時計の針は既に零時を周り、家の中に響くのは俺の走らせるシャーペンの音だけ。カサカサと計算用紙が擦れ、わずかに滲む手汗が手と紙とをくっつかせて不快さを生む。
俺は一応の解答を作成し、過去問と照らしあわせ、
「っ……」
軽く舌打ちをした。
簡単なミス、つまり――受験生として許されないミス。
俺は半ば投げつけるようにペンを投げる。そして体全体を投げ出すようにして椅子の背もたれに全体重をかけた。ギィ、と悲鳴のような音を立てて金属部が軋む。
――ダメだ、集中出来ない。
ちらつくのは昨日の出来事。
彼女の部屋で見た一枚の写真。
「希……」
俺は小さく彼女の名前を呟いた。
優しげにたれた目尻に、年齢に似つかわしくない程妖艶な唇。抜群のプロポーションに愛らしい肉声。自分でも驚くほど鮮明に思い出される彼女の外見。
外見だけじゃない。かけてくれた言葉も、いつも送ってくれる見守るような眼差しも。
「どうして……?」
俺の内心はその一言に凝縮されていた。
μ’s全員でラブソングを作る。その計画のもと集まった希の部屋。ほんの偶然見つけてしまった写真立てに飾られていたのは俺と希、二人だけの記念写真だった。夏祭り、花火が終わった後に記念にと、撮ったその思い出。
写真を撮った事自体は別に構わない。
友達同士で行って、記念に……なんてよくあることだから。
でも。
――ただの友達との写真を、大切に飾るだろうか?
もう一つ置かれていた写真立てにはμ’sとの記念写真が入ってあった。そして、俺とのそれは机の端、ペン立ての向こうに隠されていた。誰にも見つからぬよう、見せないように。
――どうして隠す必要があったのだろう?
戸惑いと、動揺が意識を支配して飲み込んでいく。
自然と息が荒くなり、視線が揺れるのが自分でも分かる。動悸は次第に増し、これ以上考えるなと心が叫ぶ。
別に、彼女に他意は無いんじゃないか。今まで、転校続きで仲の良い友達を作ることの出来なかった希。彼女は音ノ木坂に来て、一人暮らしを決意して、やっと欲しかった自分の居場所を手に入れた。
μ’sのメンバーは、希にとって本当に大事な存在。彼女達との思い出を形として残し、飾りたくなる真理はよく分かる。彼女自身、『友達なんだから』と頬を染めて弁明していたし。
だとすれば、俺との写真が飾ってあるのも不思議な事では無い。
少なくとも、俺は希と心から彼女の事を想いながら関わってきた。そして、それは向こうも同じだと思う。俺が上げた思いやりと、同じかそれ以上のものを一生懸命返してきてくれた。誰がなんと言おうと、俺と希との絆は本物だ。
絵里とのそれとはまた別種の強い繋がり。
絵里との繋がりとは……違う。
幼馴染としてのそれではなく……。
「じゃあ、一体何なんだよ」
再び疑問に舞い戻る。
何度自分を『考える必要はない』と納得させようとしても出来ない。五月蝿いくらいに心がざわめいて、考え続けろと俺に命令する。流すな、逃げるな。追いかけろ、捕まえろ、その理由を。俺自身に逃避を許さない俺自身。
そして、何度目か分からない記憶のリフレイン。
――好き。
俺は希の声を、再び聞いた。
忘れられない、一瞬だけ交錯した視線。
柔らかくて、それでいて熱を帯びた俺の思考を掴んで離さないあの眼差し。一日経った今でも平常心を壊し、常に冷静に流れていたハズの思考の波に嵐を巻き起こす。
もしかしたら。
もしかしたら。
『でも、貴方の事を好きなμ’sの娘達はどうなるの?』
ツバサが残していった一言。
きっと、これがキッカケなのは間違いない。俺が俺自身が気付かないほど巧妙に目を背けてきた事実。彼女はそれを掘り起こして俺に突きつけた。そうして今、俺は一つの可能性を前に無様にのた打ち回ってる。
