ピーンポーン
緊迫した内心とは対称的に、間延びしたインターホンの高い音が響き渡る。希は私の後ろで、緊張した面持ちのまま玄関扉の様子を伺っていた。すぐに返事がないということはおそらくおばさんは今家にはいないのだろう。海菜はどうかしら?
確認の意味も込めて再び電子鈴のボタンを押し込む。
再び聞き慣れた音が鳴ったその数秒後、ゆっくりと誰かが階段を下りてくる音が聞こえた。
「よかった、古雪くん居たみたいやね」
希の言葉に頷き返し、扉が開くのを待つ。
ガチャリ
鍵が外れ、ゆっくりと扉の陰から海菜が姿を見せる。
ほんの一瞬、交わす視線。
彼の顔が浮かべる表情は、おおむね怒りと悲しみのあいだを行き来していた。
ただひたすらに虚空を睨んで、私の方をろくに見ようともしない。
それを見て私は針を飲むような呵責の苦しみに襲われる。
私のせいで海菜にこんな顔をさせてしまった……。
「あのね、海菜。話があるの」
「……俺はねぇよ」
わずかな沈黙の後に告げられる拒絶の言葉。
ズキン
胸に走る鈍い痛み。
相手を拒絶したのは私の方が先。きっと海菜はさっき私と同じ胸の痛みを味わったのだと思う。今は私の顔を見るのだって嫌なのかもしれない。それでも……それでもちゃんと話をしなくちゃ!!
「お願い、海菜!」
「君の事は俺には関係ないんだろ?これ以上何を話すんだよ
無駄な話し合いをするほど俺は暇じゃない。分かってるでしょ?」
「っ……」
「古雪くん」
なんとか説得しようと再び口を開こうとしたその時、静かに様子を伺っていた希がゆっくりと海菜に語り掛けた。それに反応して海菜も彼女の方を向き、続く言葉に耳を傾ける。
「エリチの話……聞いてくれないかな?お願いやから」
「……」
「これはエリチのお願いだけやない。私のものでもあるんよ」
静寂。
海菜は真摯に訴えかける希から視線を外すと誰とも目を合わせないまま半開きになっていた扉を開けた。
「ありがと、古雪くん」
「……君の頼みならね」
「海菜、ありがとう……」
「お礼なら希に言ってくれ……話は、ちゃんと聞くよ」
そう言い残し、一足先に海菜は階段を上がって行く。
後に続こうと一歩踏み出したその時、そっと袖口を引っ張られた。
「エリチ」
「なに、希?」
「もうこれ以上ウチは何も言えないと思うんよ。
……だから、頑張ってね」
「えぇ……ありがとう」
***
カチャ
小気味よい音を立てて海菜の部屋の扉が開く。
海菜は机を挟んだ向かい側に静かに座って私たちを待っていた。
「……」
「……」
先ほどまでとは違い、揺らぐことなくはっきりと互いの目を見つめ合う。
「……」
「……」
続く沈黙。
希は何も言うつもりはないのか、少し離れた場所に座ってこちらの様子を伺っている。
「……ごめんなさい、海菜」
「やだね、許さない」
素直な謝罪の言葉と、間髪入れず返される一言。
まるで打ち合わせでもしてあったかのようなテンポの良さ。
それもその筈。似たようなやり取りを何度もしてきたのだ。役割はその都度変わっていたけれど。
幼いころから一緒にいたせいで当然何度もケンカをしてきたの。その度におばさんが止めに入ったり、亜里沙が泣いたり、お父さんが怒ったりして、結局懲りた私たちが作り出した仲直りのルール。
それはお互いに腹が立ってどうしようもなくなった時は、掴み合って喧嘩したり、怒鳴り合ったりせず別々の部屋で静かにケンカの原因を考えるってもの。そして最後に自分が悪いって思う方が謝る。もし許してくれたらそれで仲直り。もし仮に許してくれなかったら、許さなかった方はちゃんとその理由を説明して、謝った方がもう一度ごめんなさいを言う。
