ラブライブ! ~黒一点~   作:フチタカ

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第三十八話 決戦前夜 ―高坂穂乃果―

 

 最終予選――前夜。

 

 穂乃果は普段通りの日常を過ごしていた。

 自宅の和菓子屋『穂むら』が夜の八時まで営業している影響で、一般家庭よりは夕食が遅くなる高坂家。翌日に最終予選を控えたこの日も例に漏れず、家族全員が同じ食卓を囲む頃には時計の針が九時を回っていた。

 

 無口な父親と、対象的に陽気な母親。しっかりものの妹と少しいい加減な姉。

 

「おねーちゃん、明日本番でしょ? 緊張してないの?」

「うーん、してない訳じゃないけど……。もぐもぐ」

「もう……。一応アイドルなんだからもうちょっとお淑やかに食べなよ」

 

 ぱく、と女の子らしからぬ大口を開けて白米を放り込みながら穂乃果は答えた。その内容とは反対に、顔色や挙動に違和感は無い。まさしく通常営業の高坂穂乃果だった。

 母親も自分の娘がきちんとリラックス出来ていることを理解して、いつも通り話しかける。

 

「あら、もう本番? 本当、あっと言う間ね。お父さん、覚えてました?」

「…………」

「えっと……『もちろん覚えてる。だから明日は臨時休業だという張り紙を先月から貼っておいた。必ず見に行く。何が何でも見に行く』ですか。それじゃ、家族全員で見られるのね」

「お母さん、なんで分かるの……」

 

 仏頂面の頑固親父の娘の溺愛ぶりが披露される。渋面に三点リーダを並べるだけの旦那の意思を正確に翻訳してみせた母親に、妹のもっともらしいツッコミが入った。

 

 そして、しばらくの間他愛のない世間話に花が咲く。

 三人の女声がかしましく喋り、父親が黙々と箸を動かす構図。

 いつの間にか時刻は夜十字を回っていた。

 

 食卓に並べられた茶碗や大皿のおかずはほぼ無くなっており、母親はそれを確認して片付けを始める。雪穂も率先してその手伝いを始めた。

 

「雪穂~。お茶~~~」

「もー。自分で淹れなよー」

 

 満足気にぽんぽんと自分の腹を叩いて横になった穂乃果は間延びする声で妹を呼ぶ。雪穂はぐうたらな姉を尻目にぐちぐちと文句を零しながらも湯沸し器のスイッチを入れた。

 

――あんまりお姉ちゃんを甘やかすのはどうかと思うけど、今日くらいは良いかな……。

 

 同じことを毎回考えて、結果穂乃果に楽させる事になっていたのだが彼女は律儀にも四人分のお茶っ葉を急須に入れてちゃぶ台へと運ぶ。食後のお茶を淹れるのはある種雪穂の一つの決まった習慣になっていた。もちろん、姉のせいで。

 

 雪穂は電子音と共にお湯が湧いたことを伝えたポットを両手で持つ。食器を洗う母親の後ろを通りすぎて姉の横に腰を下ろした。

 

 こぽこぽ、と気泡立つ熱湯をしばらく冷ました後に注ぎ込む。和菓子屋の娘らしく、急須を使ったお茶淹れには八〇度位が調度良い事を理解しているのだ。おねーちゃんのお茶に茶柱が立てばいいんだけど……そんな健気な希望も添えて。

 ふわり。日本茶の心地良い香りが広がった。

 

 雪穂は急須の蓋をしてそっと穂乃果の横顔を盗み見た。

 どうやら本当にリラックスしているらしく、ふにゃりと間の抜けた笑みを浮かべながら全身の力を抜いてお気に入りのクッションに頭を乗っけている。

 

「おねーちゃん」

「ん~? 何?」

 

 穂乃果はゆっくりと身体を雪穂の方へと向け、彼女の顔を見上げる。

 しかし、雪穂は姉の顔を見ないまま少しだけ照れくさそうに言った。

 

 

 

 

「明日、頑張ってね」

 

 

 

 

 妹は見ていた――姉の努力を。

 

 大好きな姉が自分の目標に向かって必死に頑張っている姿を側で、誰よりも側で見て来たのだ。日に日に汚れてゴムの緩んでいく練習着、買っても買っても擦り切れていく運動靴。軽い脱水症状のような状態で家に帰ってきたこともあったし、晩ごはんを待っている間にリビングで疲れから爆睡する姿も見て来た。

