これからの……話?
私は溢れ出る涙を止められないまま顔を上げた。そこには私を優しく抱きとめて、微笑んでくれている親友が居た。気が狂いそうなほど強く胸を抉っていた罪悪感や彼女を失う恐怖が次第に薄れていく。
エリチが、私を信じてくれている事が伝わって……救われた気がした。
もちろん、罪悪感は消えてはいない。
隠し事をしていたことは事実。裏切ってしまった事実は変わらない。
そこに私なりの理由があったとしても。
でも、エリチは許してくれたから……。
少しずつ自分の胸に落ちる滴の量が減ってきた。きっとそれは私の方を抱いてくれる彼女の暖かさのお陰。もう一度だけ親友に甘えて、彼女の胸に顔を埋めた。きっとこれから大事な話をしなくちゃいけないから。
もうあと少しだけ。
ただの親友で居られる時間を共有していたい。
「…………」
「…………」
優しく頭を撫でられる。エリチも、もしかしたら同じことを考えているのかもしれないね。今だけは古雪くんの事を忘れて、お互いのことだけを考えていたいって。……そうだと、良いな。
何分経っただろうか。
時間の感覚はとっくに無くなっていた。
顔を上げる。先程までは無かった決意と共に。
「これからの話……やんな?」
絶対に避けて取れない話を……しなきゃ。
エリチも少し名残惜しそうに私の身体を離すと、こくりと頷いた。
「私が……私達がどうするか」
――貴女はどうするつもりなの?
そんな問いかけが、彼女の瞳から伝わってくる。
私は……私はどうするべきなんだろう?
それは、今日一日考えていたことだった。今まで、暖かくて過ごしやすいエリチと古雪くんの作ってくれる居場所に甘えて考えてこなかった問題。でも、私はやっと自分が置かれている現実に気が付いたから。
うん。
どうする『べき』か。やんな?
そんなの――決まってるよね。
エリチの事を想ったら――。
古雪くんの事を想ったら――。
「あのね、エリチ。今日一日色んな事考えててね……」
「…………?」
エリチは軽く首を傾げながら先を促した。
ふふっ。やっぱ好きやな……エリチの事。
何気ない仕草と表情を見てふと感じる優しい感情。
そして、いつも隣りに居る彼の事を思い出す。
自身に向かう瞳と、周りを見つめる視線。
優しい笑顔と、優しい言葉。
いつも私を大切にしてくれて、いつも気にかけてくれて。
ありがとね、古雪くん。
ありがとね……古雪くん。
本当にありがとう。
本当に……。
古雪くん――――。
「ウチ、古雪くんの事諦めようって決めたんよ」
不思議と、思っていたよりも、上手く笑えた気がした。
表情が崩れたのは、私ではなくエリチで。
彼女は最初私の紡いだ言葉の意味が分からないかのように戸惑いの表情を見せ、ついで大きく瞳を見開いた。綺麗なサファイアに波が立つ。言葉に変えられないくらい多くの感情や想いが溢れているのが私の目から見ても分かった。
――きっと、これで良い。
きゅっと拳を握りこんだ。
私の想いはただの――不純物なんだよ。
『絢瀬が居るもんなぁ』彼の友達の零した本音。
『古雪には深入りしないほうが良いわ』彼の友達がくれた忠告。
自嘲気味に笑う。
きっと、私が二人と知り合うずっとずっと前から、古雪くんとエリチの間には切っても切れない大切な関係が出来ていたんだと思う。それは二人が自覚して居なかっただけで確かにカタチとしてあった。そして、今エリチはそれに古雪くんと一緒に触れたいと考えてる。
邪魔しちゃダメ、なんだよ――。
十年以上も付き合いがあった二人の間に、たった二年しか二人を知らない私が間に横入りしようなんて誰がどう考えたって間違ってる。
きっとエリチは否定してくれるだろう。
きっと古雪くんは否定してくれるだろう。
私が大好きになった二人は、そういう人達だから。
だからこそ――私自身の手で終わりを告げなきゃいけない。
強く唇を噛み締めた。
私が二人の応援をしなくてどうするの?
