鬼族の神童   作:萎える伸える

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 目次

 ・『二人も要らない』
 ・『時間がかかるんだ』
 ・『最後の晩餐』

 ・『二人の英雄』
 ・『三と二と初めて』
 ・『女ロマネコンティ』

 ・『鬼族の神童・双』
 ・『愛』

 ・『鬼族の神童は、もういない』

 ドーゾ。四万五千字


『後編』

 

◆◇◆

 

 

 『強欲』の大罪司教レグルス・コルニアスは満ち足りた存在である。

 彼は選ばれた存在。充足を知る者。

 

 故に彼に欲はなく、彼は他者に求めない。

 

 彼は争いが嫌いである。

 もし彼が力を振るったのであればそれは正当な防衛であり、正当な報復であり、正当な──彼の権利である。

 

(もし彼が振るった力で誰かが傷ついたのであれば、それは弱いのに欲をかいたそいつが悪いのだ)

 

 故に何者にもそれを侵すことは許されない。許さない。

 

 彼は自身を『ちっぽけで』『か弱い』己と、その限られた私財を守るだけで精一杯な存在だと自認している。

 彼は今あるもので満たされている。

 

 故に彼は求めない。満たされているのだから。

 故に彼は施しを受けない。欠けているものなどないのだから。

 

 『憐れみ』も『哀れみ』も『憐憫』も『慈悲』も『慈愛』も『情け』も『同情』も『恩情』も『恩赦』も『容赦』も『思い遣り』も『説教』も『説法』も『薫陶』も『教訓』も全部が全部、余計なお世話であり、不当な評価であり、理不尽で不条理で不合理な結論であり、故に……、

 

 ──彼の権利を侵害するものである。

 

 それは許されない事。許してはならない事。

 

 強欲な輩も、野蛮な輩も、非常識な輩も、『無欲』で『平和主義者』で『常識的』な彼には理解できない異常者である。

 

 

 ──さて、目の前にどうやってか現れた闖入者(ちんにゅうしゃ)は、どちらだろうか。

 

 

◆◇◆

 

 

「おやおやまさか本当に来たのかい?どうやって来たのか知らないけど。ずいぶんと遅れてやってきたじゃないか。ヒーローは遅れてやってくるってやつ?でもそれってただの言い訳で、遅れたことに対する詭弁でしかないよね。ヒーロー気取るなよ遅れてきたくせに図々しい。そんなに大切なものなら最初から大事にしまっておけばいいんだ。それがわからないニンゲンが僕にはわからない。それでいきなり表れて英雄気取りの君は一体どこの誰なんだい?」

 

 

 『強欲』は語る。くどくどぺらぺらだらだらと、突然割り込んできた者に対し自分本位な主張を垂れ流す。

 それに対し、(とう)の片角の鬼──ライは、

 

 

「──おお、レムか。久しいのぅ。大きくなったのー。息災か?」

 

 凡百の男など、奔放な鬼の眼中にはなかった。 

 ライはレムを立たせ体についた埃を払う。

 

「……え?あ、はい」

 

 あまりの華麗な無視っぷりに数舜前まで死の間際だったさしものレムも動揺し空返事を返した。

 

「遅れてすまなかったな。少し遠くに居た故、お主の言の葉が伝わるまで暫し時間がかかった」

 

 彼が遅れたのは移動に時間がかかったから、ではない。

 言葉が空間を音速で伝って彼に届くまでに時間がかかったからだ。彼の健脚であれば例え国から国へであろうとものの数分もしないうちに辿り着く。

 

 

「──助けに来たぞ」

 

 

 鬼神の再来、否、ただ一人の鬼が、ただ同胞を守る為、約束を守る為、同胞に害を齎さんとする害敵を滅ぼす為に、やってきた。

 

 

◆◇◆

 

 

「それでそっちのまだ息のある女子(おなご)は知り合いか?」

「えっと、そうで──」

 

「──魔獣(もど)きが、この僕を無視するなッ!!」

 

 問いに返答しようとしたレムの言葉を遮り、『強欲』は憤る。『強欲』は勢いのままクルシュの腕を斬り飛ばした時のように腕を振り上げようとしたが。

 

 

「──遅い」

 

 ──『トール』

 

 先ほどまで呑気に会話していた隻角の鬼はそれに瞬時に反応し『強欲』を斬り飛ばす。

ズドン、という音と共に鬼の姿が掻き消え、先ほどまで『強欲』がいた場所に剣を振り降ろした姿勢で佇んでいた。

 

 ものすごい勢いで遥か後方へと吹き飛んでいく『強欲』が微かに見えた。

 

 およそ五年ぶりに見るその力は相変わらずだった。

 しかし変わっている点もある。

 

「……ライさん、ですよね?」

 

 レムは未だ脅威がそこにあると分かっていながらも問わずにはいられない。

 なにせ二本あったはずの角が今はその片方が半ばから断ち切られ、———その輝きを失っていたのだから。

 

「あたぼうよ。それより早くそこの女子をつれて逃げろ」

 

 ライさんはこちらに振り向くことなくそう言った。その視線は不気味に沈黙している『暴食』に注がれている。

 

 やはりライさんと言えど大罪司教二人相手には厳しいのだろうか。とにかく今は邪魔にならないよう離れるしかない。レムは決意し、クルシュを抱きかかえる。

 

 

 その様相に目もくれずに『暴食』は──爆発した。

 

 

「ライ、ライ、ライライライだって?! お兄さんは僕たちと俺たちと同じ名前で? その身なりで? その力でその運でその才能で? 自由に奔放に! 愉快に奇怪に!! 生きてきたっていうわけだ?!! あァ、アァあァアァ! いいね……いいよ、いいさいいともいいじゃないか! いいに決まってるッ! やっと見つけた! 僕たちの人生ッ!! 俺たちの悲願ッ!! 運命だ、これはそう運命ってやつさァ! 食べる前から空腹が満ちていく! 真なる美食は食べる前から美味しいと確信させるッ! 英雄だ! 僕たちの英雄! なァ! そうだろう!?」

 

 

 狂ったように、いやもともと狂っていたものが更にねじ切れたように男は笑叫する。

 それに対し(くだん)の鬼は、

 

「すまぬな──畜生の言葉は分からなんだ」

 

 素で挑発した。しかし『暴食』が動揺することはなく。

 

 

「あァ……いいさいいよいいねいいないいのいいぞいいやいいともいいからいいだろういいだろうともいいだろうからこそッ! 食って食んで噛んで喰らって齧って喰らいついて嚙み砕いて咀嚼して、暴飲ッ! 暴食ッ! 人生も! 経験も! 感情も! (がわ)までごっそり美味しくイタダクッ! それ以外の選択肢なんて! ないねないさないよないだろうさないだろうからこそッ! 今日で最後の名乗りを上げようじゃァないかッ!」

 

 

 まるで何人もが同時に喋っているかの如く綴られる言葉の羅列。

 今日で最後、そういって男は再び(おの)が地位と名を叫ぶ。

 

「魔女教大罪司教『暴食』担当! ライ・バテンカイトスッ!! 」

 

 それに対して鬼はニンマリと笑う。

 

「──ほう。分かっているではないか。なればこそ我も名乗ろう」

 

 悠然と、しかし流麗に。

 手探りなようで、しかし流暢に。

  

 其は何者も(はばか)らず。

 其は何者にも(はばか)られず。

 

 ──鬼神は名乗りを上げる。

 

「この身は偏にただ一振りの矛である。──ただ一人の女の為に振るわれる刃である」

 

 その身、その力、その心の赴く場所は定まっている。

 

「我が名は雷。──大切な女に貰った唯一無二の名」

 

 故に。

 

「同じ名は、二つと要らん」

 

 故に。

 

「──ここで散れ」

 

 

 そうして鬼は、『ライ』は剣を構える。

 

 その様は、さながら何処ぞの『剣聖』の如く。

 否、それは人ならざる大小異なる双角を生やした鬼。

 角へと集約されるマナは角を通し心を通し、躯体に巡り剣に巡る。

 

 限界まで纏め上げられた剣気は、その輝きは、例えるならば一つしかない。

 

 

 ──太陽。

 

 

 無限大の闘気から顕現するは天地夢想の極大魔法。

 その名は。

 

 

 

 ──『アルプロメテウス』

 

 

 

 血が、舞った。

 

 

◆◇◆

 

 凄まじい量の土埃が舞っている。

 腕を失い気を失っているクルシュを背中に抱え王都へと走るレムは後ろを見て思う。

 

 当然だ。

 あれだけのマナを解き放ったのだから。それにしても、あの人のことだからレムたちに当たらないよう加減していたのだろうが、危うく余波で吹き飛ばされるところだった。

 

 凄まじかった。

 太陽の如く光り輝く大量のマナ、それを操る技量、そこから繰り出される初めて聞く魔法、そして当然のように音を置き去りにする斬撃。ともすればあの白鯨すら一太刀も耐えられないのではないかと感じさせる一撃だった。

 

 間違いなく食らった暴食は死んでいると確信できる。

 

 レムはこちらの安全を確信し、後ろを振り返らずに王都へと一直線に走りながら先のことを考える。

 

 これ以上を求めるのは図々しいかもしれないが、これが終わったらスバルくんの方へ援軍に行ってもらいたい。レムはレムの英雄を信じている。が、レムが近くで力になってあげられない以上心配は尽きない。できることはするべきだ。

 

 ライさんのことだから、姉様に会えると分かったら了承してくれるだろう。五年ぶりの再会なのだから。レムも話したいことはたくさんあるが今は状況が状況だ。

 

 レムは祈る。レムの英雄が──どうか無事でありますように。

 

◆◇◆

 

 

 凄まじい量の土埃が舞っている。

 そこに煩わしい音はない。空気は澄み、辺り一帯に飛び散っている血など関係ないとばかりに軽やかな風が吹く。

 

 ──そんな風をライは懐かしむように感じていた。

 

 どれほどの時間そうしていただろうか。

 既に土埃は晴れていて、そこに見えるのは──潰れた大罪司教だった。

 

 

「一撃、か。弱くなった故全力で放ったが、ちとやりすぎだったか?」

 

 片方の角を『()()』に断ち切られて以降強敵と戦う機会のなかったライはどうやら加減を誤ったようだ。

 

 ライの放った魔法『アルプロメテウス』はライが独自に編み出し名付けた究極の陽魔法……ではあるのだがその実有り余るマナを全身に満たし『剣聖』の真似をして剣にも纏わせて全力でぶった斬っただけだ。

 

 魔法ではあるが発想が脳筋である。

 しかし単純故に、強い。才能にものを言わせて精密にマナを操り、全身の細胞にマナを巡らせ、耐久力、回復力、瞬発力、筋力、その他諸々の機能を満遍なく強化している。

 

 そしてこの状態は角なしであれば一時間、角も使えば理論的には半永久的に使用できるが、それより先に周囲のマナが尽きる。故に通常ならば使えるのは一日が精々だろう。莫大なマナを使い続けるのだから当然だ。

 

 とはいえ『アルプロメテウス』を使われて一日以上持つ者なんているとは思えないが、現に『暴食』とやらは地に付して……、

 

 

「……おろ?」

 

 いない。

 さっきまで竜車に引かれた(かわず)のようであったのに。心臓は確かに止まっていたはずだが、はて……?

