夜の海は、陸地から遠ざかるにつれて、一層その底知れぬ深さと漆黒の闇を色濃くしていった。
月は薄い雲の帳の奥へひっそりと身を隠し、海面にはところどころ白い波頭が淡い燐光を帯びて現れては砕けるより早く夜の闇へ呑み込まれていった。風そのものは穏やかだったが、海はそうではない。黒々としたうねりが絶えず船体の下を押し上げ、そのたびに高速艇は細かな揺れを繰り返している。
水平線も、もう見えなかった。
空と海の境が消えたというより、境目を確かめようとするほど、そこには何もないことだけが分かってくる。
十時は短く窓の外へ目を向け、それ以上は見ることをやめた。見えないものを見ようとしても、仕方がない。
今夜の戦場では、視界ほど当てにならないものもなかった。
その暗闇のただなかを、一隻の高速艇が激しく波を蹴立てて突き進んでいる。
通常の軍艦であれば、艦首から艦尾へ伸びるその姿そのものが、海軍の力を誇示するものであっただろう。長年使い込まれた艦体も、幾重にも備えられた兵装も、戦場にいること自体が一つの意思表示になる。
だが、今この海を走っている船は違った。
これは戦うための艦ではない。艦娘たちが戦っている場所へ人間の指揮を繋ぎ止めるためだけに用意された、前線指揮所だった。限られた船体に通信機器と指揮設備が詰め込まれ、人間が身体を動かすための余地さえ十分には残されていない。機器の発する微かな熱、絶えず続くエンジンの振動、それに混じる兵員たちの声が、狭い船内に重なっている。
船尾から伸びる白い航跡だけが、広大な暗黒の海の上に、この船が確かな意思を持って進んでいることを示していた。
新発田は海図を見据えながら、入ってくる報告を聞いていた。必要なときには短く問い返し、判断すべきところでは迷わず命令を出す。実際の戦場で艦娘を動かす以上、それが指揮官としての仕事だった。十時の役割は、そこにはない。彼は傍らで、次々に届く報告を拾っていた。
敵の位置。
味方の位置。
偵察機が確認した針路。
報告は、それぞれ単独では大した意味を持たないものも多い。だが、一つ前の情報と比べれば、敵が速度を変えたことが分かる場合もある。別々の場所から入った報告が一致すれば、偵察機の観測を裏付けることもできる。こうして十時は数字と位置を頭の中で重ね合わせていった。軍務の中で、こうした作業は珍しくない。
机の上では、数字は数字でしかない。だが、その数字の向こうには人間がいて、艦があり、燃料があり、弾薬があり、そして場合によっては命がある。十時自身、そのことを何度も思い知らされてきた。だから報告を受けるたび、その一つを軽く扱うことはなかった。
しかも今夜は、普段のように情報を地図上へ積み上げていけば済む戦いではない。
自分たちには、敵の姿が見えないのだ。
この海域では、深海棲艦によって引き起こされる怪現象によって通常の無線通信が遮断されている。こちらから海上の戦場を直接把握する手段は限られ、頼れるのは千歳から送られる偵察機の報告と、特殊通信機を通して届く艦娘たちの声だけだった。
つまり十時たちは、戦場を見ているのではない。
届いた情報から、戦場を推測している。
それは、実際に敵を見て戦うこととはまったく違う。
見落としが一つあれば、それだけで海図の上に描いた戦況が現実からずれていく。
「──敵艦隊、30海里まで接近!」
十時は海図上の印を確認した。
敵艦隊を示す印と、こちらの艦娘を示す印。
距離はまだ開いている。
だが、敵の針路に変化はない。
「千歳より。敵艦隊、予定通りの針路を維持。戦艦型二隻を中心とし、駆逐艦型複数。こちらへ直進中です」
「予定通りだな」
新発田が呟く。
「はい」
十時は答えた。ここまで来るために組まれた作戦は、少なくとも今のところ予定どおりに進んでいる。
敵は自分たちを探しているのではない。
こちらへ無防備に向かってきている。
その違いは大きい。
こちらが闇の中を捜索する必要はなく、敵が指定したわけでもない海域へこちらから姿を晒す必要もない。ただ、決められた場所で待ち、敵が最も不利になる位置まで進んできたところを叩く。
