

「ああ。お前、心拍を思い通りに早めたり緩めたり出来るか?」

「……有坂様には、それが出来ると?」

「実際に測った。奴は渋々だったけどな。」

理一が細く息を吐き、茶で口を潤す。

「此奴が起きない今だから言うけどな、……ぞっとしたさ。正直な。孝晴の体は、人間の範疇を超えてる。だからずっとそれを隠して来た。お前にも言いたく無かっただろうが、頼らなきゃ死んでただろうからな。」

静かに話す理一の声を聞きながら、鞠哉は思い出していた。孝晴は、常人よりも速い時間の中で生きている。あの封筒は、そういう事だったのだ。「赤い印」に関する、あの資料の入った封筒。短期間に膨大な資料を纏め上げた事も、誰の目にも触れられず門番の詰所に置いた事も。理一の言葉が本当ならば、全て理解出来る。――その内容が余りにも理解し難いとしても。

「有坂様は、人ならざる者という事なのでございますか。」

ぽつりと、鞠哉は言った。深く穏やかな呼吸は、孝晴の寝息だ。返事の代わりに、鞠哉の背に理一の手が触れる。丁度、心の臓の裏側を暖めるような位置だった。

「それを確実に調べるなら、それこそ解剖でもしなきゃならねえ。けど、孝晴は人に合わせて、人であろうとして来た。だから、此奴はその辺の『人でなし』より、余っ程『人間』だ。……俺は、取り返しのつかない失敗をした。だから、お前はそう思ってやってくれ。」

そう語る理一は穏やかに笑みを浮かべていたが、その笑みは沈鬱で、自嘲めいていた。彼と孝晴の関係も、単純なものではないのだろうと、鞠哉は考える。

(つまり、二人を繋げたという――それが嘘で無いのならば――刀祢中尉も、当然、この事は知っている……は、ず……、)

鞠哉の頭が、かくりと傾いだ。一瞬耐えようと身を固くするも、やがてその白い頭が理一の肩に落ちる。理一は特に避ける事もなくそれを受け止めた。さらりと零れた白い髪の下から静かな寝息が聞こえるのを確認すると、理一は鞠哉の手からカップを取り上げ、机上に置く。

「手前も大概だぜ、四辻。全く、『ただの使用人』が、何で此処まで冷静に対処出来てるんだか。」

理一は独りごちながらクスクスと笑うと、凭れ掛かる鞠哉の体を支えて長椅子に寝かせ、カップを持って部屋を出て行った。

 

 

朝が来た。いや、既に日は昇っている。鞠哉は窓から差し込む柔らかな明かりで目を覚ました。普段は日の出前に起床しているし、それに体も慣れていて勝手に目が覚めるのだが、余程疲れていたのだろうか。一刻も早く屋敷へ戻らねばならない。そうして身を起こそうとした鞠哉だったが。

「ぅぐっ、」

思わず呻き声を上げて長椅子に突っ伏した。全身が痛い、怠い。鍛錬中に筋肉痛になる事はあった、が、これはその比では無い……!

「起きたかィ、四辻。随分、苦しそうじゃねェかい?」

無言で痛みに耐えていた鞠哉の耳に、掠れた声が聞こえた。弾かれたように顔を上げ、再度痛みに顔を歪めながら声の方を見れば、対面する長椅子に横たわる有坂孝晴が、細めた目だけで鞠哉を見ていた。

「……、……。ご無事で、いらっしゃいましたか。」

「リイチの、お陰でな。起き上がンなら、少しずつ、動かしなァ。俺を、此処まで運んだンだからな、限界以上に、力出した筈だ。暫くは、痛みが引かないと思うぜぃ。」

孝晴の顔色は悪く、言葉は途切れ途切れだが、それでも内容ははっきりしている。とても、昨夜頭を撃たれ、そして切り開かれた人間には見えない。言われた通り、ゆっくりと時間をかけて起き上がり、背凭れに体を預けて息を吐くと、それを待っていたのだろう、孝晴が口を開く。