 

 それまで確かにあったはずの存在はまるで転移したかのように跡を残さず一瞬にして掻き消えていた。流石に動揺する馬鹿鬼はしかし気にしない。

 

 

「んーま、レムの方に行ったのではないようだし。いいじゃろ、うむ。それよりだ」

 

 鬼化を切って高揚感から覚めた余韻があったとはいえ迂闊だ。油断だ。怠慢だ。世界中に多大な被害を齎す魔女教大罪司教を討ち逃すなど。それはまさしく怠惰であるのだが、この鬼はそんなことに興味がない。

 ライはレムを助けに来たのであって、それが達成できたのなら問題などないのだ。

 

 あれほど格好つけて「二つと要らん」なんて言っていたのにも関わらず逃げたら逃げたでもう興味がなくなっている。

 

 というよりこの駄鬼はレムの居場所が分かった故、必ず近くにラムもいるはずだとそればかり気にしていた。

 

 なにせおよそ五年ぶりである。

 鬼の出没情報を聞きつけては駆けつけていたがすべてハズレ。格好つけてラムを探す旅を始めたものの脳筋鬼には戦う以外の才能がなかった。むやみやたらに探し回った結果何故かヴォラキアで暴れたり、『剣聖』に斬られたり、大瀑布に落ちたりする羽目になった。あれは本当に危なかった。

 

 

 そんな風に途方に暮れていた時、突然反応した己の『加護』。それがレムの助けを呼ぶ声を聞きつけた。

 そうして鬼の神はやってきたのだ。

 

 ──さて、それより、

 

 

「……あのさぁ、争いとか嫌なんだよね。僕としては」

 

 先ほどとは雰囲気の変わった『強欲』の大罪司教レグルス・コルニアス。

 その様はまさしく怒りが一周回って冷静になったそれだ。

 

(斬った感触から、斬れていないことは分かっていたがよもや無傷とは…)

 

 驚愕。が、それはすぐさま別のモノへと転じる。

 

 ──面白い。

 

 興味深いとばかりに鬼は笑い再度鬼化し剣を構える。

 そんなライに『加護』が告げている──もう一度斬りつけても、今度は微動だにしないと。

 

「でもさぁ、寛容な僕にも限度がある。だから──お前は死ね」

 

「面妖な。だがそれもよかろう。精々がっかりさせるなよ小童(こわっぱ)

 

 

 『傲慢』と『強欲』が激突した。

 

 

◆◇◆

 

 

 散乱する死体も、あまりに巨大な倒木も、あまりに巨大な死骸も、すべてが──吹き飛んだ。

 

 『強欲』の一振りで地が割れ空間が割れ世界が割れる。

 『傲慢』の一撃で地が沈み空間が捻じれ世界が悲鳴を上げる。

 

 

「こんのッ! なんで当たらないッ!」

 

「おうおう餓鬼の癇癪か?———そりゃお前さんが雑魚だからだろうよ」

 

 

 『強欲』は乱雑に腕を振り、空気を投げ、砂を投げ、ほとんど全方位に向かって攻撃を放っている。鬼の動きを捉えられないからだ。

 

 もし死線が見えたのなら絶望するしかないだろう。そこに逃げ場はない。

 がしかし、

 

 

 ──鬼が剣を振るえば空間が捻じ曲がり、鬼へと一直線に向かう攻撃は弧を描き鬼を避けるようにして進んでいく。

 

 

 そんなことを繰り返すうちに辺りはまるで焼け野原のようになった。

 

(『強欲』の動きはてんで素人だ)

 

 権能だかなんだかに頼り切りなのが丸わかりでその動きは子供の駄々と何ら変わらない。あんな風に動き回っていたらすぐにバテそうなものだが何故かそういった様子は見られない。

 

(無尽蔵か?)

 

 隙があれば攻撃を行っているのだがやはり微動だにせず、すぐさま反撃され鬼は所々傷を負わされていた。魔法のおかげで瞬く間に治癒しているが。

 

 これでは埒が明かない。権能の仕組みが分からなければ千日手だ。

 しかし相手の力が無尽蔵なのであれば、一日戦い続け周囲のマナが尽きればこちらが一気に不利となる。レムが増援を呼んだとしても死体が増えるだけであろう。

 

 『暴食』のように逃げてくれると楽なのだがどうやら相手を怒らせてしまったようでこちらが死ぬまで逃げそうにない。

 

 なればこそ『権能』とやらの種を暴くしかないだろう。

 

 その活路はおそらく己の『加護』。

 

 

 

 ライは生まれながらに二つの『加護』を持っている。

 

 一つは『警鐘の加護』。もう一つが『勘解(かげ)の加護』。

 『警鐘』は危険を察知すると脳内に音が響き危険を知らせてくれる加護。

 『勘解』は直感を鋭くするだけの加護なのだが…。

 

 どういうわけか『勘解』の効果で『警鐘』の音が声として伝わる。

 

 だからライの脳内では戦闘中常に。

 

『無敵だよ』『効かないね』『無音だ』『停止?』『弱い』『危ない』『斬れない』『避けて』『心臓が』『オドが』『斬って』『触れないで』『今』『ない』

 

 …というような声が聞こえている。

 

 ──ライはそれら二つを合わせて──『天啓の加護』と呼んでいる。

 

 いつもはうるさいなんてもんじゃないので出力を落としているだが、今はそれを全開にしている。

 

 戦えば戦うほど己の加護は、直感は深層心理は合理的に理性的に情報を搔き集め、そうして…——答えに至る。

 

 

『誰かと繋がってる』

 

 

 己の加護が答えを弾き出した。

 しかし、鬼は斬り合いを続ける。

 

 避けて斬って避けて斬って、時々《何もない場所》で剣を振る。

 

 繰り返すし繰り返し繰り返し続ける。

 何度も何度も。模索するように。

 しかし一回一回全力で。

 

 ──そうして百回を超えるだろうというところで再び、鬼は《何もない場所》で剣を振り──

 

 

 ──見えざるナニカを断ち切った。

 

 

 途端、苦しみだす『強欲』。

 

 

「──ッ! カハッ!」

 

 まるで突然息が切れたかのように。

 

「ハァ…ハァ…お、おおお前! オマエッ! 一体この僕に何をしたッ!!!」

 

「別に。お前さんには何もしとらんよ。ただ……」

 

 鬼は悠然と語る。

 

 

 ──時間がかかるんだ、見えないものを斬るのは──

 

 

◆◇◆

 

 

 レグルス・コルニアスの能力は時間停止──ではない、厳密には違う。

 

 

 『強欲』の本来の能力は『停滞』。人類の飽くなき渇望を、強欲を、戦争を止める為の力であり楔である。

 

 人類を正すため世界より生み出された人類への『恩寵』は遥か昔の──それこそ『嫉妬の魔女』より遥か以前の太古の時代の魔女によって歪められ、選ばれし個への力…魔女因子となって、子から子へ、子が出来なければ前任者の死後最も適性がある者へと受け継がれる。

 

 『強欲(エキドナ)』は生まれながらの魔女だった。『色欲』はあることをきっかけに呪われた。『怠惰』は前任者を殺し奪った。『暴食』は前任者を喰らい奪った。『傲慢』はその適正から授かった。『憤怒』は力を欲しそれを得た。

 

 そして『嫉妬』は必要に迫られ、唯一封印されていたソレを取り込んだ。

 しかし彼女は適合せず、嫉妬の魔女となったソレは『強欲』『色欲』『怠惰』『暴食』『傲慢』『憤怒』の六つの魔女因子を取り込み、殺した。正確には壊し、侵し、汚し、穢し、呪い、新たに宿ったものを狂わせる悪夢の種子(パンドラの箱)とした。

 

 

 と、話が逸れてしまった。

 

 そう『強欲』の話だ。

 『強欲』は元となった『停滞』の力が適合者の渇望に適応して権能を発現させる。

 

 レグルス・コルニアスの権能はその名に相応しい『小さな王』と『獅子の心臓』。

 

 その能力は厳密には時間の停止ではなく、性質の固定と運動の固定。レグルスは己の性質を、権能を授かったその日から固定している。

 

 故に彼は老いず朽ちず病にかからず死ぬことがない。

 彼のオドは権能に縛られ、その成長は授かったその日から止まっている。彼の精神は幼稚なまま。子供のまま。精神の不安定な時期の歪んだ性根を治すことなく変えることなく今の今まで生き続けている。

 

 『小さな王』とはよく言ったものだ。

 彼はまさに強大な力を持った子供。子供の王様だ。

 

 性質の固定だけでも彼は無敵足りうる。

 どれだけの力で斬りつけられようと、どれだけ吹きとばされようと彼は汚れることすらない。

 しかしそこに攻撃性はない。

 

 問題は運動の固定。その力の宿ったものは世界の物理法則から外れ、運動を固定されればそれは重力も空気抵抗もすべてを無視して与えられた運動のまま一直線に(そら)の向こうへ地の裏側へ地平線の先の大瀑布まで能力を切るまで止まることはない。

 

 空気に宿せばすべてを断ち切る刃に。

 砂に宿せばすべてを穿つ弾丸に。

 身体に宿せばすべてを拒絶する破壊の使徒に。

 

 彼に触れるだけで拳は潰れ、刃は砕け、大地も城も人間もすべてが紙屑のように崩れ去る。

 

 絶対の防御と必殺の攻撃。これを崩すことは例え同じ大罪司教でもできはしない。

 

 性質の固定された彼には『色欲』も『暴食』も『憤怒』も影響を与えること敵わず。同じく物理法則を外れた『怠惰』であってもその攻撃性には勝ちえない。

 

 では彼に弱点はないのか。勝ち目はないのか。

 

 ──否。彼は通常自分自身に、というよりも自身のオドに性質の固定をそう長くはかけられない。

 

 彼の権能はオドに干渉する。いいや権能とは得てしてそういうものなのだが、オドの性質を固定することは例えるならば自身の心臓を止めることに等しく、止め続ければその肉体は機能を停止してしまう。

 

 無敵には時間制限があるということ。

 しかしそれを解決しているのがもう一つの権能である『獅子の心臓』。

 

 その能力は他者のオドに自身のオドを寄生させるというもの。

 これは実際危険な行為である。他者に自身のオドを寄生させたままその者が死ねばレグルスも道連れとなって死んでしまうのだから。しかしそれは一人にすべてのオドを預けた場合。

 

 

 

 故に。

 

 ──彼はそのオドを嫁である百余人に分けた。

 

 故に。

 

 ──彼の権能は彼の嫁たる百余人がいなければ成り立たない。

 

 故に。

 

 ──彼を殺すにはその百余人もの人を殺さなくてはならない。

 

 

 しかし、もし仮に。彼と百以上にも分けた彼のオドとの繋がりをすべて断ち切れたのなら、

 

 ──彼の肉体は紐の切れた操り人形の如く地に付すであろう。

 

 

 そんなことができるのは天剣と謳われる棒振りか、史上最強の剣聖か、あるいは一度見たものならだいたい模倣できる…、

 

 

 ──剣聖に斬られたことのある天才か。

 

 

 彼の寿命はあと百二十二閃。

 

 

◆◇◆

 

 

 四百年ぶりに()()を感じたレグルスの心境はまったくもって穏やかではなかった。

 混乱し、狼狽し、動揺して意味もなく呼吸をしようとする。それは男に残された生物としての本能。生きようともがく獣の反射。

 

 本能が彼に逃げろと訴えかけている。

 しかしことここに至っては彼に逃げるすべはない。

 しかし生き残る為、身体はリミッターを外し限界以上の力を発揮するが──限界を超えたところで目の前の死神との差は埋まらない。

 

 

(こんな、こんなの間違ってる。こんななんでもないとこでなんの意味もなくなんの正当性もなく、死ぬ? 僕が? この僕が? なんの権利があってなんの恨みがあってこんなことするんだ。僕は何も悪くない。何も間違ってない。満たされた。完成された。充足した。完璧で欠けているところのない僕が。完結した個である僕が。こんな獣に。不完全で。魔獣にも人間にもなれない、こんな未完結な存在に。やられる?そんなの駄目だ。良いわけがない。あっていいはずがない。そんな強欲許してはならない。今に見てろ。殺してやる。グチャグチャに粉々にぼろ雑巾みたいにしてやる。お前なんて僕が本気を出せば、いいやこの世界だってどうとでもなるのだから。お前も。僕をこんな目に合わせる世界も全部まとめて──ッッッ!!!!?!!!??!!!???)

