有坂家の広大な敷地内では、それを維持するための庭師・管理人・掃除夫・女中などが日中は常に動き回っている。着物を着崩し下駄履きで出て行く孝晴の姿は、彼らにとっては見慣れたものだ。また末の坊っちゃんはお仕事を放って遊びに行かれるのだなあ、と彼らが内心苦笑していると、ふと、孝晴の足が止まる。つられて使用人達も門の先に顔を向けた。鳶色の軍服に、袖口の線が三本。皮の手箱を提げたその人影は、同じく鳶色の軍帽を外して脇に抱え、その場に立ち止まったままの孝晴に、微笑みかけた。
「また仕事をすっぽかすのか?孝晴。」
珍しく罰が悪そうな顔をした孝晴は、やがて苦笑して応えた。
「……お久しぶりです、孝成兄さん。」
「お休みですか。」
「うん、数日だがね。」
迎えに出た小間使いに鞄を渡しながら、近寄ってきた孝晴に応える孝成。孝晴より少しだけ身長は低いものの、兄弟で一番風紀を重んじる厳格な性格をしているのがこの次兄だ。口煩い方ではなく、寧ろ物静かで謙虚な質(たち)であるため、小言を言われるまではないのだが、孝晴の職務放棄を兄が良く思っていない事は知っている。その孝晴の内心を感じ取ってか、孝成は弟とよく似た目で孝晴を見ながら苦笑した。
「母上と父上に御挨拶してくる。今回は離れに泊まるつもりだから、孝晴が使っていない部屋を開けておいてくれ。」
後半は荷を渡した女中に対して言った孝成に、孝晴が少し目を開く。
「兄さんは母屋に部屋がおありでは?離れよりも手入れされている筈ですが。」
「軍の生活に慣れてしまったから、あまり、母屋にいたくないんだ。そもそも私は豪奢なものは好きではない、離れの方が落ち着く。お前も一人で離れ全てを使っている訳ではないだろう?」
「それは、まあ。そうですね。」
微妙な表情で答える孝晴を見て、孝成はくすくすと笑った。
「そう私を厭うな。どうせ三日後には戻るし、私も休暇中に済ませたい用があるから、殆どここには居ないさ。」
「そういう訳ではないんですが……。」
「では、私は行く。お前も、あまり母上と父上に迷惑をかけるなよ。」
「……分かっています、兄さん。」
母屋へと去って行く孝成の背を眺める孝晴。流石軍人なだけあり、重心を崩さない美しい歩き姿だ。真面目で、努力家で、期待を全て背負い、それに応えてきた次兄。有坂家の中心である母は、何故か長兄ではなく次兄を選んだ。何とはなしに頭を掻くと、踵を返し、孝晴は離れへと戻って行く。よく手入れされた庭は、あの日から殆ど変わっていない。そう、丁度この時期だった。梅雨入り前の陽気のもと。三ツ離れた兄も、自分も、まだ幼かった、あの日から。
葉は繁り蕾は緑鮮やか、あとは雨を待つだけという紫陽花の姿をよそに、空は外を駆け回りたくなるような皐月晴。有坂家の子供達にとっても、それは例外ではなかった。木刀で打ち合いながら笑い、庭に走り出てくる二人の少年。
「兄貴、ほら、やっぱり外の方が気持ちいいじゃねぇかぃ。」
「それはその通りだが、孝晴、これじゃあ規則も何もあったものじゃないぞ。」
「稽古じゃねェんだから、それくらい多目に見なきゃ損だぜ。」
からからと笑う弟に、孝成は困ったような顔をしたが、それでもすぐに笑みを浮かべた。齢(よわい)十三で文武の天才の名を恣(ほしいまま)にする孝成ではあったが、十になったばかりの弟の奔放さを見ていると、自らの中の「子供」の部分が高揚してしまうのも確かだった。見上げれば抜けるような青空、練習用の棒きれを持って走り回る弟の姿はなんとも微笑ましい。しかし、孝成の胸の奥に、少しだけ、黒い感情が頭をもたげる。弟は、早々にあの母から見切りをつけられた。その分、期待も束縛も重圧もないのだ。――羨ましい。一瞬、孝成はそう思った。
