帝國の書庫番   作:跳魚誘

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重ねる程に遮られる視界は、何によって開かれるのだろう。


帝國の書庫番 丗一幕

帝都の新しい春が来た。人々は一つ歳を取り、新たな年の始まりを祝う。この時期の貴族には特に、数多の儀式や催しが付き纏う。ぐうたら三男坊で通している孝晴にも、それは例外では無かった。例年ならば。

「んんー……ッ、」

縁側に腰掛けた孝晴は、両手を上げて大きく伸びをした。僅かに頭に走った痛みに顔を顰めつつ腕を下ろすと、ふう、と一つ白い息を吐く。

(こんなにのんびりした正月は、生まれて初めてかも知れねぇなァ。)

孝晴の姿は、全く普段通りのものだ。綿入りの半纏を着て襟巻を巻いてはいるが、前は開け放ったままである。孝晴にとっては、雪が積もる程の寒さでも、軽く羽織る程度が丁度良い。その頭には、まだ半面に紫が抜け切っていない顔を覆うように包帯が巻かれており、髪も結われず先を床板に散らばせている。

孝晴は怪我を理由に、年末年始の集まりを全て不参加にした。自己の不始末という事にしてある為、批判は数多出ているだろうが、それでも孝晴は「木偶の三男」だ。許嫁として孝晴の代わりに出席する事になったあまねも、婚約者に暴言を吐かれた挙句、その木偶の坊が酔いどれた上に怪我までして帰ったとなれば、憐れまれこそすれ、妻としての責任を追求される事態には及んでいないようだ。築き上げた木偶の三男の立場が役に立ったなと一人孝晴は笑うと、傍らに置いた漆塗の重箱の蓋を取る。中に入っているのは、箱に似合わぬ焼き菓子だった。四辻鞠哉は、律儀にもあの二日後に、見舞の口実で有坂家を訪ねて来た。簡単に手に入る材料で作成したものだと言って渡された為、ひとまず銀を一枚やったのだが、正助と真逆の反応で正助と同じ感情を表し、銀は受け取らずに帰って行った。せめて銭に換えてから渡せという事らしい。それを思い出して小さく笑みを漏らすと、四角に形作られた狐色の菓子を指先で摘み上げ、口に運んだ。触れた瞬間の食感は硬めであるが歯切れ良く、生地自体は空気を含んで弾力もある。隙間からじゅわりと染み出すのは、バターの風味と砂糖の甘味に加え、馴染みのある香ばしさだ。記憶と照らし合わせればこれは黄粉の香りなのだが、洋外でも豆の粉を菓子に使うとは知らなかった。

「んーめェ……。」

ごろりと床に背中を預け、孝晴は無意識に呟いた。最初に食べた時にも思ったが、この菓子は文句無しに絶品だ。専らこし餡饅頭を好んで来たが、こいつは新たな好物として頭の中に加えても良いかも知れない。角砂糖を齧るよりも長く保つ所も気に入っている。寝転がったまま蓋を閉じると、孝晴は四辻鞠哉の言葉を思い返す。

 

――冰國宮廷菓子職人の息子が、菓子作りに親しんでいない理由は、ございませんでしょう。

 

(あの野郎、きっちり自分の情報も渡して行きやがった。それに、冰國か……。)

四辻鞠哉が鐵國で太田家に引き取られ、榮羽音と共に旭暉にやって来た事くらいは知っていたが、その出身について取り沙汰されていた記憶は無い。鐵國から来たのだから鐵國人なのだと思い込んでいる者が多かったのか。それ以上に、太田公爵の醜聞自体が世間の興味を引いていた事が原因だろう。その四辻が、自身は皇帝の料理人の子だと言う。恐らく、嘘はついていない。今の冰國の動乱を考えれば、その出自には納得出来る。

(難民、って訳かィ。宮廷で働いてたンなら、親もどうなったか知れねぇ。そこを拾われたか何かで、奴(やっこ)さん、恩義で動いてンだろなァ。そりゃあ番犬にもならあな。)

