ラブライブ! ~黒一点~   作:フチタカ

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第二十一話 雪の眩しさに気が付いて4

 コツコツ。

 

 乾いた足音が三つ。いつもと違って数歩ずつ離れた足並みが寂しい。靴が鳴らすリズムは不自然にバラついて、誰かの踵が強く地面を擦る。挟まれた砂利の軋む耳障りな音が、寒空に溶けていった。

 少し前を無言のまま歩く希。私と海菜は彼女の後に続いている。

 

 穂乃果の家から大分距離が離れた頃。他の娘達の声が聞こえなくなった頃を見計らったのだろう。海菜が強張った表情のまま口を開いた。

 

「希……」

「…………」

 

 彼にしては珍しい、刺すような声色。小さくも鋭い音。

 その声に彼女は眉を下げながら――小さく微笑んだ。希は海菜に答えようとはせず、おどけた態度をとってみせる。わざとらしい、道化師のような……。彼女が確かに被った見えない仮面。

 

「エリチ。出来れば古雪くんには秘密にしておいて欲しかったな~」

「希が皆で曲を作りたがってたってことを?」

「せやね。……もう、お喋りなんやから」

「それは……。でも、私は希がずっとやりたいって言ってた事を……」

「だからええんよ、もう。さっき言ったやろ?」

 

 何気ない風を装いながら、彼女は言葉を紡ぐ。努めて冷静に、朗らかに、淀みない態度と単語を連ねて、ウチは本当に大丈夫だからと笑った。

 でも、それが嘘だってことくらい私には分かる。

 

 そして、それは海菜にも。

 

「俺や絵里にそんな台詞が通用するとでも?」

 

 彼は固い表情を崩さない。

 同時に、希も一瞬足りとも海菜と視線を合わせようとしなかった。

 

 彼女は貼り付けたような笑顔を浮かべて唇の端を歪ませる。

 私はたまらず声をあげた。

 

「希。ちゃんと言うべきよ。貴女が言えば、きっとみんな協力してくれる!」

「ええんやって」

「そんなこと!」

 

 一歩、詰め寄る。

 しかし――

 

「……ウチには、これがあれば充分なんよ」

 

 彼女はお気に入りのタロットカードを両手で包み込み、胸元に当てて小さく首を振った。

 

「意地っ張り……」

「エリチに言われたくないなぁ」

 

 強情な彼女の様子に私は溜息を漏らす。

 

「古雪くんも。心配してくれるのは嬉しいけど、本当にウチは気にしてへんから」

「ウソ」

「……違うよ」

「…………」

 

 他の人が聞けばどう聞こえるかなんてことはわからないけれど、少なくとも私と海菜が希のそんな台詞を鵜呑みに出来るはずがない。幼馴染は彼女の言葉に首を振ると、歩みを唐突に早めて希を追い越す。そして、振り返った。

 彼女の進行方向を塞ぐようなその動きに、私たちは足を止める。

 

「希。じゃ、俺と目合わせてみろ」

「っ……!」

 

 希は小さく唇を噛んだ。

 刺すような冷たい風が一瞬二人の間を吹き荒れる。

 彼女の視線は目の前に立つ海菜の足元に固定されたまま動かない。

 

「希、俺達にも嘘……吐くのか?」

 

 哀しげに零れ落ちる彼の言葉。

 

 希の様子とは対照的に、彼は真っ直ぐに彼女を見つめていた。すらりとした長身を僅かに屈め、目の高さを合わせながら問いかける。そんな、心から彼女を思いやるからこそ自然に出てくる言葉や動き。希だって気づいていないわけがない。

 

 それでも、彼女は首を横に振った。

 

「う、……嘘や無いもん」

「嘘だね」

 

 しかし、海菜は間髪入れずに希の弱い主張を否定する。

 十二月の冷気が再び私達の間を通り過ぎていった。

 

「希……」

 

 一歩。

 海菜が足を踏み出す。

 

 