成長するにつれて必要なくなっていったその二人だけの決め事。
まさかこの年になって使うことがくるとはお互いに思ってなかったけれど……。
「絵里、俺は……」
「……うん」
「君の事一度もどうでもいいなんて思ったことないよ。今だって」
「……うん。私もよ」
「……じゃあなんであんなこと言ったんだよ」
静かに、悲しげに、それでいて心の中を揺さぶられるような激情に震えた声で紡ぎだされた疑問の言葉。きっと辛かったに違いない。私を大事に想ってくれてる海菜だからこそ。
私は涙を堪えながら、先ほど希に話したことをそのまま目の前の幼馴染に伝えた。
海菜がμ’sの女の子と仲良く歩く姿を見てしまったこと。
それを見て海菜が自分の味方ではなくなったと思ってしまったこと。
その事が凄くいやで、同時にそんな身勝手な考えをを持ってしまった自分を許せなくなってしまったこと。
そんなごちゃごちゃな気持ちが心にもない拒否の言葉を生んでしまったこと。
海菜は終始黙って聞いていた。
じっと私の目を見つめて、絢瀬絵里という人間の、自身ですら分かっていない心の内側をのぞき込もうとするように。私はその誰よりも優しくて、暖かい黒曜石のような瞳に目を奪われていた。
秒針が刻む音と、わずかな息遣いだけが部屋の中に響き渡る。
そしてじっと考え込んでいた海菜が口を開いた。
「絵里の言いたいことは……なんとなく分かったよ
つまりは、俺が約束破って彼女作ったことにまず腹が立ったんだよね?
あの、それは勘違いだぞ?君が見た女の子は彼女じゃないし、そもそもそんな相手いないし」
「……え?彼女じゃないの?」
「うん、約束したじゃん。本当に好きな人が出来るまではお互いに彼氏彼女は作らない。好きな人が出来たら教え合うって。俺が約束破ったことあったか?」
至極当然のようにうなずく海菜。
え?え?じゃあ私は勘違いで海菜や希にここまで迷惑をかけてたの?
かぁっと顔が熱くなるのを感じた。
呆れたような海菜の視線。
「だから、きっかけはどうやら君の勘違い。おれが味方じゃなくなったって思ったのもそれが原因だよ」
「そ、そうだったの……」
なぜか気が抜けてホッとため息をつく。
……彼女じゃなかったんだ。
「……良かった」
「ん、なんか言った?」
思わず漏れてしまった声に自分自身が驚いてしまう。
良かった?なんでそんな事を?別に海菜に好きな人が出来たって……。
出来たって別に……。
トクン
高鳴る心音。
心の中に何かがぽっと点火されたようなほの温かさを感じた。
海菜はいぶかしげな顔をしながらも言葉を続ける
「でも、悪いけどなんで絵里がそのことをすごく嫌に思ったのかきちんとした理由は分からない。分からないけど……」
「けど?」
「なんとなく、共感は出来るかな」
「どういうこと?」
「俺も、もし絵里が俺の知らない誰かと仲良さそうに歩いてたら同じように嫌な気持ちになったと思う。……だっていままでずっと幼馴染として傍に居た訳じゃん?例えば、もし亜里沙ちゃんに恋人が出来たとしても君は同じような気持ちになるでしょ?つまりはそういう事だろ」
指先を顎あたりにあて、考え込む海菜。
なるほど、そんな考え方もあるのね。
私は今、彼が言った言葉を反芻してみた。海菜の言い分はこう。
幼馴染だから。
本当にそうなのかな?
チクリという胸の痛みと共に訪れる違和感。
確かに、私にとって海菜は誰より大事な人。家族である亜里沙と同じくらいかけがえのない人。でも亜里沙やお父さん、お母さんに対してこんな心の痛みを感じたことはない。同時に、こんな暖かさや居心地の良さも海菜の傍以外で感じたことなんかないわ。
私にとって海菜はどんな人なの?