 そして、目前にまで迫っていた第一回ラブライブ出場のチャンスを自分のミスで無くしてしまったことも。

 

――私なら、あの時おねーちゃんを止めてあげられたのに。

 

 雨の中ジョギングに出かけていく穂乃果を止められなかったのは彼女も同じだった。

『こうなったお姉ちゃんは何を言っても無理。あの時のおねーちゃんも絶対何を言ったって聞きっこなかった』

 頭の中ではそう考えていたし、それは今でも変わらない。

 だから、海菜ほど自分を責めはしていない。

 

 

――しかし。

 

 

 

 壁越しに、姉のすすり泣く声を聞いたのも事実だった。

 メンバーの皆や海菜がお見舞いに来た時も、肉親である雪穂や母親が部屋を訪れた時でさえ笑顔を忘れなかった穂乃果が一人、自分のしでかしたミスを悔い、声を必死に抑えこんで嗚咽を漏らしていたあの夜の事。

 

 

 

 だからこそ、雪穂は今姉が胸に抱える想いを理解している。

 どれだけ明日の最終予選に穂乃果が心血を注いでいたかを知っていた。でも、自分に言えることは何もなくて……。せめてもの応援を、そっけない言葉で届ける。

 

 

「うん! 任せて!」

 

 

 穂乃果は満面の笑みで頷いた。

 

 

 

 

「μ'sの皆……私達なら大丈夫!」

 

 

 

 

 それは――どこまでも美しい言葉だった。

 

 彼女は信じきっていたのだ、自分を。 

 彼女は信じきっていたのだ、μ'sを。

 彼女は信じきっていたのだ、メンバー全員を。

 

 その表情には一切の焦りや緊張は見られない。常人なら持っていて当たり前の不安感や焦燥感、プレッシャーや敗退への恐怖は彼女の中に欠片も無かったのだ。それは妹でさえ予想出来ていなかった事実。

 

 雪穂は姉の表情を見て息を飲んだ。

 彼女は勘違いしていた。姉は意図的に日常を演じていたのだと。前回の反省を踏まえて体調管理もちゃんとして、コンディションを整えるためにもこうやって自然体でいようとしているのだと考えていた。

 だからこそ余計なことは言わずに、たった一言の応援に留めたのに。

 

「…………?」

「……ううん、何でもないよ! おねーちゃん」

 

 何処までも無垢な穂乃果の表情に雪穂は微笑みを返した。

 

「もー、なんでそう緊張感無いのかなー」

「えー? 緊張はしてるって。ダンス間違っちゃったらどうしよう、とか」

「確かに。他の皆さんは大丈夫そうだから、ミスるとしたらおねーちゃんだね」

「ゆっきー酷いよ~」

「急にゆっきー言わないの」

 

 にこにこと嬉しそうに笑いながら穂乃果は雪穂に抱きついた。幼い頃から変わらない姉の幼稚なスキンシップに雪穂はわざと顔をしかめて見せながらも特に振り払おうとする素振りは見せない。

 穂乃果は妹の体温を感じながらぎゅうと抱きしめる。

 

「ありがと。雪穂。よしよし。大丈夫だよー」

「おねーちゃん……」

 

 背中をあやすように撫でながら姉は笑う。

 

――何で私の方が励まされてるんだろう……。

 

 素朴な疑問を浮かべながらも雪穂はされるがままになっていた。

 

「でも、明日戦う相手はあのA-RISEなんでしょ? 前回優勝した……」

「うん。一回一緒にライブさせて貰ったけど、本当にすごかったなぁ。ファンになっちゃったもん」

「いや、敵でしょうが……。よくそんな平然としてられるよね。おねーちゃんは」

「えへへ~。それほどでも」

「褒めてない」

 

 穂乃果はまるで自分の事のように心配そうな視線を向けてくる妹をもう一度抱きしめて優しく背中を叩いた。もちろん、穂乃果は妹の言った言葉の意味をよく理解していた。自分が明日戦う相手はどうしようもなく強大で、もしかしたら足元にも及ばないほどの強敵なのかもしれない。正しい認識だ。

 

 しかし。

 

 何故か穂乃果は落ち着いていた。

 そしてなんとも彼女らしい台詞を紡ぎだす。

 

 

「なんだかね。やれそうな気がするんだ!」

 

 

