帝國の書庫番   作:跳魚誘

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春の終わり、青葉芽吹く頃。


帝國の書庫番 五幕

 「春ってのは、どうにも落ちつかねぇもんだな。」

 ぶらりぶらりと歩いてゆくのは孝晴だ。その後ろには、烏羽の軍服を纏った小柄な影が控えている。麟太郎は孝晴が自分に話しかけたのかどうか、少し考えてから抑揚なく答えた。

「虫も獣も、春になると動き出します。植物さえそうです。人だけがそうならない理由は、ないのでは。」

「そうかもなァ。ま、浮かれ気分も悪くねぇやな。やっと寒さも落ち着いて来たんだ。」

 孝晴が返事を返したことで、麟太郎は内心息を吐く。孝晴は必要な時には呼びつけるし、麟太郎も承知の上でいる。呼ばれておらずとも着いて行く事も茶飯事ではあるが、警兵服姿の麟太郎が傍にいれば、嫌が応にも目立つ。一人でふらふらとしたいだけだったのならば気分を害したかも知れない、と考えていたところ、先程の会話が発生したのだ。どうやら今日も許されたらしい。従う事を許されなければ、その日は黙って離れるのみではあるのだが。

 二人は早くも葉を繁らせる五弁花並木の土手を抜け、その先で橋を渡り、東へ向かう。さて、この先には何があっただろうかと麟太郎が考えていると、一軒の蕎麦屋から一人の男が出てきた。麟太郎だけでなく、普段他人に興味を持たない孝晴までもが足を止めたのは、その若い男が余りにも落胆した様子だったからだ。大きな溜息を吐いて顔を上げたその男と、孝晴の目線が重なった。男は数秒間孝晴を見つめ、言った。

「……お兄さん、生まれは東都か?」

「生まれも育ちも東都だねぃ。」

 孝晴はすぐに答えたが、麟太郎は一瞬、その強い西訛りの抑揚に気を取られた。その間に男は孝晴に近づいている。唐突に距離を詰められキョトンとした表情を浮かべる孝晴に、男は――頭を下げた。

「頼む!西都の飯が食える店、知ってたら教えてくれへんか!?」

 

「いやあ、すまんな兄さん、俺、東都に来てからほんま難儀してんねん……こない味の濃いぃもんばっか食うてたら塩漬けになってまうわ。どうせ漬けられるなら出汁のがええっちゅうねん。」

「そんなに味が違うもんかい、西の食いものは。」

「全然ちゃうで!東都のもんは塩っ辛い醤油ばっか使(つこ)てるけど、西は出汁が基本なんや。味噌の汁も殆ど飲まへんな、普段はすまし汁やねん。んで、まぁこれから東都で働くんやし、そのうち慣れる思てたんやけど、ここ最近我慢でけへんようなってな、行ける範囲でええ店ないか探しててんけど……。」

そこで男はまた溜息を吐いた。孝晴は珍しく面白そうに笑みを浮かべながら話を聞いている。孝晴が心当たりの店に案内してやる代わりに要求したのは、「連れて行った店の飯を自分にも奢ること」だった。対価としては突飛な申し出に男は暫し悩む素振りを見せたが、最終的には承諾した。それほど食に執着する性質(たち)なのだろう。

 男は並ぶと孝晴と同じくらいの長身で、左目を斜めに横断する傷跡が特徴的だ。それでいて悪人面という訳ではなく、寧ろ好感を抱かせる雰囲気ながらも所作には落ち着きがある。歳は孝晴と同じか少し上だろうか。躊躇なく孝晴に話しかけたあたり、本当に帝都に出てきたばかりなのだろう。麟太郎は少し離れて二人の背後を歩いている。男は頭を下げた後、孝晴の後ろに警兵が控えていることに気付き怪訝そうな顔をしたが、孝晴が簡単に麟太郎を紹介し「こいつは普段からこの格好してるだけで、今日は非番だ」と伝えると、「まだ小ぃさいのに警兵サンやってるんか。頑張ってんなぁ、偉いで!」と笑顔で麟太郎の頭をがしがしと撫でてきた。尉官以上が身に付ける襟巻の存在には気付いていないのか分からないが、少なくとも悪気や害意は麟太郎には感じられなかった。感じていたら、こうして大人しく後をつけている訳がない。

