ラブライブ! ~黒一点~   作:フチタカ

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第五十九話 前日

 

 柔らかく粉のように白っぽい朝の陽ざしが窓から零れ、優しく彼の背中を照らしていた。ベッドの上で寝息を立てている青年は時折僅かに身じろぎし、無意味に拳を軽く握りこんでいる。随分と寝相が悪いらしく、就寝直後はかかっていたはずの毛布が床に落ちていた。

 

 キィ。と、木製のドアが控えめに開く。

 

「……海菜?」

 

 そうっと、囁くように彼女は問いかけた。

 残念ながら返事は無く――。

 頭だけ出して部屋を覗き込む。見とれてしまうほど美しい金色の髪の毛が肩口から零れ落ちた。部屋と外の気温差からか隙間風が流れ込み、同時に丁寧に結われた髪の束が揺れて星屑を生む。

 

 はぁ。ため息一つ。

 

 一応、礼儀だし……と軽く二度木板を叩いた。

 コンコンと小気味よい音。しかし、彼は変わらず寝息を立てていた。

 

「何時だと思ってるのよ……」

 

 絵里はちらりと壁時計に目をやる。男の子の部屋らしいシンプルな黒縁の数字板はきっかり十二時を指し示していた。太陽は既に高く上っており、季節は冬とはいえ窓越しの日差しは暖かい。彼女は中に入ってドアを閉めてベッドの方へと歩みを進めた。

 部屋の光景は少し見慣れない。

 

――この漫画、久しぶりに見たわね。

 

 机の上に置かれた五・六年ほど前に流行った少年漫画を眺める。年季が入り、いつしか物置の奥深くにしまわれたはずのそれが発掘されていた。大方、絶賛爆睡中の幼馴染が引っ張り出してきたのだろう。漫画を読む余裕の出来た彼に少しだけ優し気な眼差しを送りながら、絵里は落ちていた毛布を拾い上げた。

 

「相変わらず寝相悪いんだから」

 

 不満げに零しながらもかけ直してあげる。

 よだれを垂らして寝る幼馴染を見ると腹も立たないのか、呆れたように笑みを零した。

 

「んぐ」

「…………」

 

 少しだけ乱暴に毛布を掛けた所為か彼が僅かに動く。

 そして――。

 

「ん……」

 

 目を覚ました。

 

「あれ、起きちゃったかしら?」

「……絵里?」

「おはよう」

「……おやすみ」

 

――切り替え早!?

 

 言うが早いか布団を被って二度寝を始める幼馴染に内心ツッコミながらペチンと叩く。

 

「一回起きたならもういいでしょ」

「う~~~」

 

 朝に弱いのは毎晩勉強をしているせいかと思っていたのだが、この調子だと違うらしい。最近はもうすっかりオフモードなので単純に目覚めが悪いのだろう。私も低血圧気味なんだけど、コイツもなのかしら。

 

「いま何時だと思ってるのよ」

「…………」

「無視する気かしら?」

 

 言うが早いか、絵里は折角掛けた毛布をひっぺがして海菜の頬を抓った。

 

「ほーらー、今何時?」

「ほうねはいはいね!」

「そうねだいたいね? 抓られてる時によくサザン出来るわね」

「へーほんほへほはい」

「………?」

 

 指を離すと海菜も諦めたのかのっそりと体を起こした。

 剥がれ落ちた掛布団から埃が舞い、相変わらず注ぎ込まれていた太陽光を反射しながらどこかへ流れていく。朝から災難だー、などと呟きながら彼は体を絵里の方へと向けた。

 

「海菜、おはよう!」

「……おやすみ!!」

「もうそのクダリやったでしょう!」

 

 

***

 

 

『ごちそうさまでした』

 

 二人しかいないリビングに行儀のよい挨拶が響いた。

 海菜と絵里の目の前には空になった丸皿があり、食欲をくすぐる香辛料の残り香が漂っている。彼らは満足げにお腹を押さえて一息ついた。

 

「ふーーー。満足」

「美味しかったわね、流石おばさん」

「別に、カレーの味なんて絵里んちも変わらないだろ」

「そうかしら? 海菜の家の方が少しスパイシーで好きよ」

「そっか、亜里沙ちゃんが辛いの苦手だもんな」

「えぇ。私も辛すぎるのはダメだけど、このくらいの方が好きかも」

「へぇ……初めて食べた時は辛くて食べ切れてなかったのに」

 

 くくくと思い出し笑い。

 恥ずかしそうに頬を染めながら絵里は言い返す。

 