「やっ……、ダメ。近づかんといて!」

 

 

――唐突に彼女の大声が響いた。

 

 明らかな拒絶の言葉に彼は呆けた顔で身体を硬直させる。

 途中まで差し出しかけた彼の手が僅かに震えながら力なく落ちていった。

 

 沈黙。

 

 希は一歩、二歩と後ずさり自らの身体を抱きしめる。

 そして海菜は悔しそうに唇を噛んだまま俯いていた。

 

 私は二人の様子を伺った後、そっと希の側に近付いて寄り添った。優しく背中を撫でると、大人しくされるがままになっている。かける言葉は見つからない。だって、私には何も分からなかったから。

 

 

 希が自分に嘘を吐いてまで、私達を騙そうとしてまで自身の願いを隠す理由も。

 そして。

 海菜がそんな希に対して、凄く腹を立てている理由も。

 

 本当に――彼女達らしくない。

 

 小さく溜息をついてかぶりを振る。

 もう、μ’sの中でも別格に空気が読めて頭の良い二人が揃いも揃って何をしているの? 問題事を起こすのは私や穂乃果みたいな不器用なメンバーだけで良いんだから。貴方たちがそうなってしまったら、私達、どうすれば良いのよっ。

 そんな事を考えていた矢先。

 

 四つ目の足音が耳に入ってきた。

 次いで見える見慣れた赤みがかった艶やかな髪。

 

「一体、何の話をしてるの? 聞かせて……貰えるわよね」

「真姫……」

 

 

 そういえば、空気が読める頭のいい子はもう一人居たわね。

 

 私はその事に気が付いて、真っ白い息をいつもより長めに吐き出した。

 

 

 

***

 

 

 カチャカチャとやけに静かな部屋に食器の音が鳴り響く。

 私たちは希の家にお邪魔させて貰っていた。真姫も事の真相を知るまでは絶対に帰らないという態度だったし、私もこのまま解散するわけには行かないと思ったので半ば強引に希を説得して今に至る。

 

 希も初めは難色を示していたものの、あくまでも彼女は『自分は何とも思っていない』という主張をしているせいか、強く拒むことは出来なかったみたいだ。

 もう、この期に及んでまだ誤魔化す気なのかしら? 

 希は私が思っていたよりも強情な所があるのかも知れない。

 

 もっとも、自分の意見を押し通すのじゃなくて、自分の意見を取り下げる事に一生懸命なあたり、強情という言葉を使って彼女を形容するのは少し語弊があるのかもしれないけれど。

 

「一人暮らし……なの?」

 

 真姫の戸惑いの混じった問いかけ。

 どうやら彼女は知らなかったようだ。

 

 まぁ、日常会話で『一人暮らしですか?』とは聞かれないものね。高校生が親元を離れて下宿なんて……よほど優秀な私立高校ならまだしも、音ノ木坂では考えられないことだろうから。

 希もあまりこの事は口外していないようだし、海菜と私しか知らないはず。

 

 チチチ。と、ガスコンロが音を立てる。

 可愛らしい豚をモチーフにしたやかんに火がかけられた。

 

 そして返される彼女の答え。

 

「……う、うん! お茶で良いやんな?」

 

 一瞬の間。不自然に明るい声色。

 

 彼女の後ろ姿からは顔は伺えない。

 でも、不思議と私には希が今どんな顔をしているのか分かったような気がした。

 

「えぇ、ありがとう。女の子が一人暮らしって……不安じゃ無い?」

「そうやね、少し大変ではあるけど」

「バイトもしてるんでしょう? 夜遅くなったり……」

 

 心配性の真姫らしい言葉。

 どうやら一人暮らしにたいする物珍しさよりも希の安全の方が気になってしまったようだ。特に真姫はご両親や執事の方に送迎されることが多いせいか、一人暮らしというものに憧れというよりかは危惧を抱いているのだろう。

 