 一体何処から湧いてくるのか分からない自信。

 

「そんなテキトーな……そりゃ私も信じてるけど」

「雪穂が信じてくれてるなら大丈夫だね!」

「もう。こっちは本気で心配してるのに……」

 

 ジトリとした目線。

 ちょっと拗ねた声を漏らした雪穂の様子を見て、穂乃果は少しだけ真面目に語りだした。なんとなく心のなかにあった想いを自分の口で少しずつ答えに変えていく。

 

「うーん、上手く言えないんだけどね」

 

 言葉とはどうしようもなく扱いの難しいものだ。そしてそれの持つ意味は人によって違う。例えば古雪海菜や綺羅ツバサは『言葉』を使って思考を行う。他人からすれば考え過ぎだと思われるほどに様々な文字列を頭の中に浮かべながら論理的に結論を導き出す類の人間だ。

 一方、穂乃果はそうではない。

 彼女もツバサとは違った意味で非凡な才能を持つ少女ではあるが、ツバサや海菜ほど頭を回転させている訳ではない。彼等とは違った感覚的な何かで物事を判断し、同時にその道を真っ直ぐに失敗を恐れずに進む力を持っていた。

 

 他人の目から見れば『根拠の薄い道を進める勇気』としか捉えられない彼女の素質。

 

 A-RISEに真正面から挑むことはまさしくそれに値する。突き詰めて言えば、廃校をスクールアイドル活動で阻止しようとすること自体無謀で根拠の無い道だったと言えるだろう。

 

 

 しかし――彼女の中には確かな根拠があった。

 

 

 

 

「μ'sなら大丈夫だと思うんだ!」

 

 

 

 

 人が『根拠』と呼ばない何かを拠り所に出来る、特殊な思考。

 それが音ノ木坂学院及びμ's全員の運命を変えてきたのも事実で。

 

 

「確かに、練習量は頑張ったけど足りてないかもしれないし、顔やスタイルだって穂乃果はお世辞にも他のスクールアイドルの皆と比べて優れてるなんて言えないよ。だから、皆が納得できるような理由は全然思いつかないんだけど……」

 

 

 穂乃果は宙を見上げながら人差し指を口元に当てた。

 特に気負った様子のない表情で呟くように言う。

 

 

 

 

「皆が居るから大丈夫」

 

 

 

 

 それは奇しくも、ツバサの紡いだ言葉とは正反対の意味を持っていた。

 

「みんなと一緒なら誰よりも楽しく歌えるんだ。きっと、本番も今までで一番楽しく踊れるライブになる気がする。それに、応援してくれる人達が沢山いるしね? 雪穂や、お母さんやお父さんや……」

 

 じぃ、と自分を見つめる妹の頭を優しく撫でながら穂乃果は言う。

 

「おねーちゃん?」

「……………」

 

 彼女は少しだけ考えこむ様子を見せた後、心からの笑顔を浮かべた。

 

 

 

「海菜さんも応援してくれるからっ!」

 

 

 

 穂乃果は彼の姿を思い浮かべていた。

 いつの間にか無償の思いやりを自分達に注いでくれていた青年の姿を。

 

 

 

「海菜さんが信じてくれてるんだ、私達の勝ちを。だから、私は証明したい」

 

 

 

 拳を握りこむ。

 その瞳には凄まじい熱が生まれていた。

 

 

 

 

「あの人が費やしてくれた時間は無駄じゃなかったんだって。大好きな希ちゃんが待ち望んだμ'sは本当凄いグループだったんだって。海未ちゃんとことりちゃんが私に付いて来てくれたことは間違いじゃ無かったって証明したいの。真姫ちゃんや花陽ちゃん、凛ちゃんの決断は正解だった。にこちゃんの思い描いていた夢も一緒に叶えたい、絵里ちゃんにμ'sに入って良かったって思ってもらいたい!」

 

 

 

 だから――。

 

 

 

 

 

 

「私達は勝つよ!! 他でもない、皆の為に!!」

 

 

 

 

 

 

 

 

【全ての根拠は皆の中に】

 

 

 

 

 

 

 

 

「あ、おねーちゃん。茶柱立ってるよ!」

「えへへ、縁起良いね~。はっ! ……これで演技も良くなるかも」

「確かに海菜さんの影響は大きいみたいだね……」

 

 

 

 

 

 

 

 

 




次回。

決戦前夜 ―古雪海菜―

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