名も知らぬ菓子を咀嚼して飲み込むと、孝晴は身を起こして立ち上がる。中庭は雪を被って真っ白だ。起き放していた下駄に足を入れ、白の上に足跡を付ける。さく、さく。雪の下には霜柱が立っているらしい。帝都にしては積もった雪も、匂坂のように音を消すほどの力は持たない。孝晴はなんとなく立ち止まった場所に屈み込むと、雪の上に手の縁を触れて滑らせる。掌の窪みに溜まった雪は、孝晴の体温で直ぐに水になってゆく。液体に変わろうとする雪に対抗するように周りの雪を集めてゆくと、不恰好な雪の饅頭が出来上がった。そう言えば、雪で兎を作る遊びを読んだ事がある。盆に丸く雪を盛り、そこに南天の葉と実で耳と目を付けてやる、というものだ。少し考えると、孝晴は雪の山を指先で削る。首の窪み、なだらかな背、短い前脚。本で読んだものとは全く異なる写実的な雪像は、小さいがなかなかの出来である。孝晴が作ったのだから当然ではあるのだが。自分は一体何をやっているのだろう。だが、こんな子供じみた遊びも悪くはないと小さく笑ったその時。

「あーー!」

甲高い少女の声が背後から響き、孝晴はびくりと身を震わせた。振り返ると其処には、一人の男性と、彼に手を引かれている少女の姿があった。少女は男性の手を振り解いて走って来ると、驚いて固まっている孝晴の元へ走り寄る。

「孝晴お兄ちゃま、お怪我していゆのに、お庭で遊んでゆ!めっ、なのよ!」

「いや、どうして……、」

「はは、元気なようで安心したよ、孝晴。おや……随分と上手く作っているじゃないか。ほら、媛(ひめ)、見て御覧。孝晴は兎を作ったようだよ。」

言いかけた孝晴に穏やかに笑い掛けた男性は、背広に毛氈の上着を羽織っている。鼻の下に髭を蓄えているが、その顔立ちは母によく似ている。特に目鼻の形はそのままだと言うのに、その目に宿る光は温かく穏やかで、優しい。

「……どうして此方にいらしたのです?孝雅兄さん。」

漸く立ち上がって怪訝そうに問いかける孝晴に、有坂孝雅は微笑みを返す。

「君が怪我をしたと聞いたから様子が気になった、それ以外の理由は無いよ。寿々子と媛は先に帰す予定だったが……媛が君に会いたいと聞かなくてね。」

「そうよ!孝晴お兄ちゃまには、媛子がいゆのに!どうして他の女と結婚すゆの!?媛子は孝晴お兄ちゃまと結婚すゆって決めてゆのよ!」

雪の兎に夢中になっていたと思うと、名前を出されてはっと立ち上がった少女は、可愛らしく頬を膨らませて孝晴に詰め寄った。孝晴は眉を下げて困り顔を作る。

「まだそんな事を言っているんですか?もう七つにもなるのに。」

「媛は知恵遅れだからね。だが、私達は焦ってはいないよ。この子の歩みに合わせて育てていくつもりさ。」

さも当然のように返す孝雅に、一瞬孝晴は言葉を失くす。孝晴が前回会ったのは、媛子が四ツの頃だ。多少舌足らずで幼い雰囲気はあったが、それでも年相応だと思っていた。孝晴自身も、他者に合わせて行動出来るようになるまで時間を要したのだから、子供によって成長が多少遅い事にも違和感を持たなかった。しかし彼女は、見た目は大きくなったが、中身はその頃と余り変わっていないらしい。母は知っているのだろうか、と考えると同時に、彼女が「孝雅の娘」で良かったと孝晴は思った。孝晴が返事をしようとした時、

「孝晴お兄ちゃま、お髪(ぐし)が伸びてゆの。綺麗〜。」

「ンぎゃあッ!?」

幼い感嘆の声と共に、脳天に稲妻の如く痛みが落ちた。いや、普段のように髪を結っていない為、確かに腰の下あたりまで届いているのだが、その髪を一束、媛子が握って引っ張ったのだ。普段であればなんともない、媛子も軽く引いただけなのだが、今の孝晴の頭には、塞がっているとはいえ、治癒し切った訳ではない切り開いた傷が、まだ残っている。頭を押さえて蹲った孝晴から、聞いた事もないような悲鳴に驚いた媛子が飛び上がって離れると、父の後ろに隠れる。

