最初に聞いた時は、何も考えていなかった。パパはいつも正しかったから、新しく兄が増えるって聞いても、仲良くできたら良いなとしか思ってなかった。でもアイツは、そんな単純じゃなかった。実際会ったら、目付きは悪いし、全然口をきかないし、僕が困ってても全部無視してた。でも、ほっとけないと思った。アイツ怒るとすぐ手を出すしほんとに怖いんだけど、ずっと、なんだか辛そうだった。それが変わったのは、いつだっけ……そうだ、僕がママの手伝いをしようと思ってお皿を受け取ったら、椅子に足を引っ掛けて転んで……アイツのお皿、割っちゃったんだ。それでアイツ怒って出てっちゃって、僕は泣いて、ママに「あなたが迎えに行ってあげるのよ」って言われて。それで探してたら、アイツ、また喧嘩してて。「俺は捨てられてなんかない」って言いながら殴っててさ。怖かったよ、すっごい怖かったけど……その時が、一番辛そうな顔してたから、僕は抱きついて止めたんだ。ダメだよ、やめてよってしか言えなかったけど。ママはああ言ったけど実は着いて来てて、すぐに来てくれて、相手の子に「うちの子がごめんなさい」って謝ったけど、アイツ、ママにも「俺はお前の子じゃない」って言って。でもママは怒らずに「そうね、まずは一緒に家に帰りましょう」って、僕はまた泣いちゃってたんだけど、その時は、初めてアイツ、僕の手を振り解かなかったんだ。
それから、さ、ちょっとずつ仲良くなって。パパやママには睨んだり怒ったりばっかりだったけど、ママは「また怒られちゃった」って泣いたりして、でも僕にはね、手伝ったりしてくれるようになってさ。でも一回、すっごい怒って部屋に帰って来たことがあって。旭暉に帰るって話が出た頃だったかな。「女の名前つけられた、馬鹿にされてる」って。アイツさ、一回もほんとの名前教えてくれたことなかったんだ。今もだけど。でもさ、僕はもう、アイツのこと怖くなくなってたから。それに、パパは絶対間違わないと思ってたし。だから、内緒の呼び方を決めたんだ。僕はハンス、アイツはマリー。僕だけの、僕らだけの呼び方。受け入れてもらえて、ほんとに嬉しかった。
でも、いつの間にかアイツは、僕よりどんどん、何でも出来るようになって。パパも、僕よりアイツを頼りにしてる。分かってる、だって僕には、何の才能もない。でもアイツは、アイツは僕の言うこと、ちゃんと聞いてくれるから。「仕方ないな」って言いながら、僕が思った事、叶えてくれるから。アイツだけは僕のものだった。けど、アイツ、何でも出来るから……僕の為になら、何でも……アイツが、マリーが、僕の為に罪を犯すなら、それは、……僕の、所為……嫌だ、嫌だ!考えたくない……考えるのが怖い……だって僕、何も出来ない。何も出来ないのに。出来ないよ。どうしたらいいの。何も……できないのに……。
太田榮羽音は、ノックの音に身を起こす。昼を過ぎて、今は読書の時間である。自室で本を出してはみたものの、物思いに耽り全く身が入らなかった。ベッドに寝転んでいたのが気付かれないように軽く髪を直すと、榮羽音は扉を細く開けた。
「パパ……。」
「榮羽音、時間はあるかな。少し早いが、お茶にしたいんだがね。」
父自らがこの部屋までやって来るのは珍しい。父が榮羽音に小言を喰らわせる時は、大抵、書斎へ呼び出される。良い報告であれば、食事の席で伝えられるのが常だ。午後に茶の休憩を取る日であっても、普段は使用人が呼びに来る。きっと鞠哉との件なのだろうと予想しつつも、怒られるとも確信が持てなかった榮羽音は、やがて無言で頷いた。
「何故、孝晴さんは新聞ばかり読まれるのですか。」
孝晴の隣を歩くあまねが話題を振る。あまねの手には藤で編まれた手籠が掛けられており、中には折り畳んだ風呂敷が入っている。今日は週休日。あまねは、孝晴を知る為には、自分が普段何を考えてどのように過ごしているかを先ず見せねばならないと思ったそうで、買物に孝晴を連れ出したのだ。男連れで買物というのも奇妙なものだが、漸く一人での買物を覚えたばかり故にか、特に違和感は覚えていないようである。もしくは、使用人が人足を使って購入した物品を運ぶのと同様の事と思っているのか。今の所孝晴は随伴しているだけであるが、そのうち荷物を任されるのかも知れない。
