「悪い事は言わないわ。……諦めなさい」
冷たい言葉が、にこちゃんの口から零れ落ちました。
客の少ない店内にしゅんしゅんとカウンターの方から蒸気の音が響き渡ります。
ことりはあまりの事に声が出ず、目の前の彼女を見つめました。
なんて、辛そうな顔をするんだろう。
見ているこっちが悲しくなるような、そんな雰囲気。
にこちゃんは僅かに赤みがかった瞳を潤ませて、強く唇を噛みしめた。駆け巡る思いを閉じ込めて、なんとかことりに見せまいと足掻く先輩の姿。自分に相談してきてくれた後輩に、せめて年上として凛とした態度を見せようとするその努力。
にこちゃんらしい、そんな表情。
ことりは、そんな彼女の想いを汲み取らなくてはならなかったのかも知れません。
でも、ことりには……彼女の内心を気遣う余裕はありませんでした。
――どうして?
溢れだすのはその想いだけ。
どうしてそんな酷いことを言うの?
ことりは本気で海菜さんの事が好きなんだよ?
だからこそ、にこちゃんに相談したのに!
自分のことながら、あまりに身勝手な思い。
でも、この時のことりは。
初めての恋愛感情に振り回され、周りの見えなくなっていたことりには、冷静な判断力と他人への思いやりが欠如していたのだと思います。悔やんでも悔やみきれない愚かな行動。
ことりは、掠れ声をなんとか絞り出しました。
「どういう、意味?」
「……」
「にこちゃん!」
「落ち着きなさいって言ったでしょ、ことり」
「そんな! そんなこと言われて落ち着けなんて!」
「お願いだから……」
懇願にも似た、にこちゃんの言葉。
ことりは、何年振りだろうか。本当に久しぶりに熱しかけた頭を冷やして、僅かに浮きかけた腰を静かに降ろしました。それでも、震える心のせいでことりは表情を硬くして、拳に込める力を増します。
ダメだよ、ちゃんと話を聞かなきゃ。
にこちゃんが、ことりに意地悪するためにこんなこと言ってるわけがないんだから。
深呼吸。
もう一度、深呼吸。
「落ち着いた?」
「……うん」
小さく、返事を返します。
落ち着いたら、今度は急に涙が滲んできました。にこちゃんの言った言葉の意味が分からなくて。そして、凄く辛くて。にこちゃんにそんな事を言われたこと自体、ことりにとっては凄くショックで……。
ことりはぐすぐすと鼻を鳴らしながら、そっと目元を拭いました。
泣いちゃダメだよ。
泣いちゃダメ。
心の中で言い聞かせます。
にこちゃんはそんな私の姿を見て、あえて何も言わずに待っていてくれました。
「にこちゃん……」
「何よ?」
「もう、大丈夫だから……、にこちゃんの話、聞かせて?」
「分かったわ」
「……」
「きっと、ことりが傷つくことも容赦なく言う事になるわよ? ……覚悟を決めなさい」
こくり、と頷く。
――覚悟を決めなさい。
ことりに向けて言っているようで、実は自身に向けて放った言葉。
ことりがする『傷つけられる覚悟』よりも、にこちゃんがする『ことりを傷つける覚悟』の方が大きい。そんな簡単なことくらい、すぐに分かります。
にこちゃんは、本当に優しい人。
私はそれが分かるからこそ、素直に頷くことが出来ました。
いつの間にかにこちゃんの表情に浮かんでいた葛藤は消え、一種の覚悟のような色が浮かんでいます。ことりは静かに両手を膝の上においてにこちゃんが話し始めるのを待ちました。
すぅ。
呼吸音。
「にこは、ことりの恋が叶うことは無いって思う……いや、確信してるわ」
「うん……」
「古雪はね、貴女を選ぶことは無い」
――非常な宣告。
そして……。
「にこを、選ぶことも無いわ」
――悲しい告白。
ことりは小さく息を呑みます。
乱れる思考、揺れる視界。
それでも、どこか素直に納得している自分も居ました。
そっか、にこちゃんも。
「そう、だったんだね」
「えぇ。にこはずっと自分の気持ちに気が付いてた。μ’sの名前をサイトから消す時に、傍にいてくれたあの時から。μ’sを取り戻してくれた瞬間から……ずっと」
滔々と零れだす言葉たち。
勝気に、にこちゃんは笑顔を見せます。