「だ、大丈夫か孝晴!?媛!駄目じゃないか。髪を引っ張ったら痛いだろう?」

「ご、ごめんなさい。」

素直な謝罪の声を聞きながら、孝晴は無理矢理笑顔を作る。撃たれた時にすら出なかった涙が出て来た。

「は、はは……実は、傷口を、縫ったんで……。」

「それは……、一旦部屋へ戻ろう、孝晴。媛もおいで。」

孝雅は孝晴が立ち上がるのを助けつつ、肩を抱えて歩き出す。泣きながら兄に支えられて歩くなど、子供の頃にすら経験した事が無いな、と頭の片隅で孝晴は思った。

 

「もしかして、兄さんが家を出たのは、媛子の為ですか。」

「それが無いとは言わないよ。有坂から離れた方が、子供を伸び伸びと育てられる。だが一番の理由は、私にも反骨心のようなものがあったから、かな。」

卓を挟んで向かい合う二人の手には、陶器の茶碗が収まっている。媛子は女中に任せている為この場にはいないが、時折きゃあきゃあと楽し気な声が聞こえて来る。熱い茶を一口喉に流し込むと、孝晴は目を一度瞬かせた。

「反骨心、ですか。」

「家を頼らず、自分の力で家族を養ってゆきたい。そんな、些細なものだよ。」

穏やかな声音で言うと、孝雅は笑った。

「軍には、優秀な平民出身の将校が多く居てね。彼らの才覚は貴族に劣らないどころか、向上心は貴族出身者よりも余程高い。いや、勿論、身分や階級で人の性質が決まる訳ではないがね。しかし、私には得られない熱を持つ彼等は、私の中にも、熱を移してくれた。」

孝雅は茶を口に含み、息を吐く。

「美味しいね。」

孝晴は手の中の茶碗に目線を落とした。茶の味は、いつも飲んでいるものと変わらない。そもそも、天気や蒸らし時間の差で毎日微妙に変わる茶の味を正確に覚え込むまではしていないのだが、それでも同じ茶葉を使い、適切な時間と温度で淹れられた茶であることは分かる。その「当たり前」を、敢えて美味いと思う気持ちは、孝晴の中からは消えていた。肯定も否定もしない孝晴に、孝雅は目を遣る。

「本当は、もっと君と、こうした時間を過ごしたいと思っていたんだよ。兄弟だというのに、私は君と余り関わらないまま、家を出てしまった。寂しい思いをしただろう、同年の友人も作れない我が家のような環境では。」

孝晴は、自分の感覚で黙り込み、思考を巡らせた。確かに自分は孤独であった。しかしそれは、自分が化け物だから。孝晴は自分以外の人間が、幼少期に何をどう感じて育つかなど知らない。

「そうかも知れませんが、私は随分と甘やかされましたから。自由にやって来ましたよ。兄さん達とは違います。」

孝晴の返答に何かを感じたのだろうか、今度は孝雅が口を噤む。やがて彼は、立ち上がり孝晴の隣に座り直すと、肩に手を置く。孝晴の体温は高い筈なのだが、何故か、その掌は熱く感じた。

「君と私達が違うのは当たり前だよ、孝晴。私も、孝成も、君と全く違う人生を生きているのだからね。そのような事で気に病む必要は無いんだ。」

「……。性根が善いんですね。」

口をついて出た言葉に、孝晴自身も驚いた。素直に感じた事ではあったが、これでは皮肉ったようではないか。しかし、孝雅は目を開くと、声を上げて笑った。

「性根が善い、か。いや、違うよ。元々私は他人の粗を探すのが得意でね。寧ろ性悪と言っても良い性格をしている。」

「そう感じた事は、一度もありませんが。」

怪訝そうに返した孝晴の隣に座ると、孝雅は右手を口許に寄せ、悪戯っぽく目を光らせる。

「私の場合は、知識を付けて理性を鍛えたよ。嫌悪も好意も、つまるところは感情だからね。何故そう感じるのかを分析し、何がそうさせているのかを理解すれば、折り合いを付けて納得出来る。そもそも、感情だけで生きるのは、獣の生き方だからね。人は本音と建前を使い分けてこそ人なのだと、私は思っているよ。」

