ドアの向こうに居るのは、今私が――一番会いたくない人。
大好きで、大好きで。
貴女の居ない学園生活なんて考えられなくて。
これから先もずっと、親友で居たい。
貴女の側で笑っていたい。
私のかけがえのない大切な……。
――でも、今だけは声も聞きたくなかった。
「希、いるんでしょう?」
彼女は一生懸命呼びかけてくれる。ドア越しに俯く私に、なんとか声を届けようとしてくれていた。心の底から私の事を心配してくれてるって分かる。だって、彼女がどんな人かなんてとっくの昔から伝わってた。
三年間ずっと一緒だった友達。
初めて出来た親友。
本当に大好きな女の子。
「希」
軽いノックが二つ。
ぴくりと肩が揺れた。
「お願い、希……」
優しい声。懇願するかのように、祈るかのように囁かれる私の名前。
私には、そこに想いやり以外の何も含まれていないことを知っていた。きっと、彼女はどうして私が今日練習を休んでしまったのか、何となく気が付いているのだろう。私の気持ちをハッキリと知っているのかどうかは分からない。
それは。だって。……今までずっと隠してきたから。
――私も、古雪くんが好き。
言えなかった言葉。
――口にしたら全てを失ってしまうかもしれないから。
古雪くんも。
そしてーー貴女も。
大事なものが何もかも崩れていく気がしてたんだ。今だってそう。怖くて怖くて堪らない。この扉を開けてしまったら、貴女と目を合わせてしまったら、全てをぶちまけてしまいそうな気がして。
だから、今まで有耶無耶にして逃げてきたの。
古雪くんには受験があるからって、私たちにはラブライブがあるからって。想いを伝える努力を何一つせず、ただいたずらに時が過ぎるのを待っていた。優しく流れる時間はいつだって暖かくて。私はそれに甘えてた。
大好きな貴女と共に過ごし。
大好きな貴方と共に過ごし。
ずっと続くかと思ってたその時間は終わりを告げ、今、大きな岐路に立たされてる。
逃げようと思えば逃げられるのかな?
何でもないよって言えば笑って頷いてくれるかな?
彼女の優しさに甘えさえすれば……。
――だけど、それで良いのかな?
「希!」
響くその声は大きくて、鋭くて。
「お願いだから……開けてよ、希……」
掠れ、震えていた。
泣いてくれてるんだ。
私を想って、私を理解って。
呼んでくれてるんだ。
私を知ろうと、自分を教えようと。
ダメ……無視なんて出来ないよ。
――そして私は、静かに玄関のドアに手をかけた。
「エリチ……」
***
「はい」
「ありがとう……」
コト。
と、キツネ柄のマグカップにホットミルクを注いで差し出した。小さくお礼を言いながら彼女は両手で抱えるようにカップを持ち、口元へと運ぶ。どうやら手袋を付け忘れていたらしく、エリチの手は赤くかじかんでしまっていた。
しっかりものの彼女らしくない。
きっと、練習終わりに急いで駆けつけてくれたんだと思う。
「…………」
「…………」
お互いに掛ける言葉が探しだせず、私は膝下を、エリチは白い湯気を燻らせるミルクを見つめていた。
しかし、こうして黙っていても仕方ないと判断したのだろう。彼女がゆっくりと顔を上げる気配がした。
目元は赤く、表情は暗い。
「希」
「……どうしたん?」
「今日、どうして練習休んだの?」
至極当然の問いかけ。
私は俯きがちに応える。
「体調悪かったんよ……、そう連絡せーへんかったっけ」
「昨日は元気そうだったじゃない」
「そんなの、今日昼間急に……」
「私は第一回ラブライブ穂乃果がしてしまった失敗を、今のμ'sメンバーがしてしまうなんて思ってないわ。皆一生懸命、体調管理を徹底してることくらいお互いに分かってるでしょう?」
「………」
そうや。
私達は絶対に体調を崩さないよう、ケガをしないよう気をつけてた。夢をかなえるための欠かせない努力。子供じゃあるまいし、急に体調が悪くなったなんて言い訳通用しない。
「それに……」
エリチが静かに零した。
「海菜のあんな顔、私は見たこと無いわ……」
――古雪くん。
彼の名を聞くだけで大きな心が波立つ。
握った拳が少しだけ痛い。
「古雪くんが……何か言ってたん?」
私の問いかけにエリチは静かに首を振った。
「いいえ。何も言わなかったわ。いつも通り練習に来て、いつも通り私達と話した後、塾に行った」
「せやったら、なんで……」
どうして、私と古雪くんの間で何があったのか分かるんだろう。
そんな疑問の答えは、実はずっと前から知っていて。そして聞きたくないモノだった。
「幼馴染だからよ」
――っ!