この世でたった一人の幼馴染。
そんな一言では説明しきれないくらい、彼の存在は私の中で大きくなっていた。
彼の笑顔、言葉、仕草や視線。そのどれもが私には……愛しくて。
唐突に頭の中で何かがはじけたような感覚が起こる。
ずっと気になっていたこと、心の底でゆっくりと渦を巻きながら濃くなってゆく霧のようなものの正体が、やっと見えた気がした。
そっか。私。
私やっぱり、海菜の事が……。
「海菜」
「……ん?」
静かに目を伏せて、何やら考え事をしていた幼馴染が顔を上げた。
「ありがと、なんとなく答えは見つかった気がするわ」
「そっか」
海菜は屈託のない目を細くして、満足そうに、無邪気にニコニコと微笑み続ける。悩みは解決したんだね、良かった良かった、とでも言うように。
答えを聞こうともしないのね……ほんと、鈍感な奴。
私が言える事ではないけれど。
「だから、ごめんなさい。海菜。私の勘違いで酷い事言って」
「……いいよ。今回はこれくらいで勘弁してやるっ」
差し出される大きな手。
仲直りの握手。
昔からの決まり事。
最後は二人とも笑顔でね……。
***
「エリチ、よかったね仲直りできて」
古雪くんの家を後にして、私とエリチは彼女の部屋に戻って来ていた。私の大事な親友は憑き物が落ちたように清々しい表情をしている。この様子やと、ちゃんと自分の気持ちに気が付いたみたいやね。
「えぇ、改めてありがとう、希。仲直りできたのもあなたが居てくれたからよ」
「ふふっ、どういたしまして」
「何かお礼をしなきゃいけないわね……何がいい?」
いつもの生真面目なキャラに戻ったエリチに返す答えを考える。
エリチにやって欲しい事かぁ……。今回の一件で色々してあげたんだから少しくらい意地悪な事、言ってみたっていいよね?
「それじゃ……ウチ、エリチの好きな人が知りたいなぁ~」
びくっと体を震わせ、顔を真っ赤に紅潮させるエリチ。
私の一言におもしろいように反応してくれた。
「の……希!希は分かってたんでしょ?」
「うん。傍で見てたらバレバレなんやもん。でも、ウチはエリチの口から聞きたいんよ」
「うぅ……」
冗談めかしているけど実はちょっと本気。
きちんと彼女の口から聞いておきたいやん?
「私は……」
「うん」
「私は海菜の事……好き、よ。
やっと気づいたの。きっと、ずっとずっと前から私は、あのバカの事を想ってたわ」
「ふふっ、正直でよろしいっ!」
「もう……」
頬を赤らめながらもまっすぐな瞳で宣言するエリチ。
ほんと、今の今まで自分の気持ちに気が付かないなんて鈍感にもほどがある。……もっとも彼女以上の朴念仁ならもう一人いるけどね。
「エリチは、その気持ちを古雪くんに伝えようとは思わないの?」
素朴な疑問。
エリチはかなりはっきりした性格だから気付いてすぐ、恥ずかしがりながらも告白まで行っちゃうんじゃないかと思ったけど、実際は違った。むしろ自分の気持ちをあえて古雪くんの前で隠したように見えたし。
「ええ。だって、今はまだその時じゃないもの」
「どういうこと?恋にタイミングもなにもないやんか」
「普通はそうかも。でも、私は……違う。だってまだ音ノ木坂の問題だって解決していないし、海菜だって受験っていう最後の壁が残ってるもの。私、思うの。今目の前にある辛いことから逃げ出して、恋っていう幸せな感情に逃げちゃダメだって……」
「……」
「それにね」
エリチは笑顔で続ける。
「恋を一番に考えて、本当に大事なものを見失うような女の子を海菜が選ぶわけないわ!