「治そうとは思わなかったのですね。」

孝晴の言葉に、孝雅は穏やかに微笑んだ。

「欠点が理解出来るというのは、自己を省みたり、人を育てたり、政界で戦うには大いに役立つ。それを教えてくれたのは、母上だよ。」

その言葉を聞いた瞬間、孝晴は言葉を失った。孝雅の語調に、母に対する感情は全く読み取れなかった。孝成のように母と同種の性質を宿す訳でも、孝晴のように母を畏怖している訳でもない。孝雅はただ、事実を口にしただけだ。これほど中庸な関係を母と築くなど、並の人間に成せる事ではない。孝晴に長く黙り込んだつもりは無かったが、孝雅は何か思う所があったのか、直ぐに口を開く。

「期待を掛けられ過ぎても、全く掛けられなくとも悩んでしまうのだから、人間とは難儀なものだよ。けれど、所詮は『他人の目』だ。君はもう少し、明け透けになっても良いかも知れないね。……そろそろ馬車の時間か。」

孝雅は残念そうな顔をして懐中時計を引き出すと、盤面を確認してぱちりと蓋を閉じる。やはり、態々孝晴の為に時間を割いていたようだ。孝晴も立ち上がる準備をすると、軽く頭を下げる。

「お忙しい中、俺などの為に、有難うございました。」

「当然だよ、兄弟なのだから。」

そう孝雅が応えた時、女中が部屋の外から声を掛ける。孝晴が先に立ち上がり戸を引くと、女中に掌を引かれていた媛子がパッと手を解き、孝晴の膝下にぎゅっと抱き付いた。

「うぉっと……。」

孝晴は転ばぬようにと柱に手をつきながら声を上げたが、直ぐに孝雅が媛子を抱き上げる。媛子は父の首に頭を擦り寄せながら頬を膨らませた。

「お父ちゃま、孝晴お兄ちゃまとなにをお話していたの?媛子もお兄ちゃまとお話したかったのよ!」

「はは、済まないね。孝晴、次は我が家に遊びにおいで。君にとって、どうやら家(うち)は、窮屈そうだ。」

笑いながら、孝雅は孝晴に目を向ける。その言葉で孝晴は理解した。兄はやはり、あの母の子だ。母は「使えるか否か」で人を見、其の見立てが間違っている事は恐らく無い。しかし、孝雅は。

「兄さん、嘘は良くありませんよ。」

きょとんと目を開く孝雅に、孝晴は苦笑して見せる。

「兄さんは、人の欠点を見るのが得意なのではなく、人を『良く見ている』だけではないですか。性悪なんかじゃない。」

「……はは!君がそう思ってくれたなら、私にとっては僥倖だよ。」

孝雅は、他人の全てを見透かした上で、全てを有りの儘に受容れるのだ。娘の媛子が孝晴を畏怖しないのも、もしかしたら、その為なのかも知れない。迎えの馬車の前で手を振る父子に手を振り返しながら、孝晴は自然と笑みを浮かべていた。孝晴に向かって無邪気に手を振る少女の性質が其の実何を意味しているのか、その時の孝晴は、まだ気付いていなかった。

 

 

年始の会への出席を済ませると、衣笠理一は早々に勤務に戻っていた。個人としては、貴族付き合いは好きでは無いのだが、当主である理一が出席しない訳にはいかない。今年はお月も挨拶に連れて行く事が出来、彼女に無理の無い範囲で顔見せを行った。最近のお月は以前より笑う回数が増えている上、そもそも彼女は器量が良い。しかし、彼女が病持ちである事は既に知れ渡っており、更に姉達は全員、廿五になった理一よりも年長なのだ。幾ら衣笠の娘とは言え、態々年嵩の女を若い跡取りの妻にと望む親は無く、適齢の貴族男子は殆どの場合妻帯している。婚姻に結び付く可能性は低いだろう。これも、前当主が姉達に許嫁も見繕って置かなかった為だ。その所為で、彼女達は家から出て行けない。理一が当主となった時には既に同じ状況であったとは言え、状況を変えられない自分に理一は苛立っていた。研究に没頭すれば、その間は自身の不甲斐無さを忘れられるものの、それが逃げである事くらい理解している。