「あんたは西都の出身なのかぃ?」

「西都っちゅうか、湊(みなと)のもんや。」

「へえ、湊ね。何でまた帝都に。」

「東都に転属されてしもてな。」

孝晴はいつもの笑みを崩さぬまま言った。

「どうも帝都が嫌そうだねぃ。」

「そらそうや!急に呼び出されてお前は東都勤務やー、言われて、そない簡単に地元を忘れて喜べるかい。まぁ、稼ぎはようなったから悪くはないねんけど。」

「じゃ、ま、取り敢えずここを試してみるかい。」

「すき焼きか。確かに西にもあるわ。」

暖簾を潜る孝晴が、普段よりも深い笑みを浮かべている事に麟太郎は気付いていたが、黙って二人を見送った。

 

「なんやろ……すき焼きてもっとこう、甘いもんやないん……?」

「甘い?充分甘かっただろぃ。」

「ちゃうねん、単純なんやけどもっと趣のある味っちゅうか、肉をもっと味わって食うもんっちゅうか、なんであないに汁だばだば入れんねん……ちゅうか兄さん、めちゃくちゃ食いよったな。」

「タダ飯が食えるんだから、そりゃ食うさね。あんたも同じ立場ならやるだろぃ。」

「タダより高いもんはない、って言葉知ってるか?」

「はは、悪かった。次行くかぃ。」

「ちょ、頼んどいてなんやけど、これ、俺が満足するまであんたに奢り続けるんか?」

「迷惑料には安すぎるくれぇだぜ。こっからは『頭使ってやる』からよ。」

「ハァ……厄介な奴に声かけてしもたかもしれへん。」

大きな溜息を吐きながら頭を抱える男の後ろで、孝晴が「頭を使う」意味を知る麟太郎は黙って目を閉じ、再び二人の後に続いて歩き出した。

 

 うどん、鮨、鍋、洋食に至るまで。何軒目だっただろうか、店を後にした孝晴は珍しく神妙な面持ちで、呟くように言った。

「なんか、悪ィな。」

「いや、寧ろここまで付き合うてくれるとか思てへんかったし、ここまで食いまくるとも思てへんかったけど、兄さんが真剣に考えて店探してくれてんのはよう分かった。」

「遷都後に西都あたりから来たって店を当たってきたんだが、西そのままって店はなかなかねぇんだな。東都の人間の好みに合わせてりゃ当然っちゃ当然か……。」

遷都はもう四十年前、東都で受け入れられてゆくうちに味も変わって行ったのだろう。比較的新しい店にも男はあまり満足そうでは無かった。頭の中で店ができた時期や立地、その他孝晴が覚えている限りの情報を繋ぎ合わせながらここまで来たというのに、こんなにも「簡単そう」な事で躓くとは。さしもの孝晴も予想していなかった。

「……気になったんだが、なんだかんだ言って、あんたも全部食ってんな。」

「そら、体が資本の仕事やからな。食おうと思えば食えるで。まあ……お陰で財布がめちゃくちゃ軽いねんけど。」

じっとりとした目を男は孝晴に向けるが、孝晴はふと、顔を上げる。

「あんた、体使う仕事って言ったな。甘いもんはいけるクチかい?」

「へ?あぁ、まぁ確かに疲れた時は甘いもんが欲しくはなる……ってちょ、兄さん!?」

「ある!飯屋じゃないが、少し前に湊から移ってきたって茶店が、噂になってたはずだ。」

「ほんまか?……あーーー、もう、この際や。最後まで着いてったるわ!」

走り出す――勿論彼にとってはゆっくりとなのだが――孝晴の姿に、麟太郎は普段の彼とは違う何かを感じていた。いつも微笑んでいるものの、ある意味麟太郎以上に感情を出さない彼が「楽しそう」なのだ。もしかしたら、生まれてからずっと「有坂家の男」としての立場に縛られ、東都の「外」を書面上でしか知らなかった彼が、今初めて「ただの『兄さん』」として扱われ、西という未知の領域の人間に生で触れているからかもしれない。あんな風に分を弁えず孝晴に声を掛ける人間など、東都には居ない。……自分も含めて。

(東都の外を知らないのは、私も同じか。)

自分の感情を言い表す言葉を見つけられなかった麟太郎は、無表情のまま二人を追った。

 

