コンコン。
私はゆっくりと幼馴染の部屋のドアを叩いた。
自分の事ながら海菜という遠慮ゼロ人間に、よくマメに作法を守るわよね。実際問題、彼が私の部屋に来た時にノックをした試しはないもの。だからといって私までやめてしまったら怒る権利が無くなっちゃうから続けてるのだけど……。
壁越しに彼の声。
入っていいと言われたのですぐに見慣れた部屋に足を踏み入れ、数冊の教科書を抱え二人で使うには少しだけ狭い机の前に座る。飽きるほど何度も顔を合わせているせいかロクに言葉を交わすことの無いまま勉強を始めようとして――ふと彼の横顔が目に入った。
――あれ、どうかしたのかしら。
そんな疑問が瞬時に浮かんだ。
「海菜、もしかして、今日何かあった?」
ほとんど無意識に出た言葉。
理由を聞かれたら『なんとなく』としか答えられない感覚のようなもの。でも、出所の分からない確信と共に私は問いかけたわ。いつもと変わらない横顔の裏に、どこか違う雰囲気を感じ取ってしまったから。
何かはわからないけれど、彼の中で何かが大きく変わったような。
そんな気がした。
「…………」
一瞬の沈黙。
海菜は戸惑いの色を色濃く浮かべた。ぼうっとするほどに深い黒曜石のような瞳が僅かに揺れる。
この様子だと、どうやら本当に何かがあったらしいわね……。
彼は表情豊かな人間ではあるものの、自身の感情をそのまま顔に出す訳ではない。いわゆる、意図的に表情を変えるタイプのポーカーフェイス。だから、他の人には彼の心情を察することは難しいと思う。
でも、私には海菜がかなり動揺している事が良く分かった。
小さいころのクセや、普段との違いには敏感だもの。……もちろんお互いに、ではあるけれど。
海菜は複雑そうに私から視線を外すと呟いた。
「……ホント、よく分かるな」
「あ、やっぱり何かあったのね?」
「はぁ」
どうしてそんなに不服そうなのよっ。
「もう、溜息つかない! 仕方ないでしょう、分かってしまうんだから……。私だって好きで察知してる訳じゃ無いわよ」
私はちょっとだけ怒ったフリをしてみせる。
分かってしまうのだから仕方ないじゃない……。
直感と言うのが相応しい感覚。
――彼のこういう所がいつもと違うから、きっと何かあったに違いない。
などという論理だった理由とは違っていた。
もちろん様子がおかしいのは確かなんだけれど、それが私が彼の変化に気付く一番の理由では無い。全然うまく説明は出来ないんだけど……。
彼の表情や動きを読み取って、心情の変化を読み取るんじゃなくて。
まず、何故か違和感を感じて、それから表情の変化を見て確信に至るイメージなの。
――何かあったわね。
そんな、シンプルな確信だけが頭に浮かぶ。
解説不能の不可思議な感覚。
でも、幼馴染ってそういうものなのだと私は思うわ。
「何があったか、言った方が良いか?」
諦めたように、でもどこか嬉しそうに彼は問う。
いつものように少しイタズラっぽい口調に、わざとらしく細められた目。
「そうね、別に言いたくないなら良いけれど……」
私はちょっとだけ拗ねたふりをしてみせることにした。
強制するつもりはないけれど、言って欲しいに決まってるでしょうバカ海菜。貴方のことは良い事も悪い事も知りたいって思うもの。
「昨日……希の家からの帰り道あたりから様子が変だったし、私は気になってるわ。別に教えたくないなら良いケド……!」
軽く唇を尖らせる。
