ラブライブ! ~黒一点~   作:フチタカ

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第四話 天才と凡人と

 私たちの為に設けられたスタジオに軽快なステップの音と、ステレオから出る無機質なリズムだけが響き渡っていた。時折、わずかに漏れる吐息と素早く振った手が風を切り、僅かにその一定のリズムを揺らがせる。

 

「英玲奈、遅れてるわよ!」

「っ! ……すまない」

 

 一瞬気が緩み、ステップが乱れた直後。叱責がとんだ。

 別に自己弁護のつもりではないが、例え本番で今のようなミスをしたとしても観客のうち気が付くのは百人に一人居るかいないか程度の僅かなミスだった。それを自らも踊りながら察知し、すぐさま指摘してくる彼女の才能と底知れぬ向上心に、何度目になるか分からない感嘆の溜息を一つ。

 

 私だって、負けるわけにはいかない。

 

 強く思い直し、今まで以上に意識を集中させてステップを踏んだ。

 隣ではいつものお淑やかな雰囲気とは打って変わって鬼気迫る表情で振付をなぞるあんじゅの姿。前を向くと、再び自身のダンスに没頭し始めたツバサの後ろ姿があった。近いようで遠い背中。

 

「よしっ!」

 

 最後のターンを決めて、中央に集まり決めポーズ。

 と、同時にツバサがやっと嬉しそうな声を上げた。

 

「一応最後まで通せたわね! 途中、英玲奈の集中力が切れていたけど」

「う……すまない。体力トレーニングが足りなかったようだ」

「ぜぇっ、ぜぇっ……」

「あんじゅも、笑顔どころじゃないみたいだし。まぁ、続きは明日かしらね」

 

 それじゃ、今日のところはこれで終わりにしましょう! と、ツバサがぱちんと手を叩いた。私とあんじゅは二人そろって膝をつくと、肩で息をして何とか呼吸を整える。全く、なんでアイツは私たちより動いているのにあんなに平気そうなんだ……。

 視線の先にはえらくご機嫌な様子でスマホをいじるツバサの姿。

 

「ふふふんふーん♪」

 

 小憎らしいことに鼻歌まで歌う始末だ。

 私はやっとの思いで立ち上がって、彼女の隣へと歩く。流れ落ちた汗が室内シューズの靴裏についてキュッキュという小気味のいい音を立てた。ツバサはその音を聞いて顔をあげ、私の方を振り向いて首を傾げる。

 

「どうしたの?」

「いや、なにやら楽しそうだな、と思ってな」

「ふふっ、まあね」

「なんだ、また古雪君の話か?」

「え? なんで分かったの?」

 

 どうせまたその話だろうと思って聞いてみたのだが、案の定その通りだったらしい。私はきょとん、とした顔でそう聞き返してくるツバサの顔を見てそっと首を振った。この子は最近いつもこうなのだ。練習が終わったかと思えば楽しそうにラインをして、誰かと問えば古雪君だという。

 

「全く、恋人にでもなったのか」

「私とカイナが? そんな訳ないじゃない」

「そうか。ならなんでそんなに楽しそうなのだ?」

「ふふっ、やっと日頃の成果が実ったのよ!」

 

 そう得意げにいうと、彼女は偉そうに腕を組み胸を逸らせた。

 そのまま笑顔のまま停止して黙り込む。

 

 ……。

 

 これは……どうやら続きを聞いて欲しいらしい。

 私は練習が終われば相変わらず少し抜けた後輩に戻る、天才少女を半眼で眺めた後、諦めて彼女の欲しがっているセリフをあげた。

 

「それで、どんな成果が出たんだ?」

「聞きたいでしょう!?」

「……あぁ。聞きたい聞きたい」

「なによう、つれない返事ね……まぁ、いいわ。やっとまたカイナが会ってくれるって言ってくれたの」

 

 ツバサは言い終わると、はい、どうぞと自身のスマホを手渡してきた。

 どうやら会話履歴を見ろという意味らしい。平気でそれを見せるあたり、どうやら男女関係のごにょごにょと言った話はなさそうだ。そして、言われるがまま人差し指でスクロールする。いったいどんな会話を?