「政治の頁をご覧になるのは理解出来ますが、わたくしが目を向けると、いつも雑事の頁ばかり開かれているものですから。」
「雑事の方にも目を通した方が良いぜ、あまね。そりゃ政治も生活に関わるが、所詮御偉方が決めるこった。俺らみてェなモンには、世間の情勢の方が余っ程役に立つもんだぜ。」
あまねは「有坂家の三男がそれを言うのか」と言いたそうな表情を浮かべたが、懐から帳簿を取り出す。
「分かりました。新聞は雑事欄まで読むべき、と。」
「おいおい……全部書いてンのか。」
「当然です。今は何もかも勉強中の身ですから。」
一度見聞きしてしまえば頭に記録できる孝晴は、学校で書いている場面を見せねば奇妙に思われるような時を除いて、勉強の為に書き付けるような事はしない。あまねはあくまで「普通の人間」なのだと改めて理解しながら、孝晴は続けた。
「……あとは、兄さ……兄上に、頼まれたンだよな。媛子の事が載ったら教えてくれって。」
「何故ですか?よくお一人で出掛けてしまうという記事は、わたくしも拝見していますが。」
あまねは首を傾げる。貴族生活に関する記事は、当然、あまねも読んでいる。誰がどの家に嫁いだのか、どこの家を誰に継がせたのか、そうした情報は直接、間接に入ってくるもの全てが貴族社会では重要になる。有坂孝雅の一人娘である媛子については、その天真爛漫な行動が屡々話題の種になっていた。御苑の花を手折り花輪を作っていた、家から一人で抜け出して恩賜公園に馬を見に来ていた、など。それまでは孝晴も、単に御転婆娘なのだと思っていたのだが、媛子の事情を知っては、親の心配も当然と理解した。
「兄上は、あれは家庭の私事だから、でかく書き立てて欲しく無ェんだ。恥に思ってるとかじゃねェ、あの子はちっとばかし、成長が遅い。見た目より大分幼い娘の行動を逐一書かれちゃ、誰が何処で悪い気を起こすか分からねェだろ。だから、記事が出次第新聞社に願書を送ってンだと。」
「成程、それで、孝晴さんにも。」
「そういうこった。兄上は忙しいからな。」
正月の空気は抜けたものの、未だ冷え込みの激しきい時期。白い息を吐きながら連れ立つ二人は目を引いているが、あまねも孝晴も気にしてはいない。あまねなど、日頃はだらし無くしていたら他人からどのように見られるかと目くじらを立てているのだが、婚姻し貴族の立場を降りる事になる為、これはこれと割り切っているようだ。
二人は商店の並ぶ通りを歩く。あまねが軽く孝晴を振り向いた。
「孝晴さん。家に入り用な物はありますか?」
「んにゃ?無ェと思うが。」
唐突に尋ねられきょとんとした表情を浮かべる孝晴。有坂家の「離れ」に、不足がある筈が無い。あまねは息を吐いて首を振った。
「有坂のお家が快適なのは、使用人の皆様が常に整えて下さっているからです。炊事場や湯沸かしに使う薪や毎日の米も、足りなくなる前に補充するのです。わたくし達は、それを自ら行わねばならなくなるのです。そのうち家を持つのだという事を考えて生活してくださいませ。」
「…………。」
「今の孝晴さんの御給金では、大勢の使用人を雇えないでしょう?」
ぐうの音も出ない。が、そもそも孝晴に婚姻後に家から独立して生活を営む未来は無い。あまねに自身について明かさない限りは、であるが。
「そうさな……これからは、考える。」
そう、当たり障りの無い言葉を吐く事しか、今の孝晴には出来なかった。
気不味い雰囲気になりかけた二人の横を、子供達がはしゃぎながら通り過ぎた。何気なく目で追うと、先の方に人集りが出来ている。子供だけでなく老若男女に取り囲まれて歩いて来るのは、二人の少女だった。
「そう言や、通りすがったな。」
「何とです?」
怪訝そうなあまねに、今度は孝晴が息を吐く。
「今話題の、『千里眼』さね。先に通りすがった乾物問屋の娘だ。」
「そんなもの、何か仕掛けがあるに決まっているではありませんか。」
あまねはむっとした表情を浮かべる。一体何に腹を立てているのかと孝晴は頬を掻いたが、人を引き連れて歩く彼女達と鉢合わせるのも面倒だ。孝晴が脇に避けるのに倣い、あまねも道の端に寄る。人ごみの中に、瓜二つの顔の少女が二人、手を繋いで歩いているのが見えた。そのうちの一人は不安気に目線を彷徨わせているが、もう一人は胸を張って前を向いて歩いている。彷徨う少女の目線と、それを眺めていた孝晴の目が一瞬合ったものの、その視線は直ぐに離れて行った。
