ラブライブ! ~黒一点~   作:フチタカ

140 / 141
第六十二話 想えばこそ

***海菜の話***

 

 

 

――同情からやない……?

 

 

 彼女の言葉が静かに、しかし重く胸に圧し掛かり、何度も何度も脳内を反響し続けている。あまりに悲しく、そしてあまりに正確に的を得た表現。俺は返す言葉が一つもないままに一晩明かしてしまった。ただの一つも答えを導き出すことなく。

 寝不足の目には恐らく生気など無い。

 夜通し冷えた部屋の中に立ち尽くした指先は冷え切っている。

 それほどまでに、希が残した言葉は――重い。

 

「……希」

 

 一言。

 俺は――恋する人の名を呼んだ。

 

 不思議なもので、彼女の名前を口に出すだけで心に暖かな光が灯る。それは暖かく、柔らかで、絶対になくしたくないものだった。紛れもない本物。嘘偽りない素直な心。だからこそ、考えることを辞められない。手を伸ばせばそこに居てくれるはずの彼女に届かない。もどかしさと、不安と、罪悪感。

 そして。

 

「……絵里」

 

 一言。

 俺は――愛する人の名を呼んだ。

 

――あぁ……やっぱり。

 

 自嘲気味に笑う。

 絵里の名を呼ぶと、希とは違った、しかし代えがたい程に大切な熱が胸に宿るのを感じる。それは、十数年、無意識のうちに感じ続けていた暖かさ。彼女を選ばないという選択肢を選んでもなお消えることのない『絵里を大事にする心』がそこにはある。

 もしそうであるなら……。

 

 絵里を考えずに希を選ぶことは出来ていないのかもしれない。

 もしかしたら本当に彼女たちを天秤にかけてしまっているのかもしれない。

 

 でもそれは。

 でも、それは……。

 

 

「仕方ないだろ……」

 

 

 掠れ声で、その台詞を喉から嗚咽の様に吐き出した。

 

 未熟な俺の、情けない弱音。

 誰にも聞かせられない、聞かせてはならない。

 でも、素直にそう思った。

 

 俺は絵里と一緒に育って、助け合い、励まし合い、時にはケンカしながら、それでも離れず傍に居続けていた。それは高校に入ってからも同じで、心のどこかでお互いがお互いを気遣いながら違う学校を選び、通っていた。

 

――希と出会うきっかけも絵里だ。

 

 少し気難しい彼女が連れてきた、初めての親友。交友関係は広くても、希ほど仲の良い友達が居たことは無かったと思う。それ程までに絵里は希を大切にしていて――だからこそ、俺は彼女に興味を持ったのだ。最初は特に他意は無かった。違う学校の女友達、それも一週間に一度会うかどうかも怪しいような子に現を抜かすほど俺は暇な高校生活を送ってはいない。

 でも、いつの間にか俺達は打ち解け、希も心を開いてくれて。

 

「好きに……なった」

 

 間違いない。

 これは恋だ。

 

 でも、それに気付かせてくれたのは?

 希と絵里を切り離して考えることが本当に出来たか?

 俺の思考は間違っているか?

 

 食い縛り乾ききった口元には唾液すら残っていない。

 

 俺はコートを着込み、散歩をしようと外に出た。外は既に明るく、冷え込んではいるものの三月ともなれば流石に一月などの寒さとは比較にならなかった。気候は出歩くには適していて、心地よい日差しが降り注ぐ。が、瞼はずしりと重い。しかし、僅かばかりも眠気は生まれず、思考を回すためにもまずは足を動かすべきだと考えて歩みを進めた。

 

「俺が、希を好きだと気付けたのは」

 

 小さく呟いた。

 

 要因はいくつかあるだろう。ツバサの行動で己が置かれている立場を自覚できた。ことりの告白や、にこの慰めやアドバイスも俺に大切な事を教えてくれた。でも、一番の理由は、俺が希の好意に気付き、それからの流れで絵里が告白してくれたことだろう。鈍感な――いや、余裕のなかった俺が誰かへの恋心を真剣に考えるきっかけをくれたのは、やっぱり絵里だ。あの娘がいたから、俺は自分の恋心と向かい合うことができた。

 

 

――同情からやない……?

