艦隊これくしょん 数字の底にあったもの   作:江藤青市

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1995年 1-12

 

 軍令部総長の執務室へとつづく重厚な廊下を、十時日向は足早に歩んでいた。

 先ほどまで食堂のあたりに漂っていた昼時の長閑な気配は、既に遠い夢のごとく押し遣られている。硬質なタイルに響く軍靴の乾いた足音が、静謐に包まれた廊下の壁面にどこか寂しげな余韻を引くばかりであった。

 軍令部という組織においては、仮に食事の最中であっても、たった一枚の伝令の手交によって一切の空気が一変することがある。戦時下という冷酷な現実は、いついかなる時も彼らの肩へ重くのしかかっているのであった。

 しかし、今回ばかりは単なる人事の通達や書類上の確認といった類のものではないことを、日向は己の長年の直感から察していた。

 勝幡の執務室を隔てる重々しい木製扉の前まで辿り着くと、日向は足を止め、一度だけ襟元を正して静かに息を整えた。

 

「失礼します。十時第二部部長、出頭いたしました」

 

「入れ」

 

 扉を開けて一歩室内へ足を踏み入れる。

 広々とした部屋の奥には勝幡が腕を組んだまま佇んでおり、その周囲を数名の参謀や幕僚たちが取り囲んでいた。誰一人として無用な言葉を発する者はなく、室内にはピンと糸を引くような緊張感が満ちている。

 部屋の中央に置かれた大きな作戦卓の上には、幾つもの地図や海図が乱雑に広げられており、その中には本州沿岸部を大きく描いた海図も混じっていた。日向はその光景を目にした瞬間、事態の尋常ならざる重さを悟ったのである。

 

「そこへ座れ」

 

「はっ!」

 

 促されるまま、日向は空いている椅子へ静かに腰を下ろした。

 勝幡はしばらくの間、険しい眼光で海図の一点を凝視していたが、やがて、あの特徴的な甲高い声で口を開いた。

 

「昨夜、硫黄島の監視拠点から緊急の報告が入った」

 

「……敵ですか」

 

「ああ」

 

 その一言が落ちた瞬間、室内の温度がふっと数度下がったかのような錯覚を十時は覚えた。

 勝幡は太い指先で、海図の上に記された一点を強く叩いた。

 

「ここだ」

 

 目を落としてみれば、そこは、日本列島からさほど遠くない、目と鼻の先とも言える海域であった。日向は身を乗り出すようにして、その点へ鋭い視線を落とした。

 

「規模は?」

 

「正確なところはまだ掴み切れておらん」

 

 勝幡は脇に控える幕僚から一枚の電文を受け取り、それに目を走らせながら続けた。

 

「だが、少なくとも戦艦型と分類される大型反応が二つ。それを中心に駆逐艦型が陣を整えているとのことだ」

 

 日向の太い眉が僅かに動いた。

 これまでにも沿岸部で深海棲艦の姿が捕捉されたことは幾度もあったが、それらは単独の巡航か、あるいは小規模な群れによる偶発的な遭遇であることが大半であった。それが今回は、明らかな意図を持った部隊として整然と航行しているというのである。

 日向は海図に描かれた等深線と、敵の想定進路をなぞるように目線を走らせた。もし報告にある推測が正しければ、敵部隊の針路の先にあるのは、疑いもなく日本本土であった。

 

「目的地は察せられますか」

 

「詳細は分からん」

 

 勝幡は短く言い捨てた。

 

「敵の真意など知りようもない。だが、分からんからといって手をこまねいて放置するわけにもいかんのだ。奴らの向かう先に本土があるのだからな」

 

「……おっしゃる通りです」

 

 日向は静かに、しかし深い覚悟を込めて答えた。

 これまで陸地への攻撃という意味では不気味な沈黙を守っていた深海棲艦が、今や明白な脅威となって海上に姿を現している。軍人として取るべき道は、最初から一つしか存在しなかった。

 

「そこでだ」

 