「あ、うん。……バイトの日は帰り道、古雪くんが送ってくれてるから」

「そ、そうなんだ……まぁ、こんな人でも居ないよりは良いわよね」

「おいコラ真姫」

「居ないよりは良いですよね」

「敬語じゃなかったからとかじゃないよ、内容の方だって」

 

 いつもよりキレの悪い海菜のツッコミ。

 真姫は台詞とは裏腹に安心したように笑って見せた。

 

 それにしても、海菜も律儀にちゃんと欠かさず送ってあげてるのね。基本的に習慣というものを嫌う傾向はあるものの、やると決めたことは続けるタイプではあるから……。それだけ彼も希のことを心配しているに違いない。

 

 不思議と、嫉妬の気持ちは生まれてこなかった。

 こういう時、自分の恋心というものが分からなくなるのだけれど……。

 

「ご両親は……。あ、聞いちゃダメだった?」

「んーん。ただの転勤族だよ。そのせいか昔から転校が多くて……」

「そうね、だから希喜んでたのよ? 音ノ木坂学院にきて居場所が出来たって」

「もう、それはこんな時に話すことじゃないよー」

 

 ピー、という甲高い音がやかんから鳴り響き、彼女は慌てて火を止めるとせわしなくお茶っ葉を入れ始めた。

 真姫はそんな希の背中を少しだけ不機嫌そうに見た後、小さく溜息をついた。

 

「ちゃんと、話してよ?」

 

 真っ直ぐに紡がれる飾り気のない言葉。

 真姫は真剣な表情で続ける。

 

「ここまで来たんだから。誤魔化さないで」

「別に誤魔化そうなんて……」

「希ならやりかねないのよ。ちゃんと釘を刺しておかなきゃ……私よりもっと面倒くさい女の子なんだから」

「あはは。言えてるわね」

「エリチ……」

 

 彼女はやけに緩慢な動作で食器棚に手をかけた。

 背中は依然私たちに向けられたままでその表情は伺えない。

 

「別に、特に話すことなんて……」

 

 小さく呟くように彼女は抵抗してみせる。

 

「希。もう、流石にこれ以上隠すわけには行かないわ」

 

 わざわざ真姫に来てもらった以上。何も無かったで済むはずがない。

 真姫は何かがあると確信してここにいるのだ。引き下がるとも思えない。

 

 なにより、このまま終わってしまうことを私の幼馴染は黙って見過ごさないだろう。

 

「別に、隠してたわけや無いんよ」

「…………」

「エリチと……古雪くんが大事にしただけやん」

「嘘。μ’sが結成した時からずっと楽しみにしていたでしょう?」

「そんな事……無いよ」

「希!」

「ウチが……」

 

 彼女はティーカップを無意味に撫でながら零す。

 寂しく響く、偽りの言葉。

 

 

 

「ウチが……ちょっとした希望をもっていただけよ」

 

 

 

――瞬間。

 

 再び確かな怒気が少し離れた位置に座っていた海菜から発せられた。

 

 それは私でさえ感じたことがないほどに強く、ビリビリと大気を震わせたようだった。付き合いが長いからこそ何よりも正確に伝わってくる彼の感情。

 そして、真姫や私がいる手前だからか、それとも希自身に怒りをぶつけることを気にしているのか。なんとかその激情を鎮めようとしているのも伝わってくる。

 

 真姫は不穏な空気を感じ取ってか、海菜の様子を伺い、能面のように表情を無くして強張る彼を見て小さく吐息を零した。恐らく、下級生である彼女が初めて見るその顔。

 そして真姫は視線を戻すと、先程より強い口調で希に語りかけた。

 

「誤魔化さないでって言ったでしょ」

「だから、ウチは……」

「いい加減にして! いつまでたっても話が見えない。どういうこと?」

「…………」

「何にも無いなら私はここには居ないわ! こんな古雪さんも私は見たこと無い。何かがあったってことくらい分かるわよ」

「…………」

「希!」

 