 

 

 

 

 ──刹那十閃。

 

 

 先ほどとは比べ物にならない痛み。激痛。あるいは権能がなければ、軟な子供の精神ではショック死してもおかしくないほどの苦痛。

 しかし許してはならないという『憤怒』が、報復しなければならないという『使命感』が、彼を足掻かせる。

 

 斬られれば斬られるほど正気を失っていく。魂と肉体との繋がりがどんどん弱まっていく。このまま斬られ続ければ遠くないうちに男は廃人となるだろう。

 

 激痛も恐慌も喪失感も無理やりに抑え込んで、地面でのたうち回るのを止め男は立ち上がる。

 

 

「…殺す。殺す。殺す殺す殺すお前を殺す。お前は殺す。許さない。許すもんか。死ね。死ねよ。死に絶えろ。苦しんで泣きわめいてみっともなく命乞いしろ。苦痛に悲痛に心痛に悶え苦しめ。死ね。死ね。死ね。」

 

 

 幼稚で、支離滅裂で、身勝手な呪詛。死の懇願。殺意の波動。その瞳に映るのは闇。光も通さぬ漆黒の『殺意』。滅茶苦茶に、出鱈目に、無差別に、権能を解き放ち、天地を斬り裂き、世界を破壊する。

 それはともすれば本当に世界を滅ぼしかねない破壊の波動。

 

 

「──餓鬼が」

 

 死神はその刃を加速させる。

 

紫電十閃(トール)

疾風迅雷(エルトール)

雷電霹靂(ウルトール)

 

 再び十閃。止まらず二十閃。さらに加速して三十閃。

 

 加速し続ける斬撃が瞬く間に彼の魂を削っていく。

 死神は止まらない。予測不能な権能の雨の中、身体に傷が増えていくが気にも留めやしない。防御を捨て一刻も早くその命を摘もうと剣を振るう。

 死神は止まらない。更に、加速する。

 

 ──『雷霆之神(アルトール)

 

 死神は斬る。命の紐を。男の寿命を。斬って斬って斬り続け男の命を刈り取り続ける。

 その剣速はまさしく光の太刀。

 

 ──一瞬の閃光。

 もはや数えることなどできはしない。

 

 しかし目前の光景からわかる。

 

 『強欲』の暴走は停止し、男は膝から崩れ落ちた。

 その目からは光が消え、その瞳はもう光も闇も、写すことはない。

 

 死神の連撃は雷速を優に超え、男の魂を狩りつくした。

 

 限界を超えた動きは脳に、人体に多大な負荷を掛け、彼の体からは肉の焼けた匂いがする。身体から黒煙をあげる彼はしかし倒れることも痛みに悶えることもしない。魔法が彼を癒し続けているのもそうだが、何よりその強靭な精神、頑強な意思によって彼は立っている。

 

 ボロボロな彼と違い、汚れも怪我も見た目上何の問題もなく見える『強欲』。

 しかし彼はもう言葉を話すこともできない。権能を維持することもできない。口からは涎と、「ア、ア……ァア…」という要領を得ない言葉しか出てこない。

 

 彼の肉体は以前機能を維持しているが、そこにはもう中身が入っていない。

 もはや殺すまでもないが、

 

「生かす方が残酷、か。無抵抗な者を斬るのは気が引けるが、せめて苦しませずに殺してやろう」

 

 もはや放っておいても死ぬが、なればこそ全力をもってその命、頂戴しよう。

 

「──生まれ直して反省するがいい」

 

 そう言って鬼は『強欲』の首を斬り落とした。

 転がっていく頭から表情は覗えないが、きっと安らかな顔をしているだろう。

 

 

「……ようやっと終わったの。さて、レムと合流するとするかの」

 

 

 男は、ライは張りつめていた緊張を解き──()()した。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

『──イタダキマス』

 

 

 空間を割って現れた『暴食』がそこにいた。

 

 

◆◇◆

 

 

 不意を突かれ()()()()()ライは瞬時に反応して『暴食』を殴り飛ばす。

 

 万力で顔面を強打され不細工になった『暴食』ライ・バテンカイトス──の身体を操るルイ・アルネブはしかしその不格好な顔で醜く笑う。

 

「いいね、いいよ、いいじゃない。でも残ァン念! チェックメイト、なんてネ。お兄さん」

 

 世に知られざる魔女教大罪司教『暴食』担当、三兄弟の末子ルイ・アルネブはそう言って権能を行使する。

 

「──ライ」

 

 ──お兄ちゃんと同じ名前を食べるのは初めてだなァ。

 

 勝ちを確信したルイは舌なめずりをしてゆっくり味わおうとするが、我慢なんてできない。これほどの一品を自ら食したことなどないのだから。いつも兄たちが喰らったものを分けてもらっていただけだったから。

 

 兄が倒れてようやく外に出られるルイがこうして極上の一品を食べるのはまたとない機会なのだから。

 故に彼女は待ちきれない。

 

 これほどの一級品、不味いはずがない。

 その味わいたるはどれほど甘美なるものか。

 

「イタダキマス」

 

 それは感謝の祝詞(のりと)。それは食材(経験)を育て、調味料(感情)を振り、(がわ)に盛り付け、料理(人生)として仕上げたすべてへの感謝。

 

 『暴食』は愛おしそうに彼に触れたその掌を舐めた。

 

 そうして、ライは────。

 

 

◆◇◆

 

 

 『暴食』の権能は食事。

 『暴食』は食らう。相手のオドを。そのすべてを腹に収める。

 

 しかし今代の『暴食』は、その魔女因子は三つに分かたれた。

 故にその力は弱まり、相手のオドの表層を舐めとるだけに留まる。

 

 しかしそれでもその権能は恐るるに足る力を有する。

 

 その力は食らった相手の『記憶』と『名前』を奪う。

 オドの表層に纏わるその者の記憶。そしてその者のオドと、オドラグナとの繋がりを嚙み千切り己がものとする。

 

 その力は他人の経験を努力を技能を、人生を生きた証を存在を、まるではじめから自らの為にあったように、まさしく食われるために育てられた家畜のように、喰らう。

 

 それが『暴食』が『暴食』たる所以。

 命を弄ぶ人類の大罪。他者の命を糧にして生きながらえる生物の原罪。弱肉強食という自然の摂理に反する行為。抗ってはならない生物の責務。因果応報の理。

 

 『暴食』の本来の力は『繁栄』。誰しもに等しい栄える権利を与えるもの。

 生きとし生ける愛しき生物たちに世界より与えられた繁殖の情動。龍から世界を奪う為にニンゲンによって改竄されたもの。

 

 故に大罪。人類の背負う咎。

 

 故に。

 

 ──其れは魔獣を生み出す力を備えている。

 

 故に。

 

 ──其れは因子を分裂させる性質をもっている。

 

 本来であれば、例えどれほど強大な存在を、その魂を食らおうとその存在に乗っ取られることはない。

 魂が取り込まれること──それは存在としての死を意味するのだから。

 

 当然腹に収まらない程巨大なものは一口では食べられない。そういう意味では今代の『暴食』の力は便利なものと言えよう。

 

 どれほど強大な存在であってもその表層を舐めとり、世界とのか細い繋がりを噛み千切ることぐらいはできる。

 

 それは例え神に等しき力を持つ強大な鬼が相手であっても、そう。

 

 それが生物である限り、その力から、その罪から逃れることはできない。

 しかしそれとは別に……、

 

 ──『暴食』の権能には条件がある。

 

 それが『名前』。

 食らうものの、その魂に刻まれた真名。世界に刻まれた()()()()()()の《称号》。

 

 故に。

 

 ──他者と名前が被ることはない。

 

 故に。

 

 ──ライという人間は二人も存在し得ない。

 

 故に。

  

 ──現代の鬼神の名は、その真名は………、

 

 

 ──ライじゃない。

 

 

◆◇◆

 

 

 希望は突然に悠然と必然的に、絶望へと反転する。

 

「うがっ、げほっ、おええッ!」

 

 突然現れた『暴食』らしき奇妙な老人が勝ち誇ったように掌を舐めたかと思えば、突然に吐いた。

 

「突然現れて突然吐くとは、何がしたいんだ?お前さん」

 

 そう軽く語りかけつつも既に鬼は剣を構え、再びいつでも魔法を発動できるように油断なく敵を見据えている。

 目前の光景とその前の行動、そして『加護』の解析の諸々を考慮すれば答えは…——権能失敗のペナルティといったところか。

 

 

「ハァ…ハァ…あたしたちを吐かせるなんてやってくれるじゃない…。お兄さん」

 

 腕を使い口元を拭いながらルイは言う。

 ルイが嘔吐を()()するのはこれが初めて。

 

「そうよそうだね。そうじゃんその通りだよ。がっつくなんて上品じゃなかったね。久しくない機会で舞い上がっちゃった。──まさか偽名だったなんてサ」

 

「何の話だ?」

 

「面白くない冗談だね、お兄さん。わかってるくせに。ライって名前嘘なんでしょ」

 

「──嘘?ほう何故そう思う。権能とやらか?」

 

「お兄さんを食べられなかった。それはお兄さんの名前が、ライって名前が、生まれついて付けられた──世界に刻まれた名前じゃないから」

 

「ふむ。ならば一つ考えを正そう」

 

 鬼は語る。

 

「我が名はライ。そこに偽りはない。だが、その名をくれたのは我が唯一愛する女。そしてそれは生みの母親ではない。生まれた時に付けられた名など覚えていやしない。我はライ。我が名を決めるのは肉親でも、世界でもない。

 ──決めるのは我だ」

 

 まさしく傲慢。

 親によって生まれながらその名づけを拒み。この世界に生まれた存在でありながら世界を見下す者。

 

 そんな鬼にしかし、『暴食』は真面に、狂気に、感情的に返す。

 

「違うね。違うさ違うよ違うし間違ってる間違いだよ間違ってるからッ! それがどれだけくそな親でも! くそな理由で名付けられてても! どれだけ最低な名前でもッ!! この世に生まれて親に名付けられた! 世界に刻まれた名は変えられないッ変わらないッ!! 事実も存在も運命も! 変えるなんてできないのサ! あはッ! いいねいいよいいさ。いいじゃんいいかもいいだろうからこそッ! 暴飲ッ! 暴食ッ! あたしたちは幸せになりたい! わたしたちは幸せになれる! 最高の人生を求めて! 自分だけの人生を欲して喰らい続ける! あたしたちは魔女教大罪司教『暴食』担当、ルイ・アルネブッ!」

 

 彼女は生まれて初めての名乗りを上げる。世界に知らしめるように。世界に存在を刻むように。

 そうして再び老人へと変身し視界から消え去る。

 

 しかし。

 

 

「それは悪手じゃの」

 

 

 ──斬ッッ!!!