 勝幡は手元の海図を脇へ押しやり、別の局地作戦図を卓上へ広げた。

 

「我々は敵を駿河沖にて待ち伏せて討つことにした」

 

「待つ、とおっしゃいますと」

 

 日向が訝しげに顔を上げると、勝幡は太い腕を組んだまま鋭い眼差しを向けた。

 

「敵がまっすぐこちらへ向かってくるのであれば、無闇に索敵網を広げて追う必要はない。想定される進路上に予め戦力を配置し、強襲を仕掛けるのが最善と判断した。一応、見張りとして池川に任せた水上機母艦の艦娘――千歳から偵察機を出させている。今のところ問題はないだろう」

 

 作戦図には、幾筋もの青い直線と赤い矢印が交差するように引き重ねられていた。

 

「艦娘を……投入するわけですね」

 

「ああ」

 

 勝幡は力強く首肯した。

 

「今回の敵群は戦艦型を中心とした強力な水上打撃部隊だ。正面から破砕するには、こちらもそれ相応の決戦戦力を投入せねばならん」

 

「かしこまりました。それでは私は金剛を呼んでまいります――」

 

「いや、待て」

 

 勝幡は煩わしそうに十時の言葉を遮った。そして、それまで作戦図へ落としていた視線を上げ、正面に座る彼をじっと見据える。

 

「お前には前線へ出てもらう」

 

「私がですか……?」

 

 十時の眉が僅かに動いた。聞き間違いではなければ勝幡は、十時日向に前線へ出ろと言ったのである。

 

「新発田と共にだ」

 

「私に現場で、艦娘たちの指揮を執れと仰るのですか?」

 

「そうだ」

 

 即答であった。

 十時はしばらく言葉を失った。目の前には敵部隊の進路を記した海図があり、その上には艦娘の投入予定地点が示されている。そこまでは理解できる。敵が来る、それを迎え撃つ、必要な戦力を配置する――軍事作戦としては何一つ不自然なところはない。ただ一つ、そこに己の名が書き加えられていることを除いては。

 十時日向という男は、軍令部第二部の部長である。作戦の立案や敵情の分析、各方面から上がってくる情報の整理、部隊の動員計画の作成や軍備の把握――軍全体を動かすための材料を集め、判断を下すことこそが彼の役割であった。

 もちろん、机の前に座っているだけの男ではない。これまでにも各地の部隊を視察し、現地で指揮官から直接報告を受け、実戦の光景を目にしたこともあった。しかしそれらはいずれも、戦場を知るための過程に過ぎない。だからこそ、日向には疑問が残るのである。己自身が出撃しなければならない理由が、どうしても見出せないのだ。

 

「……私が前線へ出る必要がある理由を、お聞かせ願えますか」

 

 問いかけは至って静かであった。命令に逆らうつもりはない。ただ、自分に与えられた役割の意味を正しく理解したかった。

 勝幡は腕を組んだまま、少しばかり思案するような素振りを見せたが、やがて呆気ないほど無造作に言った。

 

「金剛の面倒を見たお前が、主力の金剛を前線へ出しておいて、自分だけ後ろにいるわけにもいかんだろう」

 

「……それが理由ですか?」

 

「ああ」

 

 あまりにも簡素な答えであった。日向は勝幡の顔を見つめる。

 

「しかし、金剛の運用と私自身が前線へ出ることは――」

 

「細かいことはいい。お前は家族ぐるみであいつをこれまで面倒見てきた。金剛については俺たちよりよほどよく知っているはずだ」

 

「それは……」

 

「それを主力として出す以上、お前も前へ出ろ」

 

 理論派でなる勝幡らしくない、半ば強引な理屈であった。

 しかし、日向は返す言葉を失ってしまった。

 確かに、完全な間違いとは言えない。金剛を軍へ迎え入れたのは勝幡であるが、その後の生活を見守り、彼女が軍という未知の環境へ馴染んでいく過程に最も近くで関わってきたのは日向であった。金剛を単なる兵器として扱うことに抵抗を覚えるのも、彼女が一人の人間として日常を送っている姿を知っているからにほかならない。