もしかしたら。
もしかしたら。
俺はスマホをぎこちない動作で弄り、画像フォルダに保存されている件の写真をフリックした。その時の光景は五分前の事のように鮮明に思い出される。キツネの面を被り、言い辛そうに写真を取りたいと口にした希。
その頬は不必要に紅く、その表情は形容しがたいほどに幸せそうで……。
もしかしたら。
もしかしたら。
考えることすら苦しい。
想うことすら憚られる。
それでも、俺は一つの可能性と向き合わなければならなかった。
――希は、俺のことを。
***
いつもの喫茶店。
嗅ぎ慣れたコーヒーの香りが鼻孔をくすぐるが、俺はその匂いを知覚してはいるものの認識はしていなかった。
俺はあらゆる雑念を必死に振り払って過去問を解き漁っている。考えなきゃいけないことはたくさんある、でも、やらなきゃいけない事が目の前には転がってるから。俺が越えなきゃいけない受験という壁は、俺のこの先の人生すらも左右する大きなターニングポイント。
どんな悩みを抱えていようと、俺は勉強しなきゃいけない。
考えるのは、あと三〇分全力で数学と向き合った後だ。
キィ。
静かに椅子が引かれる音が響く。
音の出所はやけに近く、続いて木製の床が軋む音。誰かがその椅子に座った合図だ。隣か、もしくは正面か。人の気配を察知したものの、俺は一心不乱に黒鉛の粉を吐き出す。
強く歯を食い縛り、唐突に浮かぶ他の考えを掻き消していった。
二年半の努力を、知識を。半ば機械的に操って目の前の問にぶつける。そして、完璧な状態とは程遠いもののなんとか正解にまで辿り着く。俺が色んな物を捨てて費やした勉強への時間がムダではなかったと、皮肉なことに受験を数カ月後に控え、このタイミングで自覚した。
そして時刻は午後六時三十分。
休憩をと定めた時刻。
俺は一息つきながら顔を上げた。すると、そこには。
「カイナ、調子はどう?」
ツバサが頬杖をつきながら微笑みを浮かべていた。
どうやら先程、俺の近くに座った客は彼女だったらしい。
相変わらず愛らしく、それでいて美しささえ感じさせる目。高く整った鼻梁。女性らしい張りのある唇は可憐な桃色を宿し、キラキラと輝いている。スクールアイドルの頂点、その名にふさわしい出で立ちだった。
「…………」
俺はすぐには返事を返せない。
どうしてコイツは、こうも良いタイミングでやってくるんだろうな。
「うーん、見たところあまり良く無さそうね?」
答えなくても分かるクセによく言う。
きっと、彼女は先の数分か数十分、ずっと俺を観察していたのだろう。そして、俺が休憩に入ったことを雰囲気で察知して声をかけてきた。勉強の邪魔をされなかったのは確かにありがたいが、そこまで見透かされてることが分かると心地良い気はしない。
同時に、俺の今の心理状況を正確に見抜いているはずだ。無垢に輝くその双眸の向こうに、俺の心を覗き込む瞳の色が垣間見えた。
この天才が。
今の俺に、いつもの憎まれ口を叩く余裕は無い。
「なんか用か?」
「ふふ。用がなくては来ちゃダメ?」
蠱惑的な笑みを浮かべるツバサ。見る者全員を恋に落としてしまいそうな破壊力だ。
「…………」
「……はぁ。やっぱりカイナ位よ、私の笑顔を見て眉間にシワを寄せるのは」
演技だって分かってるのにときめく訳が無いだろ。
確かに一瞬ドキリとするものの、それだけ。
俺が好きな笑顔は、もっとこう、優しくて癒やされるような……。
――古雪くん。
「…………!?」
跳ねる心臓。
息を飲む。
「どうしたの?」
「いや、なんでもない」
俺は今誰を思い浮かべようとしていた?