 

 

 一刀一撃。

 視界から消えようと関係ない。先ほどから見えないものを斬り続けていた死神の刃は、異次元に逃げ込んだ『暴食』を容易く、その空間ごと切り裂いた。

 

 

「がは──ッ!ぐへっ」

 

 身体を両断され地面へ落下してくるルイ。

 

 彼女は青すぎた。

 戦闘の経験がないのだろう。否、記憶だけは持っていたのだろう。戦う技量も力もあったのだろう。

 しかし、相手が悪かった。彼女は彼我(ひが)の実力差を分かっていなかった。見極める目を持ちえなかった。

 

「ハァ…女子を斬る趣味などないというに」

 

 上半身だけで地に倒れ血を吐くルイ。

 そんなルイは半死半生でありながら痛みを無視し言葉を紡ぐ。

 

「かひゅッ…ハッハッ…いい、さ、いいよ、いいもン。わたしたちはまた戻るだけ。いつか必ず復讐(恩返)しに来るから。待ってて、ネ……………」

 

 最後にそう言って、瞳から光が消える。

 ライ・バテンカイトスの肉体は死に。彼の(亡骸)とともにルイは帰った。

 

 鬼にはそれを止めることもできた。そのオドもろとも消滅させることは可能だったが、彼の言葉そのまま、彼に女子を斬る趣味はない。ただそれだけ。

 

 

 ──どいつもこいつも救えないガキだ。

 

 後味の悪さを感じながら鬼は黄昏る。

 

 

◆◇◆

 

 

 ライは『強欲』を仕留め『暴食』の一人を打倒した英雄だ。

 しかしそれが世に出ることはない。

 

 援軍を連れて平原へと戻ったレムはその有様に愕然とする。

 

(白鯨討伐時より遥かに平原が崩壊している…)

 

 いいやもはや誰もそれを平原とは呼ばないだろう。リーファウス平原はそう遠くないうちにリーファウス荒野と名付けられるかもしれない。

 草木は命を吸い取られたように枯果て、王都からすら存在を主張していたフリューゲルの大樹は見る影もない。そこにあるのは枯れ木と枯草、そして二つの死体と血だらけで佇む男だけだ。

 男は援軍が到着してからもしばらく目を瞑りその場に留まっていたが、レムが近づくとその目を開き言った。

 

 

「──おう。遅かったの」

 

「すみません。決着がつくまで様子見してもらっていました。おに…あなたが負けるとは考えられませんでしたから」

 

「ハッハッハ。そりゃ当然じゃの。我があれしきの小僧どもに負けるはずもない」

 

 それは傲慢でも何でもない事実。

 疲労も負傷もしているがそれは自身を顧みず暴走する『強欲』を止めた為であり、『強欲』も『暴食』も男の相手ではなかった。

 

「それより…お義兄ちゃんとは呼んでくれぬのか?」

 

「呼びません。五年も姉様を待たせるような兄は要りません」

 

 助けてもらったことには当然感謝しているし、過去の罪悪感も未だにあるが、それはそれ、だ。

 彼の責任にするつもりは毛頭ないが、姉を好きだと今でも想い続けているのなら、それほど想っているのなら姉様の角が折れるのを防いで欲しかったし、五年も姉様を待たせないで欲しかった。いや、あるいは…。と沈みかけた思考を中断し、先に伝えるべきことを伝えようと口を開く。

 

「呼んでほしければ……──姉様を助けに行ってあげてください。お願いします」

 

「ラムを? 危険なのか。あいつがか?」

 

 知らない故の疑問。

 男は未だ、それを知らない。あの日あの場所に見覚えのある()など落ちていなかったのだから。

 

「———」

 

 レムは応えられない。レムは頭の中でしばし問答をした。しかし答えはすぐに出る。

 

「姉さまはあの日──角を失っています……私のせいで……」

 

「──!! ラムがツノナシになった、だと…?」

 

 暫しの間。逡巡の間でありながら空気は二段三段と重くなっていくようだ。鬼は目を瞑り、そして。

 

 

 ──噴き出した。

 

 

「ク──ッハーハッハッハ!!──そうかそうか! あ奴も角を失いおったか! そうさな、あ奴は角を一本しか持っておらんかったものな! アッハッハッハ!!」

 

 爆笑である。レムは場違いかそれとも正当か憤りを覚える。

 

(あなたがあの日助けてくれなかったんじゃないですか!)

 

 しかし溢れ出る不満を抑え込む。

 

「──応、承知した。迎えに行こうではないか。──我が伴侶を」

 

 方向はどっちだ、とそう言って今にでも飛び出そうとする将来の兄に、昔と変わらぬ兄に安心しかけるが、まだ伝えねばいけないことがある。

 

 

「姉様のいる領地はここの道沿いですが…ちょっとだけ待ってください。あちらにはレムたちがお世話になっている領主さまの領地、そしてそこに魔女教が攻め入ってくる可能性が高いんです。もう戦いは始まっているかもしれません。姉様の安全が確保できてからでも構いません。どうか、スバルくんを、レムの英雄を…助けてあげてください」

 

 レムの英雄。

 その言葉にさしもの鬼も跳躍の姿勢を解き、レムへと向き直る。

 

「あの弱くて脆くて無茶ばっかりして、でも誰よりも勇気があって誰よりも格好いい…レムの英雄を、どうか…」

 

 ライが自分たち双子以外に対して、主にラムと関わりのあるもの以外に興味を抱かない人間だと分かっているが故の懇願。自身が支えてあげられない今、絶対に無茶を重ねるあの人を、支えてあげないと不安で仕方のないあの人を助けてあげて欲しい。

 

 ライは基本男に興味を示さない。ライが興味を示すのは主に美しいもの、そして強き者に限られる。強き者、美しい女、強く美しい気高い心、美しくも強い意志とその生き様、それらを示すものにのみ興味を抱く。

 

 その点で言えばナツキスバルはライの目を向ける価値のある存在ではない。

 

 ナツキスバルは弱い。例え剣を持って全力で棒立ちのこの鬼に斬りかかったとて怪我をするのはスバルの方だ。

 ナツキスバルは美しくない。その生き様は平凡でありきたりでしかし夢見がちで都合のいい理想を語る。この世界に召喚されるもしかしその様はやはり泥臭く、意思は固いが向こう見ず、力も知恵もなく大切な女すら護れないなど普通に出会ったのなら鬼は男を男としてすら見ないだろう。が、それは普通に出会ったらの話。

 

「スバルくんはきっと今も自分を犠牲にしてでもエミリア様を守ろうとしているはずです。」

 

 一生懸命なのか、ライには要領を得ない言葉もところどころあるが、わかったこともある。

 

「その男がお前さんを救って、そして今も女を助けようと体を張っている、と」

 

 鬼は一旦そこで言葉を区切り結論を告げる。

 

「──良いじゃねぇの。ま、お前さんの頼みだ。ついでに手を貸してやるとするかの」

 

 鬼は笑う。

 

「それはそれとして……」

 

 なんだろう、とそう思い下げていた視線をライへ向けようとしたが、できなかった。

 

 

 ──よかったな。

 

 

 ライはそう言って昔よりも乱雑に、でも変わらずにレムを撫でつけたから。

わしゃわしゃと頭を撫でつける手はなんとなく昔よりもごつごつとしている。

 

 それは何に対する言葉か。うすうすわかりつつも聞こうとしたがレムから手を離したライはすぐに再び前傾姿勢を取り、言った。

 

「んじゃ。ちょっと離れとけ」

 

 そしてレムと死体の検分や周囲の警戒をしている騎士たちを離れさせ———跳んだ。

 

 ただ跳躍しただけで発生した凄まじい衝撃波に、地に罅が入り一瞬目を開けていられない程の風圧が起こる。それを少し離れたところで見ていた騎士たちはしばらく呆然としたまま立ち尽くした。

 

 そんな騎士たちを眺めつつ、レムは思う。

 

(ライさんが、お兄ちゃんがいればきっと大丈夫。)

 

 レムは最近甘えることを知った。スバルに姉様に。信頼している人に。ライのこともそう。

 

 その鬼はだらしなくて傲慢で信じられないくらい強くて、スバルくんとは正反対な存在。しかし、そんな二人にもちょこっとだけ似ているところがある。

 一途なところとかかっこいいところとか、そして…

 

 ──本当に心の優しい人たち。

 

 レムはおかしくて小さく笑ってしまう。

きっともう大丈夫。あの二人がいれば解決できない問題などないと確信できる。

 

 レムは快晴の青空に浮かぶ穴の開いた雲を見上げた。

 

 

◆◇◆

 

 男、ナツキスバルはある男に嫉妬している。

 

 その男とはすでに三回出会っている。

 初めて出会った時には絶望を抱き、再び邂逅した時には少しの嫉妬と、そして絶大な感謝を覚えた。

その男の名前を初めて聞いたのはレムからだった。

 その男の異常性をスバル都度二回見ている。

 

 敵としての途方もない恐ろしさと味方としてのこれ以上ない安心感、そのどちらも知っているスバルは内心やはりどちらかと言えば怖い。

 しかし、彼がいなければ現状を打破することはできず、レムを助けることもできない。

 

 男、ナツキスバルはある鬼に嫉妬していた。

 

 その小さい、本当に小さい嫉妬が──レムを殺した。

 

 救いたいと思う気持ちが、レムを殺した。

 理不尽な運命を捻じ曲げる『死に戻り』という何も持たないスバルに唯一与えられた力が、あるべき運命を捻じ曲げた結果、レムを一度死なせた。

 

 それは罪。世界を、運命を、命を弄び捻じ曲げた罪。

 味方の強大な力に、慢心し増大し油断し驕り妬み欲張り嫉み高望みした。

 

 それは強欲な嫉妬であり、傲慢な怠惰だった。

 

◆◇◆

 

 

 ナツキスバルはレムを見捨てた。

 知っていても分かっていても理解していても納得していても、それは耐え難い苦しみだった。

 

 今まで感じてきたどの苦難苦痛とも違うもの。

 自分には助けられないという無力感、助けられる者への嫉妬、そしてその醜さと罪。

あらゆる心痛がそこにあった。

 

 しかし受け入れる。甘んじて、否、それが自分が背負うべき、背負わなければいけない罪過だと信じて。

 

 許される為でも楽になる為でもない。

 ただ、裁いてくれる者も赦してくれる者もいないから。誰も覚えてなどいないのだから。誰の記憶にも残っていないのだから。

 

 自分は救われなくていい。その資格は自分にはない。だから救う、君を。それは罪滅ぼしでも償いでもないただの自己満足。

 

 それがどれだけ恥知らずな行いかなんて分っている。失敗しなければ学ぶことのできない愚か者の所業だと。もう間違えないなんて口が裂けても言えない。でも、君を助けたい。君の力になりたい。その気持ちに嘘はないから。

 

 だから………。

 

 そこで沈んだ思考から引っ張り出された。

 

 

「…スバル殿。何かが急速に接近しています」

 

「…ええ、まぁ。知り合いみたいなもんですかね」

 

 

 

「──知り合い?これは異なことを言う」

 

 返答はあらぬところから返ってきた。

 群を為す列に怯みもせず突貫してきたのは禍々しい鬼。

 

 その剣気が、闘気が、隠しきれない覇気が、ユリウス、リカード、ヴィルヘルムに自然警戒を促せ剣を構えさせる。正体不明の強者は突然と現れ一行と対面する。

 

「我はお主のことなど見覚えもないぞ」

 

 彼らの警戒などまるで眼中にないとばかりに鬼は件の男に語り掛ける。

 

「お前にはなくても俺にはあるんだよ。よくあることだろ?」

 

「ふむ。どこかで我を見たことでもあったか?いやレムかラムにでも聞いた、と言ったところか?」

 

「──ああ、よく聞いてるぜ。ラムから──ッ」

 

 スバルがそう言った途端。

 

 突然尋常ではない闘気を纏い鬼はこちらへと突貫してきた。それに対してユリウス、ヴィルヘルムは剣を向けるがしかしその刃は硬化された鬼の手によって受け止められた。依然力を籠められその手を斬り進めようとする剣はしかしそれ以上進むことが出来ずにカチャカチャと音を出すだけに留まる。剣を引くことも押すことも許さない鬼によって束の間の膠着が生まれる。