「そ、それは仕方ないじゃない。何年前の話よ……」

「確か小二の時の初めて二人で留守番した……」

「あぁ、そうだったわね……って、確かそれ」

 

 思い出す様に遠くを見つめて僅かに逡巡。

 

「海菜が『こうしたら美味いんだ』とか言ってソースを入れたからじゃない!」

「そうだったっけ?」

「そうよ! だって、その時以外おばさんの料理残した事無いもの」

 

 海菜は記憶にない……と呟いて余計絵里を怒らせていた。

 二人にしては騒がしく――もとい楽しく会話をしながら食器を片付ける。絵里は率先して皿洗いを始め、海菜も一人サボる事は出来ないと思っているのか意味もなく彼女の周りをうろちょろしていた。

 憎めないやつね、と絵里は笑う。

 

 結局、二人は揃ってソファに腰を下ろした。

 

 時刻は二時過ぎ。

 満腹感と心地の良い気温が眠気を誘う。

 

「ふわぁ」

 

 と、絵里は軽く欠伸を一つ。

 

「………?」

 

 視線を感じて横を見るとじぃっとこちらを見つめていた海菜と目が合った。

 

「………」

「………」

 

 無言で見つめ合う。二人は何故か視線を外すことが出来なかった。慌てて別の方向を見てしまうと、それはそれで微妙な雰囲気になるような気がして。騒がしかった居間が静寂に支配される。先程まで使っていた台所の蛇口から水滴が落ちる音が聞こえてくるような――。

 一歩踏み出せば触れ合える距離で視線を交わす。

 

「どうしたの……?」

「いや……」

 

 折角声をかけたというのに煮え切らない返事。

 相変わらず以前の調子には戻り切らない幼馴染に絵里は笑いかけた。

 

「もしかして、緊張してる?」

「いや、そこまでじゃないけど……」

「ふーん」

「流石に前みたいに二人でお昼寝! とはならないだろ」

 

 僅かに頬を染めながら海菜は呟いた。

 

――改めて、綺麗な娘だな。

 

 そんな感想が生まれる。

 食後のせいか顔色はとても良く、艶やかな唇が目を惹く。僅かに染まった頬は十年以上一緒に居て、ここ最近やっと見ることが出来るようになった彼女史上最高に魅力的な表情だ。見慣れたはずの金髪もどうしてか、世界で一番美しいものではないのかと錯覚してしまう。あるいは、彼にとっては本当にそうなのかもしれないが――。

 臆して引いてしまいそうな自分と、臆さず笑いかけてくる彼女。

 海菜は幾分かマシにはなったものの、やはり緊張を浮かべていた。

 

「そうかしら?」

 

 絵里は一言呟くと、立ち上がる。

 

「どこ行くの?」

「ちょっと待ってて」

 

 意図が分からず部屋の外へと消えていった見送ったものの、彼女はすぐに戻ってきた。片手に見慣れた掛布団、と言うよりはタオルケットと表現した方が適切だろうか。柔らかそうなそれを抱えている。

 

「はい、海菜」

 

 そう言って傍に腰を下ろし、片方の端を差し出す。

 海菜は少し照れくさそうにしながらもそれに従った。

 

「………」

「………」

 

 静寂――。

 

 しかし、それは決して不快なものでは無かった。

 

「案外、普通でしょう?」

「そうかもな」

 

 海菜は頷く。

 目を瞑ると感じる彼女の気配。漏れる吐息と時折揺れるタオルケットの振動。寄せ合った肩は熱を持ち、お互いの存在を強く伝えあう。それは決して初めての経験では無く、幾度も慣れ親しんだ感覚で――。

 

「……はは」

 

 海菜は小さく笑った。

 訝し気な視線を送って来る絵里に言う。

 

「いや、なんでもない」

「……そう」

 

 特に気にすることも無く絵里は目を閉じた。

 そうして二人、互いを意識し合いながら眠りに――

 

「なぁ、絵里」

 

 落ちることは出来なかった。

 

「どうしたの? やっぱり寝れない?」

「いや……緊張とかは無いんだけど」

「うん」

「いや、ま、いいや」

 

 一瞬だけ沈黙が流れて……。

 

 

 

 

 

 

「明日、合格発表だものね」

 

 

 

 

 

 

 目を閉じたまま、絵里は呟いた。

 

 カレンダーの日付は既に最も大きな丸印で付けられた数字の手前まで辿り着いていた。時間の流れとは不思議なもので、二週間ほどあったはずの休みの期間は瞬く間に通り過ぎていた。光陰矢の如し――。意味のごとく無為に過ごしていた訳では無いが、気付くと既に運命の日を目前にしている。