 その金剛が、今度は戦場へ赴くのである。そう思えば、自分だけが後方に残るというのも、どこか妙に収まりの悪い話ではあった。もっとも、それと己が前線指揮官になることとは本来別個の問題であるはずだが、勝幡は既に議論を打ち切る構えであった。

 

「総指揮は新発田に執らせる。お前は副官だ」

 

 日向は僅かに目を伏せた。

 新発田ならば納得がいく。自身より一つ年も階級も上なうえに前線での経験も豊富であり、臨機応変な判断にも長けている。かなり型破りな変人ではあるものの、戦場での指揮能力について日向も一目置いていた。

 

「……その点については承知しました」

 

 日向が答えると、勝幡は満足そうに頷いた。

 

「それでいい」

 

 そうして、作戦卓の脇に置かれていた別の資料へ手を伸ばす。

 

「それと、お前たちが乗る船だ」

 

「船?」

 

「高速艇を一隻出す」

 

 十時の視線が資料へ向けられた。

 

「海上へ出た後、それを前線指揮所として使う」

 

「新発田中将と私が、その高速艇に?」

 

「そうだ」

 

 高速艇を海上の指揮所とし、そこから艦娘へ指示を与える――日向は作戦図を見下ろした。しかしその瞬間、さきほどとは別の懸念が彼の頭をかすめた。

 深海棲艦の影響下にある海上では、陸上と海上を結ぶ通常の通信は途絶してしまう。一度出撃してしまえば、陸上の司令部から新たな命令を送ることは叶わない。だからこそ、海へ出る部隊には出撃前に作戦の大枠を与え、以後は現場指揮官の判断に委ねるのが常であった。

 

「しかし、海上へ出たのち、艦娘へはどうやって命令を伝えるのです? 我らがこれで出撃したとしても連絡はかなわないように思いますが」

 

 勝幡は答える代わりに、作戦卓の脇に置かれた一枚の設計図を指差した。

 

「これを使う」

 

 言われて目をやると、そこには見覚えのない通信機の設計図があった。大きさそのものは軍用として特別大きいわけではないが、日向の知る従来の通信機とは構造が異なっている。

 

「特殊通信機だ。十八海里程度なら、海上の艦娘と通信できる」

 

「……艦娘とだけ、ですか?」

 

「ああ。陸上とは繋がらん」

 

 陸上と海上を繋ぐためのものではなく、高速艇を海上の前線指揮所として機能させ、その周囲に展開する艦娘へ指示を伝えるためだけの局地的な通信手段なのだ。従来であれば海へ出れば失われていた通信が、限定された範囲内とはいえ維持できるという。

 

「なるほど……」

 

日向は小さく頷いた。しかし、その直後であった。機器を眺めていた目が、ゆっくりと勝幡へ向けられる。

 

「……この装備について、私は伺っておりません」

 

「そうか」

 

「そうか、では困ります」

 

 十時の声音が沈んだ。軍令部第二部は単に動員計画を練るだけの部署ではない。軍備の整備と管理もまた、彼らの重要な務めであった。どの部隊に何が必要か、新しい兵器が開発されたならばその性能と配備方法を吟味する。試作品の細部まで把握していないとはいえ、実戦投入を前提とした新型通信機、それも艦娘との通信という未知の能力を持つ装備が何の前触れもなく現れれば、役職上、看過できるものではない。

 

「こちらに開発計画が上がってきた記録もございません」

 

「最近できたものでな。私のほうで開発させていた」

 

「それでも、正式に配備するのであれば――」

 

「そんなことは今はいいだろう」

 

「総長――」

 

「ふん、今回の作戦に間に合わせる必要があった。それだけだ。違うか?」

 

 納得がいったわけではない。しかし、勝幡の態度からして、これ以上問いただしたとしても詳しい経緯を明かすつもりがないことは明白であった。

 