そう、言い聞かせる。
二人は私にかけがえのない宝物をくれたの。欲しくて欲しくて堪らなかった自分の居場所。小さい頃から夢見てた友達、お互いを想い合える親友、いつでも受け入れてくれる存在。きっと音ノ木坂に来て居なかったら、エリチと出会えなかったら一生手にれることは出来なかった。
楽しかった思い出も。
大変だった思い出も。
忘れたいくらい恥ずかしい思い出も。
生涯忘れない優しい思い出も。
全部――全部、二人がくれたから。
――だから!
「のぞ……み」
え?
私の目に飛び込んできたのは――大粒の涙を流す親友の姿だった。
そこに浮かんでいたのは戸惑いでも、感謝でも……怒りでもない。
――哀しみの表情。
「希、ごめんなさい……」
零れたのは謝罪の言葉で――。
どうして?
応援するって……私は諦めるって。
いつもの私達に戻れるんだよ?
だから、そんな顔。
そっと近づく。
エリチが泣いてるから。
一歩。
慰めてあげなきゃ。
応援してあげなきゃ。
一歩。
泣かなくて良いよって。
頑張れって。
一歩。
足先に水滴を感じた。
同時に、視界が滲む。
あれ? どうして私――。
「ごめんなさい、希! 私、そういうつもりでこれからの話がしたいなんて言ったつもりは無いの! 希に諦めて貰おうなんて欠片も思ってない! 貴女にそんな顔させようなんて思ってなかったの! 私は、私はただ……」
おかしいな。
内心、零す。
――上手く、笑えたと思ったんやけどなぁ。
一体、今日どれだけ泣けば済むのだろう? でも、涙は一向に枯れる気配はなく流れ続ける。止まってくれればどれだけ楽だろうか。いや、私なら涙くらい止められてたはずなの。だって一人で泣いちゃう事には慣れてたから。
楽しいことがあっても一人。
悲しいことがあっても一人。
見て貰えない涙に価値はなくて、両親にそれを見せるのは申し訳なくて。いつからか泣くことさえしなくなって、あふれだす感情を笑顔の裏に隠せるようになって。
だけど、どうして今日に限って止まってくれないんだろう?
どうして、どうして?
この涙さえ枯れれば、エリチを苦しめることが無いのに。
この涙さえ枯れれば、私たちは柵の無い親友同士に戻れるのに。
この涙さえ枯れれば、私は古雪くんを……。
――古雪くん。
「希! お願いだから、貴女の本心を教えてよ!」
エリチが懇願するように言う。
「私に遠慮しないで! 海菜に遠慮しないで!」
どうして分かっちゃうんやろなぁ。
「希の……本当の想いを」
でも……、でもね、エリチ。
「い、嫌……いやだよ」
私はそう、小さく零した。
もし私がこの言葉を口にしたら――。
「どうして!? 私と衝突することになるから!?」
それもあるよ。
ウチ、エリチと何かを奪い合うなんてしたくない。
そんなことするくらいなら諦めて譲る方がいい。
「希はそれでいいの!? 海菜の事好きなんじゃないの!?」
……うん。
「好きなら! 恋したなら! 一緒にいたいなら……」
エリチの言ってることは正しいよ。
ウチだって、出来ることならそうしたい!
「じゃあ、どうして……?」
…………。
――そして、私の中の何かが溢れだした。
「ウチは、ウチはもう……寂しい思い、したくないんや」
それは、私の何より強い想いだった。
滔々と言葉たちが流れだす。
「ウチ、知ってるんよ。望んでしまうからこそ、その分辛い思いをしてしまうこと。だって、ずっとそうだったから。欲しいものがたくさんあったの。したいことやして欲しいこと、部屋で一人叶えたいと望み続けたことがたくさん」
でも!