強く、強く唇を噛んだ。
そう、だよね。
伝わるんだね。何もかも。
理解してあげられるんだね、古雪くんを。
私には……私には、出来ない。
全部を理解ってなんてあげられない。分からないことばかりで、だからこそ嫌われないように少しでも彼の役に立ちたくて……心配ばかりしてた。本人に怒られちゃうくらいおっかなびっくり、私との触れ合いがあの人にとってマイナスにならないよう懸命に。
私とエリチの大きな差。
絶対に埋まらない。
「休むはずがない希が練習に来なくて、海菜が見たこと無いくらい落ち込んだ……動揺した様子を言葉や表情の端々で見せてたの。……何かあったことくらいすぐに分かるわよ」
「…………」
「希……。私にも話せないことなの?」
エリチにだからこそ、話せないんだよ。
俯いて視線を逸らす。
心の底から私を思いやってくれてる彼女を拒絶した。
「…………」
「…………」
沈黙。
ごめんね、エリチ。
だけど今は貴女と話したくない。
「…………」
「…………」
沈黙。
ワガママだってことは分かってる。
ただの八つ当たりだってことも。
「…………」
「…………」
沈黙。
でも、今日はそっとしておいて欲しい。
そうしたらまた元の二人に戻れると思うから。
――私が、古雪くんへの、決して届かない想いを諦めさえしたら。
――エリチを心の底から応援できるようになれば。
今ならまだ間に合う。
私はこの想いを誰にも言ってないから。エリチにさえ教えてない位だから当たり前。ずっとずっと胸のうちに秘めてきた。あとは、この想いを消すことさえ出来たら。……そうすれば、私はこれからもエリチと古雪くんの側に居られるんだ。
諦めるしか無い。
だって、エリチには勝てないよ。
積み重ねてきた物が違いすぎて。
彼にしてあげられることだって桁違いだもん。
エリチのことを想うならそして、古雪くんの事を想うなら。
私は、この気持ちを隠して――
沈黙の帳を破り、唐突に部屋に溶けたのは彼女の声。
「……希が、海菜のことが好きだって事と何か関係があるんでしょう?」
――え?
言葉を失った。
意図的な沈黙ではない。
エリチは少しだけ寂しそうに私を見つめていた。
サファイア色の綺麗な瞳が切なげに揺れている。
どうして?
「気付いてないって、想ってた?」
でも、私は一度も。
「希だって、私の気持ちに気付いてくれたでしょう」
それは、二人のことを側でずっと見て来たから……。
「私だって同じ」
だけど……、だけど!
「……親友なんだから」
…………っ!
「分かるわよ……」
い、いつから?
「私が海菜への気持ちに気がついてから。色々考えているうちに思い当たったの。私も恋って感情を知ったから、何となく希の彼へ送る視線の意味が伝わってきたわ」
エリチは哀しげに笑った。
まさか、知られていたなんて。私は動揺を隠せずに視線を揺らす。
彼女は分かっていたんだ。私が、彼を――古雪くんを好きで居たことを。
彼女は理解っていたんだ。私が、自分の想い人に密かに心を寄せていたことを。
だとしたら、だとしたら!
私がしていたことは――ただの裏切り行為だ。
もちろん、騙すつもりなんて無かった。私はただ、今ある関係を失いたくなくてこの気持ちを心の中に閉まっていただけなの。エリチの想いに気が付いて、そしてそれを知りながら古雪くんに言い寄る。……そんな卑怯な真似、してなんかない!