貴方の様子が変わりつつあるのは分かっていたもの。今日までは彼が一人で悩む邪魔をしたくなかったから少し気になりながらもそっとしておいた。
でも、今は明らかに大きく彼の中で何かが変わってる気がして――。
「…………っ」
海菜は私の答えを聞いて、信じられないとでも言うように目を見開いた。
もしかしたら私に昨日の時点から変化に気付かれていたとは思わなかったのかもしれない。普段の彼なら『自分の変化を察知する幼馴染を察知』するハズなのに……らしくないわね。それほど大きな出来事が起こっているのかも。
彼は動揺を表情に浮かべた後、ジトッとこちらを見つめてくる。
「……ど、どうして今度は睨んでくるの?」
慌てて聞くと……
「ホント、君は厄介だよな」
「なっ! どうしてそんなこと言われなきゃいけないのよっ」
はぁ。
彼は再度ため息をついてとつとつと言葉を落とし始めた。
「今日、ツバサと会ってたんだよ。つい五時間前くらいに」
ツバサ……って。
「……ARISEの綺羅さん、よね?」
「あぁ」
私の確認に彼はすんなりと頷いた。
いや、さも当たり前かの様に振舞っているけれど、相手はあのスクールアイドルの頂点よ? 顔見知りの友達のことを話すみたいにサラッと名前を出せる相手では無いと思うけど……。どうやら海菜にとって相手はただの沢山いる女の子の知り合いのうちの一人らしい。
「それで……何から話せば良いんだろうなぁ」
海菜は腕組みして考え始めた。
どうやら話す内容と順序を考えているらしい。
「…………」
そっと彼の様子を伺った。
この様子だと結構長い話になるのかも。
だとすれば、今彼が抱えている悩みというのは私が思っていたよりもっと大きなものだったのかもしれない。昨日から感じている何となくの違和感について問いかけた事から始まった今の流れだけど、海菜は大事な話をしようとしていた。
一体何の話だろう?
少し考えてみる。そしてすぐにその答えは見つかった。
きっと、綺羅さんの告白の話でしょう。
私は何となくやるせない気持ちになってぼぅっと彼の顔を見つめる。
――海菜にとっては今が一番大事な時期なのに……。
心からの想い。彼のことが心配で心配で堪らない。
好きだから、ではなく海菜だから。気になって仕方がないの。
ふと、目が合った。
「…………」
「どうしたの? ……なんで笑うのよ」
「いや……」
彼は何故か凄く嬉しそうに微笑んだ。
一体どうして?
しかし、海菜が私の問いかけに答えることは無い。
「ちょっとだけ、時間かかるけど……良いか?」
続いてかけられるそんな提案。
「……もちろん」
どれだけ長くなっても全部聞いてあげるわよ。
……たった一人の幼馴染なんだから。
***
「その……ツバサが俺に好意を持ってくれてるって話は知ってるよな?」
「えぇ、まぁ……」
歯切れの悪い様子で海菜が言う。
さすがに自分でその事実を口にするのは少し憚られるようだ。
「何でちょっと不機嫌そうなんだよ」
彼が焦った様子で聞いてくる。
どうやら色々と思う所があって浮かんでいた複雑な気持ちが顔に出ていたらしいわね。
「……別に不機嫌では無いわよ。それで? そのことは皆ともたまに話題に上がるから知ってるわ」
「え。君ら俺とツバサの話してんの?」
「それはするでしょう……やっぱり気になる話題ではあるし」
私達μ’sはスクールアイドルグループとはいえ皆高校生女子。特に海菜の居ない時などはそういった話で盛り上がることが多い。身近な存在の恋愛事情というのは結構気になるものだしね?