 

 

 強く拳を握りこんだ。

 

 頭は既に真っ白で。

 だけど考え続ける他は無く。

 

 カランカラン。

 

 久しぶりに馴染みの店に来た。いつもお客さんの入りが少ない、少しだけ寂れた――とても居心地の良い喫茶店。何時間でも机を貸してくれた優しい初老のマスターが一人で切り盛りする思い出の場所。合格したことを報告しに来て以来、立ち寄る暇は無かったのだけど。考える場所としては最適だ。

 

「……こんにちわ」

「いらっしゃい」

 

 何気ない風を装って、いつものコーヒーを注文した。

 マスターはちらりと俺の表情を伺いながらも何も言わず小さく頷く。

 俺は辺りを見渡して、いつもの席へと――。

 

「…………?」

 

 普段通り、客足はまばらで席は半分ほど空いている。そして、俺がいつも使う机は端っこの、日も当たらない陰気でおおよそ好んで誰かが選ぶことのない場所に位置していた。でも、今日は珍しくその席が取られており、そこに座る人間の顔は見覚えがある。亜麻色の髪の毛を肩口で切り揃えた美しい顔立ちの少女。小柄な体に圧倒的な才能を宿した彼女は、まるで昨日会っていたたかのように俺へ手を振った。

 

「こんにちわ、カイナ」

「……ツバサ?」

 

 涼やかな雰囲気。

 悩みや挫折、苦しみを微塵も感じさせず。

 堂々と笑顔を見せる。

 

 やはり、俺は……天才が嫌いだ。

 

「……間が悪すぎ」

「え? 何か言った? ほら、どうぞ。先約があるわけじゃないんでしょ? その顔見ると」

 

 促されるまま、抵抗する気力もなくツバサの前に座った。

 

「酷い顔ね……何かに憑かれてる? 私、天才だけど霊感はないの」

「いろいろあったんだって……」

「そう」

 

 ツバサは何も気に留めてないようにコーヒーを軽く啜った。

 

「で、何してんの? 君」

「ここに居たらいつか会えるんじゃないかと思って」

「嘘つくな。もう俺に興味ないだろ」

「ふふっ、確かにもう未練はないわ。単純に、海菜に何度か連れてきてもらったこのお店が気に入ってるだけ。でも、興味ない訳じゃないわよ?」

「…………?」

「受験、どうなったのかと思って」

 

 可愛らしく小首を傾げて見せた。

 あぁ、そうか。確かに彼女には伝えていなかった。ツバサも俺が本気で勉強に打ち込んでるのを知ってたんだっけ。俺は軽く頷いて結果を伝えた。

 

「受かったよ」

「え??」

「なんだよ、不思議か?」

 

 じぃ。と、ツバサは俺の顔を見つめて。

 

「受かった人間の顔じゃないわよ」

 

 うるさい。分かってるって。

 

「色々あったんだって」

「ふぅん」

 

 彼女は覗き込むように俺の瞳を見つめてきた。相変わらず深すぎる瞳の色に吸い込まれそうな感覚に陥る。俺のすべてが見透かされているような。あるいは、隠したとして簡単に分析され尽くされてしまうような。

 

「見たところ、痛い目にあってるみたいね」

「そりゃ、見りゃ分かるだろ」

 

 不機嫌さを滲ませて返しておいた。

 

「何があったの?」

「言わない」

「良いじゃない、私相手なら気軽に話せるでしょう?」

「はぁ? 何で?」

「だって、会う機会ほとんどないし、誰かに告げ口するほどお互いの人間関係が繋がって無いし。バーで悩み事の相談に乗って貰う……みたいな感覚じゃない?」

「まぁ、確かに……」

「人の意見を聞くのも案外良いものよ? 私は滅多にしないけど」

 

 そりゃまぁお前は一人で何でも解決出来るだろうからな!

 と、内心でツッコミつつ。

 

 でも……確かに抵抗は少ない。とは言っても。

 

――ツバサは、俺の事を好きだって言ってくれた女の子だ。

 

「……いや、やっぱり無理だ」

「恋愛関係ね」

 

 あろうことか、一撃で正解を踏み抜いて来た。

 流石に俺は口をあんぐりと開けて彼女を見つめる。

 

「で、誰に振られたの?」

「別に振られたわけじゃない! ……って、違う!」

「振られてないのに落ち込んでるの? 相変わらず厄介なことしてるのね」

「なんで恋愛関係だって分かった!?」

「自分以外に答えがあるものにしか悩まないでしょう、カイナは……」

 

 ツバサは呆れたように俺を見つめると、無言で続きを促してきた。

 

「いや、言わないって」

「絶対力になれるのに」

「いいって、気にすんな」

「嫌よ」

 

 あっけらかんとツバサは言う。

 

「私はカイナのことを諦めはしたけれど、貴方に抱いた恋心は紛れもない大切な思い出よ。それに、貴方、私に借りがあるでしょ?」

「借り……?」

 

 彼女は憮然とした様子で俺を見つめ。

 

 

 

「あの時カイナ、私を振るのに――私の力を借りたでしょう」

 

 

 