 

「…………」

 

 返事は沈黙。

 

 しかし、絵里は知っていた。

 

――平気なハズ、無いわよね。

 

 世界で一番良く知る彼の事を想う。全てを捨てて勉強に懸けた彼の結果が出てしまう日が迫っている。絵里は海菜の努力を全て知っていて、同じく彼の想いも理解していた。そして、海菜が大きなプレッシャーを抱えて明日を待っていることも。

 平然としていても、心配ない風に装っていても絵里には分かって居た。

 試験が終わってから二週間。何度か会って、何度か遊んで。彼は彼なりに色々な事を考えて何かを経験していた――そんな感じもしていたけれど。やはり、どこかに受験の事が圧し掛かっていたと思う。そう、きっと祝勝会の時ですら。

 

 試験が終わったから――。

 今更気にしても仕方ないから――。

 結果は変わらないから――。

 

 なんて、理屈では分かってる。

 

――でも、堂々としていられるほど海菜は大人じゃないもの。

 

「………」

 

 所在なさげに虚空に視線を彷徨わせる幼馴染を見た。

 

 誰よりも頑張って。

 大切なものを諦めて。

 本番に臨んで。

 そして、手応えもあって。

 

 だけど、不安なものは不安だろう。

 ある意味、私たちのラブライブとは違うと思う。大きな目標に向かって努力した部分は確かに同じだが、μ'sにとってラブライブはきっと高過ぎた夢。夢中になって走って、走って、走り続けて起こった奇跡のようなものだ。もし仮に優勝できなかったとしても――後悔は無かったと思う。

 しかし、海菜が不合格になれば――。

 

 人生すら、狂うのだ。

 

 彼にとって、受かる事が全て。

 努力も過程も……全て目的を叶える手段でしかない。きっとそれが受験勉強というモノの本質だろうけれど、やっぱり酷だな――と絵里は感じた。私には分からないような気持ちで海菜は今この時を過ごしているのだ、彼女は想像する。

 

 

 

「ありがとな、絵里」

 

 

 

 唐突に、海菜が零す。

 

「何? どうしたの?」

「いや……君が来てくれたお陰で」

「…………」

「……ちょっと、気が紛れた」

 

 言って、彼は笑った。目元には無くなったはずの隈がうっすらと伺える。一人で落ち着かなかったからなのか、いつの間にか物置から引っ張り出されていた漫画。それが示す意味を幼馴染は理解した。

 

「海菜、クマでてるわよ?」

「あ……」

「もう、夜更かししちゃだめよ」

「昨日だけじゃんか」

 

 小言はやめてくれ、と唇を尖らせる。

 そして、二人は揃って目を閉じた。

 

 

 平静を装いながらも、海菜は苦悩していた。

 

――不安。

――焦燥感。

――プレッシャー。

 

 考えれば考える程それらは濃さを増し、量を増し、渦を巻いて彼の中を暴れまわる。努力をし尽くして実力を出し切ったからこそ――この不安を解消する手段がない。気を紛らわすモノが何もない。かといって、この滾る思いを上手く言葉にして逃がせるほど彼は器用では無かった。

 だからこそ、海菜は強引に口を閉じようとして。

 

「絵里……」

 

 それが出来ない事に気が付いた。

 零すはずのない言葉が溢れ出てくる。

 

 押し込めたはずの、誰にも見せたくない――弱い自分が。

 

「…………俺」

 

 意図せず――。

 

 

 

 

 

 

 

「俺、ちゃんと受かってるかな……」

 

 

 

 

 

 

 

 きっと、絵里が相手だったからなのだろう。他の誰でもない彼女が隣に居たから、居てくれたから。兄妹、姉弟――もっと近しい存在だからこそ、彼は隠すことなく隠し通すことが出来ずに不安を口にした。

 

 そして、絵里は一瞬驚いた様に目を見開いて。

 

 

 

「ちょ、絵里……?」

 

 

 

 躊躇いもなく――彼を抱き寄せた。

 

 

 一気に海菜の身体は火照り、心拍数は上がる。しかし絵里の表情は変わらない。穏やかに微笑みながら、優しく彼を包み込む。恋人同士では無く、まるで幼い弟をあやす姉のように。事実、この瞬間はそうだったのだろう。絵里は想いを寄せる相手を抱きしめたのでは無く、手のかかる未熟な幼馴染を抱き寄せたのだ。

 

「恥ずかしいんだけど……」

「ふふ。海菜らしくないわね」

「…………ふん」

 

 そして絵里は――囁いた。

 

 

 

 

 

「……大丈夫よ」

 