「俺の『病』について、聞いたかィ?」

「……はい。衣笠様が、話して下さいました。」

「ん、リイチなら、察すると思った。ってェ事で、俺ァ、人間じゃねェ。他人(ひと)より早く頭回せる分、消耗も激しくてな。人並みに生活する為に、寝て暮らしてンだが、ま……そう出来なくなっちまったから、今こんな、為体(ていたらく)な訳だ。」

「……。」

鞠哉は、どう返答を返せば良いか迷った。孝晴は、自身を人間ではないと言う。しかし、衣笠理一は孝晴を人間だと思って欲しいと告げた。けれども、彼がそう言ったと伝える事は、しない方がよい気がした。結局、鞠哉はそれに触れない事にした。

「これまで通りの生活が成り立たなくなったのは、御婚姻が原因でございますか。」

孝晴は僅かに目を開く。鞠哉が「貴方様の周囲で起きた最も大きな変化でございましょうから」と付け足すと、孝晴は、ふうと息を吐いた。

「その通りさね。俺一人なら、ぐうたら三男で済むが。所帯となりゃあ、話は変わる。道楽息子の無駄遣い、だらし無い性格、それで済んでたもんが、許されなくなってなァ。腹が減って無けりゃ、弾丸が近付くのに、気付かないなんて事無ェからな。」

「……。常のお食事では、足りないという事でございますか。」

「そういうこった。今は余計に……はぁ。ハラ減った……。」

そう呟くと、孝晴は目を閉じる。悪い顔色が、更に白くなっていた。やはり弱っている事に変わりはないのだ。

「傷は、大丈夫なのですか。」

「……まだ見てねェから、何とも……、」

と。

「取り敢えず、傷口は結んである。額は傷が残るだろうが、手前の代謝なら小さく済むだろ。」

孝晴が言い掛けたのと時を同じくして、扉が開いた。

「包帯はまだ取るんじゃねぇぞ。傷が塞がったか俺が確認してからだ。起きたか、四辻。太田家には孝晴の粗相に巻き込まれて午後から出勤するって言って来た。」

話しながら入って来た理一は、てきぱきと机上に盥や手拭、薬缶、急須、湯呑等を並べる。彼が略礼装の灰無地を着ているのは、太田家へ出掛けた為なのだろう。着替えもせずに此方へやって来たのかと驚く鞠哉を他所に、理一は羽織を脱いで長椅子の背に引っ掛けると、腕を組んで孝晴に目を遣る。

「四辻を巻き込んだのは手前(てめぇ)だからな。公爵がお忙しい中急遽時間取ってくれる方だった事に感謝しろよ。今日が休日じゃなかったらどうするつもりだったんだお前。」

「はは、そうさな……運が良かった、ってこったな。」

孝晴の軽口に溜息を吐くと、理一は急須の中身を陶器の吸飲(すいのみ)と湯呑に移す。そして湯呑の方を鞠哉の前に置いた。

「飲めそうなら全部飲め。」

「有難うございます。」

鞠哉がそれを手に持つと、茶のように見えるそれからは、どこか甘く、そして懐かしいスパイスの香りが漂ってくる。脳裏を擽る、桂皮の香り。

「これは……?」

「飴湯だ。滋養に良い。」

思わず尋ね返した鞠哉に、理一は口角を僅かに上げて答えると、同じ中身の入った吸飲を持って孝晴に飲ませ始めた。

 

乾かした服は鞠哉に渡して着替えさせ、孝晴の顔にも多少血の気が戻って来た。理一は鞠哉の隣に腰掛けて足を組むと、横たわる孝晴に向かい、改めて尋ねる。

「で、何でこんな事になってんだ。普段のお前なら、弾なんざ喰らう訳ねぇだろ。」

「……。」

孝晴は一つ息を吐いた。飴湯を飲んで多少回復したのか、表情は和らいでいる。

「……嫁が、な。俺の今後の為に、力尽くしてくれてる。けど、その所為で俺ァまともに食えなくなっちまった。だから、俺が死ぬ前に、アイツに俺を嫌わせようとしてンだ。あの歳で、旦那を殺した女になんてさせられねェ……。けど、うん……だから、喧嘩別れしたばっかじゃ、死ねなかった。体も参ってたから、こうするしか無かったンだよ。何で俺が狙われたのかは、さっぱり分からねェ。」