 中心からは少し外れ、高台からであれば湾の入江が望める帝都の南部。湾に近いため、魚を商う店や料理屋が点在する区画に、ぽつりと見える暖簾。それを見た男は目を開いた。

「あれ、ほんまか、あの店なんか。」

「心当たりありそうな顔してんなぁ。」

満足気な孝晴を尻目に、今度は男が先に駆け出して行く。

「お麟。」

「はい。」

「行くぜぃ。」

「私もですか。」

麟太郎が毎度外で待っていたのは、孝晴ほど大食ではない事と肉が好きではない事が主な理由だったが、それでも何故今度は呼ばれたのかと首を傾げた時、店の方から嬉しそうな声が飛んできた。

「兄さーん!麟クンも来ぃや!」

孝晴は麟太郎に向けて、にやりと笑った。

 

 茶店はこじんまりとしたものであったが、新しく建てた訳ではなく、元あったものを譲り受けたのだという。店主は若い男だった。

「まさか出水屋が東都に来てはったとは知らへんかったわ、自分の親父(おやっ)さんとこ、俺が餓鬼ん頃初めて連れてってもらった菓子屋やねん。懐かしわ〜!」

「おおきにな、あんちゃん。儂も同じ湊の人間に贔屓してもろて嬉しいで。」

会話を横で聞いているだけで、二人の背景が分かってしまう。どうやら、西の人間は東の人間に比べて話し好きのようだ。店主は「帝のおわす新都でも家の味を広めたい」と東都に出てきた菓子屋の息子であり、湊にある元の店は、男が「子供の頃ご褒美として初めて食べさせてもらった甘味」だったらしい。男は満面の笑みを浮かべながら言う。

「な、兄さんと麟クンも食べや!湊にしかない餅やで。」

「『なかった』が正しいのでは?」

「へぇ……こりゃあ、餡は豆かい?」

「そうですね、昔は湊あたりでしか手に入らなかったようです。今はこっちでもそこの湾に船で届くんですよ。」

「なんやねん、東言葉なんて使いよって!」

「東都のお客は慣れてないねん!はじめあっちと同じように呼び込みしたら閑古鳥やったんやぞ。」

なんとも騒がしい二人をよそに、東都生まれ――麟太郎に生まれの記憶はないが――の二人は珍しげに餡のたっぷりかかった餅を眺め、そして口へ運ぶ。滑らかながら弾力のある餅の食感と共に、とろりとした甘い餡が舌を包む。滑るような餅の喉越し、甘過ぎない餡も、豆自体が僅かに塩味を持つため、より甘味が引き立つようだ。角砂糖をそのまま齧るような真似もする孝晴であったが、これは確かに……。

「うまい。」

「美味しい、ですね。」

真顔で呟く孝晴と、無表情の麟太郎。側から見れば表情と言葉のちぐはぐさに混乱しそうなものだが、男は満足気に笑った。

「せやろ!兄ちゃん、もう一皿頼むわ!」

「まいど!」

そうして、暫く三人は甘味に舌鼓を打ったのだった。

 

 勘定を済ませて店を出る頃には、日が傾きかけていた。男は夕陽を背にして微笑みを浮かべる。

「おおきにな、兄さん。一時はどうなることかと思たけど、あんたに聞いてよかったわ。麟クンもずっとついてきてくれたなぁ。今度は自分にも飯奢ったるからな。」

「いえ、私は結構で……まあ、よいでしょう。ご厚意であるなら、お受けします、……。」

麟太郎は頭をがしがしと撫でられているため、言葉を途切れさせながら答えた。初対面だというのに、距離感が近過ぎはしないだろうか。初めの一回で、放っておいたら毛氈生地の軍帽が型崩れしてしまいそうだと察した麟太郎は、既に帽子を外し抱えている。その様子に、孝晴がからからと笑った。