「……作戦後には、ご説明いただけますか」

 

「ああ」

 

 勝幡の即答がどこまで信用できるかは疑問であったが、少なくとも今は装備が機能するのであれば作戦遂行に支障はない。

 

「分かりました」

 

 十時はそれ以上の追及を諦め、海図へ視線を戻した。

 

「ただ、もう一つ懸念がございます」

 

「何だ」

 

「新発田中将と私を、同じ高速艇に乗せる理由です」

 

 日向は作戦図上の一点を指で示してみせた。

 

「総指揮官と副指揮官が同じ船に乗れば、その船が万一沈んだ場合、二人とも同時に失われることになります」

 

 戦場において、これは決して軽視できない問題であった。指揮官はそれ自体が一つの重要な戦力であり、どれほど艦娘が強力であろうとも、戦況を見極めて命を下す者が失われれば、その後の展開は決定的に瓦解してしまう。

 

「指揮系統を一か所へ集中させるのは、あまりに危険ではありませんか」

 

「危険だな」

 

 勝幡はあっさりと認めた。その様子に十時僅かに眉をひそめてしまう。

 今回の作戦はどうにも腑に落ちないことが続きすぎた。

 

「それでも、その配置で行く」

 

「理由をお聞かせ願えますか」

 

「新発田一人では手が回らん場合がある」

 

 勝幡は作戦図をコツコツと指で叩いて続ける。

 

「お前なら、後方の状況まで把握している。軍備も動員も、各部隊の配置もだ。現場の判断だけでなく、軍全体を見渡して判断できる人間が必要になる」

 

 日向は無言で話を聞いていた。それならば、先ほどよりは幾分理屈が通る。新発田が目の前の戦場を注視し、日向が後方の状況を踏まえてその判断を補佐する。前線に出ること自体は日向の本領ではないが、現場に立つ新発田の脇で後方の情報を掌握した人間が補佐するというのは、それなりの合理性を含んでいた。

 

――今回のような局地的な臨戦において、そこまでの立ち回りが本当に必要か否かは甚だ疑わしいものではあったが。

 

「……分かりました」

 

 日向は小さく息を吐いた。

 それは、これ以上、上官に逆らってみても敵が止まることはない、という諦めを多分に含んだ決断だった。

 

「それでは、金剛を呼んでまいります。それに本日の軍務についても副官に――」

 

「いや」

 

 勝幡が手をかざす。

 

「別にここに呼んでくる必要はない。それに些事は俺のほうでやっておこう」

 

「?」

 

「一度、家へ帰っておけ」

 

「家へ、ですか?」

 

「ああ。出撃は本日のヒトキュウマルマルに横須賀からとする。詳細は作戦計画書にまとめておいた」

 

 その言葉を耳にした瞬間、十時の胸中に、先ほどまでの冷徹な軍事上の思考とはまったく異なる湿り気を帯びた感覚が持ち上がってきた。 軍令部の作戦図を眺めている間は、すべてが記号化された軍事の問題であった。敵の位置、戦力、配置、通信、指揮系統。しかし「今夜」という具体性を帯びた時間を示された途端、それが現実の重みをもって迫ってくる。

 

 今夜、自分は海へ出る。

 金剛もまた出る。

 

 この温かい陸を離れ、暗い戦場へ赴くのだという事実が、ようやく切実な輪郭を持ち始めたのであった。

 

「必要な準備を整えるように。なに、駿河沖で敵を打って帰るだけ。それほどの準備もいるまい」

 

「……承知いたしました」

 

 日向は立ち上がり、深く一礼をして執務室をあとにした。

 扉が閉まり、廊下へ出た瞬間、先ほどまでの密室の張り詰めた空気とは異なる、茫洋とした静けさが身体を包み込んだ。日向はしばらくの間、その場から動くことができなかった。

 軍令部の廊下は相変わらずの日常を営んでいた。幕僚たちが行き交い、伝令が書類を抱えて走り、遠くで電話の呼び出し音が途切れ途切れに鳴り響いている。誰もが己の職務に没頭する中で、ただ自分一人だけが「今夜」という時間を意識していた。