単純な作戦だった。
だからこそ、十時はその単純さを好ましく思った。
兵器の性能や偶然に頼るより、敵に選ばせる余地を減らすほうが、戦況は読みやすい。もっとも、その考えが通用するのも、敵が予想どおりに動いている間だけである。十時は海図から目を上げなかった。
「艦娘、前へ出ます!」
通信員の声から少しの時間をおいて、特殊通信機が鳴った。
「新発田中将、金剛より。敵艦隊を視認したとのことです」
「距離は?」
新発田が即座に尋ねる。
「報告では、25海里ほどです。互いに20ノットほどで航行していますのですぐに交戦になるかと」
「よし。金剛、敵の動きをよく見ながらそのまま前進しろ! 護衛は左右へ大きく展開して、敵の駆逐艦を引きつけろ! さぁ、てめぇら、勝利の女神を押し倒しに行くぞ!」
『了解デース!』
粗野な新発田の怒号に金剛の明るい声が返ってきた。
その声を聞いた十時は、知らずに肩へ入っていた力が少し抜けるのを感じた。
声だけである。
彼女の姿は見えない。
その声が聞こえる位置に、金剛がいる。それだけのことだ。
だが、数時間前まで家にいて、玲子たちとカードを囲んでいた姿を知っている十時にとっては、その「それだけ」が思いのほか大きかった。自宅で聞いた金剛の声と、今この通信機から聞こえてくる金剛の声は、同じものだ。
にもかかわらず、その置かれている場所はまるで違う。
そのことを意識すると、海の向こうが急に遠く感じられた。
「敵、砲撃を開始!」
通信員が叫んだ。
銀時計で時間を測っていた十時からすれば、それはあまりにも早すぎる報告だった。
『こちら金剛、敵の砲撃を確認!』
「新発田中将、敵は距離20海里ほどで砲撃を開始しました」
「はん! そんなもん当たるかよ! 今は回避に専念して敵へ接近しろ! ただし発砲炎から敵の位置の確認は怠るな!」
新発田が即座に命じる。
『了解デース! Follow me! 皆さん、ついてきてくださいネー!』
通信が一度途切れ、十時は海図と銀時計へ目を戻した。
見えない以上、先ほどの報告を基準に現在位置を修正するしかない。
金剛の推定位置。
敵戦艦型の位置。
左右へ広がった護衛。
そこへ偵察機からの報告を重ねていく。
「千歳より続報です。敵戦艦型二隻とも、予定針路を維持。駆逐艦型の一部が左右へ展開しています」
「敵は護衛を広げて、同行戦へ持ち込む腹積もりか」
「その可能性が高いかと」
新発田がわずかに考えた。それから通信機へ手を伸ばす。
「護衛にはそのまま敵駆逐艦を押さえさせろ。左右へ展開して、金剛を孤立させるな。金剛は戦艦型を狙え」
『了解よ!』
若い声が重なった。
以後、通信は途切れなかった。
「敵駆逐艦、接近!」
『右手から来るデース!』
「右の護衛、対応しろ!」
『任せてください!』
「左側からも来ています!」
「左翼も同様だ。金剛を孤立させるな!」
『了解なのです!』
十時は報告を聞きながら海図上の位置を修正していった。
右から敵が来ている。だが、その右側には味方の護衛がいる。左にも同じ動きがある。
敵駆逐艦が広がるほど、敵戦艦型の周囲は薄くなる。
その変化は、海図の上では小さなものだった。
しかし、戦場ではその小さな空白が次の動きを決める。
「金剛、敵戦艦型へ夾叉弾を確認!」
「よっしゃ! そのまま押し通せ! 撃って、撃って、撃ちまくれ!」
直後、通信機から歪んだ砲声が届いた。
普通の砲声とは違う。特殊通信機を通しているため、音そのものが変質している。それでも、十時には十分だった。あの音の向こうで、金剛が終わりへと向かう一撃を放ったのだ。
「敵戦艦型、被弾!」
「損傷の程度は!」
「詳細はまだ──」
『一発お見舞いしてやったネー! 敵戦艦一隻は沈黙デース!』
十時の口元に、ほんの僅かな笑みが浮かびかけた。
金剛らしい。こんな状況でも声だけはいつもと変わらない。
つられたのか、戦果への興奮からか新発田の口元も緩んだ。
「いいぞ。その調子で圧倒しろ」
『Yes!』
だが、直後に別の報告が飛び込んできた。