瞬間、
「ッ!!?」
ずきん、
頭に何かが突き刺さったような痛みを感じ、孝晴は弾かれたように背後を振り返った。目線の先には、――今離れたばかりの少女の目が、同じく驚愕に見開かれ、孝晴の視線とかち合っている。一体何があった?傷はとうに治癒している。今の痛み方は、銃弾に引き裂かれた時とは違った。もっと、太い錐を突き刺されたような感覚。しかも、あの少女はそれを理解しているとしか思えない挙動をした……。
「どうしたんです、『おとわ』お嬢さん。」
周りからの声が掛かると、少女はふるふると首を振り、そのまま歩き去ってしまった。
「何だってンだ……?」
孝晴は呟いたが、じっとりとした目線を感じて振り返る。あまねが、目を細めて此方を眺めていた。
「ああいう、小柄で可愛らしい娘(むすめ)が好みなんですか。」
「ばっ、」
孝晴は瞬時に悟った。あまねは自分の頭痛を知らない。通りすがった瞬間に振り返って、そして見惚れていた、そう取られても無理は無かった。
「誤解だ、あまね。後ろから引っ張られたような気がしただけだ。」
「あちらさんも、孝晴さんを見ていたように見えましたけれど。」
「そりゃ有坂の木偶の坊が出歩いてンだ、見るくらいしても可笑しく無ェ。」
「言い訳がましいですね。」
にべもなく言い返されてしまい閉口する孝晴に、あまねはふと、顔を曇らせて呟く。
「わたくしは、女らしくはありませんから。」
「はぁ……?」
孝晴は眉を寄せた。確かにあの姉妹は嫋やかで可愛らしい顔立ちをしていたが、あまねとて器量は悪く無い。それと女らしさに何の関係があるのかと孝晴は首を傾げるが、既にあまねは背を向けて歩き出してしまっていた。
その夜。
「……。」
孝晴は頭の痛みで目を覚ました。昼間と似ているが、ああまで鋭くは無く、もう少しぼんやりとした痛みだ。しかし、こんな事は今迄に無かった。一体何なのだと起き上がり、外の風に当たろうと縁側へ向かう。
――有坂様。
――有坂、孝晴様。
声が、聞こえた。反射的に周囲を確認するが、間違い無く、誰も居ない。いや、既に分かっていた。これは「自分の頭の中」から響いている。声がぐわんぐわんと脳内に木霊し、目が回りそうになる。
「……何だ、これ……。」
――申し訳、ありません。調整など、今迄行った事が無いものですから。
孝晴が目眩を感じた直後、そう言った声は僅かに小さくなっていた。頭痛は治らないが、孝晴は考えざるを得なくなっていた。この声は、自分と――自分の思考と、会話している。
――その通りです、孝晴様。こんな夜分に申し訳ない限りではございますが、此方に来ていただけませんか。我々に会って、いただけませんか。
どうやって、と思った時には、酷い頭痛と共に、見覚えのある風景が脳裏に浮かび上がる。孝晴は頭を押さえた。
「わぁった、わあったよ……直ぐに行く。」
そう言った瞬間、孝晴の姿は消え失せる。そして次の瞬間には、昼間に通った商店街の問屋、その裏手の通りに孝晴の姿が現れていた。
「ッてェ……。」
ずきずきと痛む頭に片手を当てながら、孝晴は呟く。冷たい夜風も、この頭痛を治める役には立たない。頭痛と共に、今度は見知らぬ記憶が脳裏に浮かぶ。塀を越えた先、屋敷の雨戸は閉め切られているが、右から二番目の雨戸は鍵がかかっていない。何故分かるのか理解出来ないが、孝晴は軽々と塀を飛び越えると、それに従い戸を静かに引いた。案の定と言うか、戸は当然の如く開かれる。
――そのまま、右手の奥へ。わたくし共は、其処におります。
人の気配が無い事を確認し、孝晴は声の通りの部屋へ向かう。それにしても奇妙な声だ。女とも男ともとれない、そもそも、これは「声」なのかも定かではない。部屋の前で息を吐くと、孝晴は襖を開ける。
「お待ちして、おりました。」
頭の中の声ではなく、部屋の中の人間――並んで座す二人の少女のうちの片方――が、そう声を発する。そして同じ顔をした二人の少女は、揃って同じ動きで頭を下げた。