 そうして彼の脳裏にふと浮かんだのは、海図の赤い矢印などではなく、昼前に己が口にした他愛もない言葉であり、航のことや玲子のこと、そして金剛のあ屈託のない笑顔であった。 日向は深く息を吐き出した。まずは家へ戻ろう。戦場へ向かうのは、それからのことである。 軍令部を後にした日向は、静かな家路へと足を向けた。

 

◇

 

 

 自宅の敷居を跨ぐと、日向を迎えたのはいつもと変わらぬ穏やかな家の空気であった。

 

「……ただいま」

 

靴を脱ぎながら呟くと、奥から珠子の慌ただしい足音が聞こえてきた。

 

「お帰りなさいませ。今日は随分とお早いですね」

 

「ああ、いろいろとあってな」

 

「さようでございましたか」

 

 いつものように珠子へ鞄を預けて廊下を進むと、居間の方からなにやら賑やかな声が漏れ聞こえてくる。

 

「お兄様、それは違うって!」

 

「そうかな?」

 

「そうよ!」

 

「でも、さっきは――」

 

「それはさっきの話!」

 

「アハハハ! 玲子には敵わないデース!」

 

 金剛の屈託のない笑い声まで交じっている。日向が居間を覗き込むと、そこには航と玲子、そして金剛の姿があった。

 卓上には無造作にカードが広げられており、玲子は身を乗り出して航の手元を覗き込み、航は困惑したような笑みを浮かべながらカードを握りしめている。金剛はその二人の間で楽しそうにはしゃいでいた。

 先ほどまで目におさめていた海図も、深海棲艦の寒々しい報告も、ここには存在しない。ただ、ありふれた午後の陽光が微睡んでいるばかりである。

 その光景を目にした瞬間、日向の胸の底にずしりと重い一塊の感覚が落ちていった。

 今夜、この場所を去らねばならない。そして、必ずやこの場所へ戻ってこなければならない――その思いは言葉になる以前の切実さをもって、深く沈降していくのであった。

 

「あ! お父様! おかえりなさい!」

 

「おかえりなさい」

 

「おかえりなさいデース!」

 

 三人が示し合わせたようにこちらを振り向く。玲子はぱっと顔を輝かせ、航も小さな笑みを浮かべた。金剛は立ち上がりこそしないものの、日向の姿を認めると嬉しそうに手を振ってみせた。その何気ない身振りの一つ一つが、不思議なほど心へ沁み通っていく。

 

「ただいま」

 

 日向はそう答えた。軍令部にあっては命令を受ける身として淡々と事態を見つめ、敵の位置を聞き、戦力を確認し、出撃の刻限を告げられただけであった。しかし、こうして家庭の温もりのなかへ身を置くと、同じ「出撃」という言葉が、まったく異なる重みと色合いを帯びて響いてくる。

 

「どうしたの?」

 

「……いや」

 

 日向は一瞬言葉を探した。今ここで凄惨な作戦の話を持ち出す必要はないし、持ち出すべきでもなかった。子供たちに敵の規模などを語ったところでどうなるものでもなく、いたずらに不安の影を落とすだけに過ぎない。日向は努めて表情を和らげた。

 

「少し、話がある。金剛を少し借りるぞ」

 

「金剛さんを?」

 

 玲子が不思議そうに目を丸くする。

 

「ああ。少しの間だけだ」

 

 日向はそれ以上語らなかった。金剛も何かを察したのか、先ほどまでの華やいだ表情を僅かに引き締める。

 

「分かりましたネ。行きましょう、テートク」

 

「ああ」

 

「じゃあ、待ってるからね、金剛さん」

 

「了解デース!」

 

  玲子はそう言って再び卓上のカードへ視線を落とした。日向はその小さく愛らしい横顔を一瞬だけ見つめ、それから金剛を伴って居間をあとにした。

 