 

ツバサ≪カイナ!あなたいつ暇?≫

 

ツバサ≪おーい、カイナー≫

 

ツバサ≪もしもーし!≫

 

ツバサ≪無視されるなんてショッキングパーティー!≫

 

ツバサ≪あれー?≫

 

ツバサ≪カイナさん、こらこらー≫

 

 

 こんな感じの会話……とは呼べないな。ツバサからの一方的なメッセージだけが数十通続いていた。

 うわぁ、これは。

 思わず私はこめかみに手を当てて俯いてしまう。

 メッセージを性懲りもなく送り続けるツバサがすごいのか、それともそれを平然と無視し続ける古雪君が凄いのか。いずれにせよなかなか見ない光景が広がっていた。そしてさらにスクロールしていくと、初めて違う色のメッセージが目に入る。

 

 

カイナ≪ちょっと待って、普通逆じゃない?≫

 

 

 全くその通りだ。

 私は数時間前に届いたであろう、彼の心からのツッコミに大きく頷く。

 

 まさか、スクールアイドル界で最も影響力を持つ彼女が、半ばストーカー紛いの事をしているなどと……される可能性こそあれ、まさかする側に回っているとは思ってもみなかった。そこからは、さすがに彼も無視し続けられなくなったのか、いつものような軽口の応酬が続いており、やっと先ほど届いたであろうメッセージに追いつく。

 そこには都内の、とあるカフェの住所が記されていた。

 

「これは?」

「塾ない日は大体ここで勉強してるからって。偶然で合わせたら少しくらいお話ししてくれるって言っていたわ」

「なるほど、やっとコンタクトがとれたのか」

「えぇ。彼が私たちのファンになるまではしっかりアピールしないとね?」

「私はほどほどにしておいた方がいいと思うが……」

「大丈夫よ、彼もなんだかんだ言いつつ私たちに会いたいんだから」

 

 ツバサは自信満々にそう言い切る。

 一体なぜそんな自信が……。

 

「いや、現に既読無視されてたじゃないか」

「あれは、カイナが携帯手放してたタイミングで嫌がらせしてただけだから。実際は既読付いた直後に返信来てたわよ。いつもいつもムカつく返事ばかりだからやり返そうと思って」

「……頼むからもうケンカはしないでくれよ」

「もう、相変わらず英玲奈は心配性ね」

 

 いや、お前を相方に持つとこうならざるを得ないんだよ……もはや言い返す気力も湧かず、あいまいに頷いているとやっと息を整えたらしいあんじゅがそっとスマホをのぞき込んできた。どうやら何の会話をしているのか気になったらしい。

 

「それで、いつ会いに行くんだ?」

「そうね。わたしもちょっと会ってみたいかも」

 

 二人で問いかける。

 ツバサの返答は……。

 

「え? 今日これから行くつもりだけど」

「つ、ツバサちゃん、本気?」

「えぇ。だって、もう練習は終わったし。あんじゅも来る?」

「わたしは……今日は疲れたし、遠慮しておこうかなぁ」

 

 あんじゅは困ったように笑いながら、自分は帰りたいと宣言する。無理もない。予選で歌う新曲を形にする今が一番しんどい時期だし、出来る事なら家でゆっくりと休養を取りたいはずだ。

 一応、古雪君への興味もあるみたいだが、さすがに疲れた体を引きずっていくほどのものではないのだろう。

 

 でも……。

 あんじゅがそっと目配せしてきた。

 

『ツバサちゃん、一人で行かせて大丈夫かしら?』

『……。今日は私が付き合おう』

『ごめんね。次は私が行くから……』

 

 目線での会話は慣れたもので、数秒のアイコンタクトで意思疎通を完了。さすがにツバサ一人行かせて彼に迷惑をかけては申し訳ない。もっというと、初めて会話した時のようにケンカになる可能性も……無きにしも非ずだ。

 一応私も付いていった方が良いだろう。別に、古雪君と話すのも悪い話ではないし。もしかしたら有益な情報も貰えるかもしれない。ライバルになるであろうμ’sの話を聞いてモチベーションを高めるのも悪くはない。

 

 私はそっと手をあげた。

 

「私は付き合うよ」

「英玲奈は来てくれるのね! それじゃ、さっさとシャワーを浴びて出かけましょう!」

 

 だから、なんでこのリーダーはこんなにも元気が良いのか。

 

 

***

 