「残存敵戦艦型、猛烈な反撃!」
「金剛、回避を優先しろ!」
『了解デース!』
その命令が飛んだ瞬間、通信機から轟音が響き、金剛の苦し気な小さな悲鳴が聞こえた。
そして、通信が途絶えた。
「金剛……?」
口から声が自然と漏れてしまった。
海図上の金剛の位置を示す印は、通信可能範囲にも入っている。
ならば、なぜ応答がない。
十時は最後の通信時刻と現在時刻を頭の中で照らし合わせた。
ほんの数秒。訓練であれば無視できる程度の時間だった。
だが、戦場では違う。敵の砲撃を受け、その直後に通信が途絶えている。その二つの事実だけで、人間は最悪の結果を想像できてしまう。
「まだ通信可能範囲内です」
通信員が悲鳴のように声を上げた。十時だけでなく、彼もまた最悪の事態が頭をよぎったのであろう。
「金剛、応答しろ!」
返事はない。
十時は指先を海図へ置いたまま、黙って待った。
そして──。
『こちら金剛! 問題ありませんヨー!』
明るい声が戻ってきた。
「よし!」
新発田が息を吐く。十時もまた、そこで初めて自分が呼吸を浅くしていたことに気づいた。
「金剛、敵の軌道を躱しながら残った一隻を撃破しろ!」
『了解デース!』
再び通信が戦場へ向かっていく。
十時は自分の感情を脇へ置いた。今は心配している暇はない、千歳から次の報告が来る。敵は待ってくれない。
「敵駆逐艦の一部が、こちらの護衛網を突破しようとしています」
「どちらだ?」
「右翼です。二隻が抜けようとしています」
「現在、右の護衛は?」
「一隻が対応しています。ただ、このままなら突破を許す可能性があります」
新発田は即座に判断した。
「右翼に予備を一隻回せ。残りはそのまま敵戦艦型に張り付け」
「了解しました」
十時は海図上の配置を追った。
敵右翼が押し込まれたことで、敵戦艦型の周囲がさらに薄くなっている。
それならば──。
「敵右翼、こちらの対応を受けて動きが鈍りました」
「よし。そのまま押し込め!」
新発田の命令が飛ぶ。十時はそこで初めて、敵艦隊全体の動きが一つの形になりつつあることを意識した。
最初は複数の印だった。戦艦型。駆逐艦型。左右へ展開した護衛。
だが今は違う。敵の動きが分断されている。
駆逐艦型が前へ出る。それを護衛が受け止める。中心には一隻の戦艦型だけが残される。
それならば、金剛が攻撃する対象は自然に絞られてくる。
「敵戦艦型、大きく損傷! 反転を開始しました!」
「よっしゃ! 勝ったぞ! 追撃戦だ! 一気に畳みかけろ!」
『了解デース!』
ここから先は、十時にとっても時間の感覚が曖昧になっていった。
報告が来る。次の報告が来る。それ以前の情報と照らし合わせる。一つが変われば、別の位置関係も変わる。
だが、戦況そのものは明らかに単純になっていた。敵の選択肢が減っている。それが分分かれば十分だった。
新発田は次々と命令を下した。
「左翼の警戒を怠るな!」
「金剛の射線を絶対に塞ぐな!」
「敵駆逐艦を一隻たりとも逃すな!」
十時はその傍らで、入ってくる情報を整理し続けた。自分が命令を出す必要はない。何をすべきかを決めるのは新発田だ。十時がすべきなのは、新発田が決めるために必要な材料が欠けないようにすることだった。だからこそ、海図から目を離せない。
「新発田中将」
「何だ?」
「敵戦艦型、完全に孤立しました」
十時はそれ以上何も言わなかった。自分がここにいる意味は、ようやくはっきりしていた。金剛が主力だから、自分も前へ出ろと言われた。その言葉を聞いたときは、自分が戦場で何をするのか、今ひとつ実感がなかった。だが実際には、敵を倒すことでも、艦娘へ命令することでもない。戦場を直接見ることのできない場所で、見えないものを少しでも正確な形へ変える。
それが、自分に与えられた仕事だった。
「よっしゃ、決めちまえ!」
『任せるネー!』
次の報告は、短かった。
「敵、完全に沈黙!」
一瞬、誰も反応しなかった。
言葉の意味を理解するまで、ほんの少しだけ間があったのだろう。
その後で、船内から一斉に息が吐き出された。