 

◇

 

 

 薄暗い廊下を歩む間、金剛はいつになく静やかであった。日向もまた口を開こうとはしない。家の中には先ほどまでの子供たちの歓声が仄かな余韻となって残っている。その明るさを背後に残し、二人は日向の書斎へ足を踏み入れた。

 扉を閉めると、居間からの気配が一気に遠のく。

 

「……何かありましたカ、テートク?」

 

「ああ」

 

 日向は机のそばへ歩み寄り、重々しく椅子へ腰を下ろした。金剛に着席を促すこともせず、資料を広げることもしなかった。軍令部で交わされた事実を、そのまま告げれば足りることであった。

 

「今夜、出撃することになった」

 

「……」

 

 金剛の瞳から戯れの色が一瞬にして消える。

 

「敵が近海に姿を現した。戦艦型が二隻、それを中心に駆逐艦型が複数」

 

「戦艦型……」

 

「ああ。我々はこれを待ち伏せて打撃を与える。千歳から偵察機を出しているから、敵の進路を見極めつつ主力を配置する。お前がその主力だ」

 

「了解デース」

 

 金剛は静かに頷いた。いつもの弾けたような声ではない。かといって恐れを抱いている風でもなかった。日向はその様子を見届けて、僅かに安堵した。

 

「総指揮は新発田中将。私も副官として赴く」

 

「テートクも? 前線へ出るんデスカー?」

 

「そういう命令だ」

 

「……」

 

 金剛はしばらく思案するように黙し込み、やがて困ったような笑みを唇に浮かべた。

 

「テートク、無茶しちゃ駄目デース」

 

「それはお前もだ」

 

「私は艦娘デース」

 

「それでもだ」

 

 日向の思いがけない強い言葉に、金剛は少しばかり目を丸くしたが、やがてふっと和やかな表情を取り戻した。その顔を見つめながら、日向は言葉を継いだ。

 

「わかっているとは思うが、今夜の作戦については家族にも伏せる。航と玲子には、今夜お前が出かけるということだけを伝える」

 

「Yes」

 

 金剛は素直に頷き、それから少し間を置いて、静かな声音で問いかけた。

 

「また帰ってこれるんですよネ?」

 

 日向が応じるまでに、ほんの僅かな沈黙が流れた。

 

「当たり前だ」

 

 金剛は柔らかく笑った。

 

「それじゃ、私もちゃんと帰ってこないとネー」

 

 それ以上、二人は言葉を交わさなかった。書斎には、柱時計の刻む規則正しい音だけが寂しげに響いていた。

 

◇

 

 

 夕刻。 出撃の時刻が刻一刻と近づくにつれ、家の中にも自ずと微かな緊張感が漂い始めた。金剛は身の回りの品を整え、日向もまた軍装に身を包む。玲子は何度も金剛の側へ寄っていっては声をかけた。

 

「忘れ物はない?」

 

「大丈夫デース」

 

「本当に?」

 

「Yes!」

 

「じゃあ……」

 

 玲子は少し首を捻り、

 

「帰ってきたら、また遊びに行きましょうね。まだいろいろと金剛さんと行きたいところがあるんだから」

 

 金剛は一瞬目を丸くしたが、すぐに優しく微笑んだ。

 

「もちろんデース」

 

「約束だよ」

 

「約束ネ」

 

 小指と小指が絡み合う。その光景を傍らで見つめていた日向は何も言わず、ただ二人の小さな約束の身振りをじっと目におさめていた。

 

「そろそろ行くぞ」

 

「はい」

 

 金剛が静かに立ち上がる。

 

「行ってらっしゃいませ」

 

 珠子が静かに頭を下げた。

 

「気をつけてね、お父様」

 

「お気をつけて」

 

 何かを察しているかのような玲子と航の短い見送りの声が重なる。

 

「……ああ」

 

 日向は家族の顔を静かに見渡した。航は少し離れた柱の陰に立ち、何かを言いたげな眼差しを向けていたが、結局のところ言葉にはしなかった。日向もまた、多くを語ることはしなかった。