 

 

 

 

 たった一言。

 きっと、誰に問いかけてもそう答えただろう。しかし、きっと――海菜の心を優しく鎮めることが出来るのは、絵里の言葉だけだ。彼はまるで騒めいていたことが嘘だったかのように落ち着きを取り戻していく自分の心に驚いた。

 

「……そっか」

「えぇ」

「うん……」

 

 やがて訪れた静寂。

 二人は深い眠りに落ちていく――。

 

 

 

 

 

 

***

 

 

 

 海菜が目を覚ますと明るかった日差しは既に陰り、僅かばかりの夕日がソファの縁に差し込むだけ。きっと、それすらもあと数分すれば消えてしまうだろう。いつの間にか数時間経ってしまっており、彼は寝ぼけ眼で辺りを見回した。

 

「あれ、絵里?」

 

――居ない。

 

 胸元を見ると、丁寧にタオルケットがかけなおされていた。

 一体どうしたと言うのだろう。彼は不思議に思いながら身を起こして――。

 

「ん」

 

 机の上に一枚の紙を見つけた。その上には見慣れた筆跡でメッセージが少々。

 

『亜里沙を迎えに駅まで行ってくるわね』

 

――別に、俺を起こしてくれたら一緒に行くのに。

 

 そんな事を考えながら伸びをした。昨晩は落ち着いて眠れていなかったためか、先ほどまでの睡眠が功を奏したらしい。幾分か体は軽く、眠気もほとんど無くなっていた。少し肌寒いが、絵里のお陰で冷え切っては居ない。

 彼は立ち上がって自分のスマートフォンを手に取って。

 

「絵里からだ」

 

 数十分ほど前に送られてきたラインを開いた。

 

『落ち着かないなら神田明神行って来たら? ご利益あるわよ~』

 

 占いとか信じないんだけどな……。てか、コイツそれも分かってるだろ。

 半眼で幼馴染の提案を眺めて――。

 

 

「ま、身体動かしがてら行ってみるか」

 

 

 一人零し、彼はコートに袖を通した。

 

 

 

 

 

***

 

 

 

 長い長い階段。

 しかし、見慣れた景色。

 彼女たちと会いに通った道。

 

 既に辺りは暗く、人も疎ら。

 閑散として寒々しい坂道を彼は一人上る。

 

 点在する木々が揺れる。僅かばかり芽吹いた新芽が冷気から逃げるように。

 

 コツン、コツン。

 

 祈る気は無かった。

 既に彼の心は落ち着いていて。

 きっと、絵里の言葉以外何も必要ない。

 しかし、海菜は導かれるようにそこへと向かっていた。

 

 

――わざわざ出かけたのはどうしてだろう。

 

――寒いのに何故俺は背中を丸めながら石段を登るのか。

 

――家でゆっくり明日を待てば良いのに。

 

 

 その答えを頭の中で探しながら、でも結局見つからない。家から数十分の距離をゆっくりと歩きながら、それでも解き切れなかった問題の答えが――

 

 

 

 

 

 

「……古雪くん?」

 

 

 

 

 

 

 そこにあった。

 海菜がそれに気付いたかは分からないけれど。

 

「……よ、希」

「どうしたの? あ、もしかして……明日の事でお参り?」

「……いや、別に。ところで、君は? 今日バイトだっけ?」

「ううん、今日は別に何も無かったんやけど……その」

 

 希は要領を得ない返答を返した後、恥ずかし気に視線を外した。

 アメジスト色の瞳が揺れ、降ったばかりの雪の様に白い肌が紅く染まった。手袋を外していた指先は悴み、寒さのせいか僅かに肩が震えている。溢れだす輝く吐息は本来今日、彼女がこの場所で何十分も繰り返す必要のなかった呼吸だ。

 

 

――彼女は今日この場所で。

 

 

 海菜は考える。

 

 

――一体、何を願っていたのだろう。

 

 

 無事に希も進路が決まり、ラブライブも終わり。

 そんな今、彼女は何をそれほどまでに一生懸命。寒さに震えながら今日この日に。

 

 

 

 

 

 

 

「帰ろっか、希」

 

 

 

 

 

 

 

 海菜は笑った。答えを探すまでもない。

 希はきっと――他でもない俺の為に。

 

「え? う、うん。送ってくれるのは嬉しいんやけど」

「けど、何?」

「古雪くん、ここに用があったんとちゃうの?」

「いや、全然。散歩がてら来ただけ!」

「そーなん?」

 

 

 

 

――ありがとな、希。

 

 

 

 

 小さく、小さく――海菜は呟いた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


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