 私とツバサはUTX前であんじゅと別れ、彼が普段勉強をしているというカフェへと歩いていた。あたりは夕焼け色に染まり、帰宅途中の学生や社会人で賑わっている。シャワーを浴びたおかげで幾分かすっきりした私は、思ったよりも軽い足取りで歩みを進めていた。

 ふと、ツバサが口を開く。

 

「カイナは勉強が得意らしいわね?」

「あぁ、詳しくは知らないが、私の参考書を見繕ってくれたくらいだからな。実際、大変助かっているし」

「あんまり勉強のイメージはないけど」

「そうか? 頭は良さそうだと思うが……」

「でも、言動がアホじゃない?」

「ツバサ、一応相手は先輩なのだから……あまり失礼の無いように」

「はーい」

 

 特に悪びれることもなくそう返す彼女に一抹の不安を覚えつつも、しつこく追及することなく目的地へと向かう。

 

「えっと、この路地の奥らしいわ」

「へぇ、少し目立たない所にある店なのだな」

「なんだか、雰囲気の良いお店が一杯ね」

 

 マップの指示通りに少し狭い道に入ると、あまり覚えのない景色が広がっていた。

 かわいらしい手作り風の小物が並んである小さなお店、木製のドアが味のある洋食屋。人二人が並んで歩ける程度の小さな路地だが、不思議と狭い感じはしなかった。むしろ落ち着くような……。機会があればあんじゅも連れて来てみよう。

 

「あ、あれじゃない?」

 

 ツバサが指をさした先には、古雪君が送ってくれたカフェの名前のある看板が一つ。風でカランコロンと乾いた音を立てているのがまた独特な雰囲気を醸し出す、落ち着いた感じのお店だった。換気扇の影響か、僅かにコーヒーの良い香りが漂ってくる。

 

 ツバサは軽い足取りでそのお店へと近づき、少し色の入った窓から中を覗き込んだ。

 

 そして、動きを止める。

 

「……」

「どうした?」

「……」

「入らないのか? なら私は先に……」

 

 

「待って」

 

 

 少し鋭い制止の声がかかった。

 私は慌てて足を止める。一体どうしたというのだろう。

 

 そっとツバサに近づくと、彼女はガラス越しにある一点を見つめていた。

 視線の先には古雪君の姿。彼は、今まで見せたこともない真剣な表情でカリカリと忙しなくシャープペンシルを動かしていた。どこか、鬼気迫るような、そんな雰囲気さえ感じられる。おおよそ、私たちの知る彼の姿とはかけ離れていた。

 

 

 そして、私はそんな彼を見て思わず息をのむ。

 

 私は似たような光景を見たことがある。

 そう、それは……。

 

 

「へぇ、こういう側面もあるのね」

 

 

 ツバサが誰に語り掛けるでもなく小さく呟いた。

 私が思い出していたのは、他でもない。

 

 彼女の姿だ。

 

 彼女がダンスや歌の練習をしているときの姿。忘れたくても忘れられない、自分の持てる力を振り絞って己を高めようとしている人間の姿。私は、ツバサのそんな姿を見て彼女がA-RISEのリーダーとなることを認めたのだ。

 

 私にだってプライドはある。

 

 そしてそれはきっと他人のそれよりも大きい。そんな私が年下であり、礼儀作法もロクに覚えないような生意気な後輩をリーダーと認め、そして尊敬するのには確かな理由がある。そんな、一年ほど前の記憶。

 

「ツバサ……」

「えぇ、少しここで待っていましょう。邪魔は出来ないわ」

 

 彼女はそう言って窓から離れ、近くの壁にもたれ掛った。

 私はそっと微笑んで、彼女の隣に立つ。

 

「良いのか? ファンになってもらいに行かなくて」

「今入って行ってそんな事言われたら、私なら本気で怒るわ」

「実際、怒ったからな、ツバサは」

「あははっ、そんなこともあったわね」

「笑い事ではないぞ……」

 

 私は遠い目をして思い出す。あれは本当に肝が冷えた。

 ある日、練習中に能天気な教師が何のためらいもなくスタジオに入ってきて、これまた何も考えずに世間話を始めたのだ。おそらく暇つぶしに知名度を上げてきた自校のアイドルグループと話をしに来たのだろうけど……。