 

 

「行ってきますデース!」

 

 金剛も深く頭を下げる。

 

「行ってらっしゃい、金剛さん!」

 

 玲子の愛らしい声を背に、二人は玄関をあとにした。

 パタンと重い扉が閉まり、その向こうには温かな家庭の明かりだけが残されたのである。

 

 

◇

 

 

 横須賀鎮守府。

 その巨大な施設群は既に夕闇へとどっぷりと沈み、港全体が暗澹たる夜の帳に包まれていた。軍港特有の管制のもと、灯火は極力制限されている。

 そんな鎮守府の奥まった一角、人目につかぬ陰に、一隻の高速艇が静かに揺れていた。

 軍艦と呼ぶにはあまりに華奢で小さな船身であったが、通常の連絡艇とは明らかに異質な雰囲気を纏っている。船内には簡素な指揮設備が整えられ、その一隅には、日向が軍令部で目にしたあの見覚えのない通信機が収められていた。

 日向はそれを一瞥し、やはり割り切れぬ思いを胸に抱いた。

 

「十時」

 

 呼びかけられて振り返ると、そこに立っていたのは新発田中将であった。

 だらしなく軍服を着崩し、無精ひげが伸びたその様は見ようによっては、軍人よりも破落戸という言葉が似合った。

 そんな様子とはいえ、上官である。十時はすぐに敬礼を返した。

 

「お待たせいたしました」

 

「いや、別に待っちゃいねぇよ。それよりよぉ、こんなちんけな艇で敵の目と鼻の先まで出張れってんだから、お互い参ったもんだな」

 

「同感ですな」

 

 二人は短く苦笑を交わしたが、その表情はすぐに引き締まった。今回の作戦が一筋縄ではいかぬことなど、互いに嫌というほど承知していたからである。

 

「で、勿論、編成は聞いているよな?」

 

「ええ。金剛が主力。護衛に駆逐艦を付け、千歳から偵察機を飛ばすとのことです」

 

「ああ、俺もそう聞いた」

 

 新発田は面白くなさそうに鼻を鳴らして、そう頷いた。

 そののちガサガサと胸の隠しから敷島を取り出し、火をつけた。

 

「金剛が主力になることも、護衛がつくことも文句はねぇが……」

 

「何か気になることでも?」

 

「いやな、俺のところに預けられた艦娘は、今回はお留守番なんだよ」

 

 紫煙とともに愚痴を吐きながら新発田は肩を竦めてみせた。

 

「護衛の駆逐艦は、米住(よねずみ)のところから回されてるらしいがね。俺としちゃあ、直属の部下がいないなんてやりにくいもんだよ」

 

「施設本部長のところから……」

 

 突然現れたその名前に十時は少し思案してから尋ねた。

 

「米住本部長は、こちらへは来られないのですか?」

 

「はっ、来るわけねぇだろ。何言ってんだ、おめぇ」

 

 その十時の問いにあきれたように新発田は即座に返した。

 予想していた通りの返事が返ってきたというのに十時は僅かに眉を寄せてしまった。そんな彼の様子を見咎めて新発田は鼻を鳴らす。

 

「お前さん、米住の気性を知らんわけじゃあるまい」

 

「もちろん存じ上げております」

 

「あいつは昔からそういう奴だ。俺は士官学校以来の付き合いだからよく分かるが、当たりの柔らかい顔をして、根っこは実に冷酷な男さ。見送りにも来やしねぇ」

 

「同期でいらっしゃいましたね」

 

「ん? ああ。俺と米住が同期で、お前さんが一つ下だ」

 

 日向は目を細めた。言われてみれば確かにその通りであった。新発田と米住は日向が入隊した頃から互いを熟知しており、会議の場などでも階級を越えた独特の距離感で言葉を交わすことが多かった。

 

「施設本部長という要職でもありますからね」

 

「それだけじゃない」

 

 新発田が薄く笑った。

 