 

 

「──痴れ者が。気安く我が女の名を呼ぶな」

 

 

 剣を振り下ろされて尚鬼が二人を眼中に入れることはない。

 

「……お前も嘘が分かる類のやつか」

 

「ハッ違うな。単にお前が下手なだけだ。騙したいならばせめて騙す気をもって嘘を吐くことだな」

 

「ご忠告どうも。てか何しに来たんだお前。こっちは忙しいから邪魔するなら後にしてほしいんだが」

 

 どう考えても危険な正体不明の強者に対し、何故かスバルは煽るようにその鬼を冷たくあしらう。

 

「肝だけは一丁前か?小僧。力もなく状況も理解できないような頭しかないというのなら期待外れと言うほかないな。──レムの英雄とやら」

 

 威圧。

 ただの威圧にしてその威力は戦闘員以外を気絶させるほどのもの。この場にいる者は(みな)戦闘を心得ているがそれでいてなお一定水準以下の者は耐えられない。

 

「──人のこと試したいだけのくせによく言うぜ」

 

「───。」

 

 沈黙。

 瞬きの間であるにもかかわらず極度の緊張を禁じ得ない状況。スバルと鬼以外の誰もがおいていかれている。未だ剣を掴まれている二人は鬼の底知れぬ力を全力で警戒している。大柄の犬人は仲間を守るように剣を構えている。誰もが冷や汗をかき肝を冷やす中、鬼は。

 

「──はぁぁーつまらん。興ざめじゃ」

 

 ため息を吐いた。

 

 

◆◇◆

 

 

「何故わかった? 我が試しているだけだということを」

 

「………お前みたいなやつを前に見たことがあるんだよ。今はそれどころじゃないって言うのも本当だしな」

 

「おうおう今度は嘘ではないな。いったいあ奴ら双子以外でどこで我のことを知ったのかは気になるところじゃが…ま、いいぞ。聞かないでおいてやる。──お主奇妙な契約を結んでいるようだしの」

 

「──そんなことまでわかるんだな。ほんとすげぇよ」

 

 聞かないでくれるなら大助かりだ、とそういう男に対してライは思考する。

 

 ライはレムを救ったという英雄を試そうと試みた。

 レムから詳しい容姿は聞いていないが話からして弱い者なのはわかった故この集団において一番弱く、かつ一定の敬意を向けられているこの男がそのスバルでありレムの英雄だと当てを付けた。

 

 しかし男はライの迫力のある凄味にも実体のある威圧にも反応せず淡々と言葉を返してくるだけだった。肝が据わっているのは確かなようだが、どこでそれだけの胆力を得たのか気になるほどに弱すぎる。肝はその力に比例して得られるものだ。でなければその胆力は勇気ではなく蛮勇となる。

 

(まっこと奇妙な男じゃ。その上これが初対面だというに既に信頼と嫉妬を向けてきおる。レムを助けたことは先ほど伝えたがそれより前から我に嫉みを向けていた。力無き者の嫉妬など醜いとしか言えないが。しかし信頼を向けてきている。ほんに奇妙だ。それでもって──面白い)

 

 前に我を見たことがあると言い、前に似たような奴に試されたと言った。はて、それはまさか…。いいや考えすぎだな。と思考が乱れたところで、先ほどから警戒を解く様子のない剣鬼と騎士に言葉を掛ける。

 

「おうおうそんなに警戒せずともよいぞ。どうせ我がその気になれば大したことはできんだろう」

 

 傲慢だ。

 

「…あなたが我々より遥かに強いのは分かっている。しかしそれと警戒しない事とは同じではない」

 

「かったいのぅ最優の騎士とやら。暴れる気はないと言ったであろう。それとも──少しばかり遊びたいか?」

 

 鬼は少しだけマナを溢れさせる。

 

「……いいえ。あなたが味方だということはラム女史の言で分かっている。無用な警戒をして申し訳ない。あなたが味方であるのならばそれは心強いばかりだ。それと今の私は最優の騎士と呼ばれるものではないただのユーリだ」

 

 ユーリ、否、『最優の騎士』ユリウス・ユークリウスがここまで警戒しているのはこの鬼がヴォラキア周辺で如何に被害を出したかを知っているが故、そしてその恐ろしさを彼の友である『剣聖』ラインハルトから聞いているが故だ。

なにせあの剣聖に()()()()()()()のだから。彼は彼の友人が剣聖になって以降血に染まっているところを見たことがなかった。

 彼の鬼が出した被害を思えば警戒するのは仕方がないと言えよう。

 

 

 ──ともすれば魔女教以上の脅威なのだから

 

 

 そんな思惑を鬼は気にも留めない。

 

「おうそうかそうか。で、そっちの鬼仲間は?」

 

「鬼仲間とは剣鬼と呼ばれて以降初めて言われましたな。本物の鬼族の方に言われればお恥ずかしい限りです」

 

「亜人族最強と謳われていた鬼族などどいつもこいつも雑魚ばかりだったぞ。お主ならば里の大半を打倒し得ただろうよ。ま、我とラムには敵わないだろうがな。ワッハッハ」

 

 傲慢。

 

 

 

「──つまらない話にラムを巻き込むのはやめなさいこのバカ」

 

「──おう久方ぶりの再会に関わらず冷たいのぅ」

 

「…レムを助けてくれたことには感謝してるわ。けれどそれでラムが優しくするとは思わないことね」

 

「素直じゃないやつよのう」

 

 終始。集団に合流してから徹頭徹尾。

 

 

 ──鬼は笑っていた。

 

 

◆◇◆

 

 

「『怠惰』は俺たちに任せてくれ」

 

 眼前の男は言った。

 

「そんでもってお前には、ラムを。聖域へと避難する馬車の護衛をしてもらいたい」

 

 目前の男は言った。ラムを護れと。

 その目には厄介払いのような考えは見えてこない。

 

 男はどうやってか知らないが集団に紛れていた魔女教に与するものを見つけ出し『怠惰』の指先と呼ばれる配下の居所を特定した。それ故現在指先を討伐する班と『怠惰』の本体をたたく班に組み分けされる中、男ナツキスバルはそう言った。

 

「エミリアの乗る馬車の護衛はヴィルヘルムさんとフェリスに任せる。指先の討伐はリカードと鉄の牙の人たちに。そして俺とユリウスで『怠惰』をたたく。だから残る穴をお前が埋めてくれ、ライ」

 

「いいのか?──我の手を借りずに」

 

「ああ、問題ない。こっちは俺たちだけでどうにかなる。()()()()()()根拠はないが、ラムたちが一番危ない。だから、お前に任せたい」

 

「──そうか。よかろう。使われてやる」

 

「ああサンキューな。お前が一緒に居てくれれば安心だ」

 

「我は些か不安で仕方ないがな。お主は脆弱にすぎる」

 

「そうだな。だけど俺は一人じゃない。心にはレムがいる。隣にはいけ好かない騎士様がいる。負けられない理由もある。だから、大丈夫だ」

 

「ハッ男児(おのこ)の粋がりに水を差すような無粋な真似、するつもりは毛頭ない。精々気張れよ」

 

「おう。──そっちもな」

 

 そうしてライは集団と別れラムと合流することになった。

 

 

◆◇◆

 

 

「斬っていいか?」

 

「ダメよ」

 

 ライとラムの応答。このやりとりは出会ってから度々行われている。

 

「額は平気か?」

 

「あなたに言う必要はないでしょ」

 

「……斬っていいか?」

 

「ダメよ」

 

 流石に焦れた男は踏み込む。

 

「何故その契約にこだわる」

 

「───。」

 

「我ならその奇妙な契約、いや不愉快な呪縛を断ち切れる」

 

 ──何故そうも意地を張る。

 

 ライが言っているのはラムとロズワールとの間で交わされた契約。

 ラムがレムを守る為交わしたロズワールとの契約。ロズワールの悲願に加担することと条件に双子は亜人嫌いの多いこのルグニカという王国で暮らせている。

 

 しかしもうラムには契約を結び続ける理由はない。ラムの何よりも優先される妹はもうどこぞの馬の骨に救われているのだから。

 そしてラムは義理と人情を私情より優先する女ではない。そんな殊勝な女であれば口説くのも余程楽だっただろう。ラムは自身の為、ひいてはレムの為に行動する。それがラムの生き様であり生きがいだから。

 

 故に、ラムがロズワールに申し訳ないからだとか契約を破ってはいけないからなどという理由で遠慮することはない。

 故に、そこにはそれとは別にラムの意思が介在しているのだろう。

 

(まっこと我の強い女だのぅ)

 

 そこがいいんだが、とそう内心で付け足しつつ一人ごちるライ。

 しかし、ライだって義理は果たすべきだと考えてはいる。ラムが何を考えているのかは知らないが、正式な契約とは本来破れないもの、破れば相応の罰が下る。ライが全力を出せば契約をそのペナルティごと吹き飛ばせるが、それにだって相応に反動が来る。では何故そうまでしてラムの契約を斬りたいかといえば、それがラムの……心を縛っているからに他ならない。

 

(許さぬ。ラムが何と言おうとこの先にいるであろう契約者に契約を破棄させる)

 

 赦せない、それに尽きた。

 誰が好きな女の心を縛る契約に気を荒立てないものか。心を、感情を縛る契約など反吐が出る。ラムに例えどれだけの理由があろうとライはもう決めた。

 

「──ライ」

 

 唐突に呼ばれた名前に、どうしようもなく喜色がにじみ出る自身の頬に、我ながら心の中で苦笑しながら其の方へと振り向く。

 だが、

 

「…何か来るわ」

 

 その返答は凶報だった。

 

 

 

 

 

 

「──やあやあどうも皆さん。突然ごめんね」

 

 正体不明のミイラ。

 

「止まってくれてありがと。私はとても喜ばしいです。突然迷惑だよね。ごめんね。本当にごめんね。先ず名乗るべきだよね」

 

 声は女。こちらの返答も待たず女は一方的に名乗る。

 

「私は魔女教。大罪司教『憤怒』担当──」

 

 

 ──シリウス・ロマネコンティと申します。

 

 

 ごめんね、とそう付け加えて女、『憤怒』は名乗った。

 

 

◆◇◆

 

 

 赤子(わたし)は生まれた。額には一本の角を、隣には魂を分けた『半身』を伴って。

 

 

 双子は魂を分けて生まれてくるとされている。

 世界中で生まれ続ける子供に見えない手で命を、魂を、オドを運んでくる魂の帰る場所《オドラグナ》は忙しくて手が回らないのだとか。だから双子が生まれる時は一つの魂を二つに分けて宿らせる。

 

 故に通常、双子はオドが繋がっており、同じだけの力を持っていて、そっくりである。

 

 オドの繋がりは互いを引き寄せ、離れていても互いを感じ取らせる。

 もしどちらかが欠けたのなら残された方は魂を引き裂かれるほどの喪失感を味わうだろう。

 

 双子は同じだけの力を持っている。

 

 だから鬼族の双子は角を分けて生まれてくる。

 鬼族の象徴であり己と魔獣を(こと)にする二本の角を、双子は魔獣と同じ一本の角しか持ちえない。

 

 故に鬼という種族において双子は禁忌であり、忌み子であるとされている。

 

 だから当然双子(わたしたち)は処分されるはずだった。

 けれど……、

 

 ──『半身』が泣いている。

 

 双子はそっくりだ。赤子だって泣きたかった。

 でも、赤子はたった数秒だとしても先に生まれてきた…

 

 ──おねえちゃんだから。

 

 赤子(あね)は力を行使した。

 

 ──双子には才能があった。二人に分けても余りある才能。

 

 その才能()を、赤子(あね)は無意識に、『半身(いもうと)』を守る為に引っ張ってきた。

 