誰の笑顔を……。
「やっぱり、何かあったみたいね」
「別に何も……」
咎めるような視線が俺を貫いた。
「…………」
「……いや、確かにあったけど」
「よろしい。私に嘘は通じないんだから」
いつもの様に嘘で誤魔化そうとしたものの、相手がツバサであることを思い出して諦める。コイツに対して言葉は無意味。顔を突き合わせてしまってる時点で大概のことは見透かされてしまうだろう。
特に、今みたいな心理状態で彼女を出し抜けるはずがない。俺は諦めて溜息を吐いた。
「カイナが何に悩んでるか、当ててあげましょうか?」
いたずらっぽく笑うツバサ。しかし、目は笑っていない。
俺は小さく頷いた、彼女の纏う雰囲気は口調とは裏腹に真剣そのものだ。そもそも、最終予選を控えた彼女が俺の前に姿を表わすということはすなわち、練習時間を一時間減らすだけの意味がこの場にあるということ。
それを理解して、俺はツバサの言葉を待つ。
気品あふれる仕草でカップに手をかけると、彼女はゆっくりとコーヒーを口に運んだ。
「前に私が言った言葉。……現実になったんでしょう?」
無言。
まだ頷けない。核心に変わっているわけではないから。
決まった訳じゃない希が俺を……。
「μ’sの中に、貴方を好きになった女の子が居た」
「…………っ!?」
「もしくは、その可能性を捨てきれない女の子が居るって感じかしら」
相変わらず、遠慮無く物を言う女の娘だ。
俺はどんな顔をして良いのかも分からず、唇を引き結んで彼女を見る。
どうしてそこまで見抜けるのだろうか。我ながら、ポーカーフェイスが得意な方ではあるし、頭だって切れる方だ。いくら悩みに悩んでいる状態とはいえ、ここまで正確に心理状態や状況を読まれるなんて……。
交錯する視線。
吸い込まれるようなエメラルドグリーン。俺はその瞳の奥を覗き込もうと試みた。一方的に心を見透かされるのは性に合わない。コイツが何のためにここに来て、何を伝えようとしているのか見極めたい。
「ふふ」
「……何が面白いんだよ」
「カイナの、そういう所が好きよ」
そう言って彼女は破顔した。
このやろう、おちょくりやがって……。
ジロリ、と不機嫌ヅラで睨みつけてやった。ごめんなさい、からかう気は無いの。そう言ってツバサは両手をひらひらとさせて俺の視線から逃れると、改めて姿勢を正す。
「お互い時間も無いから、さっさと要件を伝えたほうが良さそうね」
彼女は数週間後に最終予選本番を控えているし、俺はセンターまで二ヶ月を切った。傾斜配点の関係であまり一次の得点は必要ないものの、足切りなどを考えると絶対に失敗してはいけない試験が目前まで迫っている。
ツバサが言うようにたっぷり時間をかけて牽制しあっている時間は無いだろう。
「その通り。時間も前髪も無いからな」
「前髪はあるわよ! こういう髪型なの!」
お約束も一応忘れない。
これを欠かすと完璧にペースを握られるからな……今日はちょっと勝てそうに無いけど。
俺は静かに溜息をつくと、自分から話を振った。
「それで。どうして分かった? 悔しいけど、いま君が言ったのと同じ状況になってる」
――希が、俺のことを。
そう考えた途端、全身の血が沸騰したのかと思われるほどの熱を感じる。無意識のうちに握りこんだ手のひらに汗が滲み、鼓動の音が俺自身の耳朶を打つ。感じた事のない衝動と行き場のない感情。
なんなのだろう、この気持は。
なんなのだろう、この想いは。
「別に、難しい事じゃないわ。私はこの前貴方に『μ’sの誰かが貴方に思いを寄せる』という可能性があることを認識して貰った」
「…………」
ふわり、彼女は本物の笑顔を浮かべた。
不覚にも魅力的に写る。
「その可能性さえ理解すれば、カイナなら自分でその女の子の気持ちを見つけ出す事が出来る。……そう思ったのよ」
貴方が今まで彼女達の好意を自覚できなかったのは、無意識のうちに恋愛的なアイデアを遠ざけていたから。でも、私と話をすることによって一つの可能性を考慮しながらμ’sと接する事になる。そうなれば、カイナが何かに気がつくのは時間の問題だと思っていた。
彼女はそう言った。
だからこそ今日試しに会いに来て、表情を見た瞬間すぐに分かったと。
「……泣きそうな顔をしてたわよ? カイナ」
「はぁ?」
「どうしていいのかって途方に暮れる顔。自分の心の在り処すら分からず、ただただ追わなきゃいけない課題を追っている姿」
俺はたまらず俯く。
恥ずかしいことに、彼女の言う通りだったから。
「普通の人間なら、好意を向けられていると知れば喜びが生まれる。仮にそうでないとしても、新たに生まれた問題に夢中になって勉強なんかに手がつかないわ。だからこそ、カイナの様子は端から見ても異常だった。一つの思考を断ち切って、狂ったように本来の目標だけを追おうとしている光景」
間違いない。
今は、勉強しなければ。という想いだけに支配されていたのが五分前の俺。
「そんなカイナは凄く惨めで、余裕が無いのが見て取れる。でも、同時に……」