 ことの顛末は思い出したくもない。

 練習を邪魔されたことにキレたツバサを宥めるのにものすごく苦労したのだ。

 以来、あのスタジオに許可や理由なく立ち寄る者は居ない。

 

「私たちにとってのスクールアイドルが、彼にとって勉強、なのだろうな」

「……」

「ツバサ?」

 

 彼女は少し考え込む素振りを見せた後、小さく首を傾げた。

 

「どうかしら?」

「……違う、のか?」

「えぇ。多分」

 

 ツバサはそう返すと、再び窓を覗き込む。

 しばらく古雪くんを眺めた後、視線をこちらに戻して再び首を傾げた。

 

「やっぱり、違う気がするわ。似てるけど、どこか……」

「私にはツバサと全く同じ雰囲気を纏っているように見えたが」

「いや、違うわよ。きっと、多分……」

 

 しばらく考えこんで、答えに辿り着いたのか、彼女は顔をあげた。

 

「えぇ、明らかに違う」

「……自信あり気じゃないか」

「勿論よ。綺羅ツバサに見えないものなんてないもの」

 

 あながち間違いではない……いや、むしろ真理であるからこそやるせなくなるな。

 私は小さく笑って続きを促した。

 

 私たちと、彼との差。

 ツバサの目には一体何が映ったのだろう。

 

 

 

「彼、楽しんでいないわ」

 

 

 

 一呼吸おいて、彼女は続ける。

 

「私たちは、私は、本当にスクールアイドルが好きよ。ダンスも、歌も。だからこそ頑張れるし本気になれる。でも、彼にはきっとそれがない」

「勉強は好きじゃない、と?」

「そう。それでも尚、彼は必死になって……あれだけの迫力を出してる」

「……」

「本当に、良く分からない人ね。きっと、悪いけど、勉強の才能だって無いはずよ。だって、そうでしょう。天才はそもそも『勉強』しない。私だってそう。英玲奈やあんじゅにとっては練習でも、私にとっては毎日のレッスンなんて呼吸と同じだもの」

「あぁ。それは傍で見ていたらイヤでも伝わってくるさ」

 

 同じ部屋で、同じメニューをこなしていても、やはりツバサは別の世界に居る。

 それは身に染みて理解していた。

 

「でも、英玲奈たちはダンスが好きでしょ?」

「あぁ」

「だから、理解できるの。私の後を追いかけてくれる理由も。そして、だからこそ私はあなたたちと同じグループでいたいと思う。でも、きっと、彼にその感情はない。それなのに、なんであそこまで……」

「ツバサ?」

「本当に、分からない人」

 

 彼女は小さく呟いて……俯いた。

 

 少しだけ、彼女が古雪君に興味を持つ理由が分かってきた気がする。

 おそらく、彼女は出会ったことが無かったのだ。相手の能力を正しく見抜けるが故、哀しいほど正確に人間をグループ分け出来てきたこれまで。しかし、初めて、彼女なりの分類が出来ない人間が現れたのだ。

 それが、古雪君。

 

 才能を持たず、それでいて、才能を前に頭を垂れない人間。

 圧倒的差を理解して尚、μ’sを信じ、私たちに宣戦布告してくる胆力。

 天才には理解できない、足掻き方をする男の子。

 

 

 私はまだ、この両極端な二人が紡ぐ物語の顛末を想像できずに居た。

 

 

 

***

 

 三十分ほど経っただろうか、私は再び店内を伺う。

 客の少ないおかげで、目当ての青年はすぐに見つかった。

 

「ツバサ。どうやら休憩中みたいだ」

「……!」

 

 うつむいたまま考え事をしていたらしい彼女は、私の呼びかけにぴょこんと顔をあげた。先ほどまでの憂いの含んだ表情は抜け去り、楽しげに瞳が輝き始めている。こういう切り替えの早さも彼女の魅力だろう。

 ツバサは聞き終わるが早いか、すぐに店内へと入っていった。

 

 カランカラン。

 

 古びたベルの音が響き渡り、数少ない客の幾人かが顔をあげた。その中にはコーヒーを啜りながらスマホを片手に持つ古雪君も含まれており……彼は、ツバサの姿を視界に収めた瞬間。

 露骨に嫌そうな顔をした。

 見事なまでの渋面。もはや感心するレベルだ。

 

「カイナ。三日ぶり、くらいかな?」

「げ……」

 