 生まれたばかりの双子の(オド)は未だ強く繋がっていた。

無意識に、無自覚に、赤子はその繋がりから力を借りた。

 

 如何に強大な才能があろうと、赤子の力では成人した二本角の鬼を凌駕するには至らなかったのだ。

 

 ──二つに分けられた強大な才能は、双子に均等に分け与えられたはずの世界の祝福は、鬼族の掟が余計なことをしたばかりに。

 

 

 ──赤子(あね)がほぼすべての才能を授かった。

 

 

◆◇◆

 

 

 幼女(ラム)は神童と呼ばれた。

 しかしラムはそんなことどうでも良かった。妹と区別される、妹を突き放すこの称号をむしろラムは嫌悪していた。

 

 双子(私たち)は二人で一人なのに私に力が寄ってしまった。

 ラムは鬼神の再来でも、強いだけの男の伴侶になる為に生まれてきたのでもない。この力は、この才能は、里の為でも、男の為でも、ラム自身の為でもない…。

 

 ──ラムはただレムのお姉ちゃんとして、(レム)を守る為だけにこの力を使う。

 

 彼女は力の偏りを嘆いていた。

 しかし、その力のおかげで妹を護れたのも事実。故にこそ、その力は妹を守る為だけにある。

 

 それがラムの存在意義。この身は偏に姉であり、ただ妹を守護するために存在する。

 

 

◆◇◆

 

 

 少女は気づいた。己の力が、妹を守るためにある力が、妹を傷つけているということに。

 

 少女は知った。強いだけの男が己より先にそれに気付いていたことを。

 

 少女は恥じた。己が『傲慢』だったことを。

自分しか妹を護れない。自分しか妹を守る者はいないのだと、そう思っていた。

 

 少女は嘆き悲しんだ。自分では妹を救えないことを。

否、自分こそが妹を傷つけているということを。

 

 少女は、妹と仲直りがしたかった。

 妹と分かり合いたかった。妹と仲良くなりたかった。妹と一緒に歩きたかった。妹に幸せになってほしかった。妹を守りたかった。妹にすべてを与えたかった。

 

 ──しかし世界は、生まれた環境はそれを許さなかった。

 

 強いだけだった男は、ラムの力しか見ていなかった男は変わった。

 それは妹と関わったからか、あるいは他の要因か。

 

 男はいつの間にか、本気でラムを愛していた。

 

 うっとおしいくらいに何度も、何度も言葉を変えて、表情を変えて、より強く、より深く、いったい自分のどこがそんなに気に入ったのか。伝わってくる想いは日に日に大きくなっていく。

 

 邪険にしても、無視しても、冷たくしても、ぞんざいに扱っても、力づくで吹き飛ばしても、次の日には笑って話しかけてくる。

 

 男は理解していた。ラム以上にラムのことを、レムのことを、私たち双子の関係を。

強いだけのバカのくせに無駄に機微に聡くて感情に正直。

 

 別に、(ほだ)されたわけじゃない。

 あんなに馬鹿正直に好きと言われれば、意地になって無視している方が馬鹿らしいと、そう思っただけ。

 

 この里で暮らしている以上、いずれ婚姻は結ばされるのだから。

 それぐらい認めてあげようと、そう思っただけ。

 

 

 

 

 

 ──でも、レムが彼を好きになった。

 

 それから私は何もできなかった。何もしなかった。彼が気持ちを変えることはない。それはレムも分かっている。

 そして彼はそれらを分かっていた。

 

 だから私は何もしないまま。今まで通り彼と接して、妹とはギクシャクしたまま。

その日までを過ごした。

 

 そうしてその日、私は選ばなかった。自身の気持ちに向き合わなかった。妹を言い訳にしてしまった。

 

 ライも、レムも傷つける決断をしてしまった。いいや決断をしなかったが為に二人を傷つけた。

 

 それが私の過ち、後悔。だからあの日。あの炎の夜に、ラムは決断をした。

 

 

 ──双子はそっくりだ。それは力が偏ろうと変わらない。

 

 その容姿はもちろんのこと。

 互いに力を奪ってしまったと嘆き。

 同じ男が気になって。

 同じ安堵を抱く。

 

 

 そうして少女は断つことに決めた。

 男が自分を好きになった理由を。妹を傷つける原因を。

 

 それは絶望か。それは希望か。

 それは『傲慢』でも『怠惰』でも『嫉妬』でもない。

 

 それは少女の祈り。少女の願い。

 

 

 ──やっと折れてくれた。

 

 ──やっと、これで。

 

 

 少女は祈る。少女は頼らない。

 

 ──祈るのはただ──許しを請うとき。

 

 

◆◇◆

 

 

 剣戟の音が鳴り響いている。

 一方は刀。一方は鎖。どちらもこの世界では珍しいと言える武器だ。

 

 鎖使いの方が珍しいが、刀はヴォラキアでのみ鍛造されていて数が少ない。その上鍛造された刀は主に帝国軍に渡り使用されるため普通には手に入れられない。それこそ一度剣奴にでもなって逃げ出すか、()()()()()()()()()でもしなければ。

 しかし刀とは扱いが難しく何も考えず振るえば一太刀で折れてしまうような代物。それを扱っている軍人は当然、弱いはずもない。まともな神経をしているのなら刀が欲しいからと、高位の帝国軍人を殺して帝国を敵に回すなどという愚考は侵さないだろう。 

 

 そんな馬鹿な真似をするような奴は人じゃない、鬼だ。

 

 鬼は余力を残したまま一合、また一合と斬り合いを続け様子見している。

 先に戦った『強欲』と『暴食』の権能が思いのほか厄介だったこと。そして『憤怒』を名乗った女が未だ権能を使用していないためか、『天啓の加護』でも『憤怒』の権能がどのようなものかわからず攻めあぐねているためだ。

 

 

「おうおう。さっきの奴らと違ってお主は権能とやらに頼り切っているわけではないようだな」

 

「ありがと。誉め言葉として受け取りますね。でもあんな人たちと一緒にされるのはごめんかな。ごめんね」

 

 『憤怒』は何が目的か、斬り合いを続けながら会話を続ける。

 

「間違ってたらごめんね。ひょっとして──そこにいる女の子はあなたの恋人ですか?」

 

 要領を得ない質問。しかし()()()()()()()()()()()だ。

 

「未来の伴侶だ」

 

「あら! ふふっ、そうですかそうですね。それは素晴らしいことです。けれど──もしかすると片思いなのでしょうか?」

 

 ──それはいけません。

 

 『憤怒』は続ける。

 

 

「『愛』は押し付け合うものではありません。分かち合うものです。無償の『愛』と一方的に与える『愛』は似て非なるもの。全然違うものです。互いに想いあっていても、その熱量に差があっては待っているのは悲劇です。どれだけ親が子に愛を注いでも、子に愛の大きさを理解する心がなければそれもまた悲劇です。──悲劇はいけない。悲哀も苦痛も憂鬱も憤怒も一人で満たしてはいけない。世界は喜劇でなければ、幸せでなければいけないのです。だから分かち合うのです。共に背負うのです。同じように感じるのです。互いを知り、理解して。そうして一つになるのです。それこそが正しい『愛』の形」

 

聞いてくれてありがとう、とそう付け足して『憤怒』は愛の持論を一息で言い切った。

 

 

 『憤怒の言葉は思ったより内容は()()()()だった。

 確かに、ラムと離れ離れになる前にした告白は一方的で、押しつけがましかったかもしれない。あれは自己満足だった。ラムを苦しめ迷わせ惑わせ決断を強いる()()()『愛』の形だったかもしれない。

 

 ラムの愛を一身に受けるレムに対して邪な感情を抱かなかったと言えば嘘になる。ラムが数舜でも迷ってくれたことに喜びを感じた我は卑屈で矮小で臆病で狡猾だった。

 

 …思い起こせばレムは純情で素直で意地っ張りで頑張り屋な良い女だった。何故己はラムのことを好きになったのか。ラムだけに固執したのか。二人とも娶ればよかったのではないか。

 

 否、ラムとレムだけではない。世界中の女を娶り()()にすることだって我にはできるはずだ。それこそ『■■』のように妻を作り子を増やし鬼族を反映させることも容易だろう。それは()()()()()ことだ。

 

 …そうだ。ラムだけに拘ることなど。ラムを守る必要など。ラムの手前格好つけることも。また告白の言葉を考える必要も。守る為に鍛える必要も。ツノナシになったラムを守る必要も。助ける必要も。救う必要も。

 ありはしない。

 

 ……そう。ラムの声を、聴きいる必要も…。ラムの、笑顔を、見る為に見ている必要も……。

 

 …ラムの髪が揺れている姿に見惚れる必要も。……ラムが我を呼ぶたびに喜びを、溢す、必要も。

 

 

 

 ──ラム、と、共二、い、る必、要ナど、ナ──』

 

 

 

 

 

 ──否

 

 ──否──否──否──

 

 

 ──間違ってなど……いない……ッ

 

 

 ──間違いであるはずがないッッ!!!

 

 

 「俺が──ッ! 俺の意思で! ラムを好きになったこと、愛してしまったことに間違いなど一片たりともあり得るはずがないッ!! この感情は、この想いは──この世の誰にも否定させなどしない!」

 

 

 あり得ない思考に鬼は激怒する。

 

 ──この思考は偽物だ。

 

 そう判断するや否や。

 

 ライは斬る。己が心中に沸き立つ穢れた(おも)いを。

 ライは斬る。己が心象の太刀によって。

 

 現実世界に干渉し得ない心の内に具現化しただけの刀が、しかし確かに彼の魂を揺らす邪悪な波動を打ち消した。

 

 ──否、それを上書きし感情の主導権を奪い取った。

 

 未だ逃げそびれた村人も、権能から脱却され驚愕している『憤怒』も。その想いに。その激情に。その揺るぎない『愛』に心を振るわされる。

 

 

「あぁ……っあぁなんて、なんて素晴らしいのでしょう。私の信じる『愛』とは異なるもの。しかし、なのに、けれどあぁ私の権能を凌駕して、上書きして、決して揺るがない『愛』を今私は感じています。これは『愛』。これもまた、『愛』なのですね」

 

『憤怒』は村人の、ライの想いに共鳴し共振し共感する者たちの代弁をするように、一人感嘆の息を漏らす。

 

 

 

 

 

 

 

 

「──バカ」

 

 そしてもう一人、はぐらかすようにそう呟く少女がいた。

 

 

◆◇◆

 

 

「──面白い、です」

 

 権能を一度解除し興奮が収まってきた『憤怒』はしかし未だ感嘆し感激し震撼していた。

 

 

「面白い。実に快い、愉快な気持ちです。あの人に与えられた『憤怒』を、あの人と私の『憤怒』を上書きしたことにいつもなら憤慨するところなのですが。そんな激情を上回るあなたの想いへの共感。これほど清らかな憤怒は初めてです。いつも聞こえてくる叫喚が。誰かの嘆きが。誰かの怒りが。誰かの絶望が。今は鳴りを潜めています」

 

 要領を得ない。否、もはや理解の必要などない。

 

「──不愉快だ。どいつもこいつも心を弄び愉しみおってからに」

 

 それは先ほどとは違う業火なる怒り。人の心を弄ぶすべてに対する厭忌(えんき)

呪縛に、権能に、世界に、運命に、理不尽に、神なるものに対する憤怒。

 

「あら、あらあら。私としたことが取り乱してしまいました。ごめんね。でも、ありがと。私はまた一つあの人の『愛』への理解を深められました。あなたのおかげです」

 

「ハッそれはよかったな。──逃げられるなどと思うなよ」

 