「まさか……」
――海菜、この話題を出すってことは綺羅さんと……。
小さく呟いて少しだけ彼を睨みつけてみた。
「付き合うことになったとか……」
「だー。違う違う!」
海菜はヘドバンをするかのようにブンブンと首を振る。
別にそんなに慌てなくていいのに。
私は想像していた三割増しで焦る海菜を見てほっと溜息をついた。流石に海菜のことだからこの時期に彼女を作ることは無いでしょうけど……明確な解答が得られるまで安心できないのが人間というものね。
良かった、海菜が彼女の元に行ってしまわなくて……。
密かに胸を撫で下ろす私が居た。
「流石にそれは無いって。急な話だし、正直受験終わるまで恋愛する気無かったし……」
表情に影を落とした彼が哀しげに零した。
何となく、私の幼馴染が今何を考えているか分かる。
バスケの事、勉強のこと、自分のこと。世の中の高校生の大半が目を瞑って生きている、直視するのが辛い現実を真正面から見つめて戦い続けている海菜。
「そうよね……」
私は小さく頷くに留めておいた。
きっと彼は自分の決めた道を歩きながら辛い思いをしていると思う。でも、それに負けずに進み続けているのも事実。だからこそ余計な言葉を、この期に及んで掛ける必要は無いわ。
ふわり、と古雪家のシャンプーの香りが舞った。
海菜は二、三度かぶりを振ると、気をとりなおしたのか顔を上げる。
「でも」
私はそっと椅子に座り直した。
「ツバサが俺に好意を示してくれたことには大きな意味があったんだよ」
――大きな意味?
私は綺羅さんの姿を思い浮かべていた。直接交わした言葉はほんの少ししか無いけれど、彼女の容姿や立ち振舞は鮮明に思い出せる。何度も何度も映像で見たせいでもあるし、初めて会った際、無意識のうちに見惚れてしまったことも関係していた。
同性の私ですら魅了する容姿と立ち振舞。不可視の、圧倒的なまでのエネルギーがあの小さな体躯から溢れだしていたのが強く印象付けられている。
敵わない、そう肌で感じたもの……。
そして何よりも。あのシーンが目に焼き付いて離れなかった。
ARISEの三人と、UTX学院で行った予選におけるライブ配信。ユメノトビラを踊り終わった直後に起こったあの事件。衝撃の一言にその場の全員が凍りつく中、ゆっくりと海菜に近付いた綺羅さんが彼の頬に――キスをしたこと。
今でも時折思い出しては少しだけ泣き出しそうになる。
私の海菜に何を!
とは言わないけれど、自覚はしていなかったものの何年も想い続けていた男の子が、会って数ヶ月の女の子にあっさり頬とはいえキスされるのは見ていて気持ちが良いものでは無かったわね。
――いや、その事を思い出してる場合ではないわ!
私はぶんぶんと頭を振って雑念を振り払った。
今は彼の話に集中しないと。
「大きな意味? でも……いま海菜はそれに悩まされているんでしょう?」
私は少しだけ声を低くした。
正直、綺羅さんのしたことに関しては色々と思う所があったから。
そう、色々と……。
ぐるぐると一言では説明しきれないほどの情報量が頭を巡る。
――私にも言いたいことの一つくらいあるわよ。
内心愚痴る。
でも、今の海菜は勉強で手一杯で。だからこそ邪魔はしたくなくて。
「……本当に海菜の事が好きなら、意味があろうとなかろうと邪魔なんてしないわ」
二人きりの部屋にソプラノが溶ける。
聞こえたその台詞が、自分の口から零れたものだと気がつくのに数秒を要した。
――やってしまった!
私は慌てて自身の口を両手で塞ぐ。
今の言葉は口に出すべきでは無かったわ。
「あ……、話の腰を折ってごめんなさい」
私は誤魔化すように笑って続きを促した。
「それで、綺羅さんの意図は……」
私の焦燥を伴った軌道修正。
しかし。――海菜はぴたりと動きを止めた。
マズイわね。
視線が交錯した瞬間、まるで覗き込まれているような感覚に襲われる。真っ黒い瞳に吸い込まれそうになって私は慌てて視線を逸らした。そして、自身の失敗を痛感する。……そうよね、悩み事を抱えているとはいえ相手は海菜。
私が彼の変化に気がつくように、逆もまた然り。
「絵里……?」
うぅ。相変わらず鋭い……。
私の異変を見逃さなかった彼と見つめ合った。――貴方のほうがよほど厄介よっ。
「絵里。君さ……」
「…………っ!」
こんな時くらい私のことを考えなくていいのに。今は貴方が綺羅さんや他のことで悩んでいるんでしょう?
