――試験会場。
憧れの校門をくぐり、下見通りの校舎に入った。
静かに席へ着くと準備を終え、しばらく無言のまま過ごす。
少し肌寒い程度に調節された空調。腕を伸ばす範囲に人はおらず、十分なスペースが確保されていた。窓は締め切られ、外部の音をシャットアウト。試験官は数人神妙な面持ちで持ち場についている。
頭を働かせるのに適した環境が考えられる限り、ほぼ完璧に作り出された空間。その場所に俺は座っていた。
無音――。
厳密に言えば鼓膜を揺らすのは己の血流と鼓動、そして同じ目標を掲げたライバルたちの吐息だけ。既に試験上の注意などは終わっており、開始の合図を残すのみ。俺達は各々にそれを待っていた。
背筋を伸ばし、虚空を睨む者。
背中を丸め、目を瞑る者。
落ち着きなく辺りを見回す者。
俺は――。
「すぅ…………」
深呼吸を一つ。
驚くほど心は穏やかだった。
***
「さぁ! 準備は良い!?」
『はい!』
気合の入った声色で、μ'sは絵里の声に応えた。
出番は次。にこが引き当てた演技順にして、最後――掉尾を飾る。
***
俺の知らない舞台裏。
しかし、あの後、絵里から全て聞いていた。
今日の朝、ラブライブの疲れの抜けきっていないハズの彼女が教えてくれたその話。家から駅までの道のりで、絵里は静かに語ってくれた。無意味な励ましでも、応援でもない。俺が一番望んでいた情報を渡しに来るのがこの大切な幼馴染で。
「……みたいな事があったのよ」
「そかそか。ありがとね。――それじゃ、もう電車来るから」
「えぇ、そうね」
少し乱れた金髪がさらりとマフラーから零れ、光を乱反射する。
どこまでも可憐で、どこまでも透き通った瞳が真っ直ぐに俺を見た。
そこに映っていたのは、いつもどおりの俺の姿で。
「それじゃ、明日の夜は絢瀬家もご一緒させて貰うみたいだから!」
「お、楽しみ~」
「いいお肉用意してるらしいわよ?」
「俺の為に!?」
「残念でした、私の為によ」
海菜の為にもなればいいわね~。
いたずらっぽく笑うと、彼女は一歩後ろに下がった。
「あ、あと、希から伝言」
「何?」
「古雪くん、頑張って! ウチのスピリチュアルパワーがついとるよ♪――ですって」
「はは。そりゃ心強いな!」
俺と絵里は顔を見合わせて笑う。
「直接会って集中を乱したくないからって、さっき電話してきたのよ? いま神田神宮に合格祈願のお参りに行ってるらしいし、また夜にでもお礼言っておきなさい」
そう言って、絵里は踵を返した。
つい一時間前のそんな情景を思い出す。
――小さく微笑む。
配られた解答用紙に目を落とした。
開始まではまだ時間がある。
真っ直ぐに応援の言葉をくれた希。
頑張れとは一言も言わなかった絵里。
どちらも彼女達らしく――どちらも俺に力をくれた。
***
「お客さん、凄い数なんだろうね」
ことり。
「楽しみですね。もう、すっかり癖になりました。たくさんの人の前で歌う楽しさが!」
海未。
「大丈夫かな? 可愛いかなぁ……?」
「大丈夫にゃ! すっごく可愛いよ! 凛はどう?」
「ふふっ。凛ちゃんもすっごく可愛い!」
凛、そして花陽。
「今日のウチは、遠慮せんと前に出るから覚悟しといてね!」
「なら、私もセンターのつもりで目立ちまくるわよ? 最後のステージなんだから」
「おもしろいやん!」
希と絵里。
「三年生だからって、ぼやぼやしてると置いていくわよ。ね、宇宙ナンバーワンアイドルさん?」
真姫。
「ふふん。面白い事言ってくれるじゃない。私を本気にさせたらどうなるか、覚悟しなさいよ!」
にこ。
そして、穂乃果は――
***
膝に置いた手が、僅かに汗ばむ。頭は依然としてクリアなままだが、緊張してしまうのは仕方ないだろう。どれだけ深呼吸しても、どれほど自分に語り掛けても鼓動の音は増すばかり。しかし、不思議と嫌な感じは無く、心は落ち着いていた。
――大丈夫。
小さく呟いた。
――あれだけ勉強して来たんだから。
月並みなセリフ。
しかしその言葉には三年間の努力が乗っている。
緊張には慣れてる、場数もこなしてる。
知識もあるし、技術も磨いた。
あと、俺に必要なのは――
***
皆、全部ぶつけよう!
今までの気持ちと。
想いと。
ありがとうを!
全部乗せて歌おう!!!!
***
そうだ、ぶつけることだけだ。
今までの気持ち――悔しかった思い出、それでも譲れなかった最終目標。迷いや遠回り、間違いや無駄足も全部全部。全てこの鉛筆に乗せるんだ。捨てたもの、守れなかったもの。捨てられなかったもの、手に入ったもの。全部――全部!
見守ってくれた人への感謝。
大切な事を教えてくれた人への感謝。
共に頑張った人への感謝。
μ'sへの感謝も込めて。
既に立てかけられた大きな時計の秒針は開始三十秒前を指している。永遠のような――それでいて刹那のような時間。滲んでいた汗はいつの間にか止まり、鳴りやまなかった心臓はいまゆっくりとそして堂々と脈打っている。
俺は静かに――右手を前に差し出した。
***
「μ'sラストライブ! 全力で飛ばしていこう!!!」
重ねられた九つの掌。
九人で構成された円陣。
しかし、彼女たちは感じていた。
***
俺の掌に。一人だけの掌に。
九つの暖かな光が宿った。
――幻。分かってる。
世界中探してもそれを確認できる人は居ないだろう。
しかし、俺は感じていた。
***
「いち!」
「に!」
「さん!」
***
例え同じ場所にいなくても。
***
「よん!」
「ご!」
「ろく!」
***
目指した夢は違っても。
***
「なな!」
「はち!」
「きゅう!」
***
きっと俺達は――。
「じゅう……」
なんて、言ってみたりして。
照れ隠しに少し笑ってみた。でも、俺には確信があったんだ。
囁くような、吐息にも似たその声は。
時間を超えて、空間を超えて。
***
重ね合わせた九の掌に十番目の光が宿るのを全員が感じていた。
***
――きっと、届く。
試験官が立ち上がり、開始の合図を出した。
でも、俺の頭には別の声が響いてて。
なぜか、それに大きな力を貰うことが出来た。
***
『いくよっ! μ's、ミュージック――スタート!!!!!!!』
***
俺はゆっくりと問題用紙を開き、鉛筆を握った。
その手には彼女たちがくれた、確かな光が宿っている。