 

『――何もできなくて、ごめんなさい。』

 

幼い自分に向けられた、哀し気な声。お初の声が、きりきりと心の臓に響く。その上、今の自分は、医者としてすら。

 

「随分と不機嫌そうだな、衣笠少尉。上官の前でそのような態度でいては、昇進が遠のくぞ。」

「……昇進を望んでいる訳ではありませんので。貴官こそ、よく飽きもせずに所属の違う私に構いますね。」

声を掛けたのは、理一の一歩半ほど前を歩く男。所属バッヂの文字は「甲」、階級は中佐だ。理一の失礼とも受け取られそうな言葉にも、男は笑みで応える。理由に心当たりは無いが、相当理一を気に入っているようで、以前も理一を試すような真似をして引き抜きに掛かったものだが、今夜は誰も連れずに一人である。今回誘いに乗ったのは、移籍を急かす訳では無いと始めに断られた事と、彼の研究内容が非常に優れていると理一自身も認めている事、そしてこれを切掛に新たな研究に手を出せば家に帰る時間が減る事――が、理由だった。

誰とも出会す事無く、男の目的の部屋に辿り着く。本来は退勤済みの時間帯なのだから可笑しくは無いのかも知れない。甲種の当直が何処に詰めているのかも理一は知らない。硝子箱の中に培養皿や保存瓶が並ぶその部屋に入って直ぐに男は洋燈に火を入れると、理一を待たせて窓を遮光する。

「見る前に呼吸布(マスク)を着けなさい、ああ、護謨の手袋もね。此処にあるのは劇物だ。」

男が目で示した場所にある呼吸布と手袋を取りながら、理一は目を細める。机上の硝子箱の中に、劇物指定の薬品瓶等は見えない。同じく防護用品を身に着けて机に歩み寄った男は手元に明かりを寄せると、硝子箱の蓋を手前に上げ、観察用硝子に試験管の液体を僅かに取った。顕微鏡に固定したそれを確認すると男は立ち上がり、理一に示す。

「少尉に見せたかったのは此れだ。充分に注意し給えよ。」

「……。」

一瞬の沈黙の後、理一は鏡玉(レンズ)を覗く。視界一杯に映り込んだ様々な細菌の死骸に、理一は眉を寄せた。頭の中でそれぞれの菌の種類を照らし合わせてゆくが、研究の為に培養したものならば、ここまで雑多に繁殖したら意味が無い。管理の不備があったと断言したくなる程度の酷さだ。けれど、此処にいる幾つかの菌は、空気中には存在しない筈の菌だ。こんな標本を作成する目的が分からない。理一は顔を上げ立ち上がる。

「……これは?」

「抗凝固処理済みの血液だよ。」

言いながら、男は顕微鏡から硝子板を外し、消毒液を注いだシャーレに浸してしまった。確かにこれらの菌が生きて感染するような事があれば大事になると思いつつ、理一は尋ねる。

「何の為に、血液にこんな雑多な病原菌を入れたのですか。」

「違う、衣笠少尉。」

男は呼吸布に覆われた顔に、恐らく笑みを浮かべた。

「此の血液は、生体から採取したものだ。此方では何も手を加えていない。」

「馬鹿言え。敗血症患者であっても、こんな事にはならねえよ。」

理一の言葉に、男は目を細めた。

「それが、居るのだよ。血液中に菌が入っても、共生出来る者が。血液だけでなく、唾液、胆汁、髄液、涙にさえも。私は其れを研究している。」

「んな人間が存在する訳……、」

無えだろ、と続ける事が、理一には出来なかった。脳裡に浮かぶ鮮やかな赤。血塗れの長い髪。切り開いた頭。首に添えられた手。無理矢理に浮かべた、笑顔。頭に手を当て目を逸らした理一に何を思ったのか、男は続けた。