「いや、俺も珍しいもんが食えて良かった。今後『流行る』だろうから、覚悟しといた方がいいかもしれないねぇ。」

「流行るとええなぁ。けど、あんたにも気に入ってもらえたんならええわ。」

孝晴は笑みを崩さない。発言の真意を知る麟太郎は、変わらず無表情だ。

「ところで、お前さん。名前を聞いてなかったねぃ。」

「あぁ、せやったな。」

「まだ名乗っていなかったのですか。」

二人の言葉に、さしもの麟太郎も割って入らずに居られなかった。あれだけの数の店で食を共にしていたというのに。そして麟太郎は瞼を細めながら孝晴を見る。

「私の名前だけ真っ先に教えておいてですか。」

「俺が名乗って逃げられたらつまらねぇだろぃ。」

その口調と笑みから、それだけではない何かを悟った麟太郎は口を噤んだ。

「なんや、兄さん有名人なんか?」

「覚えといて損するか得するかは、そいつ次第って感じかねぇ。……有坂孝晴だ。」

「孝晴クンね、よろしゅう……ん、有坂?」

初めは笑み、次に何かを思い出すように、そして最後に真顔へとくるくると変化する男の表情を、孝晴はくすくすと笑いながら眺める。その孝晴をまじまじと見つめる男。

「有坂って、『東都で敵に回したら命はない』っちゅう噂の有坂か?」

「そんな風に言われてんのかぃ?けど、多分その有坂だ。」

「ほんまかいな……どうりで周りが遠巻きにする訳や。」

「そういうこった。」

麟クンの所為やなかったんやな、と言いつつ、意外と驚きの度合いも低く、すんなりと納得する素振りを見せた男に、今度は孝晴が語りかける。

「で、あんたは。」

「ああ、せやな。俺はショウスケ。多聞(たもん)正介や。改めてよろしゅうな。」

「ん、よろしく。」

笑顔を交わした二人であったが、孝晴はその笑みを深める。細めた孝晴の目の奥が、仄青い光を帯びた。

「俺にゃ、お前も大概只者(ただもん)じゃないように見えるんだがね。普段何してんだぃ?」

「へぇ、そないな事わかるんか孝晴クン、なかなかええ目持ってるやんけ。俺、邏隊やねん。帝宮の。」

呆気なく明かされた男――正介の職に、麟太郎がぴくりと反応を示した。

「……精鋭中の精鋭という事になりますね、帝宮護衛隊の所属だというなら。」

「せやな。けど俺は街のお廻りやってる方が性に合うねん。」

「ふぅン、だから東都勤務が不満なのかぃ。」

孝晴は表情を崩さないままだったが、正介はふと遠くを見るような目をして、後ろを振り返った。その先には夕陽と、微かに湾の入江が見える。

「ウチは貧乏士族やけど、『正しき事を成せ』が親父の口癖でな。俺もそれを守ってきたつもりや。せやから、こうして認められたんは光栄やと思てる。ただ、麟クンらより、邏隊は街の奴らの近くにおんねん。道間違えそうな奴らに説教食らわしたり、迷うてる奴らの話聞いたったり、そういうんが合うてるんやろな、俺には。」

「そうかぃ。」

「ま、やるからにはきっちり仕事はさしてもらうで。交代で勤務やから、帝宮周りにいる時は声かけてや。反応でけへんけどな。」

にっと笑って振り返る正介。そして彼は「今日は楽しかったで」と礼を言うと、最後にもう一度くしゃりと麟太郎の頭を撫でる。

「そない小さいと大変やろけど、頑張りや、中尉サン。」

「気付いていたんですね。」

「当たり前や。」

手を振って去っていく正介の背を見ながら、気付いていた上でその態度もどうなのかと首を傾げる麟太郎の隣で、孝晴は軽く声を上げた。

「因みにこいつは俺の一ツ下で、あんたともそう歳は変わらねぇからな!」

正介が明らかにわざとであろうと分かる躓き方で転びかけ、「嘘やろ!?」と叫び返す。孝晴は喉を鳴らして笑い、言った。

「一々反応が大きいンだよ。」

 

 男を見送った二人の前には、長い影が二つ、足下に伸びている。春も終わりに近付き日は長くなったとは言え、休日には帰宅する麟太郎は刀祢の家へ、そして孝晴は自分の家へ戻らなければならない時間だ。都の中心へ向かって歩きながら、ふと、孝晴が言う。

「お麟。お前はあいつの事をどう見たね。」

「正直に言えば、あのような方に出会ったのは初めてですので、正確に観察できていたか自信はないのですが。悪い方ではないだろう、とは思います。」

抑揚なく答える麟太郎に、孝晴は顎に手を当てて笑みを浮かべた。

「うん、悪い奴じゃねぇのは確かさね。ただ、さぁて、奴が俺らを見つけたのは、本当に偶然だったのかねェ。」

「……初めからハル様に近づく心づもりがあったと?」

「お前の表情について何も言わなかっただろぃ?あんだけよく喋る野郎が。」

それを聞き、麟太郎も思い返してみる。確かに、体の小ささに反応してはいたが、表情変化の無さには一言も触れられていなかった。だからこそ、戸惑いがあったのだとも言える。警兵服姿で完全に無表情の麟太郎に初対面で怯えないのは、知人か同じ警兵くらいのものだ。