「その、ほとんどが叶わへんかった……」
一人学校から誰も居ない家に返って、鍵を開けて座り込んで。誰にも聞かれない泣き声を上げた日々がどれだけ続いただろうか。いつからか、私は気付いたの。きっと、人は望むからこそ傷ついてしまうんだって。もしかしたら……、そんな希望を抱いてしまうから、それが叶わなかった時に辛い思いをするんじゃないか。
「でも! 希はμ'sを作ったじゃない! 私とも、貴女の方から話しかけてくれた! 海菜が貴女を大切に思うのも、それだけ希がアイツとの距離を一所懸命縮めたからで!」
「せやね。でも、それは『望めるだけの根拠』があったからなんよ」
「……どういうこと?」
私の名前は希。でも、だからといって全てを願うことなんて許されてない。
「μ'sが出来たのは穂乃果ちゃんが居たから。エリチが受け入れてくれたのは、エリチがそういう人だったから。古雪くんも同じ、彼がいい人やったから私の望みは叶ったんよ」
望むことは、期待すること。
自分以外に求めること。
だから、相手に根拠が無いとしちゃダメなことなん。
だって。
「古雪くんとエリチの間には入れへんもん! そんなの、願う前から分かってることやんか。二人の隣に寄り添うことは出来ても、古雪くんの歩いてく道に重なることなんて出来へん! もし、それを望んでしまったら……」
きゅう、と胸が締め付けられる感覚に襲われた。
何度も何度も感じた痛み。
お父さんにもっと遊んで欲しい。
お母さんにもっと抱きしめて欲しい。
友達と一緒に遊びたい。
同じ場所で大切な思い出を作りたい。
他にもたくさん。
でもね。
――全部、叶わへんかった。
辛かった、悲しかった、寂しかった。
「もう、ウチはそんな思い……したくないんよ」
それが私の弱さだってことくらい分かってる。失敗することを恐れず前に踏み出していける人がいることも知ってるよ。だって穂乃果ちゃんや古雪くんの姿を側で見て来たんだから。
でも、ウチみたいな弱虫もいるんや。
だって皆よりもちょっとだけ多く、無くす痛みを知ってるから。
――これ以上、大切なモノを失いたくない。
「エリチを失っちゃうリスクを犯して、古雪くんとの関係まで無くなってしまう危険を目の前にして……好きで居続けるなんて、ウチには無理だよ」
言って、私は俯いた。
涙は未だ枯れること無く流れ続けてる。
なぜだろう。
諦めたほうが楽なはずなのにね?
エリチとも仲良く出来て。
古雪くんとも今のままの居心地いい距離感で。
なのに……。
「涙、止まらないわよね」
彼女は言う。
「うん、ほんと不思議や。ぜんぜん止まらへん」
「どうしてかしら?」
「それは分からへんけど……放っておけばいつか止まるよ」
「…………」
「今まで、ずっとそうやったから」
辛くて、涙が止まらなくて。だけどそうして一人泣きじゃくっていると、いつの間にか落ち着く時が来る。きっと心がきっぱりと涙の原因を突き止めて、諦めてくれるのだろう。どれだけ大きな出来事も、仕方ないって掻き消してくれる。
古雪くんへの想いだってそうだよ。
こうやって泣いていたら。
ずっとずっと泣いてたら。
いつか涙は枯れるから。
そうすれば、普段みたいに笑えるから。
――だから。
「ウチのことは気にしなくて良いよ」
そう、無理に笑おうとして――
「本当に、忘れられるの?」
間髪入れず放たれたエリチの問いかけ。
大丈夫だよ。
今は無理でも、いつか彼のこと……。
忘れ――。
『東條……さん? いつもウチの絵里がお世話になってます』
初めて会った時から笑わせてくれた。
『希!』
いつからか、下の名前で呼んでくれるようになって。
『君のためならμ'sに協力するよ』
一緒に願いを叶えてくれた。
『辛い思いさせて、ごめんね』
エリチと喧嘩した時だって、私の事まで思いやってくれて。
――そして。
『君の望みを、聞かせて欲しい』
古雪くん――。
大好きだった人。いや、違う。今も、これからも……。
私――。
「忘れ……られないよぉ」
心からの言葉が薄暗い部屋に溶けた。