μ'sと出会うまでいつも部室で一人練習し続けてきたアイドルの笑顔。見ている人に笑顔を与えるはずのにこちゃんの表情は、いつもと違う。全くの別物。
ことりにはどう見たってそれが泣き顔にしか見えませんでした。
「ホント、ムカつくヤツよねぇ」
「ふふっ、好きなのに?」
「……好きだからよ。会うたびからかってくるし、その癖人の顔を一生懸命伺ってる。バカにしてくるくせに、にこの全部を肯定して、大事にしてくれる。一年生や二年生には気付けない……にこだからこそ分かるカッコいい所が、見えてしまうの」
「うん。海菜さんは自分のカッコいいところ、隠しちゃうから」
「そうよ。だから皆はアイツの魅力に気が付かない。だからこそ、にこたちは『仲間』でいられた」
「ことりも、気付くの遅れちゃった」
「えぇ、そうね。だから、ムカつく」
零れる不満。
「……だから、好きなの」
素直な言葉。
――でもね。
にこちゃんの話は終わらない。
「古雪と接した人間は、変わっていくわ。にこだって、他のμ’sのメンバーだってきっと少しずつ変化してる。同じように古雪も変わったけど……アイツは、一つだけ、絶対に変わらない部分があるの」
変わらない部分?
ことりには、ピンときませんでした。
それはきっと、ことりがにこちゃんと違って幼かったから。自分の想いだけに夢中で、肝心の海菜さんの事を考えていなかったから。
そして、にこちゃんがその答えに辿り着けたのは、彼女が誰よりも深く、彼の事を理解しようと努力したから。そうに違いありません。
「古雪はね。いつも、どんな時も……絵里と希。二人の事を考えてる」
あぁ。思わず頷いてしまう。
なんとなく、理解してしまった。
「もちろん、にこたちの事も大事に思ってくれているわ。でもね、アイツの中にはきっと、何よりも明確な優先順位がある。ずっと傍にいた絵里を、支えていたい。そして自分を犠牲にしがちな、優しい希を守りたい。そんな気持ち」
切なげな視線。
その瞳には羨望と、嫉妬と、愛情。色んな色が渦巻いていて、ことりに全てを悟らせることはありません。
そして、紡がれる結論。
「きっと古雪が選ぶとすれば……あの二人の内どちらかよ」
セリフに籠る、反論の余地が無いほどの確信。
ことりは不思議なほど素直ににこちゃんの考えを受け入れる自分がいることに驚いていました。ツバサさんが彼を奪っていく夢を見たときはあんなに嫌な気持ちになったというのに。でも、絵里ちゃんや希ちゃんなら……。
ちくり。
ほんの僅かに、胸に痛みが走る。
「にこちゃんは、だから……海菜さんを諦めたの?」
「……えぇ。そうね」
「そっか……」
「だから、ことりも。悪い事は言わないわ……深入りして傷つく前に忘れなさい」
にこちゃんの何よりも暖かくて優しい――否定の言葉。
きっとにこちゃんは深入りしちゃったんだ。自分がそうだからこそ分かる海菜さんの優しさに気が付いて、一人で自分の気持ちと向き合ってきた。その上で、辛い決断をして今ここに居る。
言いたくなかったはずだよ。私に『諦めろ』なんて言葉。
それでも、にこちゃんはことりと正面から向き合ってくれた。
自分が嫌われるかもしれない、ことりを傷つけるかもしれない。そんな葛藤と戦って、今の台詞を紡いでくれてる。それだけじゃない。そっと閉じ込めかけていた自分の海菜さんへの気持ちを、再び引きずり出されて……これからまた忘れなくてはならない。
全部、伝わった。
全部、理解した。
にこちゃんの優しさ。意見。そして、それがきっと一番正しい方法だって事も。
でもね……にこちゃん。
――ことりは、この胸の痛みを、そのままにしておけない。
「ことりは、嫌だよ」
はっとした顔で、にこちゃんは俯きかけていた顔をあげます。
その目に浮かぶ、僅かな怒り。
「アンタ! 今の話を聞いて、まだ自分の恋が叶うって思ってるの!?」
「そ、そんなこと、思ってない! でも、でも!」
「まだ分かってみたいだから、ハッキリさせておくわ。アイツがことりや、にこの事を好きになる確率はゼロよ。それだけの差が、私たちと絵里や希の間にはあるの! 積み上げた時間、交わした想い! 私たちじゃ敵わない!!」
「分かってる!!」
分かってるよそんなこと!!