 脳を直接揺さぶられたかのような衝撃が走った。

 彼女の言葉は痛い程に真実を言い当てている。

 確かに、俺はあの時、自分の言葉で彼女を突き放してはいない。

 

 俺がツバサの告白を断る事が出来たのは、他でもない彼女自身が俺の心を見抜いてくれたからだ。そして、彼女は身を引いた。その過程で俺が何か断る理由を発することは無く、ただただツバサが諦めるのを傍で見ていただけだ。

 

――ツバサの力を借りた。

 

 反論は出来ない。

 あの頃の俺は自分が誰を想っているのかすら曖昧だったから。

 

「だから、その時の借りを返してくれたっていいんじゃない?」

 

 ツバサはいたずらっぽく笑った。

 それは額面通りの意味ではなく――純粋に俺を心配し、相談に乗ってあげようとする優しい心遣いだとすぐに分かった。俺が素直に話せるように理由付けまでご丁寧に。きっと、才能以上の何かをもった子なのだろう。

 

「じゃあ、話だけ……」

 

 普段なら誰にもしない話。

 でも、なぜか溢れだしてしまった。

 それほどまでに俺は追い詰められていたのだろう。

 

 全ては語っていない。

 希を好きになったこと。でも、絵里じゃなく希を選んだ理由が分からないこと。いま俺の中で渦巻き続けている悩みを言葉にして吐き出した。言葉にすれば気持ちは多少収まると言うが、俺の場合はより訳が分からなくなっただけで。なんとなく、俺もツバサと同じで一人で解決する方が性に合っているタイプなのかもしれない。

 一方ツバサはと言うと、興味深そうに俺の表情を観察しながらうなずいていた。

 

「私は貴方たちの関係性をよく知らないんだけど」

 

 一瞬首をかしげながら。

 

「東條さんは、要は『私が一番じゃなきゃイヤ!』って言ってるってこと?」

 

 すっぱりと言い辛いことを口に出した。

 しかし、俺はその質問に首を振る。

 

 確かに、普通に考えればその解釈の通りだし、そう言う女の子も居るだろうけど。

 

「いや、違う」

「…………」

「そんな……利己的な意味ではないと思う」

「そうかしら? 女の子としては普通の発想だし……そもそも恋なんて本質として利己的な部分を含むものよ。他者を自分の傍に寄せる、寄っていくこと自体が自分を見せて相手を変えることなんだから」

「それは分かってるけど……」

 

 ツバサが言っていることも分かる。

 でも、希は――。

 

「でも、絢瀬さんじゃなくて自分を選んだ理由を知りたがってるんでしょう?」

「……あぁ」

「つまりは、他の女の未練を断ち切って私を選んでくださいって――今聞いただけの私にはそうとしか判断できないわ」

 

 違う。

 違うんだ。

 それだけは分かる。

 

 でも、何が違うんだろう。

 

「東條さんは、カイナに変化を求めているのよ」

「……変化?」

「カイナに、変わってほしいの。何よりも自分を優先してくれる男の子に。別に、身勝手な話じゃ無いわ。そもそも、君以外にも大切な女の子がいる! って言ってるカイナの方がおかしいもの。カイナが絢瀬さんとは家族同然だったとはいえ、東條さんにとっては絢瀬さんは同級生だし……なにより親友でしょう?」

「そうだけど……親友って、関係あるか?」

 

 当り前じゃない。ツバサは鼻を鳴らして言い切った。

 

 

「親友だからこそ、彼氏とは仲良くしてもらいたくないものよ」

 

 

 僅かな驚き。

 

 それが、一般論なのかツバサの持論なのかは判断つかないけれど。

 でも、なんとなく分かるような気もした。

 

 

――だけど、違う。

 

 

「……それは、そうかもしれない。でも……」

「でも……?」

「希が気にしているのはそんな事じゃない」

 

 彼女はじっと俺の目を見つめて。

 

「えぇ。そうね」

「…………」

「私は東條さんのことはよく知らないけれど」

「…………」

「カイナがそんな自分勝手な、普通の女の子を好きになるわけないものね」

 

 にやりと笑った。

 

「多分、東條さんも貴方と同じで――面倒くさい人なんでしょう」

 

 言い終わると、興味を失ったかのように視線を落として再びコーヒーカップを手に取った。そして、ちゃぽちゃぽと液面を揺らして遊び始める。幼稚な仕草もどこか気品に溢れ、視線を引き付けられてしまうのが恐ろしい。

 

――どうして、希はあんなことを言ったのだろう?

 

 確か、こう言っていた。

 

――同情心から、選ばれるのが嫌だ。

 

 額面通り、一般論で受け取るならツバサの言う通りだ。

 でも、そうじゃない。

 かといって、嘘を言った訳では無い。あの言葉たちは紛れもない希の本心だ。

 

 希の本心はどこにあるのだろうか?