「勝幡総長の側近中の側近だからな。あいつが前線に出るなんて今後一切ないだろうさ」

 

「……」

 

 施設本部長は海軍省の直隷組織であったが、勝幡のすぐ傍らに米住が控えている光景は、いまや軍令部の見慣れた日常であった。

 

「それに今は施設も補給も一切の基盤をあいつが握ってやがる。あいつに前線へ出られたら、むしろ後方が立ち行かなくなる」

 

「確かに、その通りです」

 

 日向も素直に頷かざるを得なかった。米住が前線に出ないこと自体は、組織の合理性として理解できる。しかし――。

 

「ですが」

 

 日向は静かに言葉を継いだ。

 

「私には、今回前線へ出ろと命じられましたから」

 

「聞いたよ。金剛の面倒を見てきたから、だろう?」

 

「ええ。総長曰く、金剛を主力として前線へ出しながら、その面倒を見てきた私が後ろで高を括っているわけにはいかない、と」

 

「確かに勝幡総長らしくねぇ、命令だわな」

 

「私もそう思いました」

 

「で?」

 

「ですから……」

 

 日向は漆黒の海の広がりへ目を向けた。新発田は一瞬黙し込み、やがて何かを悟ったように口元を歪めた。

 

「ああ、なるほどな」

 

「はい」

 

「お前さんは相変わらず真面目というか、変なところで筋を通したがる男だな」

 

「どういう意味でしょうか」

 

「理不尽だと言いたいのだろう」

 

 新発田は苦笑した。

 

「だが米住は別格さ。施設本部長という役職だけじゃなく、軍での立ち位置も考えれば、お前さんとは役者がちげぇわ。いいじゃねぇか、俺たちが海で暴れている間も、あいつはあいつで後ろの泥臭い戦争をこなしてりゃ」

 

 そんなことはいまさら言われるまでもないとおもいながらも、十時は無言で頷いた。米住の立場に異議があるわけではない。ただ、海軍省から横須賀鎮守府まではそう遠い距離ではない。幼子のような姿をした駆逐艦たちを前線へ送り出しながら、その出撃に本人が立ち会うことすらないのは、自分自身に課せられた「責任」とのあまりの落差に、割り切れぬものが胸に残っただけであった。

 

「まあ、総長に言わせれば――」

 

 新発田がニヤりと笑った。

 

「お前さんには米住とは違う形で、金剛つう危険な玩具を預かった責任を取れ、ってことなんだろうよ」

 

「……なるほど」

 

「違うか?」

 

 日向は答えなかった。その「責任」という響きだけが、冷たい夜風とともに胸の奥へ深く沈んでいった。

 

 その時であった。背後の闇の中から、聞き慣れた爽やかな声が響いた。

 

「テートク!」

 

 振り返ると、夜の港のさざ波の中に金剛が立っていた。その姿を目にした瞬間、日向の険しい表情が僅かに解けた。

 

「来たか」

 

「もちろんデース!」

 

 金剛は弾んだ声で答えた。その笑みは、ほんの数時間前に家庭の居間で玲子たちとカードを囲んでいた時と何一つ変わらない。しかし、ここはもはや温かな家庭ではなく、出撃を待つ冷酷な軍港であり、その先には凄惨な深海棲艦との戦いが待ち受けているのだ。

 日向は一度だけ、暗澹たる海の彼方を見つめ、再び金剛へと視線を戻した。

 

「準備はいいか」

 

「Yes!」

 

 金剛は力強く頷き、高速艇へ向かって足取りも軽く歩み出した。日向もまたその後に続く。 背後では、港のわずかな灯りがゆらゆらと水面に揺れていた。それは遠く去りゆく者から見れば、あたかも陸地そのものが自分たちを引き留めようと佇んでいるかのようにも思えたが、二人がいま向かおうとしているのは、その灯りの一切届かぬ、漆黒の夜の海であった。

 




かなり長くなってしまいました。
読みにくくなって申し訳ありません。
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