深夜にまで業務が及んでしまった。四辻鞠哉はそれでも、今夜は必ず榮羽音の元へ向かうと決めていた。有坂孝晴に言われたというだけではない。この家の主である太田公爵は、確りと鞠哉と榮羽音の間にあるぎこちなさを見抜いていた。その上で、なんと鞠哉より早く起床し、鞠哉が業務を始める前の早朝に時間を取って話をされたのだ。勿論その分早く起こされる事にはなったが、それは鞠哉の仕事を圧迫しない為の公爵の気遣いであるのは、鞠哉にも当然分かっていた。鞠哉はそこで、これまで破滅させて来た相手への罪悪感を包み隠さず吐き出した。公爵相手にも話す事が出来たのは、既に一度吐いてしまった為か。太田公爵は話をじっと最後まで聞き、そして鞠哉の献身への感謝を述べた。
――『しかし、君だけが苦しめば良いと思う者など、この家には一人も居ない筈だよ、鞠哉。』
『私はこの家と一族を預る者として、君に甘え過ぎていたのだろうね。今迄苦しませて、済まなかった。』
『私が、君の両親が見つかるまで【父代わり】の役目を果たすつもりでいるのは、君を受け入れると決めた時から変わっていない。だが、君と榮羽音は、自分達の力で兄弟になった。君さえ良ければ、君の好きな時に、私を【父】と思っても構わないのだからね。』
『……次は、榮羽音の番だ。そろそろ榮羽音も、この家を継ぐ者として心構えを持たねばならないからね。あの子の優しさが、君を傷付けて成り立つものであってはならないと伝えるつもりだよ。』――
鞠哉は思い返しながら、自身の首許に結ばれたループタイに触れた。メダル部分は、鞠哉が生き別れの両親から託された金貨の表面。裏面は榮羽音の首にある。タイの色は、互いの目の色だ。鞠哉は緑、榮羽音は青。作ろうと言ったのは榮羽音だ。榮羽音は、他の子供達と違い、鞠哉から両親の思い出を奪おうとしなかった。ただ、兄弟の証として、共有出来るものを求めた。
『入るぞ、榮羽音。』
ノックするなり、鞠哉は言った。鍵は開いていた。中でバタバタと慌てる気配がした為、榮羽音も起きていたのだと分かる。そのまま扉の中に無遠慮に入り込むと、榮羽音はベッドから落っこちて床に蹲り、頭を押さえていた。
『何に慌てたんだよ。』
『……知らない。』
あからさまに目線を逸らす榮羽音に、鞠哉は詰め寄る。いや、近寄って、しゃがみ込んだ。
『なあ、榮羽音。あいつがどう言ったか俺は知らない。けど、……俺は、太田家と、お前に危険が及ばない限りは、何もしないよ。約束する。』
『……。』
榮羽音の目には、やはり怯えが見える。鞠哉は内心首を傾げる。太田公爵が話をしたのであれば、少なくとも何か変化があってもおかしくは無いと思っていたが……。
『でも、それって、僕たちの為なら、なんでもするって事じゃん。』
ぽつりと、榮羽音は言った。向けられた目には、不安がありありと浮かんでいる。
『僕たちの為に、僕の為にって、そしたら僕の所為じゃないか……!パパも、僕よりお前を頼ってるのに、僕に何も任せてくれなかったのに、今更、僕がみんなの責任を負う立場になるなんて、そんなの、そんなの出来っこないじゃないかよ!』
鞠哉は目を見開く。榮羽音の感情がくるくると変化する。今は、悲しみ。そして、怒り。嫌悪。
『やっぱり、そうなんだ。金次は、お前はこれからも人を殺すって言ってた。』
『お前……、榮羽音、お前、俺より、あいつを、信用するのか。』
声が震えていた。榮羽音の声も、震えた。
『だって、お前、ほんとの名前さえ、教えてくれないじゃん。僕を信じてないのは、どっちなんだよ。お前のやることの理由に、僕を使わないでよ!』
ひゅっと、無意味な音が喉から漏れる。ベッドに入っていた榮羽音の首に、色違いでお揃いのタイは結ばれていない。違う、榮羽音。榮羽音が、新たな名を受け入れさせてくれたから、だから、過去の自分は、此処には要らなくなった。それだけ、だったのに。
『……約束、守るって言うならさ。もう、外に出ないでよ。外の仕事なんて他の使用人に任せて。……僕だけのマリーでいてよ、ずっと、このままでいい。誰も殺さないで。何処にも、行かないでよ……。』
榮羽音の手が伸ばされる。ああ、毒された。榮羽音を、あの男の毒から守れなかった、鞠哉の落ち度だ。それでも、逆らえない、榮羽音を失う事は、耐えられない。
鞠哉は呆然としながらも、了解の言葉を口にし、胸に飛び込んできた榮羽音を強く抱き締めた。
「帝國の書庫番」
丗四幕「毒薬転じて」