三人が玄関の敷居をまたぐと、奥から珠子が静やかに出迎えてくれた。
「おかえりなさい。金剛さん、二人はご迷惑をおかけしませんでしたか?」
「ただいまデース! とっても楽しかったデース!」
「そうですか。それはよかったです。航さん、体は問題ないですか?」
金剛が太陽のような快活さで報告すれば、珠子は薄く和やかな笑みを浮かべてそれに応じるのだった。横で金剛の手をしっかりと握りしめていた玲子も、母の穏やかな表情に誘われたものか、その幼い顔いっぱいに大輪の笑みを咲かせている。
しかし、それらの晴れやかな二人とは対照的に、些か顔色の冴えない航の様子に目をとめた珠子は、気づかわしげに眉をひそめて問いかけるのだった。航の方はそうした母の問いにすっかり慣れっこになっていると見えて、細い首すじへ自ら手をあてがいながら、苦笑を浮かべた。
「あはは……お母さま、お客人の前ですから。それにいつも通りですよ」
「そうですか……」
「それより、金剛さん、今日はありがとうございました。ちょっと僕は部屋にいますので」
「Uh…………航クン、今日はThank you ! また一緒に遊びましょうネ!」
「はい。こちらこそお願いします」
薄い笑みを残したまま、静かに自室へと戻っていく航の背中は、あたかもそのまま消えてしまいそうな儚さを漂わせており、金剛はその影のごとき佇まいに、しばし言葉を失って目を奪われずにはいられなかった。
まるで、柳の木陰に立つ幽霊のようであった。
「……」
珠子もまた、何か言いかけるようにしてその小さくなっていく背中を見送っていたが、そうしたどこか澱んだ雰囲気を鮮やかに打ち破ったのは、玲子の弾んだ声であった。
「金剛さん、トランプしましょ! 神経衰弱、強いのよ、私」
「そ、そうですネ! 一緒に遊びまショー!」
「玲子、あんまり金剛さんに迷惑かけないのよ」
「はーい!」
◇
「金剛さん、お兄様は体が弱いの。だから軍人さんにはなれないんだって」
「ℍmm……そ、そうなんでカー」
神経衰弱の勝負を始めてからしばらく経った頃、伏せられた札を指先で繰りながら、玲子が静かな調子でぽつりと言った。 それまでは絵札の置かれた場所を記憶しようと必死に頭を働かせていた金剛であったが、この唐突な打ち明け話になんと返事をしたものか惑い、結局はうまい言葉も見つからぬまま、曖昧に頷いて見せるより外はなかったのである。
玲子は、目の前に座る金剛の困惑した様子にはまるで気づかない風で、すぐにまた別の札へと小さな手を伸ばした。
「でもね、おじい様もお父様もうちから軍人が出ないのは困るっていうの」
「な、なるほどデース」
次にめくった札を取り上げながら、玲子は言葉を続けるのだった。
「だからね、私が軍人さんになろうと思うの」
「……え?」
金剛は一瞬間、息が止まるような心地がした。己れの前世の記憶をいかに手繰り寄せてみても、あの戦場に女の身で足を踏み入れる者など存在しなかったのである。男どもの荒々しい気風ばかりが充ち満ちていた己れの記憶の中に、彼女のような一輪の向日葵のごとき少女が置かれることなど、毛頭あり得ないことであった。
そうした己れの確固たる常識が、かすかな胸の不快とともに足元から崩れ去っていくのを感じた。
「玲子ちゃんがですカー?」
「うん!」
玲子は少しの迷いもなく頷いた。
「お兄様がなれないから、私がなるの。お兄様は先生かお医者さんになりたいって言ってたから、ちょうどいいと思うし」
「……」
金剛は言葉を失ってしまったが、そんな様子に気を留めることなく玲子はまた一枚、静かに札を裏返す。
「おじい様もきっと喜ぶわ。お父様はちょっと変な顔をしてたけど」
「そう、ですネ……」
ようやく口の端から絞り出した返事は、ただそれだけであった。 玲子はそこでようやくトランプへ注がれていた顔を上げ、金剛のそんな様子に少しだけ首を傾げてみせた。
「金剛さんもお父様と同じ軍人さんなんでしょ?」
「うっ……い、一応はそうデース」
「やっぱり! それなら私がおっきくなったら金剛さんと一緒にお仕事できるんでしょ?」
「……」
その無邪気きわまる問いに対して、金剛は返事をすることが出来なかった。
いや、むしろ返事などしたくなかったと云う方が正しかった。 あの悲惨を極める戦場の中へ、この無垢な少女が引きずり込まれていく──そうした情景の思い浮かぶことが、彼女の口元を重く閉ざさせるのであった。