でも、気付かれていたのなら。
私の想いを知られていたのなら話は違う。
エリチからしたら、私はなんてズルい女の子なんだろうか。
相手の気持ちだけ吐き出させて、自分は何も教えない。そして、あろうことか古雪くんに迷惑をかけてる。いくらエリチでも我慢出来ることと出来ないことがあるはずで。
――このままやと、エリチまで。
知らず知らずのうちに涙が溢れだした。そんなの……そんなのいや!!
目の前が一気に滲んで、身体から力が抜けていく。
エリチは焦りの表情を浮かべて立ち上がった。そして私のもとに駆け寄ってきてくれる。
「エリチ……」
「希!? どうして泣い……」
我慢できずに、私は彼女の胸に飛び込んだ。
暖かな体温に包まれる。が、胸を貫く罪悪感や全てを失う恐怖が襲い来た。
いやだ。エリチに嫌われることだけは。
彼女との関係まで失ってしまうことは!
「ごめんなさい。ごめんなさい、エリチ……。ウチ、ウチ……!」
「ちょっと、希。私何も怒ってな……」
「えりちぃ……」
「はぁ。……よしよし。まずは落ち着きなさい、ほら。らしくないわよ」
ぽんぽん。
と、優しく肩を叩かれて、そのまま背中をさすってくれる。なんとなく、エリチが私のことを嫌いになってはいないってことが伝わってきて、次第に冷静さを取り戻してきた。どうしてだろう? でも、良かった。
私はそっとエリチの服の裾を掴んで少しだけ強めに彼女の身体を抱いた。
「…………」
無言で抱き返してくれる。
それが凄く嬉しくて。安心できて――。
五分ほどそうしていただろうか。
涙でぐしゃぐしゃになった顔をおっかなびっくり上げて、エリチと向かい合った。
「……落ち着いた?」
小さく頷く。
「話、聞いてくれる?」
もう一度頷いた。
「やっぱり、海菜のこと、好きなのよね?」
静かに、頷いた。
もう隠すことは出来ないから。気付かれてるからとか、勘付かれているから……なんて理由じゃない。エリチにだからこそ、彼女を失いたくないからこそ、本当をぶつけなきゃいけない……そう思ったの。
「そう……」
それは囁くような返事だった。
「ごめんね、……エリチ」
本当に。ごめんなさい。
こんな横恋慕。
勝手に二人の間に割り込んで。
自分勝手に想いを乗せて。
――でも、エリチははっきりと首を振った。
「いいえ、貴女が謝ることじゃない」
「でも……」
「私は……そうやって私に対して申し訳無さそうにしてくる方が許せないわ」
彼女は鋭い視線で私を射抜いた。
「どうして謝るの?」
「それは……ずっと黙ってたこともあるし、エリチの気持ちも知ってるし」
「希が黙ってた理由はちゃんと分かってるつもり。……確かに、言ってくれないのを寂しく思った事はあるけどね」
それに。エリチは淡々と続けた。
「私の気持ちを知ってることと、罪悪感を感じることとは関係ないでしょう」
切り捨てるように彼女は言った。
お前の言っていることは全て間違いだ、そんな意志の込められた強い言葉。
「私は海菜の事が好きよ? そして、希も同じ。確かに複雑な関係ではあるけど、希が謝る意味が分からないわ。そうやって、涙を流す意味も」
「でも……」
「むしろ、謝らなきゃいけないのは私の方」
言って、エリチは深く私に向けて頭を下げた。
「気がつくのが遅れてごめんなさい」
そんな! エリチが謝ることなんて!
「μ'sに入る直前。海菜の事を好きだって気が付いた時はまだ、自分のことに精一杯で貴女の事が見えてなかった。今は本当に申し訳なく思ってるの。その頃から海菜のことを好きだったハズの貴女の前で、なんの気遣いもせず自身の心だけを晒した事を。……親友なのに、いつだって希は私のことを理解してくれてたのに!」
彼女は少しだけ涙ぐんでいた。
きっと、今の今まで想い続けていた事なんだと思う。なんとなく切々たる感情が言葉に乗って伝わってきた。申し訳なく感じる必要なんて欠片もないというのに。
「希が自分の気持ちを言えなかった訳も分かるの。やっと自分の気持ちに気が付いて揺れ動く私に、そんな事教えられるわけ無いものね?」
「それは……」
「優しい希が、一歩間違えれば友情を失うような事を好んで言うはず無かったわ。しかも、きっとあの時の私は冷静じゃなかったから余計」
「でも、それを言い訳に隠し続けてたのは事実で……」
「そうね。でも、私はそれが間違いだったとは思わない」
どうして?
