変わらない朝。
リビングから響くおかんの怒鳴り声で目を覚まし、不機嫌ヅラで階段をゆっくりと降りる。脱げるんじゃないかと思う位ずり下がったパジャマ兼ジャージを片手で支えながら足で半開きだった扉を開けた。
変わらない朝。
特に見たいわけでも無い朝の番組をぼうっと見ながら朝食を口にねじ込む。低血圧気味であり、受験勉強のせいで万年睡眠不足を患っているお陰で唾液が上手く出ない。俺は半ば強引に牛乳でパンを流し込むと立ち上がった。
視界の端に何が面白いのか、朝八時前のテレビで朗らかに笑う親父の姿が写る。
変わらない朝。
高校生にしては大き過ぎるリュックに勉強道具を詰める。家に帰ること無く塾なり喫茶店なりに直行するせいか、全て入れておかないとならない。柔らかく色んなモノが収納できるそれが、ところどころ教科書のせいで凸凹としていた。
少しだけ変わった朝。
鏡の前に立ち、一応整えていた髪型。何故か今日は普段よりも五分多く鏡の前に立つ。ワックスも、手に伸ばしてからすぐ乱暴に髪の毛につけるのではなく、体温で少し柔らかくなるのを待ってみた。ちょっとだけ丁寧に、ムラ無く。俺なりにお洒落して……見られることを意識して。
少しだけ変わった朝。
時計を見る。
待ち合わせの時間を二分過ぎていた。
いつもなら少しだけ怒って顔でインターホンを鳴らされてるはず。
俺は大きく深呼吸して靴を履き、玄関の扉に手をかけた。
そして。
――大きく変わった朝。
「お、おはよう」
玄関横の柱にもたれ掛かっていた幼馴染が、頬を染めながら挨拶をくれた。
『よ! 遅いぞ!』
『ばか海菜。どっちがよ……』
今日はそんな軽口も叩けそうにない。お互いに。
***
「い、居たんなら玄関入ってくれば良かったのに」
「私も今来たばっかりだったの!」
「……そか」
「べ、別に、恥ずかしくて入れなかったとかじゃ無くて……」
いや、そこまでは聞いてないんだけど。
俺は熟れたリンゴのように、真っ白い雪原の頬を朱に染めて目を逸らす絵里を横目で見る。今日は一段とブロンドの髪が眩しく朝日を反射しているせいか上手く直視できずに居た。
そう、きっとこれは太陽のせい、金髪のせい。
俺は半ば現実逃避気味に内心で呪詛のように同じ文言を唱え続けて歩みを進めた。
「…………」
「…………」
沈黙が嫌に気になる。
気になりすぎる。
それがいかに異常な事態なのか俺たち以外の人間に伝わるだろうか。
人と人との関係の深さを測る尺度として、沈黙に耐えられる時間が挙げられる。二人きりの状態でお互いに黙りこくった時、親しければ親しいほどその時の流れを気にしなくなるものだ。
家族とリビングといても、常に会話をしているわけでは無い。それを思い浮かべればきっと俺の言わんとしていることは伝わると思う。
俺と絵里は軽口を叩き合う時間も多いとはいえ、同じくらい沈黙を共有していた。お互いが隣りにいることを知って、それでも話さなくても気にしないくらいそれは自然なことで。
本来なら、今みたいな沈黙歯牙にもかけなかったコトだろう。
――しかし。
「え、絵里!」
ダメだ、耐えらんない!
俺はノープランで幾度と無く呼んだ名前を口にして、一瞬で後悔することになった。
「な、なに……?」
条件反射で振り向いた絵里と、真正面から目があった。
見慣れた群青色の瞳が艶めき、その奥に帯びた熱を見る。意味深に彼女の視線が下方向にシフトして、いつもならきりりと引き結ばれているはずの唇が蕩けたように開いた。見慣れた長い睫毛と整った鼻梁、不思議なほどにバランスの取れた美貌に改めて気付かされて俺は続く言葉を失う。
彼女だけじゃない、俺自身も頬に熱を持つのを感じた。
心臓は跳ね、焦点がうまく定まらない。
「…………」
「…………」
またかぁ!!