 懸命な真姫の呼びかけ。

 しかし、それに対する希の答えは変わらぬ沈黙だった。

 

 流石に冷静では居られなくなったのか、立ち上がる真姫。

 

 

――仕方がないわね。

 

 

 私はそっと溜息をつくと話し始めた。

 

「簡単に言うとね……、夢だったのよ。希の」

「エリチ」

 

 直ぐ様入る制止の声。

 僅かに篭もる非難の色。

 

 言うな、と希は告げる。……でも。

 

「ここまで来て、何も教えないわけにはいかないわ」

 

 私は少しだけ申し訳なく思いながらも、この口を閉じる気は無かった。

 真姫ははっとした顔でこちらを見ると、椅子に座り直すと私を見つめてくる。

 

「夢……? ラブソングが?」

 

 訝しそうに彼女は問いかけてくる。

 私は小さく首を振ると話を続けた。

 

 

「いいえ。大事なのはラブソングであることじゃない――九人……いや、十人全員で一つの曲を作りたいって。一人ひとりの言葉を紡いで。想いを紡いで。本当に全員で作り上げた曲。そんな曲を作りたい! そんな曲でラブライブに出たい! それが希の夢だったの。だからラブソングを提案したのよ?」

 

 

 真姫は黙って聞いていてくれた。

 少し驚きに目を丸くしながら。

 いつも自分達を優しく見守ってくれていた希の願いに初めて触れる。

 

「うまく、いかなかったけどね。皆でアイデアを出し合って、一つの曲を作れたらって」

「そう……なんだ」

 

 真姫は少し逡巡した後、小さく頷いた。

 

 

 彼女は俯いたまま何かを考える素振りを見せる。

 希は台所で依然として背を向けたままでいた。折角湧いたハズのお湯は既に冷め始めている。

 

 私からはこれ以上話すことはない。あるとすればそれは他の三人の誰かが口を開いた後のことだと思う。今は、三人の出方を伺う時間。三人の考えを教えてもらうタイミング。

 

――こんなことになるなんて。

 

 私は内心頭を抱えていた。

 どうしようにも解決の糸口が見つからない。希はダンマリで、どうやら自分の口から曲を皆で作りたいとメンバーに言うつもりは無いらしい。本人にその気がない以上私が勝手に今みたいな話を吹聴して回るわけにもいかないわ。

 真姫には教えたけれど、それは彼女が感づいてここまで来てくれたから。

 

 最後の頼みの綱である幼馴染も……。

 

 私はちらりと海菜の様子を伺った。

 彼は憮然とした表情で沈黙を守っている。

 考えこむように、何かを整理するように視線を落としていた。

 

 

 一分が経ち、二分が経ち。

 そして……。

 

 

 やっと海菜が顔を上げた。

 

 部屋に来てから、ほとんど黙りっぱなしだった彼が。

 その目に強い炎を宿した彼が。

 

 

――口を開いた。

 

 

 

 

「どうして、今の言葉が、君の口から聞けないの?」

 

 

 

 

 激情を抑えこんだ、僅かに震えるその声。

 机の下で握りしめられた拳は白く血管が浮き出ていた。

 

 

「…………」

「黙ってるなら良いよ。勝手に喋るから」

 

 

 真姫が表情を強ばらせながら彼を見る。

 海菜が絶対に見せてこなかった、そして見せたくなかっただろうそんな顔、雰囲気。

 それでも、彼は言葉を紡ぐ。

 

 それほどまでに彼は……怒っていた。

 

「俺はずっと黙ってたよ。昨日も、今日も。本当は絵里に協力してやりたかった。希が、君がやりたいって思ってるんだって、だから皆で曲作ったらいいんじゃないかって……ずっと言ってやりたかった。……でも、俺はそれ以上に」

 

 眉間に皺を寄せ、哀しげに、訴えかけるように彼は言う。

 

 

 

「それを君の言葉で聞きたかった」

 

 

 

 ぴくり。と、希の肩が揺れる。

 