しかし、海菜の感心は完全に自分から私へと移っていた。
「俺に言おうと思ってることがあるんじゃないのか?」
恐ろしいほど正確な読み。
私は彼の目を見ることが出来なくてゆらりと視線を彷徨わせた。もし目止めが合えば、全てが見透かされるような。そんな気がして。
「…………」
「絵里」
追求。
でも。
「まだ、言わないわ……」
私は彼の優しさを拒絶した。
「絵里、君それで俺が納得するとでも……」
「もちろん思ってないわ! でも……少しだけ考えさせて」
「…………」
「もしかしたら、海菜の話を聞いた後なら話せるかも知れないから……」
「…………」
「や、約束は出来ないけれど」
もはや要領の得ない、言い訳にすらなっていない言葉を並べて私は彼の追求を躱す。自分でも訳の分からないことを行っている自覚はあるけれど、例え海菜が心配してしまうとしても私の気持ちを今ここで言うわけにはいかない。
綺羅さんと同じ事をしちゃダメ。
他でもない、海菜の為にも……。
「まぁ……今はいいや。俺も話さなきゃいけない事がたくさんあるし」
頑なに唇を引き結ぶ私の様子に何かを感じ取ったのか、特に食い下がること無く海菜は諦めてくれた。これ以上問いただしても意味が無いと悟ったらしい。
「話を戻すぞ?」
「えぇ。綺羅さんが貴方に告白したことに意味があったって所まで聞いたわ」
綺羅さんの行動に大切な訳なんて本当にあったのかしら。
私はまだ半信半疑だった。
少なくとも、私の目には彼女の行動が海菜に悪影響しか及ぼしていないように見える。事実、勉強をしているはずのこの時間に彼がこうして私と真剣に話し合っている事自体おかしいもの。
端的に言えば、海菜の最終目標を邪魔をしたっていうのが事実だと思うわ。
「あぁ。アイツの気持ちを知った時、正直俺はしんどかったんだよ」
彼はそう零した。
きっと本心からの言葉だと思う。
「やらなきゃいけないことがたくさんあるのに、無視できない案件が舞い込んだ。それに加えて、相手はμ’sの皆の最大の敵であるARISEのリーダー。もしかしたら影響が及ぶのは俺だけに留まらないんじゃないかとか……」
「そうね……。海菜が悩んでしまうことは知ってたわ」
そう、私は知ってたの。
「他にも色んな事をつらつらとな」
「私は……だからこそ、綺羅さんのしたことをあまり認めたくないの」
私は彼女の行動を咎めるわ。
海菜を想うからこそ。
綺羅さんが自分の好意を彼に伝えたことが許せないわけじゃない。人を好きになって、それから取る行動としては決して間違っていないし、その相手が海菜でなければ否定するつもりなんて毛頭ないわ。
――だけど、海菜の邪魔だけはしないであげて欲しかった。
素直にそう思ったの。
やりたかったことを諦めて、自分と向き合いながら必死に辛い道を選択して歩いて行く幼馴染の足止めをして欲しくはなかった。せめて、あと四ヶ月待ってくれたら……。
「あぁ。……ありがと。俺もその時は……心から言わないでいてくれたら良かったのに、って思ってたよ。でも」
もちろん、彼女の気持ちが分からない訳じゃない。
だって、私も海菜の事が好きだもの。
――だけどね。
もし、胸に抱いている好意を捨て去って海菜の望みが叶うなら私なら迷わず身を引ける。そう言い切れる自信がある。理由は単純で――全部見てきたから。彼が苦しむ姿、努力する背中。私の中に勝手に生まれた恋心よりも大切な事があるって思う。
「今はその出来事が俺にとっては必要な事だったんじゃないかって感じてる」
彼はふわりと微笑んだ。
その笑顔はどこか痛々しくて、それでいて吸い込まれそうな魅力を持っていた。きっと彼がこの一件で大きく変化した証拠。今まで見たことのない海菜の表情から私は目が離せない。
一体どんな意味があったのかしら。
その時の私には想像も付かなかった。
だから、ただただじっと、彼の紡ぐ言葉を待っていたの。
静かな部屋に二人分の吐息が聞こえた。
そして、彼は口を開く。
聞き慣れた低い声。
僅かに掠れた幼馴染の……
「μ’sの中にも、俺のことを好きになってくれる娘が居るんじゃないか」
紡ぎだした言葉は私を大きく驚かせた。
――――――!?