理一は眉を寄せたが、孝晴の懸念は尤もでもある。夫の生活を管理する妻のもとで、その夫が死んだなら、責めを負うのは妻だ。悪妻であると噂を立てられ、その後生きる事すら難しくなる可能性すらある。そんな彼女と喧嘩したばかりであったというなら。

「……まあ、確かに、そういう時に責められんのは女だわな。夫を家から追い出して、その先で死なせたなんて事になったら。で、『喧嘩』は上手く行かなかったんじゃねぇのか。」

そう問えば、孝晴はむっとした表情を浮かべ、再度息を吐いた。

「何で分かンだ。」

「そりゃ、東郷家の姫なんて、俺にも縁談があったからに決まってんだろ。ある程度相手については知ってるさ。まだ幼いもんだから断ったが、その頃から男勝りで頑固一徹な娘だった。そんな女がお前を支えるって決めたんなら、相当の事じゃ折れねぇよ。」

理一はそこで、机上に置いた皿から干無花果を一つ口に放り込む。鞠哉の方へ皿を動かせば、彼もそれに倣った。

「俺も食いてェ。」

「ああ?」

「腹減った。」

「ったくよお……。お前じゃなけりゃ、話すなんて以ての外な怪我してんだぞ。」

「医者が良いから直ぐ治らァ。」

舌打ちをした理一が孝晴の口に無花果を突っ込んでいるのを見て、鞠哉が首を傾げた。

「一つお尋ねしても宜しいでしょうか。」

理一は首を、孝晴は目線を鞠哉に向ける。同意を得たと判断し、鞠哉は言った。

「有坂様の傷の治りが速いというなら、何故私を頼ったのですか。私には口止めして置いて、その場で回復を待つ事も出来たのでは。」

「そりゃ無理さね。」

孝晴が即答した。理一が先を引き取る。

「確かに此奴は、人に比べて回復は早い。他の奴の一週間は此奴の一日だと思えば当然なんだがな。ただ、傷を治すってのはかなり体力を使う。食えて無かったんなら、治す力も無かったろうよ。」

「で、今は傷も塞いで、食いもんもあるから治せるってこった。」

「塞いだっつっても、髪で結んでんだからな?動くなよ?」

理一が顔を顰める。頭蓋を圧迫する血を抜く為に切り開いた傷を、その両側に生えた髪を結び合わせて綴じているのだ。因みに額は血が止まりかけていた為圧迫しただけである。溜息を吐いて理一は立ち上がり、腕を組んで孝晴を見下ろした。

「で、喧嘩したまま帰らなかった有坂家のお坊ちゃんは、あまね嬢をどうやって庇うつもりだ?このまま姿を眩ましたら、それこそお前が危惧した事が彼女の身に起こる。」

「……。」

その通りなのだ。孝晴は頭の一部だけを回して考える。あの時の鈍った頭で、「その先」を考えられ無かったのは仕方ない。其処で自分の生を選んでしまったのは、生物としての本能によるものだ。あの場所へ足を運んでしまったのか。そして何故、自分は撃たれたのか……。孝晴は、椅子に座り直す理一を目で追う。理一は目を逸さなかった。

「手前が彼女を『信じる』か、『拒否する』か。二択なんじゃねぇのか。」

孝晴は目を閉じる。理一の視線から逃げるように。結局、同じ所に戻って来てしまった。人ならざる自分が、生きる方法など探した報いがこれだと言うのなら……。

「一つ、気になった事がございます。宜しいでしょうか?有坂様。」

鞠哉が孝晴の思考を遮った。先程とは異なり、孝晴だけに問いかける彼に何か意図がある事を察し、理一は口を閉じる。孝晴は目だけを其方へ向けた。

「先程、傷を治すには食事と体力が必要と伺いましたが、この場に満足な食事があるように見えません。しかし、貴方様は回復しているように見えます。貴方様が必要としているのは、本当に食事なのでございましょうか?」