だから、私はまだ海菜にこの気持ちを伝えない。いつか、いつの日かこの気持ちを打ち明ける日が来るとすれば……それは私が本当の意味で、海菜の隣を歩いて行けるって思った時だと思う」
何気なく紡がれる強い言葉たち。
その中には私には到底うかがい知れない覚悟と重みがあった。
「でも……その間に、誰かにとられちゃうかもしれないよ?」
「うん。でも私は……生半可な気持ちで彼の歩みを止めたくないから」
私が、古雪くんに気持ちを伝えない理由。
それは、絶対叶わない恋だって分かってたからだった。
今は古雪くん自身が恋できるような環境にないし、音ノ木坂の問題もある。だからこそ、いづれ私の方を見てくれる日が来ることを信じてそっと灯のともった恋心を仕舞って来たの。
でも、それじゃきっとダメなんだ。
私も、もっときちんと自分の気持ちと向かい合わなきゃダメだね……。
ありがと、エリチ。
口に出しては言えないけれど、私も大事な事に気が付けた気がするよ。
でも……負けないからね!!
***
さすがにこれ以上生徒会の話は出来ないねっていう話になって、結局今日は解散することになり、私はエリチの家を後にした。玄関先でエリチに手を振った後、スマホを確認するとメッセージが一件。
「あれ?古雪くんからやん……」
確認してみると、帰りがけ自分の家によって欲しいという内容だった。
一体どうしたのだろう。なにか話でもあるのかな?
色々と考えを巡らせつつ、インターホンに手をかける。
先ほどと同じように音が鳴るとすぐに階段を駆け下りる音が響いて来た。
「お待たせ、希。入って入って」
ガチャリと鍵を開けた後、ドアの隙間から顔だけ覗かせ、手招きしてくる古雪くん。
再びおうちにお邪魔して、付いて古雪くんの部屋に上がった。
「えっと、どうしたん?」
「いや、今日は希に迷惑かけたから一言お礼をと……」
申し訳なさそうに頭をかきながら視線を泳がせる。まったく、こういうところまでそっくりやね、君とエリチは。彼自身感情的になってしまった部分もあったし、おそらく私に迷惑をかけてしまったと申し訳なく思っているのだろう。
もう、困ったときはお互い様やん……?
「希。今日はありがと」
古雪くんの口から発せられたのは感謝の言葉。
「んーん、ええんよ」
「あと……ごめんね」
続いた言葉は謝罪の意味を込めたものだった。
……?
「なんであやまるの?怒鳴ったこと?別にそんなこと……」
「ん?違うよ」
「じゃあ、なんで……」
「辛い思いさせて、ごめんね」
え……?
一体何を言ってるの?今回辛い思いをしたのはエリチと古雪くんでしょ?
私がなんで……。
瞬間、意図せずに溢れ出す涙。
あれ?あれ?
私なんで泣いちゃってるん?
古雪くんは突然泣き出した私に近づいて、優しく頭を撫でてくれた。
暖かい手、体温を通して伝わる古雪くんの優しさ。
そっか、そうだ。
私は……。
「ウチ……怖かったんだよ?」
「うん……」
「もう、3人で一緒に居られなくなるんじゃないかって……」
涙ながらに、子供のように訴える。
エリチがいままで聞いたことがないくらい酷い事を言って、古雪くんが本気で怒ったのを見た時思ったの。もう、これで私たち3人は今までみたいに仲良く出来なくなるんじゃないかって。
私の立場なら、エリチとも古雪くんとも仲良くしていけたかもしれない。でも、私にとってそんな関係、何の意味も持たない。3人揃って初めて意味があるんだから。
「うん、ごめんな」
「ウチの、ウチの初めての居場所だって言ったやん!エリチと古雪くん。二人が揃って笑ってなきゃダメなの!どっちかがいないんじゃ、ぜったいダメなの!」
「あぁ……」
「なのにあんなケンカして……古雪くんの、ばか……」
「ごめん」
「ばか……」
「……」
ふわっ
唐突に、優しく抱きしめられる。
もう大丈夫だよ、とでもいうようにそっと静かに背中を叩く古雪くんの手。
私のすすり泣く声と、トントンという優しく背中を叩く音が静かな部屋に響き……
やがて、消えた。