「孝晴。」
「どうしたね、兄貴。」
孝晴は言葉遣いも奔放だ。しかしその口調が、孝晴自身は殆ど会った事がない父に似ているというのも不思議なものだ。勿論、弟も「有坂家の男」に相応しい成績を修めている事を知っている孝成ではある。けれど。
「そんな事では、いつまで経っても私には追いつけないぞ。お前は『覚えが遅かった』んだから。」
それでも、少し意地悪な言葉を選んだのは、やはり孝成自身もまだ子供だったからだろう。孝晴は四ツの歳まで言葉が話せず、その後もぼんやりと周りを眺めている事の多い子供だった。ここ三、四年で活発に動くようになり、漸く普通の子供らしくなったのだ。孝晴の表情が強ばり、さっと頬に赤みが走った。孝晴自身も、気付いている。その所為で、自分が親に興味を持たれていないのだと。だから、怒った。
「……だったら、兄貴は、俺が本気でいったら、受け止めてくれんのか?」
「当たり前だろう。」
孝成にも、人一倍厳しい鍛錬をしてきた自負がある。同年代には既に、彼を負かせる者はいない。そんな彼の前で木刀を握った弟の構えは、完璧に「教えられたとおり」のものだった。相対し、そして、その一瞬。孝成には、怒る弟の目の奥が、仄青い光を帯びたように見えた。
兄が強い事は、よく知っていた。兄はいつも、一回りも二回りも大きな大人を相手にして、試合に勝っていた。家柄を憚って相手が手を抜いていると見抜いた時は、珍しく声を荒げて叱っていた。本気で戦えと。それで負けたなら、自分の力不足だと。そうして相手の闘争心を煽っておいて、同じ相手に勝ってみせるのだから、実力は本物なのだ。だから、希望を持ってしまったのかもしれない。いや、その時は怒りの方が頭を支配していた。
(俺が話せなかったのは、お前らが遅すぎて聞こえなかったからだろうが。)
(誰も俺を見つけてくれなかったから、黙って止まってるしかなかったんじゃねえか。)
(俺が、お前らに合わせられるようになるまで、どんな気持ちだったと思ってんだ。)
(でも、兄貴なら、血の繋がった兄なら、もしかしたら――)
刀を握って飛び出した孝晴は、愕然とした。兄は、構えたまま、全く動いていなかった。まずい。"瞬間的に"気付く。面を狙ってしまった。自分の力で木刀を振り下ろせば、兄の頭蓋は木っ端微塵に砕け散る。体はもう動いてしまった。止められない、いや、止めなければ、止まれ、この人は、兄は、母の一番大切な、
母の宝を壊したら、俺は。
動かしてしまった手足、せめて軌道を、変えなければ。全神経を通して全力を手足に込めた瞬間、頭の中で、何かが引きちぎれるような音がした。
どしゃっ、と鈍い音がして、地面に何かが叩き付けられた。
「孝晴、……?」
今まで、たった今まで相対していた弟の姿を探して、呆然と音の方を振り返った孝成は、自分の後ろ五、六歩ほどの距離に、弟が蹲っているのを見つけた。どういう事だ、孝晴は自分の前に居た筈だ。いや、しかしあの、異様な雰囲気は……。戸惑いながらも、孝成は異変に気付いた。弟は突っ伏したまま、ぴくりともしない。駆け寄りその肩に触れようとして、さしもの孝成も目を剥いた。孝晴は顔中が血塗れだったのだ。
「孝晴!?どうした、何が……!」
孝成は慌てて弟を抱き上げようとしたが、転んで顔を酷く打ったなら動かすのはまずいと、頭の傷を探す。しかし、妙な事に気付いた。傷がない。その血は、弟の目や、鼻や、耳や口から溢れている。異変に気付いた使用人が集まって来る。孝晴自身も、周囲の騒ぎを感じていた。音はよく聞こえないが、真っ赤な視界に、慌てふためく兄の顔がうっすら見える。よかった、生きていた、殺さずに済んだ。