孝晴は僅かに目を開く。理一も内心、成程こいつは鋭いな、と感嘆していた。身体組織の再生には当然肉や魚を多く摂取する必要があるものの、それ以上に孝晴が欲するのは糖分と熱量だ。孝晴は少し考えて言った。

「お前さん達にゃ分からねぇだろうが、頭回すには甘味が一番効くンだよ。体動かすのも、傷治すのも、突き詰めりゃ頭が体に命令してやらせてンだ。だから……そうさな、飯も必要だが、より必要なのは、糖と脂なンだが。旭暉の食はそこまで大量に砂糖や脂、使わねェから……、」

「つまり、それが補えるならば、奥方様と向き合う時間が取れるという事でございますね。」

孝晴の言葉が途切れた瞬間、鞠哉が言葉を差し込んだ。孝晴は驚いて僅かに首を動かそうとして痛みに顔を顰め、理一は怪訝そうに四辻を見た。鞠哉は普段の慇懃な表情とは異なる面持ちで孝晴に言った。

「材料の仕入れ先さえ確保して頂けるなら、私は、貴方の求める物をご用意出来ます。」

「どういう意味だィ。」

「砂糖とバターをふんだんに使った焼き菓子。たっぷりのクリームを挟んだトルテ。ナッツやフルーツ、果実酒を使った重いケーキ。皆様が洋菓子と呼ぶそれが、貴方様には有用なのではございませんか。」

「……。何が言いたい?」

理一が口を挟んだ。鞠哉は理一に向かって微笑んでから、孝晴に再度顔を向ける。

「有坂様には、『あの件』で情報を提供いただきました。それに……このような形ではございますが、貴方様の困難を知った以上、協力関係を続けるのであれば、力をお貸しするべきと考えました。私としても、貴方程の情報源を、みすみす捨てるよりは利用させて頂きたいのでございます。」

そう言って、鞠哉はにっこりと微笑んだ。理一は唖然とし、孝晴は目を数度瞬いたが、やがて小さく噴き出した。

「ぶっ、いッ、痛てッ、畜生……。」

「……お前ら、いつの間に何の話してんだよ……。」

「凄ェ顔してンぜ、リイチ。はぁ、お前さん、一体何なンだ?ただの執事にしちゃ、肝が据わり過ぎてらぁ。」

「太田家へのご恩返しに、出来る事をして参りましたら、こうなったというだけでございます。」

そう返した鞠哉はふと、穏やかな表情を浮かべる。まるで誰か別の相手を見るように、彼はその顔のまま孝晴の目を見た。

「……有坂様も、誰かに頼らねば生きられない、ただの人間だという事を、私は『身をもって』理解いたしましたので。」

「はは……言うじゃねぇか。」

会話を横で聞いていた理一は、一先ず孝晴にも時間が与えられそうだという事、そして鞠哉に自分の言が伝わった事に内心安堵しつつ、息を吐いて背凭れに頭を乗せた。

「はぁ……立つ瀬無ぇな。で?四辻お前、孝晴が必要な菓子をどうやって用意するつもりだ。業者から仕入れりゃ、帳尻が合わなくなるだろ。」

「……。有坂様が個人的に材料を集めて下されば、私がお作りします。」

鞠哉は一瞬口を噤んだが、そう答える。そう言えば、彼の菓子作りの腕は、職人にも劣らないものだと太田公爵が評していたなと孝晴は思い返すが、理一は眉を寄せた。

「太田家を纏めながら料理人紛いの事まで出来んのか?いや、そもそも執事が料理って。」

「冰國宮廷菓子職人の息子が、菓子作りに親しんでいない理由は、ございませんでしょう。」

「……えっ。」

理一は声を漏らし、孝晴は驚きの表情を浮かべる。二人の目線を受けた鞠哉は変わらず微笑んでいたが、その青い目には何処か淋し気な色が浮かんでいた。

 