渾身のツッコミを脳内で叫んだ。
肝心の身体は現在脳内支配から逃れて勝手に機能停止している。
ほっぺたが。
特に右の頬が未だに熱いのは気のせいじゃないだろう。
――絵里に、キスされた。
思い出しただけで頭を掻き毟りたくなる。奇声を上げながら走り回ったほうが、もしかしたら精神安定上よろしいのかもしれない。……そう思うくらいには俺はテンパっていた。
手を繋いだことはある、ふざけて身体が触れ合ったこともある、幼いころも合わせたら裸を見たことだってあるんだよ。何を今更。キスくらい。キスくらい。
――キスくらい……。
「…………!!」
「か、海菜……?」
危ない危ない。
もう少しで我を忘れる所だった。
俺は深く深く、深呼吸という表現すら生ぬるいくらい深く息を吸い込んで吐き出した。
絵里が、俺にキスをした意味。
どう考えたって一つだ。
話の流れを考えても、勘違いのしようが無い。
解は限定されている。
――どうやら幼馴染は、俺のことが好きらしい。
なんて日だ。
大好きなお笑い芸人のお約束を口にしたってちっとも平静には戻れない。
今の俺の気持ちは、俺自身良く分かっていなかった。
希の事が、ツバサの事があった今多少のことなら受け止められる。自身を過大評価していたのは事実だった。実際、絵里じゃなきゃここまで心は揺れ動いていなかっただろう。
絢瀬絵里。
十三年側に居た幼馴染。
知らないことは無い、そう思ってたんだ。
全部理解る。
全部理解ってくれてる。
全部伝わる。
なにもかも、全部。
どうやらそれは俺の思い違いだったらしい。
これほど大切なことに気が付けなかったなんて。
……いや、きっと俺の優しい優しい幼馴染が必死に隠してくれていたのだろう。俺の負担にならないよう、一生懸命心の奥に封じ込めて、そんな状態でずっと俺の隣に居てくれたんだと思う。
ツバサや希の件が無ければきっと俺の受験が終わるまで絵里はその口を閉ざしていただろう。
違うな。
昨日の告白すら、俺の為を思っての事に違いない。
想いを告げるタイミングにも、彼女の理想があったはずだ。恋の作戦とかセオリーなんてものは分からないけど、きっとこんなに俺自身揺れ動いているタイミングで言葉にするというのは違うハズ。
でも、絵里はあえて今自分の気持ちを伝えてくれたんだと思う。
まだ少しだけ受験まで時間があるこの時期に。綺羅さん達の事で悩んでしまうのなら、この期間に全て解決させてあげたい。そんな絵里の、自分の想いと俺への思いやりを一緒にした優しい選択。
「…………っ!」
鈍感、じゃ済まされないよな。
いかに己しか見えていなかったのかが分かる。
「海菜……」
何が悪いって、自分の気持ちが未だに見えないって事だ。普通なら素直に嬉しく感じるものなのだろうか? もちろん、嬉しい気持ちもある。恥ずかしい気持ちも、何故か普段と変わらないはずの幼馴染が一層可愛らしく見えてしまう。
でも、何故か素直に喜べない自分も居て……。
「あの、聞こえてる?」
希のことだってそうだ。
嬉しくて、色んな想像もしてしまって。
それでもそんな自分に制止をかける俺がいる。
「海菜!」
そこでやっと思考の渦から開放された。
慌てて横を見ると――絵里が居ない。声が聞こえたのは後ろから。
「海菜、ごめんなさい。……ちょっとだけゆっくり歩いてくれる?」
「あ……、ごめん」
どうやら無意識のうちに早足になっていたらしい。そっとペースを落として幼馴染の歩幅に合わせた。彼女の足元を見なくても、丁度いいリズムは分かる、覚えてる。
「もしかして、昨日の事考えてる?」
「まぁ……、てか考えるなって言う方が無理だろ」
「ふふっ。それもそうね」
ちょっとだけ二人の緊張が解けてきたのか絵里はくすくすと笑った。見慣れた笑顔が眩しくて、何故か悔しい。
「びっくりした?」
「そりゃもう盛大に」
「私はすっきりしたわよ?」
「例えるなら便秘解消か」
「人の恋を便秘に例えるのはやめて」
じとっとした視線を飛ばしてきた。
冗談めかした口調ではあるものの、どうやら本心でもあるらしい。確かに彼女の表情は鬱屈としたものではなく、からっと晴れ渡っていた。
続けて笑う。
なんて魅力的な笑顔を浮かべるんだろう。
「…………」
「もう。折角いつものペースに戻りそうだったのに……」
「ぐ、仕方ないだろ……俺だって、その」
「照れちゃった?」
「うっさい」
何故か惚れられた側であるはずの俺がペースを握られていた。
「何で君は割と平気そうなんだよ……」
ちょっとばかり非難の意味を込めて横目で絵里を睨んでみたものの、軽く受け流されてしまう。どうやらまだ俺に対して照れは残っているものの、殆どいつもの感じを取り戻しつつあるらしい。
でも……。
「一種の諦めみたいなものかしら」
「どういうこと?」
「気持ちを伝えちゃったら、もうあんまり出来ることって無いなぁって思って」
よく言う。
努めて明るく振る舞おうとしてることくらい伝わってるぞ。
幼馴染舐めんな。
俺の視線からその意思が伝わったのか、絵里は軽く舌を出して目を伏せた。
「別に、嘘じゃないわ」
「ホントでも無いだろ」
「ホントです。後は海菜の決断待ちなんだから」
「んな無責任な……」
絵里は小さく笑って、少し小走りにかけ出した。
いつの間にか音ノ木坂学院へと向かう分かれ道にまで来ていたらしい。彼女とここで別れるのは助かるような、同時に名残惜しいような……。やっぱり自分の気持ちというのはよく分からない。
ただ――彼女の背中が遠ざかっていくのは嫌だった。
くるり。
唐突に彼女が振り返る。
高く止められたポニーテールが可愛らしく揺れ、いつの間にか大人の美貌を手に入れてしまった、必要以上に魅力的な幼馴染が目の前に立った。両手を後ろに組んで、十三年前と変わらないいたずらっぽい笑顔で絵里は言う。
「私は海菜の幼馴染です!」
知ってるよ。
何を急に。
「忘れないで?」
忘れないって。
「何があっても……よ」
…………。
「後は海菜次第。私は全部貴方に丸投げするわ」
「だから、それ無責任過ぎないかー?」
「いいえ。今までだってそうしてきたでしょう」
たたたっと軽妙な足音とともに、一度は離れた幼馴染が近寄ってきた。
彼女は頬を恥ずかしげに染めながらも俺と真正面から向かい合う。
「だから余計なことを考えすぎて、そう困った顔をするのは止めなさい!」
俺がいつもするように、彼女は手刀を作って俺の頭にこつんとぶつけた。
「海菜。私は幸せよ。今も……きっと、これからも」
――貴方がどんな決断をしたとしても。
彼女は小さな声でそう言い残すと走り去っていった。
不思議と、俺を包んでいた靄が晴れていることに気がつく。
俺はちょっとだけ前向きに、いろんな事を考えてみることにした。