十時も肩の力が抜けるのを感じた。それまで気づかなかった疲労が、今になって身体へ戻ってくる。
ここに人類は深海棲艦との戦いにおいて初めての勝利を得たのだ。
「……終わったか」
「はい」
答えて十時は海図を見る。
敵は全て沈黙した。金剛も無事。護衛も機能している。報告の範囲では、突破した敵もいない。
戦闘は終わった。
十時は、そこでようやく「帰れる」という言葉を意識した。
家族がいる家へ。金剛とともに出てきた、あの暖かな場所へ。
それは軍人としての勝利とは、少し違う安堵だった。
ただ、帰れる。
少なくとも、今はそう思えた。
──その時だった。
船内の片隅から、突如として耳障りな雑音が響いた。
ザッ──。
全員が振り返る。
通常無線機だった。
海へ出て以来、一度もまともに使えていなかった機械である。
もう誰も、その沈黙を異常とは思っていなかった。
それが鳴った。
再び、ザザッ──と雑音が走る。その直後、雑音の向こうから、人間の声が混じった。
「……こちら……軍令部……」
さきほどまで弛緩し始めていた十時の背筋が伸びた。
敵ではない。人間の声だった。
だからこそ、妙な違和感があった。軍令部からの通信なら、もっと平静な声で届くはずだった。
「軍令部からの通信です!」
通信員が応答するが、彼もまたなにかの違和感を覚えているのか、その声は少し震えていていた。
「こちら駿河沖部隊。応答しているぞ!」
返事はすぐには来なかった。
ザザッ──。
電波が安定していないのかもしれない。日向は無意識に時計へ目をやった。
遅い。軍令部が応答を求めているのに、言葉が途切れている。何かを伝えようとしている。
そのことだけは分かった。
「──駿河沖部隊、応答してください。一刻を争います」
「こちら駿河沖部隊、しっかりと応答している。いったい何があった?」
新発田が自らマイクを取った。
「……至急、報告します」
相手の呼吸が乱れている。
十時には、それがはっきり分かった。軍人が通信するときの声ではない。正確に状況を伝えようとしている。それでも抑え切れないほどの切迫が、声の端に滲んでいる。
「本土方面に──」
通信が途切れた。
ザザッ──。
「おい、どうした!」
新発田が無線機へ身を乗り出す。
返事はない。先ほどの金剛の沈黙とは違う。金剛の場合は、戦場にいる本人の安否が問題だった。
今は違う。向こうで何か重大なことが起きていて、それを伝えようとしている。
そのことが、十時にはかえって恐ろしく思えた。
数秒の沈黙。
そして──。
「──本土が空襲を受けています!」
誰も言葉を発しなかった。
先ほどまであった勝利の安堵が、音もなく消えていく。
「……あ? なに?」
誰かの声が漏れた。
だが通信は続いた。
「敵機です! 本土上空に多数の敵機が侵入! 首都圏を含め、各地で激しい空襲が発生しています!」
十時は無線機を見つめたまま動けなかった。
耳では確かに聞こえている。意味も分かっている。なのに、頭の中でそれが一つの現実として繋がらない。
海では勝った。
敵艦隊は沈黙した。
作戦は成功した。
味方に大きな損害はない。
それなのに、本土が攻撃されている。
十時は海図へ目を落とした。そこには、敵も味方もいない。ただ、自分たちが戦った海域があるだけだ。
あれほど正確に状況を追い続けていた海図が、今だけは何の答えも与えてくれない。自分たちは海の上で、与えられた役割を果たした。敵を見つけた。誘い込んだ。撃破した。
それでも、その間に本土では別の敵が動いていた。
その事実だけが、遅れて現実の重さを持ち始める。
十時はまだ、自分の胸の中で何が起きているのか、うまく言葉にできなかった。
ただ一つだけ、はっきりしていることがある。
守るべきものは、目の前の海ではない。海の向こうに、本土がある。家がある。
そして──そこには、家族がいる。
その認識が浮かんだ瞬間、十時の中から先ほどまでの安堵が完全に消えた。
自分たちが命を懸けて戦っていた、その同じ時間に。
守るべき本土では、すでに別の戦火が吹き荒れていたのである。