「兄貴、」
げほ、と咳をして血を吐き出した孝晴は、小さく、言った。
「あたま、いたい。」
孝成はその場を使用人に任せ、すぐに母親に報告した。ほどなくして医者が到着したが、やはり外傷はなく、極度に興奮した為に出血したのだろうというのが、医者の判断だった。既に出血の止まっていた孝晴は、布団の中で半身を起こしながら大人しくそれを聞いていたし、孝成もそれ以前に見た事は何も言わなかった。医者が離れを後にすると、孝晴は俯き、ぽつりと言った。
「『兄さん』、ごめんなさい。俺の所為で、迷惑をかけました。」
孝成は驚いた顔をしていた。いくら言われても使わなかった敬語を、孝晴が用いたからだろう。それでも孝成はすぐに首を振った。
「違う、孝晴。私がちゃんとお前を見てやっていなかったから……。」
その後も孝成は孝晴を心配する言葉をかけたが、孝晴はそれを無感情に受け流していた。
(そうじゃない。あんたには、見えてないんだ、俺の事は。あんたにも、見えないんだ。)
「優秀」で「普通」な兄。母の権力が絶対のこの家にも、この世界にも、居場所がある兄。――羨ましい。一瞬、孝晴はそう思った。泣きたいような気持ちと裏腹に、孝晴は顔だけで笑みを作っていた。
「やっぱり俺、有坂家(うち)にゃ、相応しくねぇや。」
呟いた声音は、自分でも驚くほど弱々しく、それを聞いていた孝成も、無言になり、暫く側を離れなかった。
孝晴が「今までどおり」を演じつつも、何もかもやる気を失くしたのは、その時からだ。その三年後、ただ無言で向き合い続けてくれた剣の師は、自らの手で殺した。自分もいつか、彼のように消えなければならないという気持ちは、今でも心の中にある。理由は分かっている。孝晴を一番恐れているのが、孝晴自身であるからだ。しかし、いざ気付けば手を出さずに居られないのは、性分というものか、それとも、自分の存在を肯定できる場所を作ろうと、足掻いているだけなのだろうか。
孝晴は思考の底から自身を引き上げる。とにかく、三日間だ。兄がいる間は夜に出歩けない。その間は、昼間の仕事に久々に出る事にしようと決め、急に曇り始めた空の下、孝晴は少し早足で自身の部屋へ向かった。
有坂孝成は歩調を弛める事なく階段を上り、絨毯を踏みながら廊下を歩む。広間、談話室、書斎、幾つもの使用人控室、それらに一切目を向けず、辿り着いた先。樫の扉を無言で開き、部屋に入ると鍵をかける。そこは自分の部屋であるのだが。
「待っておったぞえ、孝成。」
其処に居る事は分かっていた。兄や弟が挨拶に訪れる時は、母は彼女の部屋で兄弟たちを迎える。しかし、孝成の場合は違う。帰宅を知らせば、母は自分の部屋にやってくる。輸入品の窓掛けは締め切られ、装飾過多の洋燈が部屋を照らしている。陰鬱な部屋だ、と孝成は思った。生活感など欠片もない、ただ一級の調度品が並んだだけの部屋。しかし、其処に立つ女は、息子である孝成から見ても非常に美しかった。この部屋の生活感の無さも、その女の妖艶で現実離れした美貌には寧ろ違和感が無い。これが有坂家の実質の主であり支配者、女傑と呼ぶには生温くさえある三兄弟の母――有坂十技子(とぎこ)だった。
「孝成、只今戻りました。」
「分かっておる。近う寄れ、そして……体を見せい。」
無言で頷き、釦に手をかける。毎度の事で慣れている上、この場では「服従」が最善の選択肢だ。静かな、衣擦れと言うには些か風情のない、軍服を脱ぐ音だけが暫く響く。衣類は素早く畳んで纏め、一糸纏わぬ姿で立ち上がった孝成を、母は目を細めて眺める。