 今日び、ARISEの綺羅ツバサに会いに来られてココまで嫌がる高校男子も居ないだろう。

 私は苦笑しながらツバサの後について、彼の正面の席に腰を下ろした。むろん、ツバサは手近にあった椅子を彼の横まで引っ張っていき、至近距離に陣取る。古雪君は嫌そうに体を捩るものの、いつもお世話になってる喫茶店で騒ぐわけにはいかないのか諦めたように溜息をついた。

 

「行動、早くない? 今日伝えたばっかりだよな?」

「もちろん。思い立ったが吉日よ」

「君にとって吉でも、それは俺にとっては凶……」

「今日だけに?」

「マジで帰れ。マジで帰れ!!」

 

 がるるる! 

 と、うなり声をあげながらツバサを睨み付ける古雪君。よほど自分のセリフを取られたことが悔しかったらしい……別に、対して価値のあるセリフだとは思えないが。

 

「すまないな、勉強の邪魔だったか?」

「いや、そろそろ帰るつもりだったからいいけどさ」

 

 彼は私に向け、困ったような笑いを浮かべると立ち上がった。僅かに木製の床が軋み、何とも言えない音が鼓膜を揺らす。ツバサに対してはいつもの調子で冷たくあしらうものの、私に対してはやはり丁寧に対応してくれる。

 いや、まだ距離があると言った方が適切だろうか。

 

「どうせまた、一時間ほど話すんでしょ?」

「カイナ、ごちそうしてくれるのかしら?」

「海菜さん! ……はぁ。不本意ながら、後輩だし。エレナもわざわざ足運んでくれた訳だから」

「やった!」

「私は良いよ、自分で……」

「良いから。あれでしょ? ツバサの付き添いで来てくれたんでしょ?」

「……ふふっ。そうなるな」

「ご苦労様です。助かります」

 

 わざとらしく恭しく頭を下げると、マスターの元に行ってしまった。

 まぁ、この場はお言葉に甘えさせて貰うことにしよう。

 

 二つ分のコーヒーをことんと机に置くと、小さな欠伸を一つ。

 

「ふわぁ。……どうぞ」

「ありがとうっ。良い香りね」

「ありがとう、頂くよ」

 

 そっと湯気の立つマグカップを手に取り、口をつける。私にとっては少し強めの苦味が広がって、次第に溶けていった。酸味が弱く、どちらかというと飲みやすいものなのだろう。正面を見るとツバサも心地よさそうにコーヒーの香りを堪能していた。

 

「それで……何の用?」

 

 カチャカチャとお代わりを注いできた自身のマグカップにティースプーンを入れてかき混ぜながら、彼が問う。用か……用といっても、特に明確な目的があったわけではないのだが。

 私はツバサへと視線を向ける。

 

「カイナ。私たちのライブの動画は見てくれた? データで送ったでしょ?」

「ツバサ、それってこの間の校内ライブか?」

 

 驚いた。それはサイトにも公開しない最新のライブ。

 ライブの後に何やら忙しそうにしていたのはそのせいだったのか。

 

「えぇ。ファンになって貰うには実物を見てもらうのが一番でしょう」

「いや、最近、その実物から鬱陶しいくらいラインが飛んできてるんだけど……」

「いいから、どうだった??」

 

 古雪君はどうやら想像以上にツバサに絡まれているらしい。

 まぁ、彼女に向けて『君のファンじゃない』などと言えばこうなることは目に見えていたけれど。少しだけ同情する。

 

「いや、可愛いよね。優木さん」

「もちろん、あんじゅは可愛いわよ」

「スタイル良いし、癒し系だし」

「うんうん」

「おっとりした外見と激しいダンスのギャップが良かった」

 

 へぇ。

 一切目も通さずに放置しているかと思えば、そうではなかったらしい。

 

「他には?」

「エレナも格好良かったよ」

「お、ありがとう。嬉しいよ」

「歌うまいよなぁ。踊りながらあれだけ声出せるってすごいと思う」

「でしょう? 英玲奈は凄いんだから」

「なにより、セクシーだしな」

 

 なんというか、直接褒められるのはむず痒いものだな。

 もちろんすごく嬉しいけれど。

 

「それでそれで?」

 