 

 

「ウチがやりたいんや、って。ウチがずっと楽しみにしてたんや、って。俺は君がそう言ってくれるのを待ってたつもり。そして、きっと君はその事に気付いてただろ?」

 

 私はそんな彼の話を聞きながら小さく頷いた。

 海菜が私に皆の誘導を任せっきりにしていた理由がやっと分かったら。彼ならもしかしたらうまくラブソングを作る方向に持って行けたのかもしれない。私より頭の良い、私より口が上手い彼なら。

 でも、海菜はそれをしなかった。

 

 希の口から聞きたかったのね。

 彼女自身のワガママを。

 幼馴染から伝え聞いただけじゃなく、彼女自身の想いを見たかったのだろう。

 

 そしてその訳を、これから話してくれる。

 

 

「なのに、どうして君は……」

 

 

 そんな彼の言葉に、やっと希が振り返った。

 けれど依然として視線は下に向き、目尻は哀しそうに垂れている。

 

「さっき、穂乃果ちゃんの家でも言ったやん」

 

 どこか突き放すような口調。

 何かを隠すような、彼女の台詞。

 

 

 

「大事なのはμ’sやろ?」

 

 

 

 ドクン。

 

 

 

「…………大事なのは、μ’s?」

 

 

 

 ドクン。

 

 動悸が止まらない。

 冷や汗が滲み、海菜の表情から目が離せなかった。

 

 凍てつくような視線と、今にも爆発しそうな気配。

 

 普段の希なら気付いていただろう。否、誰だって気がつく。

 真姫でさえ顔色を変えて彼を見つめていた。

 

 でも、彼女は視線を海菜へと向けられない。

 だからこそ分からない。今、もっとも言ってはならない言葉を紡いでしまったことに気付けない。今の台詞は確実に海菜の逆鱗に触れた。間違いない、もう海菜は止まらないわ。そんな確信が走る。

 

「だってそうやん。次の最終予選で負けたらもうそれでウチらのスクールアイドル活動はおしまいなんだよ? 絶対勝たなきゃいけない。そのためには真姫ちゃん達が言うように、今まで練習してきた曲をもっと完璧にして挑んだほうが良いって。そんなの、考えたら誰にだって分かるよ」

「……だから、君は我慢するの?」

「ウチのワガママに……皆を巻き込むわけにはいかないから」

 

――ワガママなんかじゃないわよ!

 

 そう、私が口を挟む前に、ついに海菜が堰を切ったように話し始めた。

 

「ワガママ……? 君の願いが?」

「そうだよ。だって、ウチのそれは今の皆の足枷にしかならへん」

「……そっか、勝つために君は自分の想いを殺したんだ」

「こ、殺したわけちゃうよ! でも、私の想いなんかよりもμ’sの方が……」

「そうやって、君たちμ’sは最終予選に挑むんだな。メンバーの一人が自分の夢を捨てて、そして他のメンバーはその事に気が付かないままに。何も知らず、何も見ず、何も考えず!」

「それは……」

「客観的に見て一番勝率が高そうな方法を選ぶ訳だ。たった一度きりの人生で。μ’sとして踊る最後の機会になるかもしれない大会で。μ’sの為に。μ’sのメンバーが! それも、μ’sをずっと見守ってきた、誰よりもそのグループを大切に思ってきた君が!! 自分の想いを押し殺して歌うのか!!!」

 

 ガタン!