「種痘や治療薬開発に於いて、君の研究内容は非常に有用であると評価しているのだよ、私は。しかし、現在の医療は余りに効率が悪い。」

理一は強く目を細めた。男が言わんとしている事を察した為だ。男も恐らく、理一が察した事に気付いただろう。対等な医者として会話する事を許しているのだから。

「私はその血液を『全ての國民に流す』事を目指している。あらゆる病を予防し治療しようとする君と、あらゆる病の発症しない状況を作ろうとする私の、目指す所は同じだろう。」

「……理屈は、分かる。だがな、こんな外れ値に全員が耐えられる訳無ぇだろうが。医学に十割の成功なんぞ存在しねぇ。手前ぇは、この為に何人殺す気だ!?」

語調を荒げながら呼吸布を毟り取った理一に、男は息を吐く。

「同じ理想を持つ君ならば、ある程度は理解出来ると思っていたのだがね。それに、君も軍医だろう。考えてもみ給え。此れが我が國に『のみ』存在しているという事実を。何れこの國が外ツ國と事を構える時、この血が如何に有用かを。」

「ああ、そりゃ有用だろうよ。負傷と感染が結び付かなくなる上に、無症状保菌者が捕虜になれば其奴から病を敵に感染させられるからな!手前は旭暉人以外絶滅しろとでも言うのか?到底理解出来ねえな!」

理一は強く否定したが、内心では揺らいでいた。男の言を信じるならば、「あらゆる病に感染しても発症せずに生きている」人間が居る事になるのだ。もし、もしその能力を、一般の人間にも分け与える事が出来たなら。――母は。

その思いを振り切るように踵を返したが、思い返して立ち止まる。振り返れば、男も防護用品を外していた。

「オイ、『生体から採取した』って言ったな。」

「ああ、その通りだが。」

「その『生体』、野放しになって無えだろうな……?」

男は外した手袋を使用済の箱に放り込みながら口端を上げた。

「安心し給え、自由には出歩けない環境で管理されている。」

 

夜更けと言うまでは遅く無い時間、しかし日勤の終了からは随分と遅れた時間。甲種研究棟から戻った理一は、執務室の長椅子に体を放り出した。特段柔らかいとも言えない椅子が大きく軋む。理一はそのまま軍帽が潰れるのも厭わず上を向き、腕で顔を覆う。

「クソが……。」

理一は歯を噛み締めた。研究する価値が無いとは言わない、寧ろ喉から手が出る程欲しい材料だった。その人間が感染している病であれば、研究用の菌が直ぐに手に入る。病の性質や、種痘の研究も進む筈だ。けれど、死滅や無毒化した菌により免疫を獲得させる種痘ではなく、保菌した状態で発症させず共生するというのは、それは、人間としての機能が損なわれているに等しい。そんな事を試せば、通常の人間は高い確率で発症し、病によっては死に至る。

理一は頭から軍帽を毟り取って床に叩き付けた。眼鏡は、乱暴に外したものの、手を伸ばして側の机に置いた。そして大きく息を吐く。孝晴を人間として肯定している筈の自分が、病と共生する特殊な人間に対して何を思ったか。その人間が檻の中に居る事を確かめずに居られなかった。孝晴は病を振り撒いたりしない、と理屈で分かっていても、人ならざる性質を持つ存在という点では同類だ。けれども、感染者は隔離し治療すべきであり、しかし、治る希望のある病と違い、彼らは。

「……ッ!!」

理一は頭を振って跳ね起きると外へ飛び出した。明晰な彼の頭の中は、今や滅茶苦茶に乱れていた。何も考えたく無かった。理一は鍛錬用の路を全力で走った。走って、走って、肺が悲鳴を上げるまで走って、漸く落ち着いた頃には、東の空が白み始めていた。

 

「帝國の書庫番」

丗一幕「無明長夜の春」

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