あまりの衝撃に危うく立ち上がりかける。
海菜は私のリアクションに軽く頷いて、僅かに眉を下げた。薄っすらと彼の中の苦悶や悩みが伝わってくる。なんとか冷静に話をしようとしているのは分かるけれど、きっと彼の中でも完璧には考えが纏まっていないのだろう。続きを話し始めるのに数秒を要した。
「ツバサはそう言った。そして……気付かされた」
気付かされた……?
「俺はずっとその可能性から目を背けてたんだ」
申し訳無さそうに頭を垂れて、力なく零した。悔いるように、自分を責めるように彼は言う。
「でも、海菜は……」
私はゆっくりと口を開いた。
まだ動揺が抜けきらずに視線が揺れ動いているのが自分でも分かる。μ’sの中から彼のことを好きになる娘が出てくるという可能性に気付いたということが、どれだけ大きな変化なのか。私にはよく分かっていた。
「恋愛について何も考えていなかった訳では無いでしょう? 出来るだけその対象にならないように演技だって……」
そう、彼は一種の自己防衛としてそれを心掛けてきたの。出来るだけ恋愛対象に入らないように少し過剰に笑いを取る方向に走ったり、女の子を雑に子供のように扱ってみたり。そしてその成果はハッキリと出ていた。
進学校とはいえ共学に通う彼が、三年間彼女が出来ていない、作っていないのは間違いなく意識的。
海菜が本来の自分、優しくて、頼りがいのある……私や本気で関わると決めたμ’sの皆にしか見せない自分を曝け出していたとしたら、きっと女の子は放っておかないわ。
「まぁ、一応はな。演技っていうのは少し言い過ぎだと思うけど……確かに不必要にふざけたりはしてきたよ。それの方が楽しかったってのもあるし」
彼の言おうとしている事を理解しようと真摯に耳を傾ける。
「でも、君らのことを完全に頭から消していたのは事実なんだよ」
彼は僅かに頭を下げながら、懺悔をするかのように重々しく言った。
「女の子九人のグループに、年の近い男が絡むって事実を俺はもっと重く受け止めるべきだった」
海菜は深く後悔していた。
――そうよね……。
確かに、彼のミスであるのも事実だとは思う。
誰かを大事に想い行動すれば、往々にしてその相手から同じくらい大切に想われるものよ。少なくとも、海菜が大切にする相手は誰もが貰った心を正しく受け止めて、同じだけの心を返してくれる人達で。
自然と結びつきは強くなって、二人の距離は近くなるわ。
その過程で、互いの事を異性として意識するのは自然なこと。
μ’sのメンバーを、彼が心をあげることのない他の女の子と同じだと考えて、演技さえしていれば誤魔化しきれる――と安易に判断していたのが今までの彼。
実際はそんなハズ無いものね。
彼が穂乃果達の事を一生懸命考えて行動すればするほど、お互いの関係は変わってくる。簡単なことだけど、寝る間も惜しんで必死に机に向かう海菜には気がつけなかったのでしょう。
「ま、そんなわけで色々考えさせられたんだよ」
「……そう」
――でも、それって本当に反省すべきことなのかしら?