「鍛錬は怠っておらぬようじゃな。拵え方も結構、均整も取れておる。さて、その右腕の痣は何じゃ?」
「机に打ちました。『軍務以外では謙虚で穏やかな人間』を演じている以上、多少の欠点を作らねば、逆に目立ちます。実戦で傷を受けた訳ではありません。」
「左様か。じゃが、利腕を傷付けたのは感心できぬぞえ。」
「申し訳ございません。」
「まあよい。お前が、利腕が使えぬ程度で不覚を取る事などあるまい。母はそう信じておるからの。」
笑みを深め、彼女は目線で許可を出す。もうよい、と。素早く衣服を身に付けると、孝成は言った。
「母上。お尋ねしてもよろしいですか。」
「構わぬぞえ。」
「孝晴に変わった所はありますか。」
その問いに、母はその表情をふっと消した。予想外だったのだろう。しかしすぐに、彼女は口元に笑みを浮かべる。
「相変わらず、時折夜遊びに繰り出しておるようじゃの、あれは。」
「何処(いずこ)へ?」
「それは知らぬ。妾の手駒をあれの監督に割けと言うのかえ?」
「いえ。母上がそのように判断しておいでなら、私から申し上げる事はございません。」
そこで流石に、母は怪訝そうに目を細めた。
「どうした、孝成?あれの放浪癖は今に始まった事ではなかろうに。」
孝成は少し目を逸らし、言葉を選ぶ。母の機嫌を損ねたら、自分に利は全くない。ただ面倒な事になるだけだ。
「母上は、何故孝晴を此処に置き続けているのですか。使い道が無いなら、さっさと嫁でも取らせて家から出すべきでしょう。」
「成程、それは妾も考えておった。」
母は優雅に首を傾げ、表情を笑みの形に戻す。
「有坂家は孝雅が継ぐ、あれにはもう子があるからの。次の子が男子(おのこ)であればなおよいがのう。孝晴には孝雅ほどの政(まつりごと)の才はないゆえ、代替品にもならぬ。ただ、あれが拾うてきた『狗』はなかなかに使い勝手がよくての。よく躾けられて物覚えもよい。何より、我が家に血は繋がっておらぬが、孝晴の為なら『どんな事でも』やるからの。役に立つ可愛い仔犬じゃ。そして孝晴は、あれで妾には逆らわぬ。駒として置いておく価値はまだあると、妾は思うておる。」
「そう、ですか。」
母は、誰の事も信用しない。彼女が他人を見る基準は、「使えるか、否か」だ。それは孝成を含む自分の子供達に対しても例外ではない。この母の寵愛は、一般に言う愛情ではなく、単なる評価に過ぎない。期待に背けば、すぐに切り捨てられるだろう。尤も、母自身もそのような世界を生き抜いてきた事を知っているのは、恐らく孝成だけだ。感情の無い目で母を見つめる孝成に、彼女は寧ろ満足気な表情を浮かべて近付き、抱擁する。
「しかし、妾の宝はお前じゃ、孝成。この旭暉一の男(おのこ)じゃ、お前は。この國の盾であり美しき剣(つるぎ)じゃ。それを忘れるでないぞえ。」
「承知しております、母上。」
淡々と答える孝成もまた、彼女を名のある人間というよりも、「母」という属性で認識している事を、彼女は知っているのだろうか。知ったとして、彼女は悲しみや怒りを感じるのだろうか。孝成には分からなかった。