「成程、予め私の存在を知っていた可能性があると。」

「ま、帝宮護衛隊に転属されたなんて話は、簡単につける嘘じゃあない。所作にも隙がなかったし、実力者なのも間違いない。単に場数を踏んでて、お前みたいな奴にも慣れてるだけ、かも知れないがねぇ。」

「調べてみましょうか。」

麟太郎の言葉に、孝晴は首を振る。

「うんにゃ、今はそこまでの必要はねえさ。美味い菓子にもありつけたし、久々にたらふく食わせてもらったしなァ。」

(そう言えば、あの男もハル様と同じだけ食べたと……。)

頭の中で、今日巡った店の件数に一食の代金と人数を掛け合わせて、少々正介が気の毒にも思えてきた麟太郎であった。

 

 (ちっと遅くなってもうたな。)

 多聞正介が小走りにやって来たのは、帝宮の外苑だった。帝の宮までの間には広大な敷地が広がっており、帝宮邏隊(正式には帝宮護衛隊)の本部もそこにある。しかし彼はそこを通り過ぎ、外苑内にある神社にやって来た。ここに来るまで、誰にも見られていない事は確認済みだ。

 正介は拝殿を兼ねた本殿の前で最敬礼の姿勢を取ると、一飛びで賽銭箱と階段を飛び越え、音もなく板戸に体を滑り込ませる。狭い本殿の中は五色の布や御幣が飾られ、中央に鏡が置かれている。その裏の床板を数度、規定どおりの回数ずつ、上下左右に滑らせると、かこ、と小さな音がした。もう一度周囲に聞き耳を立ててから、静かに床板を持ち上げ、隙間に滑り込む。裏側から先程と逆の回数だけ床板を動かせば、もう床が開く事はない。開けられるのは、手順を知る者ーー自分達だけだ。

 正介は暗闇の中、音も立てずに石段を降ってゆく。突き当たった先には扉があり、似たような仕掛けがある。鍵を使わないのは、鍵自体が奪われる事を防ぐ為だという。指先の感覚だけで仕掛けを解いて扉を開けば、その先には、四隅に蝋燭が立てられた薄暗い部屋があった。中には、漆黒の装束を纏った二人の女ーー垂らした布で顔を隠している為、女性である事しか分からないーーが控えており、無言で正介に礼をした。ここで行う事は分かっているのだが、やはりなんとも心地が悪い。

「着替えくらい、自分でできるねんけど……。」

呟くように言う正介に構わず、女達は彼の服を脱がしてゆく。終わるまでは、されるがままになるしかない。

「なぁ、やっぱ自分ら、話したらあかんの?」

二人は無言を貫く。溜息を吐くと、正介はそのまま身を委ねた。脱いだ着物の代わりに、洋式の軍服を纏う。色は、漆黒。胸元に張られた飾布は、狩衣の名残なのだという。仕草で座るように促され腰を下ろすと、頭から首まで覆う張子の面を着けられる。獣を模したその面が、この部隊の最大の特徴だ。前部と後部を紐で締め、首元の留め具で固定し、最後に漆黒の外套を留める。外套の裏地に刺繍されているのは、「旭暉輪菊金鵄紋」。旭(あさひ)たる輪菊を導く金の鵄(とび)を纏う者は、この國で八人しか存在しない。

(嘘ついた訳や、ないねんけどな。邏隊もちゃんとやってるし。あの店も知らへんかった。まさかあないなとこになぁ。ええ収穫やったで。)

二人の女が開いた扉の先は、長い廊下になっている。静かにそこを歩きながら、正介は面の下で小さく笑みを浮かべた。

(しかし、なかなかおもろい奴やんけ……有坂家の弟クンは。あの家、まだまだなんや色々とありそうやな。)

 最後の扉には、女達と同じように顔を隠し、槍を持った男達が控えている。何も言わずとも、二人の手により輪菊の描かれた扉はゆっくりと開かれる。扉を通り抜けた先で跪くと、「鼬面の男」は、言った。

 

「万華菊紋隊(ばんかきくもんたい)、花弁が一、『朱華(はねず)』。参内仕りました。」

 

帝國の書庫番

五幕 「晴に華咲く食道楽」

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