 

 

 

「ふざけるな!!!」

 

 

 

 我慢しきれなくなったのか、椅子が大きな音を立てて転がり、海菜が立ち上がる。

 もう真姫や私がいることなど頭にないのだろう、彼は大きく牙を剥いた。

 

 

「一番大事なものがμ’sだって!? じゃあ君の想いは!? 君の願いはそれに劣るのかよ!!」

 

「古雪くん……」

 

 

 初めて。

 初めて希は顔を上げる。

 

 出会ってから今まで、いつだって自分に優しかった彼が怒声を飛ばしている。

 その表情には恐れでも反感でもない。

 

――驚きだけが浮かんでいた。

 

 

「どうして君が我慢しなきゃならないんだよ!!」

「だ、だって!」

「やっと、やっと君の願いが叶う所だったんだろ? いつだってメンバーの事を思いやって、いつだってμ’sの事を考えて来た君が。やっと自分のやりたいことがこのグループで出来そうだって、その段階まで来たんでしょ?」

「…………」

「なのにどうして!?」

「…………」

「どうして君はそこで自分を……」

 

 どこか泣き出しそうな海菜の声。

 哀しい怒声。

 

 

 

 

「君の犠牲の上に成り立つのがμ’sか!!!」

 

 

 

 

 息を呑む。

 それは聞いている私達の胸にまで刺さってきた。

 

 真姫も唇を噛む。

 知らなかったこととはいえ、新曲作りに反対したこと。

 それが直接、希の犠牲に繋がっていたことを理解する。

 

 

「そんなものがμ’sの本当の形なんだとしたら!」

 

 

 一呼吸。

 そして彼は激情に任せて言葉を……

 

 

 

「そんなグループ…………」

 

 

 

 

――無くなってしまえばいい。

 

 

 

 

「やめて!!」

 

 

 海菜が今にも口にしようとしたその一言。

 腹が立っているから、冷静じゃないから。

 そんな理由で片付けてはいけない台詞。

 

 それは――希によって止められた。

 

 彼女は目に涙を浮かべて彼を見つめている。

 

 

「……それ以上は、古雪くんの口からは聞きたくないよ」

 

 

 彼はそこで我に返ると、視線を落とした。

 一応反省はしているのだろう、申し訳無さそうに頭を垂れる。

 

「μ’sは……」

「…………」

「私にとってはかけがえのない、大切な居場所なの。古雪くんがウチのことを考えて、こうして怒ってくれてるのはよく分かる。だからね、嬉しいよ? 凄く。本当に……」

「…………」

「私にも、こうして本気になって怒ってくれる人が側に居てくれるんだって分かったから。……でもね」

 

 とつとつ、と希は零し始める。

 真姫でもない、私でもない。海菜に語りかけるように。

 

「古雪くん。覚えてる? 一度、エリチやにこっちがμ’sに入るのよりも前のこと。古雪くんが一度μ’sと関わるのを止めるって言った事あったでしょ?」

 

 やっと引き出される彼女の想い。

 

「その時に言ったやん。ウチの夢はもうとっくに叶えてもらったんだって。居場所が欲しい。そんなちっぽけで、ウチにとっては凄く大きかった夢を、エリチと古雪くんが叶えてくれたんだって」

「あぁ……」

 

 そこにきっと嘘は無くて。

 この言葉は全て本当で。

 

「それに加えて、皆のおかげでμ’sっていう夢も叶った。ウチ、もう充分なんよ。だから、今回のことは本当にウチのワガママなの。そんなに、眉間に皺を寄せなくていいんだよ。ウチのことを気遣ってくれなくて良いんだよ」

 

 

 そして彼女はその真実で。

 

 

 

「だから、気にしないで」

 

 

 

――彼の優しさを拒絶した。

 

 

 私ならここで引き下がっていたかもしれない。

 

 希がそこまで言うのなら、と。彼女がそこまで考えて今日みたいな結論を出したのだとしたらそれでいいじゃないかと。私だけじゃない。他の皆だってそうすると思う。

 

 

――だけど。

 

 

「そっか。……でもごめん」

 

 

 海菜は真っ直ぐに希を見つめた。

 

 

「俺は引き下がれない」

 

 

 希の顔に動揺が浮かぶ。

 どうしてこの人は? そんな心の声。

 

 

「君は覚えてないの? 俺が……」

 

 

 そして彼は語り出す。

 

 

 

 

 

 

「俺がμ’sに協力することに決めた……一つ目の理由を」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


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