そっと目を伏せる。
「だから、今はツバサと関わりあって話した事には大事な意味があったって思ってる」
彼は自分が悪かったという。
一つの可能性に、自分のことばかりに一生懸命で気が付けなかった事を悔いているし、その事を教えてくれた綺羅さんに感謝しているようね。本当、海菜らしい思考だと思うわ。自分に足りなかった所を必死に改めて、より成長した自分を作って行こうとする昔から変わらない姿勢。
自己否定から自らを育てる生き方。
「でも……」
小さく否定の単語を落とした。
私に海菜を責める気は全く無かった。
だって、恋愛について具体的に考えなかったからこそ、彼は今に至るまで積極的にμ’sと関わって来れたんだと思うの。
もし、彼が今自分で言っていた事を意識していたら、ここまで穂乃果たちと仲良くなっていたかしら?
その答えはNOに決まってる。
恋愛面に関して盲目的になっていたからこそ、海菜は体当たりするかのように一生懸命まっすぐに彼女たちと接することが出来たのよ。そして、それによってμ’sのメンバーは彼を信頼して、両者のその関係性があったからこそグループはより良い方向へと成長してきた。
彼が居たから今のμ’sがあるのは事実だもの。
――それに、私の中にはもう一つ大切な理由があった。
「私は、海菜はその事実を知らずに居るべきだったと思うわ」
交錯する視線。
海菜は真剣な表情で私を見る。彼の意見に対して、真っ向から逆の意見を突きつけることは気心知れた仲とはいえ頻繁にある訳ではない。それをお互いに知っているからこそ二人の間に緊張感が満ちた。
しかし、同時に彼が私の考え方を知ろうと耳を傾けてくれていることも分かっている。私は、遠慮無く絢瀬絵里の答えを口にした。
「海菜は悩んだり苦しんだりすることも、自分の糧だと言って前向きに捉えるわ」
「まぁ、そうだな」
もちろん、その生き方自体を否定するつもりはないの。
私だって色んな失敗から学んだからこそ今があると思うし、これからもその姿勢を忘れないで居たいと思う。だから、海菜に自分に対して厳しい在り方をやめて欲しいなんて考えは欠片もないわ。
ただ、今回の件――恋愛に関しては例外。
「でも、今の、恋愛に関する悩みはきっと貴方の為にはならないの」
まだ私の言わんとしていることが理解できないのだろう、海菜は怪訝そうな表情を浮かべた。
「貴方は好意を持たれる事を自分の責任だと捉えて、その相手の女の子のことを誠心誠意考えてあげなきゃいけない……そう考えてるでしょう?」
「……まぁ、相手によるけど。少なくともμ’sの娘達ならそうだろうな」
「それはただの傲慢よ」
――想いを抱かれた責任は自分にもある。
そんな彼の思考。
演技という選択肢を取ってまで、好意を向けられることを避けようとした彼だからこそ持つ意見。
でも、それはきっと間違ってる。
「誰かを好きになった責任は、自分だけにあるものよ」
私は断言した。
きっと、海菜はまだ恋をするという感覚を理解していないの。彼は人を好きになる事を『相手を大切に想う』のような通り一般的なものだと捉えているんじゃないかしら。自分の事にまだ精一杯で、誰かに恋をしたことのない彼の育てた恋愛観。
だからこそ、相手から送られるその真っ直ぐな思いを誠意を込めて受け取らなくてはいけないと考えているのだと思う。
心には心で応える。
そんな優しい返答。
――でも、それは違う。
確固たる否定の意見が私にはあった。
恋心は彼が考えているほど単純ではない。
相手を大切に感じることだけが恋なのだとしたら、私はこんなに色んな事を考えたりはしてないわ。
私は思う。
誰かを好きになるということは、その誰かに変化を要求することと同義なの。
私ともっと話して欲しい。
私にもっと笑いかけて欲しい。
私ともっと一緒に居て欲しい。
私のことを好きになってほしい。
好きになった相手に、自分の要求を押し付けるのが恋というものよ。
自分勝手な話だとは思うけれど、それが事実。