「ふふっ、いえいえ。逃げるなんてしませんよ。──私は夫のお手伝いに来たのですから」

 

 

 ──あなたを逃がしはしません。

 

 互いに互いを逃がさないと、そう宣言する。

 両者は刀と鎖を構え直し、相手の一挙手一投足を見逃さないように間合いを図っている。先ほどの牽制しながらの剣戟とは異なり次は両者共に全力で命を奪いにいくだろう。

 

 もともと『憤怒』の狙いはライだ。

 彼女の福音書に記された夫の凶兆。それが彼女がここに居る理由。彼女の目的は彼の足止め、あるいは殺害。

 夫の仕事を邪魔立てする厄介者を()をかけて排除しに来たのだ。一人で頑張りすぎてしまう夫を陰ながら支えようとする殊勝な心掛けだ。

 

「──ラム。村人を逃がせ、こいつは我に任せろ」

 

「……私も残るわ。あなただけでは不安だもの。こいつはここで仕留めるわ」

 

「ハッお前と共闘か! そりゃあいい。──だがダメだ」

 

 お前もいけ、そう言ってライはラムの提案をはねのける。

 

「……死ぬんじゃないわよ」

 

「たりめぇだ。そらとっとといけ」

 

 その言葉を聞いてラムは振り向かずに走り出し共感覚を発動する。散らばって逃げた村人を探し集め聖域へと逃がし一刻も早く戻ってくるために。

 

(何か、嫌な予感がする)

 

 ラムは今漠然と不安を感じていた。これはおそらく先ほど共有したライの心の影響だ。

それはつまり、ライもまた不安を感じているということ。

 

 しかし片角を失ったとはいえ未だ問題なく鬼化できるライが負けるとも思えない。

だからラムは素早く村人を逃がし戻ってくると決めた。

 

 

 ──まだ話さないといけないことがたくさんある。 

 

 怠惰討伐の一段と合流してから今まで落ち着いて話をする機会はなかった。その機会が失われる予感が今盛大に警鐘を鳴らしている。

 

 

 

 ──剣戟の音が響いた。

 

 

 振り返らないと決めていたラムはしかし咄嗟に振り向いてしまう。 

 そして見えたのは……、

 

 

 ──両腕が斬り落とされ、全身に裂傷を負ったライだった。

 

 

 鬼は、今日初めて明確に──重症を負った。

 

「──エルフ―ラ!!」

 

 間一髪。不可視なる風の刃が止めを刺そうとしていた『憤怒』の攻撃を弾いた。

 

 ──否、その刃は鎖を容易く貫通し、憤怒の()()()()()場所を通り過ぎた。

 

 よく見れば憤怒は片方の腕を失っていた。

 

「ライッ!!」

 

 その名を呼び、すぐさま駆け寄ろうとするがしかし『憤怒』に阻まれる。

 

 想定以上のラムの魔法の威力に『憤怒』は警戒し、距離を……取らずにラムへと急接近してきた。

 一直線にラムへと突撃する『憤怒』は魔法を警戒しつつ速攻で仕留める為鎖を振るう。

 

「──あなた強いのですね。ごめんね、舐めてました。でもこれで終わり。ごめん、ナ──ッガハッッッ!」

 

 どれだけ高威力の魔法を使えても距離を詰めれば問題ないと、そう確信し余裕をもって賞賛と反省を口にした『憤怒』だったが……、

 

 

 ──一撃のもと殴り飛ばされた。

 

 

 後方へ吹き飛ぶ『憤怒』は驚愕していた。

 

 

「身体が軽い……?」

 

 ラムもまた驚愕していた。力の行使の代償が来ないことに。ツノナシの枷を感じないことに。

 

 

 ──そんな最中(さなか)

 

 

「ぐはっ」

 

 

 ──角を生やし両腕を治療していたライが、血を吐いた。

 

 

 

「──そういうこと」

 

 聡明なラムは瞬時に理解した。

 

 

◆◇◆

 

 

 シリウス・ロマネコンティの能力は洗脳ならぬ『洗魂』だ。

 

 シリウスは相手の魂を、そのオドを洗脳する。

 洗脳が記憶を洗い流し異なる思想を植え付けるように、『洗魂』は相手のオドを洗い流し強制的に異なる思想、感情を植え付ける。

   

 その力はオドの共振。魂の共鳴。感情の共有。痛みの共感。

 オドの音色は感情の揺らぎを。オドの形貌はその者のあるべき姿を。オドの色彩はその者の思想を。オドの損耗は精神の摩耗を、それぞれ意味する。

 

 

 ──オドとは、この世界に生まれた生き物に与えられる世界からの祝福。

 

 其れは輪廻を巡る魂。

 過去に生きた者の生まれ変わりであり、今を生きる者の未来である。

 

 其れは世界に刻まれた存在。

 世界に生きることを許された証であり、世界との繋がりである。

 

 其れは生きとし生ける生命の源。

 其れは命を突き動かす生きる力。其れは命の安息、死せる自由。

 

 其れは人には過ぎたる力。

 人よ、扱うなかれ。それは有限の希望。無限の代償。 

 

 其れは音に聞こえず、目に見えず、触れられもしない不確かな存在。

 人間には干渉できない異次元に存在するもの。それに干渉できるのは神の力に他ならない。

 

 

 ──権能とは本来、神なる力。

 

 『憤怒』の権能とは、その本来の力とは。

 

 

 ──何人(なんぴと)(すま)うべからず。

 ──何人も逆らうべからず。

 ──何人も抗うべからず。

 

 ──何人も知るべからぬ天下の理。

 

 ──其は『運命』。

 

 ──其は神の(めい)

 ──其は命を運ぶ神變(じんぺん)なり。

 

 

 天命は自死を許さず。宿命は他殺を許さず。

 『運命』とは生きとし生けるものに与えられた道標(みちしるべ)

 

 迷い惑い彷徨い、悩み苦しみ、鬱屈し虚飾(きかざ)り、傲り孤立し、欲に焼かれ、妬みに狂い、怒りに泣き、情に弱い、飽くを知らず、生きるのに困憊する、身も心も脆弱にすぎるニンゲンを前へと進ませる希望の力。

 

 ──己の過去を(あらが)うなかれ。

 ──ありうべからざる今を惜しむなかれ。

 ──いずれ来る災厄を嘆くなかれ。

 

 ──それは試練。それは道標(どうひょう)。それは神變。

 ──あるいは神命。あるいは天命。あるいは『運命』と呼ばれるもの。

 

 そして、

 

 ──それは己自身である。

 

 

 ──それが、今は無き世界の戒律(ルール)

 

 巡魂の輪廻から外れ、死の束縛から逃れた人類は自らの足で、自らの意思で結末のない未来(おわり)へと歩みだした。

 

 それは希望か。あるいは絶望か。

 その答えは自由か。あるいは世界を取り囲む虚無の壁か。

 

 与えられた幸福を拒み、自らの手でソレを手繰り寄せる在り方は歪か、あるいは本来あるべき姿か。

 

 ──いいや、この世に絶対はなく、正解はなく、正義はない。

 ──なればこそ、それを決めるのは各々であるべきなのだろう。

 

 

 

 と、また話が逸れてしまった。

 

 

 今は『憤怒』の話だ。

 『憤怒』の能力は『洗魂』、その力は『運命の共有』。

 

 『憤怒』の権能は自身のオド、あるいは触れた者のオドと、周囲の人間のオドをマナを通じて伝播させるもの。

 

 シリウスの声を聴いた者のオドを漂白し、触れた者のオドの波長を増幅させればあら不思議。周囲の人間は増幅されたオドに影響され、揺らぎに共振し感情を共有し、変化に共鳴し痛みに共感する。

 

 ──同じ想いを抱き、同じ痛みを感じ──同じ運命を辿る。 

 

 同じ痛みは魂に錯覚を引き起こし、傷も怪我も損傷も喪失も──死さえも同じくさせる。

 

 ──それぞまさしく『運命共同体』。

 

 喜びも哀しみも憤怒も分かち合い、痛みも苦しみも傷も分かち合い、共に生き共に死ぬ、(みな)が運命を共にする。

 

 そこに差別はなく排斥はなく、偏見はなく侮蔑もない。

エルフと言うだけで排斥される理由もエルフと言うだけで忌み嫌われる理由もない。

 忌々しくも『嫉妬の魔女』と同じ汚らわしい銀髪も、呪われた種族も、穢れた紫紺も、生まれ持った理不尽は、地獄は、運命は、悲劇ではない。

 

 故にそこに不幸はなく。

 故にそこは幸福に満ちている。

 

 世界は優しく、世界は愛に包まれている。

 

 ──それこそが『愛』。

 

 一に始まり一に終わる。原初の一から終焉の一へ。

 皆が一つになることこそが『愛』。

 

 『憤怒』とは、不幸で満ちた哀しみの連鎖、不条理の権化である『運命』を憎む心、その激情。その怒りは世界に向けられている。その『憤怒』は理不尽に向けられている。

 

 

 ──『憤怒』の力は『運命の反転』。

 

 

 有は無に。動は静に。上は下に。好は悪に。氷は炎に。愛は憎に。善は悪に。吉は凶に。

 不幸を幸福に。絶望を希望に。呪詛を祝福に。悲哀を歓喜に。憤激を享楽に。正気を狂気に。嘘を誠に。虚構を現実に。謝罪を感謝に。苦痛を快楽に。攻撃を治癒に。大罪を美徳に。終焉を起源に。──死を生に。

 

 『反転』には莫大なマナを要する。人一人では賄いきれない量だ。

 今代の『憤怒』には到底扱えるものではない。いいや、人間に扱いきれるものではない。 

 

 ──運命を捻じ曲げるなど狂気の沙汰だ。

 

 それは罪。それは許されざる大罪。世界より与えられた祝福を、魂の安息を、終着を、命のあるべき形を理不尽だと不条理であると、怒り激怒し(いきどお)り憤激し憤慨し悲憤し義憤し鬱憤し、恨み怨み憎み怒り狂う激情──その『憤怒』こそが人類の罪過。

 

 ──理不尽と言う名の『運命』に抗う人類の大罪。

 

 それが『憤怒』。

 それがシリウス・ロマネコンティ。

 『怠惰』の生み出した大罪司教。

 

 教えられた『愛』に報いるのが『憤怒』の役目。

 与えられた『憤怒』を果たすのがシリウスの役目。

 

 ──それがシリウスのすべて。

 

 シリウスは戦う。

 己が『憤怒』に焼かれながら、己こそ『憤怒』、己こそ『運命』、己こそが『幸福』であると示すように。

 人を縛る『運命』のように『鎖』を操り、皆を一つにする。

 

 それが『愛』。それが『憤怒』。

 

 ──魔女教大罪司教『憤怒』担当、シリウス・ロマネコンティである。

 

 

◆◇◆

 

 

 桃髪の想い人と銀髪のミイラが戦っている。

 

 一方は風神の如く暴風を纏うラム。他方は火葬される死体の如くその身を炎に包まれる『憤怒』。

 

 『憤怒』は片腕がなく、もはや鎖は原形を留めていない。しかし『憤怒』は諦めない。残された短い鎖に炎を纏わせ鬼を殺さんと突貫する。

 

 対するラムには()()の怪我もない。身体は軽く、力は万全。ともすれば神童と呼ばれた幼少期以上の力を振るうことが出来る。武器の乏しい『憤怒』など軽く捻り潰せるだろう。

 しかし……、

 

 

「感情が震えるッ! 心が激しく揺れ動く! それは激情! 憤慨! すなわち『憤怒』ォ!」

 

 残された鎖も怒りの業火に焼ききれ消失する。迫り来るは、時の揺らぎさえ赤く焼き焦がし魂に永久(とこしえ)の安息を齎す(いにしえ)の魔炎。

 