 

「逆に、カイナはどうしてそんなに悩んでいるの?」

「……俺?」

 

 どうしてって、当たり前だろう。

 

「それは、希の想いをちゃんと理解して、答えなきゃダメだし」

「ふぅん。まどろっこしいことをするのね」

「……?」

「お前が一番好きなんだ、で強引に抱きしめれば済む話でしょう」

「それは……」

 

 希も似たようなことを言っていた。

 同時に、俺にはそんなこと出来ないとも。

 

「嘘は良くないけれど、事実なら問題ないわ。東條さんに恋しているならまずは真っ直ぐに気持ちをぶつけて、それから二人でその問いの答えを探していけばいいじゃない。なにも、初めから全てを清算する必要もないと思うけど?」

「…………」

「求めている答えって、すぐ見つかるものだとは限らないし」

 

 ふわぁ。

 と、ツバサは一つ欠伸をして立ち上がった。

 

「それじゃ。なかなか会えなくなるでしょうけど、元気でね? 婿の貰い手がなかったら私に声をかけて来なさい。ちゃーんとフってあげるから、あはは!」

 

 そう言い残すと、片手を上げて止める間もなく言ってしまった。

 思い切りが良いというか、未練が無いというか。俺はその後姿を見送ることしか出来なかった。相変わらず生意気で、聡明すぎる後輩だった。お陰で何を言わんとしているのか全く分からなかったし。

 俺はかぶりを振って思考を元に戻した。

 

――どうして希はあんなことを言ったのか。

 

――どうして俺は彼女の問いかけにここまで必死になって答えようとしているのか。

 

 希は、一体どんな女の子だっただろうか?

 

 優しくて。

 健気で。

 努力家で。

 周りをよく見ていて。

 実は引っ込み思案で。

 遠慮しがちで。

 犠牲にするのはいつも自分。

 誰かを大切にするあまり。

 自分を後回しにしてしまう。

 強くて。

 でも、弱くて。

 器用なのに。

 自分の事となると途端に不器用になる。

 だからこそ俺は彼女を――。

 

 そこまで考えて、やっと単純な答えにたどり着いた。

 

 

 

 

「希があそこまで必死になるのはきっと――自分じゃなくて」

 

 

 

 

 彼女が泣くほどまでに苦しむ理由。

 告白を断ってまで伝えようとしたこと。

 あくまで身勝手に。でも、その裏には絶対。

 あの子が優しさを隠してる。

 きっとそれは――無意識に。

 

 

 

 

「俺や、絵里のために希はあんなことを言ったんだ」

 

 

 

 

 この答えにたどり着いて。

 全てが紐解かれていくように感じた。

 

 希は、俺の絵里に対する想い、絵里の俺に対する想い、それらを『恋』だと思っているのだ。そう決めつけている。だからこそあそこまで強い反発を生んで、自分を犠牲にしてまでも俺達の意思を守ろうとしている。そして、それは間違いではない。俺と絵里の関係は――希が居なければ確実に『恋人』になっていた。

 でも、俺と絵里は分かっている。

 俺は希に恋していて、絵里はそれを理解してる。可能性はあくまで可能性でしかなくて、東條希と言う女の子が居てくれたことで進み出す新たな運命があるのだ。だからこそ、俺は希に告白したし、絵里も俺の背中を押した。

 

 だけど、希は?

 彼女はどう考えているんだろう?

 

 自分を幸せの方程式から――外してしまう希が考えることは。

 

 

 

 俺は走り出す。

 答えは見つからない。

 

 

 

 だけど、届けなくてはならない言葉と――想いがある。

 

 

 

 

 

***希の話***

 

 

「希……」

 

 それは、どこまでも優しい声色だった。

 

「ねぇ、希?」

 

 澄んだソプラノ。聞きなれた、はっきりと響く意志の強そうな可憐な声。遠慮がちで人に譲ってばかりの私がずっと憧れていた――今も憧れている、親友の声。込められているのは思いやりだけで、私に対する侮蔑の色も怒りの色も込められてはいない。ただただ、私を心配してくれている、エリチの言葉。

 

「エリチ……ウチは話す事なんてないよ」

「そうかしら? 私はそうは思わないけれど」

 

 古雪くんと別れて一晩経って。

 今朝、エリチが私の家に来た。

 焦った様子もなく、怒っている様子もなく。

 ただただ、心配そうな顔で。

 

「……希」

 

 あんな顔されたら、招き入れるしかない。

 怒鳴ってくれれば、蔑んでくれたら、すぐにだって追い返すことができたのに。

 

「ほら、目、腫れちゃってるわよ。お茶も飲んで?」

 