間違いに決まってるよ!
「ウチがエリチならきっとウチを許せへん……!」
彼女の目が見開かれる。
「心を開いてたのは自分の方だけだったのかって。相手は本音をずっと隠して自分と付きあってきたのかって……ウチなら思うから」
私は再び頭を垂れた。口にすることで再び感情が沈み込む。自分の行動を悔いてしまう。
だって、そうだよね。
理由なんて並べようと思えば幾らでも並べられる。でも、目の前にあるのはいつだって事実だけ。私が彼女に一番伝えなくちゃならなかったことを、今の今まで隠し続けてきたという現実。裏切り行為だ。
しかし、エリチは断固として首を振った。
「いいえ、それは違うわ。希」
そんな優しさはいらないよ。
嫌だったなら嫌だったって言って欲しい。
「確かに、さっき言ったように寂しくなることはあったわ。……希、いつになったら教えてくれるのかなって」
「うん」
「もちろん、希が一生その事を言わずに居たつもりだって言うなら話は別よ? 何も言わずに海菜と一緒になろうって思ってたなら……私も本当に悲しく思うわ」
「ち、ちが! そんなこと無いよ。いつか、いつか言おうって……」
分かってるから。そう言ってエリチは柔らかく微笑んでくれた。
「今はまだ海菜の受験もあるし、希はその重さをちゃんと理解ってくれてるから、絶対アイツとの距離を無理に詰めようとしたりしない。同時に、私の大好きな希が、あの優しい希が私の事を思いやってくれてないはずが無い。そう思ったから、私は今まで安心して待っていたの」
全部は分からないけど。と前置きしながらもエリチは言った。
「希が気持ちを隠していたことは間違いじゃないわ。きっと、希なりに私や……海菜の事を考えてくれてた結果だって信じてるから」
その、通りだよ。
勉強に集中したがってる古雪くんの邪魔をしたくなくて。そして、エリチと……衝突もしたくなくて。――今ある関係を失いたくなかった。
だけど、エリチには気付かれて。
――こんな、取り返しの付かない嘘を。
「エリチ、エリチ……」
懇願するように私は彼女の名前を呼ぶ。
怒ってないかな。
呆れてないかな。
失望してないかな。
まだ私の事、親友って言ってくれるのかな。
私はそっと右手を伸ばした。
顔はあげられない。
怖くて。怖くて。怖くて。
失うことには慣れているつもりだった。
初めて出来た友達も今はもう顔さえ思い出せない。母校だって呼べる学校も無い。誰もが当たり前に経験する何かを、私は失ってきたの。そして、それでも良いって思ってた。そういうものなんだって。自分はそういう星の下、運命のもとに生まれてきたんだろう。そう、タロットカードを眺めながら笑ってた。
だけど、エリチだけは……エリチだけは。
初めて出来た親友だけは……。
「大丈夫。希のこと、嫌いになったりしないわ」
柔らかな感触。
エリチの手。
伸ばした掌に体温を感じた。
両手で包み込まれた指先が暖かい。
「顔をあげなさい?」
「…………ぐす」
「もう、だからキャラじゃ無いわよ」
「そんなこと言ったって……」
次から次へと涙が溢れ出す。
申し訳無さからなのか、それとも安心からなのかは分からない。多分、その両方だ。我ながらひどい顔をしてると思う。だけど自分ではどうしようも出来なかった。それほどまでに私にとって彼女は特別な存在で。
「大丈夫よ、希」
そう言って、彼女は優しく抱きしめてくれた。
「何があっても私は貴女を好きで居るから」
すぅ。
と、耳元で聞こえる呼吸音。
少しだけ、エリチの鼓動が早くなった……ような気もした。
「例え、海菜が希の隣を選んだとしても……よ」
だから。
彼女は続ける。
「これからの話をしましょう?」