「どうしたの? 私。なにか変なこといったかしら?」
「そ、そんなことないデース! きっと玲子ちゃんなら立派な軍人さんになれるデース!」
「そう思う? それなら安心ね」
目の前でやはり暖かく笑う少女に対して、金剛は胸の奥に淡い罪悪感を覚えながら、努めて同じように笑ってみせるのであった。
◇
結局、神経衰弱の勝負は金剛の惨敗であった。それは夕食の用意をしていた珠子が思わず眉をひそめるほどの惨敗だった。
異様とも云える玲子の記憶力に押し切られたせいもあったが、それ以上に彼女の胸の底で騒ぎ立てる思いが、彼女の思考を乱していたからに他ならなかった。
「戻ったぞ」
玄関の方から、日向の重々しい声が響いてきた。どういう訳か、その声を聞いた途端、金剛の胸の奥はすっと冷たく強張るのを感じた。なぜ自分がそのような反応を示すのか彼女自身にも分からなかったが、昨日までと同じ心地でこの家主の顔を見上げることが出来なくなったのは確かであった。
「お父様! 金剛さん、いきましょ!」
玲子が嬉しそうに立ち上がり、金剛の手をぐいと引く。さっきまではただ微笑ましく思えていたその仕草が、金剛にはいまや何処か寒々としたものに感じられた。しかし、その原因は金剛にはわからない。
廊下へ出てみると、帰宅した日向はちょうど上がり口に腰を降ろし、靴を脱いでいるところであった。その傍らでは、いつの間にか出迎えていた珠子が鞄を受け取っていた。
「お帰りなさい! 今日は金剛さんと一緒に遊んだの」
「ただいま。……そうか、それはよかったな」
少し疲れた様子を見せていた日向であったが、玲子のその明るい報告に小さく頷いて応えた。そうして、大きくごつごつとした手のひらで、愛おしそうに娘の頭を撫でるのであった。
──やっぱり、だ。
金剛はそう思った。昨日まではごく自然な親子の姿として眺めていた景色の中に、いまや別のものが混じり込んで見えた。
「それはそうと航はどうした?」
「お兄様? いつも通りよ、今日はいっぱい外で遊んだからお部屋で休んでるわ」
「そうか」
玲子の答えに対し、日向はどこか溜息交じりの声で答えた。 その言葉の裏にどんな思いがあるのか金剛には解し兼ねたが、妙に胸へ引っかかった。
昨日までなら、ただの睦まじい家族の会話として聞き流していたはずであった。
航の体が弱いことも。
玲子がすこぶる健やかであることも。
日向がその様子を不器用に見守っていることも。
どれもこの屋敷で暮らしていれば、自ずと見えてくる事柄に過ぎなかった。 だが、今は違うのである。 先刻、玲子の口から漏れた言葉が、どうしても頭の中から離れてくれなかった。
金剛は思わず、玲子の顔を見た。 しかし、その言葉を放ったはずの本人は、もう何も気にしていないようであった。
「お父様、今日はね、駄菓子屋さんにいって──」
「玲子、あまり騒がしくしてはいけませんよ。あなた、お食事の用意がもうすぐできますからお着換えお手伝いします」
「そうか。玲子、話はまた後で聞かせてくれ」
「うん!」
玲子は嬉しそうに頷く。 日向はそんな娘の頭をもう一度軽く撫でてから、珠子と共に廊下の奥へと向かっていった。
その背中を見送りながら、金剛はなんとなくその場に佇んでしまっていた。
「金剛さん?」
「……Yes?」
「どうしたの?」
「……なんでもないデース」
そう答えて、金剛は笑った。
玲子は少しだけ首を傾げたものの、それ以上は何も聞かなかった。
「そう? なら、お母さまがお父様のお着替えを手伝ってるうちにご飯の用意をしちゃいましょ」
「そうするネー」
差し出された小さな手を取る。
それは、先ほどまで自分を引っ張っていた時と同じ、柔らかくて温かな手であった。 その温かさに触れた瞬間、金剛の胸の奥で渦巻いていたざわめきが、ほんの少しだけ静まるような気がした。
けれども、それでも先ほど聞いた言葉だけは胸の底から消えてくれない。
──お兄様がなれないから、私がなるの。
金剛は玲子の横顔を見た。
少女は何ひとつ知らぬげに、楽しそうに台所へと彼女を引っ張っていた。
「……玲子ちゃん」
「なあに?」
「今日、楽しかったデースか?」
「うん! すっごく楽しかったわ!」
金剛は笑った。
「それなら、よかったデース」
「うん!」
玲子も嬉しそうに笑い返した。 その笑顔を見つめながら、金剛は自分でもよくわからない胸の痛みを抱えたまま、彼女の隣を歩いて行った。