でも、でも……だからって諦めるの?
この胸の痛みを、にこちゃんはどうして忘れられるの?
「だからって、自分の気持ちから逃げるなんて出来ないよ!」
「逃げるんじゃないわ! 受け入れて、その上で忘れるの!」
「無理だよそんな事! にこちゃんだって、忘れられて無いじゃない!」
「っ! ……それは」
「だって、今でも海菜さんの事が好きなんでしょう? だから、だからそんな悲しそうな顔をするんだって……ことりは思うもん」
息を荒げて睨み合う。
互いを思いやっているのは同じ。自分の気持ちと向かい合っているのは同じ。
それでも、紡ぎ出した答えは全く正反対なものだった。
――ことりは、自分の気持ちを大事にしたい。
例え叶わない恋だとしても、その初めて芽生えた感情から逃げたくない。大事に育てて、真正面から海菜さんに届けたい。
そして、にこちゃんにも素直になって貰いたいの。一人で悩んで、一人で諦めて、泣きそうになりながら恋心をそっと仕舞い込む。そんな彼女を、ことりは見たくない。
――にこちゃんは、自分の気持ちを大事にしたい。
敵わない恋ならば、傷つきたくない。今ある関係を壊さずにいたい。芽生えた恋をガラスケースに入れて、心の端っこに大切に置いておく。いつか、いつのまにかそれが輝きを失う時をひたすらに待ちながら。
そして、ことりが傷つくのも見たくないだと思う。自分と同じように悩んで、辛い思いをして欲しくない。だからこそにこちゃんは包み隠さずに素直な意見をぶつけてくれた。
どうしてこんなにも意見が別れるのだろう?
性格、年齢、それとも立場?
そんなこと、分かりはしない。
ことりたちは、純粋に思いの丈を言葉に乗せる。
「諦めなさい!」
「いやっ!」
食い違う意見、ぶつかり合う視線。
ことりは、躊躇いなく自分の意見を投げかけました。
ここは、遠慮するべき時じゃない。
にこちゃんの為にも、ことりは引いちゃいけない。
「後悔するもんっ!」
にこちゃんが、一瞬ひるみました。
図星を突かれたような、そんな表情。
「今、この気持ちから逃げちゃったら、絶対後悔するもん! にこちゃんは絵里ちゃんや希ちゃんになら海菜さんをとられてもいいの? それでいいって、おめでとうって、笑顔で言えるの!?」
「それは……」
「ことりは言えないよ! だって、今だって胸が痛いから。海菜さんが、あの二人にとられちゃう所を想像したら、苦しいんだもん! 自分が嫌な娘だってことは分かってる、絵里ちゃんや希ちゃんのことが大好きなことりが、そんなこと思っちゃダメだよって言ってるよ、でも!!」
でも……。
でも!!