 

有坂家の屋敷。此処では本館が母屋と呼ばれ、別館が離れと呼ばれている。その母屋の二階、洋燈と天井の飾燈が照らす一室に、二人の女が居た。一人は、つい最近花嫁修行を兼ねてやって来た東郷あまね、もう一人は有坂兄弟の母であり、実質有坂家を取り仕切っている有坂十技子である。あまねは、自身が失態を犯した事、その後孝晴が戻って来なかった事を正直に報告した。あまねは、自身が有坂十技子に選ばれて縁談を受けた身である事を理解していた。初めて有坂家に来た日も、この同じ部屋で彼女と向かい合い、そして「お主は孝晴の妻に相応しい女子(おなご)と妾は思うておる、とくと励むがよい」と告げられたのだ。そうして期待してくれた彼女にも、自分を躾けて来た親にも、申し訳が立たない事をしてしまった。そう頭を下げる彼女の姿を見た十技子は、優雅に手を口の前に当てると、僅かに首を傾け、そしてゆっくりと目を細めた。

「案ずる事はないぞ、あまねや。『あれ』はそのうち戻って来るからの。お主はただ、それを待てばよい。」

「……お言葉でございますが、お義母様……孝晴さんは、帰らないと告げられて……。」

顔を上げたあまねが眉を下げたが、十技子は笑みを崩さない。

「この縁談は、妾が取り決めたものじゃ。そして、『あれ』は妾には逆らわぬ。お主に影響されるようなものではない故、気にせずともよい。」

 

有坂十技子はそう言って、あまねには何の咎めも無かった。あまねは孝晴の居ない寝所で目覚めた後、身支度を整え、使用人と共に庭の清掃を行いながら、昨夜の有坂十技子の言葉について、考えていた。

(孝晴さんは、お義母様には逆らわないというのは、どういう事?それに三男とは言え、大事なお子の一人の筈なのに、夫の怒りを買った妻にお咎め無しというのは、納得いかない……。まるで、わたくしが居ても居なくても、同じと言われているような……。)

そこであまねは手を止めた。目線の先には、烏羽の軍服を纏った小柄な影。門へ近付くと、目付きの悪いその男は、帽子を取って深く頭を下げた。彼女も孝晴に付き従う警兵が居る事は知っている。

「刀祢さん……ですか。」

「はい。お初にお目に掛かります。刀祢麟太郎警兵中尉です。」

あまねよりも背の低い麟太郎。しかし彼は歴とした中尉であり、小隊を預かれる立場にある。信頼は出来る筈だ。あまねは訊ねた。

「刀祢さんにとって、孝晴さんは、どのような存在なのですか。」

「……。」

麟太郎は僅かに目を細める。感情に疎い麟太郎でも、様子がおかしな事には気付いていた。普段の雰囲気よりも、重苦しい何かが漂っている。抱いた懸念が実際のものになってしまったのではと、外見からは全く分からないが警戒する麟太郎だが、ふと気付く。麟太郎に見られているというのに、あまねの目には、怯えが感じられない。彼女は言った。

「わたくしは、孝晴さんに嫌われています。いえ、そう思っていました。けれど……貴方は、孝晴さんを慕っていると聞きます。貴方の心は、本物なのですか。」

「私には、自分の心があまり理解出来ません。しかし、私が有坂様に命を賭してお仕えする覚悟であった事、そして今は友と呼ばれる身となった事は、事実です。」

麟太郎は淡々と答えた。その声に熱や感情は全く宿っていないが、言葉の内容はそれと反比例するように強い。彼女は一歩麟太郎に近付いた。麟太郎は更に首の角度を上げる。

「孝晴さんが、あのように言ったのにも、何か……わたくしの預かり知らぬ訳が、あるのかも知れません。刀祢さん、わたくしに、教えてくださいませんか。……孝晴さんの事を。」

そう告げたあまねと麟太郎の目線は、長い間逸らされる事なく交わり続けていた。

 

「帝國の書庫番」

廿九幕「告白」

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