 待ちわびたかのようにツバサが身を乗り出す。

 古雪くんはしばらくじぃっと、きらきらとした目で自分を見つめるツバサの顔を眺めた後、口を開いた。

 

「ツバサは……」

「うんうん!」

「……前髪短すぎない?」

「そこぉ~?」

 

 彼の言葉にがっくりと肩を落とし、情けない声をあげるリーダー。古雪君は頬杖を突きながら相も変わらず一切興味なさそうにツバサを眺めながら、欠伸をかましている。ギャグなのか本気なのかは分からないが、何れにせよこれまで同様A-RISEのファンになるつもりは無い様だ。

 

「才能は伸ばせても前髪は伸びないんだなってしみじみ」

「他の二人はちゃんと見てるのにどうして私だけ!」

「眩しすぎるからね、なぜなら」

「またオデコがって言うんでしょ?」

「もう、マジで、帰れえええええぇ!!!」

 

 再びうなり声をあげてツバサを睨む。

 いや、今回はどちらかというと君の方が悪いと思うのだが……。

 

 

 

「ホント、君ら何しに来たの?」

 

 ひと通りの会話が落ち着いたその時、古雪君が呆れた様子で問いかけてきた。

 

「決まってるじゃない。貴方が私たちのファンになるまで離さないって決めたの」

「えぇ~。だから普通逆だろ、逆」

 

 まぁ、彼の気持ちも分からなくはないな。あろうことか、アイドルの方から執拗にアクションをかけられるとは夢にも思わなかった事だろう。相変わらず見事に嫌そうな顔を作ってツバサを見る。

 

「なんなの? 俺が君らのファンになれば良いの?」

「えぇ。そうよ」

「分かった。じゃあ、なるわ!」

 

 半ばやけくそ気味にそう言い切った。

 いや、そんな言葉で誤魔化せるほどうちのツバサは素直な性格をしていないぞ。

 

 ツバサはきょとん、とした表情で彼を見る。

 

「本当に? それじゃあ、私の目を見て『僕はA-RISEのファンです』って言ってみて」

「ぐ……」

 

 悔しそうに息を飲む古雪君。

 なんだかんだでプライドの高い彼の事だ。例え嘘でも言いたくないのだろう。

 

「お、俺は……」

「んっ!」

「A-RISEの……」

 

 次第に小さくなっていく声。

 

「パンです。……はい! はい言ったよ! 聞いたよね?」

「えぇ!? 今絶対パンって言ったでしょ?」

「はぁ? どこに耳つけてんだよ?」

「ここよ!」

 

 ビシッと勢いよく自分の両耳を指さすツバサ。

 

「まさかのマジレス! ……じゃなくて。ちゃんと言ったよ、なぁエレナ」

「わ、私? さ、さぁ?」

「言ってないよ。小声でパンって言ったわ」

「言ったって、ちゃんとナンって!」

「今度はナンって言った!」

 

 ぎゃいぎゃいと、一応周りに気を使ってか、小声で言い合う二人を見て溜息をついた。おそらくお互いに色々と思うところがあるはずなのに、こうまで和気あいあいと息の合った会話を見せられると温度差で辟易してしまう。

 まぁ、ツバサもここまで自信を対等に扱ってくれる存在は、私とあんじゅ以外に居ないせいかこの状況を楽しんでいるようだ。もしかしたら、こんな会話がしたくて古雪君の元にやってきているのかもしれないな。

 

 ……そして、古雪君もそれを拒絶しない。

 

 それは彼がμ’sに有益な情報を仕入れようとしているからなのか、それともただ純粋に言葉ではああいいつつもツバサという一人の天才に興味があるのか。私にはまだ良く分からないが。

 

 

 不思議と。不思議とこの二人が仲睦まじく一枚の写真に納まる距離感でいるこの景色は私の中でしっくりと来ていた。

 

 

 そして、その訳はいずれ明らかになっていく。

 

 

 

「だから、もっかいちゃんと聞いておけよ? 俺は……マンだ」

「知ってるわよ! どこからどう見ても男でしょ!」

「はぁ。だから、アイスのファンだって」

「今度はそっち変えてきたの? 往生際が悪いのよ!」

「あぁ、もう! 滑舌が悪かっただけだって。あ! ……俺は、A-RISEで」

「『噛ん』だ?」

「だからそれ俺のセリフうぅ!!」

 

 

 

 

 

 


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