「諦めたくないよ……、好きだから」
ことりの、心からの言葉。
二人の間に、沈黙が流れます。
にこちゃんは俯いたまま動きません。
間違ってない。
ことりの言った事は、全部素直な気持ちだから。
嘘偽りない真の答え。
――あまりに幼すぎる。稚拙な思考。
「後悔したくない、ですって?」
にこちゃんは顔をあげました。
その目には、見たことが無いほど強い炎が揺らめいて、瞳に映る私の姿を燃やし尽くします。
初めて見る、にこちゃんの本気の――怒り。
「にこだって、後悔したくないわよ!」
鋭い声、漲る敵意。
にこちゃんも、こんな顔する時があるんだね。心の底から腹を立てて、誰かに怒りをぶつけることだってあるんだ。そんな、どこか他人事のような感覚。ことりは、にこちゃんに怒られる日が来るなんて、思ってなかったから。
ことりは小さく震えながら、ぎゅっとスカートの裾を握りしめました。
「じゃあ、ことりはどうするの? その気持ちを、素直に古雪に伝えるつもり!?」
「そ、そうだよ。告白して、その上で……」
「それが、甘いのよ!!」
分からない。
ことりはただただ、激昂するにこちゃんを見つめて固まります。
――一瞬の静寂。
次の瞬間、にこちゃんは大粒の涙を零し始めました。
悔しそうに唇を噛んで流れ落ちる雫を拭うことなく、声にならない泣き声を上げます。彼女のその涙を止める術が、ことりには分かりませんでした。
なだれる様な声をあげて、むせび泣くにこちゃん。
そして、とつとつと紡ぎ出す想い。
それは、無知で幼いことりを強く揺さぶりました。
「にこが告白したら、素直な想いをぶつけたら! そんなことしちゃったら!」
喚き散らすような、取り乱した声。
迸る想い。
「アイツが……古雪がどれだけ苦しむと思ってるのよ!!」
――そして、それはやっぱり、誰かを想っての言葉でした。
「海菜、さんが?」
「そうよ! アイツは、誰よりも私たちの事を思ってくれてる。それが恋愛感情じゃないとしても、古雪は素直な優しさを、隠すことない厳しさを、アイツ自身の心をくれた! そんな古雪に告白なんてしてしまえば、アイツがどう感じるかなんてことり! 貴女でも想像出来るでしょう!」
ことりが、海菜さんに告白すれば……。
きっと、海菜さんの心はことりの元に無い。
だから、すっきり振って貰って、諦めを……。
――海菜さんが、私を……振る。
「アイツが、何も思わずに女の子を振れるような男なの!?」
ガンと、鈍器で後ろ頭を叩かれたような痛みが走ったような気がした。
そうだ。
自分の気持ちにばかり目が行って、考えていなかった海菜さんの気持ち。
にこちゃんはことりみたいな自分勝手な考えじゃない。
自分だって辛いはずなのに、彼を……思いやって、今ここで涙を流してる。
「にこはそうは思わないわ」
淡々と続ける。
「にこの知っている古雪は、にこの好きになった男は。誰よりもにこ達の事を傷つけたくないって考えてる。にこが告白をすれば。古雪がにこを振らざれを得ない状況を作ってしまえば。……数え切れないほどの後悔と、葛藤をアイツに与えることになる」
――振らなければいけない、でも、振ってしまえばアイツらが傷ついてしまう。
簡単に、海菜さんの気持ちを想像することが出来た。
「にこには分かるの! 古雪がどれだけにこ達の事を大切にしてくれてるか。にこには分かるのよ! にこのこの想いが、どれだけアイツを傷つけるのかが!!」
――だからっ。
悲鳴にも似た、彼女の呼吸。
「だからにこは……告白できない」
覆らない、彼女の決断。
そう、言い切ったきり、にこちゃんはハンカチで目元を拭いながら黙ってしまった。
もう、言うべきことは無いというその態度。
ことりは、どうすべきなんだろう?
自問自答する。
にこちゃんと同じ決断を下すべきだろうか。
それとも、また、別の……。
――答えはまだ、出そうにない。