テーブルの上に置いた手のひら。
その指先に温もりを感じる。
ツバサは自身の指を俺のそれに絡ませながら言った。
「やっぱり……愛おしかった」
呼吸が止まった。
思わず俺は彼女の視線から逃げるように目を背ける。そのままだと、心ごと飲み込まれそうな。そう感じてしまうほどの暴力的な魅力を感じてしまったから。
「どうして、俺にμ’sのメンバーに関する事を意識させたんだ……?」
俺はツバサに問いかける。
彼女は俺のことを好きだと言ってくれた。それなのに、わざわざ他の女の子の好意に気付かせるキッカケを作るなんておかしい。彼女の立場なら、ただ純粋に俺にアピールを続ければ良いだけのはずなのに。
「だいぶ気が動転してるみたいね? その事に関しては一応説明したじゃない」
きゅっと彼女は俺に指先を握りこんだ後、ゆっくりと離した。
「遠くない未来、貴方はμ’sの誰かから。もしくは数人から想いを寄せられるって私には核心があったの。だって、綺羅ツバサが惚れるくらいの男だもの、それくらいの甲斐性がなくっちゃ困るわ」
「…………。なんつー理論」
「でも、その状況はきっとカイナにとっては苦しみでしか無い。私は、大好きな男の子が傷つく姿は見たくなかったの。その弱さに惚れてしまったのも事実だから」
そういえば。
俺はかつての彼女との会話を思い出していた。他の内容に対する驚きが大きすぎて失念していたツバサの意見。俺は忘れてた、ごめんと素直に頭を下げる。
「良いわよ。それにね、理由はもう一つあるの」
その時、言わなかった理由が。
ツバサはその目を閉じた。
一瞬の後、翡翠色の瞳に今まで見たことのない光が宿る。
「それが、今日来たワケ」
窺い知ることが出来たのは、純粋な好意と同時に存在する勝ち気な炎。
「カイナ。私は貴方の事が本当に好きよ」
真っ直ぐに彼女は言葉を紡ぐ。
揺れる心、動揺が鼓動に現れる。
「だから、絶対に私の……綺羅ツバサの隣に来て貰うわ」
――でもね。
「卑怯な勝ち方はしたくないの。ライブでも、恋愛でも」
ツバサは不敵に笑った。
犬歯が一瞬顔を覗かせる。
「カイナが自分に想いを寄せる女の子の気持ちに気が付かないまま、私を選ぶのは許せなかったの。貴方が、全てを知った上で私を選ぶ展開が理想で、そうじゃなきゃダメ。私はそう考えた」
それはまた……。
全くもって凄い女の娘だな。俺は呆れを通り越して感嘆する。
「貴方は気が付いたわ、私以外の女の子が自分を好きになっているという事実に。そして」
確かな信頼を込めて彼女は言った。
「今は混乱している真っ最中でしょうけど、貴方ならきっとその事に真剣に向き合って答えを出す。だから私が今日来たのは、綺羅ツバサのスタンスを改めてカイナに示す事よ。改めて言うわ。私は、貴方のことが好き。今はその自分に好意を持ってるかもしれないメンバーに意識が行きがちだろうけど、私のことも忘れないで?」
俺は目を伏せる。
まだ、俺には彼女の気持ちを正面から受け止めることは出来なかった。それをするにはあまりに今の俺は崩れすぎてる。考えなきゃいけないことが山積みで、もしかしたら未だに見えてない何かもあるのかもしれない。不安定、どうしようもなく頼りない自分。
「この前、私は言ったよね? 私はいつまでも待つって」
「……あぁ」
「でも、アレは取り消すことにする」
コイツ、本当に俺のこと好きなのだろうか? そう思ってしまうほど獰猛で、それでいて小憎らしいほど魅力的な笑みを浮かべて彼女は言った。
「最終予選の後、私はカイナに正式な告白をするわ」
――どこまでも簡潔な宣言。
「その時までに、答えを出しておいてね?」
そう言って、呆然とする俺を尻目にツバサは立ち去っていった。俺のほうが先輩なんだから、敬語を使え。そんなツッコミを挟むことすら不可能なくらい潔く、颯爽と歩いて行くツバサの背中を見送った。
嵐みたいだな。
そんな感想。結局、急にやってきたかと思ったら自分の言いたいことだけ言って、俺の意見も聞かぬまま消えてしまった。
でも、同時に。
――優しい女の娘だ。
動揺を通り越し、落ち着いた俺は素直に想う。
彼女は俺に答えを出すことを迫ってくれた。それはきっと、俺にプレッシャーをかけようとしているわけではなく、純粋な思いやり。『数カ月後に受験を控えた俺の悩みを、出来る限り早く解決しよう』と考えた上で残してくれた一言だろう。
ただの深読み。
そう思われるかもしれないが、俺には核心に似た何かがあった。
――恋愛よりも大切なモノはある。
それが、俺と彼女の共通点だ。
俺には追わなきゃいけない夢があるし、彼女もスクールアイドルに心血を注いでる。
その前提の上で、彼女は俺に好意をくれた。
だとしたら、俺もその想いに正々堂々答えを出さなきゃいけないだろう。
期限まであと十六日。
最後の決断まで、時間は殆ど残されていなかった。
※二期第九話 転機
を読みなおしてくだされば幸いです。