 私が背を向けている間にいつの間にかお茶の用意と、暖かな蒸しタオルを用意してくれていた。でも、その好意に答えることが出来ないまま、視線を落として縮こまるように背中を丸め、エリチと距離をとる。そんな私を見て、彼女は小さくため息をついた。

 

「単刀直入に聞くわね」

 

 自分を抱いた腕に力がこもる。

 

「どうして、海菜を振ったの?」

「……」

 

 声は出ずに。

 

「ひぐっ……」

 

 涙だけが溢れ出してきた。

 昨日、あれだけ泣いたというのに枯れることがないのだろうか。

 

 古雪くん、古雪くん。

 私の、大好きな人。

 初めてできた、心から恋した男の子。

 

 彼の顔を思い浮かべるだけで胸に熱い火が灯り、際限なく視界が滲む。

 

 

「希。黙ってちゃ分からないわ」

 

 

 一瞬――。

 部屋の空気が凍り付いた気がした。

 

 僅かに悪寒が走る。

 それはきっと

 

 

「希。私、ちょっとだけ怒ってるのよ」

 

 

 目の前にいる親友が発する雰囲気のせいだ。先ほどまで憔悴しきった私を心配していたせいか、表に出てきていなかった彼女の苛烈な感情が僅かに顔を出す。でも、それは恨みや憎しみの類ではなくて、どこか温かさが伝わる怒りの感情だった。エリチは怒っているわけではなく。

 

「希」

 

 私を――叱ってくれているのだ。

 

「……ぐすっ」

「ほら、擦らないでタオルを使いなさい? あんまり腫れると人前に出れなくなっちゃうわ」

 

 はぁ、と盛大な溜息をついて、彼女は私の顔に布を当てた。

 柔らかな感触とともに、彼女の匂いが鼻孔をくすぐる。

 

 そっと、視線を上げてみた。

 

 エリチは私と目が合うと、困ったように笑いかけてきた。

 相変わらず日本人離れした可憐な瞳に長い睫毛、見慣れたはずのブロンドは未だに嫉妬心すら抱かせるほどに美しく気高い。浮かべた表情も目を奪われるほどに優しく、美しく、どこまでも魅力的な女性だった。そして、エリチは内面すらも非の打ち所がない。リーダシップがあって、意志が強くて、でも優しくて、才能に溢れていて。どうすればそんなにも素敵な贈り物を持って生まれることが出来るのかなって、不思議に思うくらい。

 

 

――私なんかが及ぶはずないって、思ってしまうくらい。

 

 

「エリチは、どうしてウチが古雪くんの告白を断ったことを知ってるの?」

 

 また、あの人は――エリチに報告したのだろうか。

 少しだけ滲み出てくる暗い、嫉妬にも似た感情。

 そんな思いが湧いて出てきてしまうこと自体が自己嫌悪の対象で。

 

「二人ともから、連絡がなかったからよ」

 

 エリチは口を尖らせた。

 

「上手くいったら連絡くらいくれるでしょう? それが、音沙汰無しなんだもん。海菜の部屋は一晩中電気が点いてるし」

「そう、なんだ」

「それで、どうしたの? どうしてこんなことになってるのよ」

「……」

「海菜は、ちゃんと真っ直ぐに想いを伝えたと思うけど」

 

 その通りだった。

 古雪くんは素直な言葉をくれた。

 わたしがずっと望んでいた。

 何よりも欲しかった言葉。

 

 だけど――。

 

「エリチは……どうしてそんな風に」

「え?」

「見てきたみたいに言えるの?」

「それは……話は海菜から聞いていたし、アイツがどう告白するかくらいは予想がつくから」

 

 彼女は躊躇いがちにそう答えた。質問の意図を図りかねているらしい。

 

 ……訳の分からない質問をしてしまった。

 そうだよね。見なくても、分かるよね。

 エリチは古雪くんのこと。

 それに、古雪くんはエリチのこと。

 

 

「もしかして、希。私に、嫉妬しているの?」

 

 

 彼女は凛とした態度でそう問いかけた。

 その言葉に敵意はなく。

 ただ、私の隠した心を救い上げるかのような。

 

 その言葉を聞いて、私は堰を切ったように話し始めた。

 

「ウチね、昨日……古雪くんが告白してくれたとき、こう言ったの」

「……えぇ」

「同情で選ぶのはやめてほしいって」

「……」

「なんで、ウチに告白する少し前に、エリチと会うのって」

 

 エリチは悲しそうに私を見つめて――。

 

 

「エリチじゃなくて、ウチを選ぶ理由を教えて欲しいって」

 

 

 すべて、話して聞かせた。

 情けない私の、醜い言葉。

 