何となく分かった。
きっとこの涙は止まらない。
いつか止まると思ってた。時間が全て解決してくれるって、そう考えてたけど、でも。どうやらそれは間違いらしい。彼を想う度、後から後から涙が溢れ出してくる。
今までは心がどうにもならない問題を諦めてくれてた。
だけど、今は他でもない私の心が諦めることを拒んでる。
でも、ダメだよ、諦めなきゃ。
どうせ無理だもん。
望むだけ無駄だよ。
いくら頑張ったってエリチには叶わないもん。
これ以上傷つきたくない。願ってしまえば、また失う哀しみを……。
「希、私の話。聞いてくれる?」
そう、彼女は切り出した。
そして語り出す。
「私はね。希と違って何も不安じゃないの」
不思議でしょう? と、エリチは笑う。
「もしかしたら、私の方が怖がらなきゃいけないかもしれないのに。……だって、希と喧嘩してしまうことになるかもしれないし。それに加えて、海菜とは十年以上も一緒に居た訳で。……その関係を失うなんてきっと、親と生き別れるとか……そういうレベルの喪失感だと思うわ。きっと死にたくなるくらい辛いこと」
確かにそうかもしれない。
きっと私にとっての古雪くんよりも、彼女にとっての彼の方が重い。
「でも、……だったらどうして?」
私は問いかけた。
ならなぜ、彼女は想いを抱き続けることが出来るのだろう?
「自信が……あるから?」
古雪くんが自分を選ぶっていう核心が……エリチにならあるのかもしれない。
しかし、私のその質問に対して彼女は小さく首を振った。
「そんなこと無いわ。それに関してはもう予想も立てられない。だから、完全に海菜任せね」
だけど、とエリチは続けた。
「私は、この話で何一つ失うつもりは無いの」
その目に宿るのは力強い炎で。
「私は、信じてる。例えアイツが誰を選ぼうと、希がどんな選択をしようと――私たちは変わらず一緒にいられるって。根拠は無いけどね?」
言って彼女はウインクを一つ寄越してくれた。
私には上手く理解できない彼女の言葉と考え方。
言ってしまえば楽観的で無責任な台詞。
でも、不思議と説得力のある言葉だった。
「私は希みたいに最悪の場合を考えれていないし、もしかしたら希の言うようにアイツとの距離が近いせいで、自分でも知らない内に変な自信が湧いてるのかもしれないわ。だけど、これだけはハッキリ言い切れるの」
それは、恋敵としての台詞ではなく。
もちろん、一般論から来る一言ではなく。
私の、親友としての言葉だった。
「希には……、希が笑っていられる選択をして欲しいわ」
貴女のことが、好きだもの。
そう言って、エリチは微笑んでくれた。
彼女のこの言葉を聞いて、私はどうするべきなんだろう? いや、その答えはもう既に決まっているのかもしれない。私に足りないのはその選択肢を選びとる意思と、傷つく覚悟だ。
私は問いかける。
良いの? 私も古雪くんの事を好きで居て。
「あんな、ばか幼馴染で良ければ」
喧嘩になっちゃうかもしれないんだよ?
「希とケンカなんて久しくしてなかったわね。楽しみにしてるわ?」
でも、期待したらその分私は……。
「少なくとも、今諦めたら……希は泣き続けることになるでしょう」
それにね。
と、エリチは続けた。
「ライバルに塩を送るようでアレなんだけど……」
いたずらっぽく彼女は笑う。
「海菜は、希が思っている以上に……希のことを大切に想っているわ。慰めでも、励ましでもない。幼馴染だからこそ分かる事なの。今まで出会ってきた女の子にアイツがこんなに関心を示すことなんて無かった、幼馴染でもない娘に本気で怒ったり心配したり……私からしたら考えられない話よ?」
だからね。
「可能性が〇だなんて思わなくて良いと思う。アイツの……海菜の為にも」
その時の、エリチの浮かべた真剣な表情が私の脳裏に焼き付いた。
「希には、海菜の事を好きで居てあげて欲しい」
その言葉の意味は分からなかったけれど。
まだ諦めるっていう逃げの選択肢を消せたわけじゃなかったけれど。
もう少しだけ、この想いを大切にしよう。
そう、思ったんだ。