使用人達の元へ帰宅の報告に回り(当然、「謙虚で礼儀正しい人間」を装う為だ)、西棟に住まう父の元へ顔を出し、母屋を出る頃には日が傾きかけていた。着いた頃にはあれほど晴れていた空も、雲がかかって薄暗い。離れに向かい、既に整えられた部屋に荷物を片付けると、孝成は孝晴の使っている部屋へ向かおうとして、廊下で足を止めた。文机のある書院で、座布団を枕に、酒瓶を抱えて寝転がる孝晴の姿がそこにあった。幼い頃から変わらない長い髪が畳に散り、寝返りを打ったのだろう、帯は弛んで衿元が肌蹴ている。その場に立ったまま、じっとそれを観察する孝成の目は、「眠る弟を見守る兄」のそれではない。そこに宿るのは、品定めするかのような冷たい光だ。こんなにだらし無くしていても、体を見れば、弟が単に自堕落に過ごしている訳では無いと分かる。孝成はあの瞬間の事を誰に話していない。だが、確かにあの時、孝晴は「消えた」。
(こいつには、何かある。それは間違いない。その「何か」が、私の脅威となるなら、その時は。)
「口数が少なく真面目で謙虚な兄」は、家族さえ欺き続け、今は弟を始末する時の事を考えている。何故?どうしてそんな事を考えたのか。あの時の孝晴に対して感じたもの、それが――"恐怖"だったから、だろうか。
その時、「うぅン」と孝晴が呻いた。孝成は瞬時に表情を変える。目を開けた孝晴が見たのは、少し呆れ顔ながらも、小言を喉の奥で飲み込んでいる、そんな顔をした兄だ。孝晴は眠そうに瞬きをした。
「あにき……兄さん。」
「……。」
「……。」
その言葉に目を丸くする孝成と、あからさまに「しまった」という顔をする孝晴。互いに無言で見つめ合った後、孝成は、堪え切れないという様子で息を吹き、笑い出した。呆気に取られながらも孝晴は身を起こす。兄がこんな風に笑うのを見たのは初めてだった。孝成も、何故自分が「笑う」という行動を取ったのか分からない。しかし、理由はどうでも良かった。少なくとも、今は。
「ふふ、お、お前、やはり無理をして敬語を使っていたのか。」
「あの、違……寝起きだから……。」
「こんな時間に寝惚けるほど眠り込む奴があるか。もう日が落ちるぞ。ああ、昔は敬語を使えと教えたものだが、今は懐かしいな。『兄貴』か。ふふ……。」
笑う時に手を軽く口元に添える仕草は、孝晴も無意識にしてしまう癖と同じだ。やはりこの人は自分の兄なのだなあと何となしに思った孝晴に、孝成は言った。
「飲むか?一緒に。」
「えっ、兄さんは飲まないのでは。」
「飲まないが、『飲めない』訳ではないさ。」
「俺は酔いませんが、相手が俺でいいんですか。」
「構わない。久々の休暇なんだ、兄弟と盃くらい交わしても罰は当たらないだろう。」
くすくすと笑いながら「湯を浴びてくる」と言い残し去って行く兄を呆然と見送る孝晴。一体兄はどうしたのだ。いや、あの兄の事だ、何か裏があってもおかしくはない。孝晴は兄が時折、恐ろしく冷たい目をする事を知っていた。麟太郎のような「感情のない」目とは違う。相手を試し、値踏みし、価値を見定めようという、底冷えするような意思の宿る目。あの目に一番似ているのは、母の眼(まなこ)だ。孝晴はあの目が苦手だった。目を向けられただけで、自分の全てが否定されるようなあの目が。けれど先程の兄の目は、そうではなかった。あの兄とて、人間なのだ。もしかしたら気紛れを起こすのかもしれない。戻って来た孝成は既に升を手にしていた。女中達を下がらせ、二人並んで縁側に座る。目の前に見える庭の地面を雨粒が濡らし、そして塗り潰してゆく。孝成が空を見上げて言った。
「降って来たな。」
その横顔は、まだ若々しく、優しげにさえ見える。孝晴は「そうですね」と答え、升に口をつけた。
孝晴は考える。兄は何を隠しているのだろうと。互いに本性を探り合いながら、「兄弟」という役割を演じているのは、滑稽な事この上ない。けれど今は、篠突く雨の、暑さも過去も疑念も記憶も全て押し流すような激しい音が、縁側で談笑する二人の男を包み込んでいた。
帝國の書庫番
六幕 「二男と三男」