「だから、エリチの今の質問に答えるなら」

「希……」

「ウチは、エリチに嫉妬してる。だから、古雪くんの言葉を信用できなかった。だから、ウチはずっと欲しかったはずの告白を断ったんだと思う」

 

 そう言い切って。

 私はエリチと視線を交わした。

 

 出来る限りの敵意を込めて、冷たさを視線に宿して――だけど。

 

「希」

 

 エリチの瞳は、どこまでも優しくて。

 とてもじゃないけど直視できない。

 

 そして彼女は

 

「それは、嘘でしょう」

 

 たった一言で、私の言葉を切り捨てた。

 堂々と背を伸ばし、真っ直ぐに私に目をのぞき込みながら彼女は微笑む。まるで全てを見透かしているかのように。

 

「……嘘じゃないよ」

「いいえ。嘘よ」

「嘘じゃない!」

 

 私は、強く拒絶の台詞を吐いた。

 どうしようもなく苛立って。エリチはなぜそう言い切れるのだろう? まるで私の思いなんか全部分かっているかのように。そんなはずはない。いくら親友といえども分からないことが沢山あって、通じ合えない心も存在する。だって、私にはエリチの考えていることが分からない。エリチだってそうでしょ!?

 

「分かるはずないやん!」

「の、希……? 私、貴方を怒らせるようなことは言ったつもりは……」

「だって、分かるはずないんやもん!」

「希……」

「心が通じ合うのは、想いを分かり合えるのは!」

 

 悲鳴のように叫んだ。

 

 

「エリチと古雪くんみたいな関係だけやん!!」

 

 

 古雪くんとエリチ。

 私が出会う前から続く『幼馴染』という関係。

 幼いころから共に育って、共に意識し合って。お互いを理解しているからこそ心と心は繋がる。二人にそばにいたからこそ、二人がどれほど心の奥底で通じ合っているのかがよくわかった。だって、その姿を三年間も傍で見てきたんだから。初めてできた親友と、初めてできた仲の良い男の子の友達。いつしか彼を想うようになって、意識すればするほどに、彼のエリチへの愛を知ることになった。

 

「ウチは、それが羨ましかった!」

「……」

「だから、嘘じゃない!」

 

 私は荒い息を吐いた。

 でも、次の瞬間――。

 

 

「いいえ、嘘よ」

 

 

 エリチは真っ向から言い返してきた。

 

「話をすり替えないで。貴女が私たちの関係を羨ましく思ってたことと、今回のことは関係ないでしょう」

「関係……あるよ」

「嫉妬心から海菜の言葉が信用できなくて、振った。って希は言ったけど、私はそれは嘘だと思う」

「ぐすっ、嘘じゃない……」

 

 本当だよ、私はエリチが羨ましくて。

 古雪くんが私を本当に好きでいてくれるのか信じられなくて。

 

「なら、こうしましょう」

 

 エリチは宣言した。

 

 

「私は、二度と海菜と関わらないわ」

 

 

 えっ……?

 俯いた顔を上げてエリチを見る。その表情は真剣で。

 

「二度と口もきかないし連絡も取らない。希が嫉妬するようなことは二度としない」

「エリチ……?」

「それでいいでしょう? なら、万事解決じゃない。これを海菜に伝えて、彼が受け入れたら、希の求めた答えは得られるんでしょう? 私じゃなくて希を選んだことにもなるし、同情心からの選択じゃないと分かって、私と海菜が会う心配もなくなる」

 

 彼女は寂しそうに笑いながら。

 

「希が納得するなら、私はかまわ……」

 

 遮るように――

 

 

「それはイヤやっ!!!!!!!」

 

 

 私は叫んでいた。

 考えるよりも先に、心が。

 

「それだけは……」

「ね? 嘘だったでしょう」

 

 視線の先、エリチは得意げに笑っていて。

 

「嫉妬してるから、海菜の言葉が信用できないから、自分を優先して欲しいから――なんて全部嘘、私には分かるわ。だって貴女の親友なんだもの。分かる、なんて言ったら希は怒るかもしれないけど、その通りなんだから仕方ないじゃない? もちろん分からないことはたくさんあるわ。海菜のことなら大概のことは理解できるけれど、希のことは知らないことばかりで予想なんて立てられない。だけどね」

 

 彼女はそっと私を抱きしめた。

 

「希がどんな女の子かってことくらい知ってるもの。私の知ってる希は、嫉妬や、独占欲なんかで動く人じゃない。自分の感情なんて二の次にして、可哀そうなくらい、不安なほどに――誰かのことを思いやって行動してしまう女の子」

 

 ウチ、ウチは……。

 

「今回だってそう」

 

 エリチは、私の心の奥底にある本当の理由を暴き出す。

 

 

「私と海菜に気を遣っているんでしょう」

 