だって私も海菜に対してそんな想いを抱いているから……。
――だからこそ、私はこの想いを隠していた。
好きな人が出来たらお互いに教え合う――そんな中学生の頃の幼い……だけど、大切にしてきた約束を反故にしてまでも、私はその選択をとるって決めた。いつか伝えようとは思っているけれど、今はまだこのワガママを押し付けられない……そう考えたから。
恋はただの我儘。
そう、ワガママなの。
だからこそ、恋をするなら全て自己責任でなきゃいけないと思うわ。好きになってしまった方だけに苦しむ責任も悩む義務も生じるの。決して想いを向けられた側が気にしすぎて、責任の一端を感じる必要はない。
「少なくとも、私はそう思ってる」
言葉少なに私は言い切った。
「つまり、俺が今抱えてる悩みは検討違いって事か? ツバサの気持ちを思いやるのも、μ'sのメンバーに目を向けるのも」
「えぇ。誰がどんな想いを抱いて貴方を好きになったとしても、その責任はその女の子にだけあるの。その想いが、海菜の夢や目標を邪魔するのはおかしいわ」
「そっか。見解の相違だな」
どうやら、海菜は自身の意見を変えるつもりは無さそうだ。
誰かが向けてくれる想いにはきちんと応える――そんな彼らしい意思が伝わって来た。
「はぁ。……いつものことでしょう」
「違いない」
全く、この幼馴染は……。
お互いに少しだけ険しい表情で見つめ合った後、どちらからともなく小さく笑った。
ずっと一緒に育って、それでも尚食い違う幼馴染の考え方。何度も何度もぶつけあってきたけれど、自分の意見は中々変わらない。今回も平行線で終わりそうだ。
もちろん、その事を不快に思ったりはしないわ。きっと、彼の中にも譲れない何かがあると思うから。
でも……。
「私は、やっぱり海菜には勉強に集中して欲しい。だって、ずっと側で見てきたもの……。大好きなバスケを止めて、色んな事を我慢して机に向かう貴方の背中を」
少しだけ泣きそうになりながら私は言った。
「絵里……」
「だから、知らずにいて欲しかった」
他の女の娘の恋心なんていうワガママに振り回されること無く、自分の思い描いた未来に向かって走り続けることが出来てたらどれだけ良かっただろう。
彼が今抱えてしまった悩みは、半年後に先送りにしていても良かった案件よ。何も、このタイミングで知らなくても良かったじゃない……! これでもし、彼の歩みが止まってしまったら……私はそんな事態を想像するだけで胸が締め付けられるような痛みを感じた。
「ま、でも知っちゃったもんは仕方ないだろ」
平気なはずがないのに。そして、私が自分の内心を読み取っていると知りながらも彼はあっけらかんと言った。
――もう、これ以上は言わなくていい。
そんな彼の意思が伝わってくる。
「……そうね」
だからこそ、私は静かに頷いた。
「話したかったのは……」
真っ黒く透き通った瞳に今まで見たことのない光が宿る。
纏う雰囲気により一層真剣味が増した。
――一体何を言うつもりだろう?
「希の事なんだ」
そして、私は全てが変わり始めていることを知る。
被災された方々のご無事を祈っております。
私も、今年熊本に越した妹が被災し、現地の様子をお聞きしました。
彼女は近所の人、自衛隊の方々、友人。数えきれない人達の助けを借りてなんとか無事でいるようです。もし、被災地にいらっしゃる方は充電等の問題があると思いますがこまめに遠隔地のご家族に連絡を取ってあげて下さい。妹の場合、大学から実家に連絡が入ってきたようで。やはり連絡を待つだけの身としては心配で心配でたまらなくなってしまいます……笑
また、現在被災地にいらっしゃらないご家族知人の方々。
あまり悩み過ぎないのも大切だと思います。
母も一時妹と連絡が付かなくて眠れなくなり、体調を崩しかけていました。皆様が倒れてしまっては元も子もないですからね……お気持ちは痛いほど分かりますが。出来ることは悲しいことけれど、限られていますから。
それでは、また次回お会いしましょう。
お気をつけて。