 

 気を遣う――一言で表現するならこの言葉しかない。

 

 

「希、貴女は――」

 

 

 ウチは――。

 

 

 

「自分が、本来あるはずだった二人の間を引き裂いてしまったんじゃないかって……思っているのね」

 

 

 

 まさしく。

 その通りだった。

 

「以前、貴女の気持ちを知った時、二人で話したでしょう? その時、海菜を好きな気持ちは捨てずに居てって言ったでしょう? 一体どうして、希はいま、そんなに苦しみながら私や海菜に気を使って、自分の幸せを遠ざけようとしているの? 何も気にする必要ないじゃない。私ともきちんと話したし、海菜も真っ直ぐに気持ちを伝えたんだから……!」

 

 彼女は困惑を色濃く滲ませながら、私に問いかけた。エリチにも、さすがに私の考えの根幹までは分からないらしい。彼女の声色には純粋な困惑と、怒りを同居させた愛情が詰まっていた。だから、私は溢れ出す感情を隠すことなく吐き出した。自分では気付かないフリをしていた本当の理由を看破されてしまった以上、それを言葉にするしかない。親友の想いに答えると同時に、自分とも向き合わなくてはならない時がきてしまった。

 

「あの時は……エリチと話したときは、ちょとだけ安心してた。まだ、古雪くんを好きでいていいんだって。もうちょっとだけ頑張ってみようって」

 

 でも、時間は刻一刻と過ぎていく。

 ラブライブを経て、古雪くんも受験が終わって。

 絵空事のはずだった恋物語が急に現実味を帯びだした。

 

「でも、ウチの恋は――夢みたいなものやった」

「夢、みたい?」

「うん。古雪くんみたいな優しくて格好いい男の子と一緒に居たい。好きになってほしい。手をつないでデートに行って欲しかったし、大事にされたかった。でも、それは全部夢のような想像やった」

「夢なわけないじゃない! 海菜は貴女を、貴女は海菜のことを……」

「違うの! 自分にとって幸せな事しか想像してなかったの!」

 

 私は泣きながら言う。

 

 

「恋するのは簡単やった!」

 

 

 だって、一人で完結するから。

 想いを抱くだけならだれも困らない

 

 だけど――。

 

「古雪くんの受験が終わって、古雪くんが私たちに向き合ってくれて。……急に夢が現実になった」

「それがどうして……良かったじゃない、夢が叶いそうだってことでしょう?」

 

 そうやけど……その通りやけど。

 他の人ならこんなことで悩まないのかもしれないけれど。

 

 

「恋が叶うのが、怖かった!」

 

 

 だって。

 色んなことを――リアルに想像しなくてはならなくなったから。

 

「こわ……い?」

「だって、ウチの恋が叶ったらどうなるの?」

 

 海菜くんとの関係は?

 エリチとの関係は?

 μ'sの皆との関係は?

 これまでの人生は?

 これからの人生は?

 

 色んなことを考えて、必ずたどり着く答えがあった。

 

「ウチの恋が叶うってことは、古雪くんがエリチじゃなくウチを選ぶってことやろ?」

「それは……その通りだけど」

「そんなの……ありえへん」

 

 そう、ありえない。

 だって。

 

 

「あんなに理解し合ってる二人が……恋し合ってないわけないやんか」

 

 

 エリチは悲痛な顔で息を飲んだ。

 

「ウチは、昔から引っ込み思案な子やった。転校も多くて、友達もうまく作れんくて……いつしか他人への興味が薄れていって。でも、高校に入って、エリチと会って、古雪くんと会って変わった。大切な友達が出来て、その人たちのことをもっと知りたいと思った。それからいつの間にか古雪くんに恋をして、彼をどうにか理解しようって頑張った」

 

 でもね。

 

「頑張ったからこそ、分かったことがあるんよ」

 

 ウチは告げる。

 

「エリチほどあの人を理解することは出来ない。そして――恋や愛くらい強い感情がなければ、エリチ達みたいに理解し合えへんってことに、気が付いたの。幼馴染だから、なんて理由だけで説明できる関係じゃないよ。ね、エリチ、もしウチがいなかったら二人はどうなってた?」

「希、そんな、もしかしての話なんて……」

「お願い、答えて」

「…………」

「エリチ」

 

 エリチは狼狽しながら、それでもウチの視線に気圧されて。

 素直な真実を口にした。

 

「私たちは――恋し合ってたと思う」

 

 うん。私も……そう思う。

 

「だけど希! 今は貴女がいる! 貴女が居るのが普通で、貴女が居る関係性の中で私たちは生きていくの! だから、そんな仮定の話に意味はないでしょう!」

「ウチは、そうは思わへん」

 

 他の人がどう考えてるかはわからない。

 恋という感情が一過性のもので、好きになるタイミングを逃したのならその恋は一生叶うことはない。そう考えている人なら、ウチの考えを理解することは出来ないと思う。また、恋の延長に愛があって、エリチと古雪くんが心のどこかで愛し合っている以上、ウチが入る余地はないって……別段、そのように考えてるわけじゃない。横入りしてしまったことを嘆いてるわけでも。横入りせざるを得なかった運命を嘆いているわけでもない。ましてや、エリチに嫉妬して悔しくて、恨んでるはずもない。

 

 うまく言えない。

 うまく言えないけれど。

 強引に言葉にするのなら――。

 

 

 

「ウチはね……エリチ」

 

 

 

 零れ出る涙の理由は分からないまま。

 

 

 

「古雪くんは、ウチなんかと付き合うよりも――エリチと付き合った方が幸せになれると思う」

 

 

 

 本当は彼が欲しい。

 彼のものになりたい。

 心をあげて、心を奪ってほしい。

 

 だけど、そんな自分の恋心を犠牲にしても。

 

 親友と初恋の人の幸せを願いたい。

 だって、それが最善の形だって分かってるから。

 

「今の古雪くんがウチを選んでくれていても、きっとあの人は本気でウチを想ってくれてるやろうけど! でも、エリチへの愛も本物だと思うんよ。ウチへの想いは、時間が経てば消えてくれる。でも、二人はずっと前から想いを育んできて、それは消えることがない。もし仮に二人がくっつけたら、間違いなく幸せになれる。そして、それは誰もが認めるハッピーエンドやろ?」

「……希。貴女一人を犠牲にして?」

「犠牲やない! ……二人の幸せを願ってる私も、確かに居るから」

 

 それは、本当だった。

 恋心と同じくらい温かくて大切な想い。

 純粋に親友と、その幼馴染を想う気持ちが確かにあった。

 

 だから。

 

「ウチはね、エリチ」

 

 自分の我儘を通すより。

 自分の恋に傾倒するよりも。

 

 

 

 

「大好きな、エリチと古雪くんに幸せになって欲しいんよ」

 

 

 

 

 きっと。

 私の中に渦巻く様々な想いは。

 あらゆる矛盾をはらんでいるだろう。

 間違いだらけで。

 正しさなんて欠片もなくて。

 説明なんて出来ない。

 振り返れば後悔するのかも。

 それでも。

 

 

――いま紡いだ言葉は、真実だった。

 

 

 それが、東條希の答えだった。

 彼の告白に問いを返し、拒んだのはそんな想いがあったから。

 

 

――ウチを選ぶのは間違いだよ。

 

 そう伝えたかった。

 

 

 古雪くんが大好きだから。

 エリチが大好きだから。

 本当に大好きだからこそ――。

 

 

 想うべき人と恋して欲しい。

 それが、一番幸せなんだから。

 

 

 静寂。

 エリチは一言も言葉を発することなく虚空を見つめていた。

 

 

 

 そして――。

 

 

「希、電話よ」

 

 そっとスマートホンを指さした。

 表示されていたのは。

 

「海菜からよ。……出なさい」

 

 言われるがままに、私は通話ボタンを押した。

 

『よ。希』

「……古雪くん」

 

 その声は――電話越しでも、愛おしい。

 でも。

 だけど。

 

『話がある。今すぐ会いたい』

「……ウチは、ないよ。ごめんね」

『……』

 

 一瞬の沈黙。

 次の瞬間。

 

 

 

 

『いるんだろ? 絵里』

 

 

 

 

 少しボリュームを上げた彼の声が響いた。

 

「えぇ。よく分かったわね」

『あぁ。絶対、俺より希を慰めに行ってると思った』

「拗ねてる?」

『拗ねてない! ま、でも、丁度よかった』

 

 古雪くんはたった一言。

 

 

 

『いまから会いに行くから、希を羽交い絞めにしてでも止めといて。逃がすなよ!』

 

 

 

 いうが早いか、通話はすぐに切られて。

 

「えい」

 

 私は羽交い絞めにされていた。

 

「え、エリチ!?」

「ふふ。逃がさないわよ~」

「いや、そもそもここウチの家……」

「てい!」

「ひゃん! ちょ……どこ触ってるん~! エリチーー!!!」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


▲ページの一番上に飛ぶ
X(Twitter)で読了報告
感想を書く ※感想一覧 ※ログインせずに感想を書き込みたい場合はこちら
内容
0文字 10~5000文字
感想を書き込む前に 感想を投稿する際のガイドライン に違反していないか確認して下さい。
※展開予想はネタ潰しになるだけですので、感想欄ではご遠慮ください。