 避けてしまえばどうということもない魔の炎。しかしラムは避けられない。後ろには全身ボロボロのまま崩れ落ちているライがいるから。

 ラムはその業火を身に纏う暴風で反らさんとする。

 

 だが、シリウスが『憤怒』と叫んだ途端、瞬きの間身体が硬直する。

 それでもなんとか炎を反らすもその身に蹴りを受け後退する。

 

 先ほどからそれの繰り返し。

 

 蹴りを受けて尚、ラムに怪我はない。先ほどから蹴られも殴られもしている。炎に焼かれた時もあった。しかしラムにそれらしい怪我はなく。痛みはなく。疲労もない。

 その原因は分かり切っている。

 

 本気を出せばその風の刃で『憤怒』を切り裂くことなど容易い。がしかしそれはできない。

 その理由は分かり切っている。

 それは……、

 

「『愛』『愛』! 『愛』!! 『愛』の滾りを感じます! あなたはその人のために! その人はあなたのために! 人は愛し合い、一つになる! しかし、ああ、あああ、いけません! 『愛』は分かち合うもの! 喜びも哀しみも痛みも傷も分け合うもの! 美しい自己犠牲ですがそれは一人で満たしてはいけないのですッ!」

 

「く──ッ! ライッ! はやく解きなさい! そのままだと死ぬわよ!」

 

「ぐッ……ハッ! これしきの怪我、唾つけときゃすぐ直る!」

 

 

 ──ラムの痛みを、怪我を、負担をライがその『強欲』で引き受けているからだ。

 ──否、それだけではない。ラムに影響を及ぼし得る『憤怒』の権能もまたライはその身に引き受けていた。

 

 本来であれば、ライは一瞬たりともラムへの想いを疑うはずがなかった。『憤怒』の権能に惑わされるほどライの精神は脆弱でも平凡でもない。

 

 ライは一合の元両腕が落ち全身をぼろ雑巾にされた。その理由は単純明快。

 『憤怒』の腕が切断され、その権能が発動したから。

 

 本来であればライも片腕を失うだけで済んだ。ライならば数十秒もあれば治る怪我だ。だが、権能の範囲内に居たラム、そして村人はただでは済まない。

 

 故に。

 

 ──ライは無意識に、『強欲』を倒し奪い取ったソレでラムと村人()()()分の代償をその身に受けたのだ。

 

 故に、さしものライも一考の間権能に惑わされ、重傷を負い戦闘不能を余儀なくされた。

 

 ──その『強欲』は想い人の苦痛を怪我を死を許さず、ラムを妨げる如何なる障害も許さない。

 

 それは『強欲』。それは自己犠牲などではない単なる自己満足。強欲なる献身。押しつけがましい善意。己が我欲を優先する傲慢。想い人の苦しみを理解したいという卑しくも尊い欲望。

 

 それが『強欲』なる権能──『天ノ邪鬼』。鬼神に発現せし権能。煩悩の象徴。『停滞』に逆らう捻くれた力。諸刃の剣。

 

  

 鬼は認めない。目の前でその女が傷つくことを。

 ライは許さない。ラムを護れぬ己を。

 

 

 故に鬼は立ち上がる。 

 

 

◆◇◆

 

 

 ──『名前』。それは証であり、権利。それは記憶であり、居場所。それは(さかい)、あるいは拒絶。それは絆、あるいは鎖。

 

 それは世界に人を結び付けるもの。其れ無くして人は現世に留まれない。

 故に『名前』を奪われた者は世界から忘れられ、魂の輪から外れ、生きている証を奪われ、死の権利を失う。生ける屍(眠り姫)の完成だ。

 

 『名前』とはその者と周囲の者とを繋ぐ絆であり、しかし人類が己の肉体と精神を保持する為の他者との界でもある。『名前』なくして互いを知れず、『姓』を共にし家族足りうる。

 

 人は生まれた時、名付けられる。故に新たなる名の授与はその者が生まれ直すことを意味する。

 名付ける行為は神聖な儀式そのもの。世界は皆を見守っている。その誕生を祝福し、その婚姻を祝福し、その追憶を守護する、その名と共に。

 

 名は体を表す。『名前』が魂に色を付け、形作り、音色を奏でさせる。それは十人十色にして千差万別の個性。その者だけが持つ輝き。世界にすら予測し得ぬ未知。

 

 そして時折現れる奇跡の体現者、今で言う『加護』をもつ者。『加護』とは凡百には持ち得ない特別な力。魂の副作用。運命のいたずら。そしてそれは生まれ変わりの証。

 『加護』を持つ者には過去の奇跡の生まれ変わりと現代の奇跡の二通りがいる。

 

 余談だが、『加護』は転生を繰り返すほどにその効力を減らす。また厳密には特殊な力は生きとし生けるもの皆が持っている。そもそも生きていること、命あるもの、それそのものこそが奇跡。しかし本当に些細な個性、『足が速い』『計算が早い』『力が強い』など、それもまた『加護』と分別されない小さな奇跡である。

 

 

 ──そんな奇跡を歪めるのが『魔女因子』。

 

 『魔女因子』とは、世界の調停者よりその権能を奪い己がものとした大罪の象徴。魔女の血族の証。本来適合者か血縁にしか根付くことのない宿業。しかし、その恐るべき呪いの尽くが今や狂人の力となっている。

 

 宿る記憶に狂うもの、権能に魅入られしもの、止むを得ず堕天せしもの、本来の姿を忘れ取り繕うもの、浸食と自我を区別できなくなったもの、適合できずに妄執に取り憑かれたもの。

 

 『魔女因子』は適性のないものの自我を浸食する。龍停の時代の終わり、魔女の時代の始まりから綿々と受け継がれてきた『魔女因子』。それは資格のある者のオドに入り混じり、その者のオドを書き換え権能を扱えるようにする。そして死後、その者のオドがオドラグナへと還ることはない。

 

 

 ──次はその者の()が『魔女因子』となるのだから。

 

 故に、魔女因子には意志があり適正のない者は混ざり合った末に先代の継承者でもなく自身でもない誰かになる。『魔女因子』は受け継がれるにつれ強大になり凶悪になり人の手には負えなくなる。『嫉妬』がいい例だろう。あれは人の世が始まってからずっと人の負の感情を、その魂ごと取り込み続けもはや殺されても死なずあまつさえ殺した者に取り憑く呪い、いや悪霊に成り果てている。

 

 『魔女因子』を取り入れた人間はヒトではない別のナニカになる。その者はもう世界に名を遺すことはなく、星に還ることもない、世界から見放される。否、()()()()()()なるのだ。 

 

 故に、適合者は生まれ変わり、故に、彼らには星と対等たる証であり権利でもある──『星の意』が与えられるのだ。

 

 『ペテルギウス』、『バテンカイトス』、『アルファルド』、『アルネブ』、『レグルス』、『シリウス』、『カペラ』、『サテラ』、『エキドナ』、『ミネルヴァ』、『セクメト』、『ダフネ』、『テュフォン』、『カーミラ』、『パンドラ』、『ヘクトール』。

 

 『名』は祝福、『名』は呪い。

 

 『魔女因子』と混じり合い権能を発現した者が元の名を思い出すことはない。──もう人として生きることは許されないのだ。

 

 

 

 

 

 ──故にこそ、『ライ』は自身の名を覚えていない。

 

 

 ライが両親に望まれて生まれ、その名を与えられた日に。

 

 

 ──ライは権能を発現してしまったのだから。

 

 その傲慢たる種族に、その傲慢たる血筋に、傲慢足りうる力に、才能に、()に引き寄せられた『傲慢の魔女因子』が彼に宿った。

 

 

 ──男の真名は『ライラ』。

 

 本当の名を知らず、親から与えられたはずだった(名づけ)を忘れ、自身に大切な『ライ()』を与えてくれた幼子に惚れた哀れな、その男の名だ。

 

 親に与えられるはずだった『()』が真名なのか。それとも世界の決めた『祝福(名前)』こそが真名なのか。

 

 否、彼は言った。己が名を決めるのは肉親でも世界でもない、己自身であるのだと。『ライ』は惚れた女に付けられた名を誇っている。己こそ世界で一番幸福な者であると信じている。

 それはなんて…──素晴らしい傲慢だろうか。

 

 男は哀れでも気の毒でもない。

 

 

 ──その『名』こそ男の誇り。男のプライド。すなわち傲慢である。

 

 

 ──『傲慢』の権能は『是正』の力。

 

 本来の力は『恒久』。世界という生き物の恒常性。世界を壊さぬ為の法。世界を維持せんとする普遍にして不変の力である。『アルプロメテウス』の維持を手助けしその回復力を増大させている力でもある。

 

 その特性は『不変』。『傲慢』の継承者は代々継承してきた者たちの記憶と、その強烈な自我と戦うこととなる。『傲慢』の適正を持つ者は総じて傲慢である。確固たる自我を持ち合わせない者は到底彼ら彼女らを御せず己が自我を保てなくなり自棄になり廃人となる。

 そう、『傲慢』だけは『嫉妬の魔女』に呪われていないのだ。否、『嫉妬』をもってしてもその不変の概念を捻じ曲げることはできなかったのだ。何度穢されようと『傲慢』はその不変をもって正常となる。『傲慢』は何者にも従わず、ただ自らを御せる者に宿る。

 

 

 ライは当然のようにそれらを蹴散らした。当然である。世界を見下すものなどこの鬼をおいて他にいない。『皇子』だろうが『魔女』だろうが『龍』だろうが、———『鬼神』だろうが何であろうとも。世界に産まれた異端は、異物は、化物はすべてを凌駕する。

 

 

 ──それが世界であろうとも。それが『運命』であろうとも。 

 

 ライが屈することはない。鬼はその身体を修復し立ち上がる。

 

 

 ──その額には()()の角が輝いていた。

 

 

◆◇◆

 

 

 ──どれだけの時間が経っただろうか。

 

 

 辺りは静けさに包まれている。あるのは懐かしい風と木々のざわめきのみ。

 どうやら草原に寝転んでいるようだ。 

 

 身体がやけに重く瞼を持ち上げるのも億劫になる。

 

 

 ──そう。『憤怒』の大罪司教がいたはずだ。ライがぼろぼろになって、どうやってか私の『傷』を肩代わりしたことで私が戦えていたはず。『憤怒』はどうなったのか。ライは、レムは、バルスたちは、どうなったのか。

 

 今すぐにでも目を覚まし立ち上がって状況を把握しなければいけないのに。そうすることが正しいと分かるのに。ラムの意思にそぐわず身体は動かない。言うことを聞かない。

 

 それは鬼の力を行使した代償によるものではない。代償はすべてライが請け負ったからだ。

 

 

 ──本当に身勝手な男。あれから五年も経つのに、何一つ成長していない。変わらない。 

 

 五年という月日は長い。恋など冷めて然るべき時間だ。なんなら新しい恋を見つけていてもおかしくない。

 しかしライは…、

 

 ──未だにラムを愛していた。

 

◆◇◆

 

 アレは純粋な鬼でありその力を受け入れている。

 

 アレは親の愛を知らなかった。

 アレは人と関わる喜びを知らなかった。

 

 ──与えられた才能が彼にすべてを与え、すべてを奪ったから。

 

 強大な個を尊ぶ鬼の集落に生まれついた最強の鬼。その運命は想像に難くない、ソレは尊ばれ大切に育てられる()()()()()

 

 ──強すぎたのだ。ただ、ソレは強すぎた。

 

 齢五つにして族長を、村で最も強くその強さで厳格に掟を守り恐れられていた長老をいとも容易く、それも鬼の証である双角すら使わずに打倒した。

 

 ──格が違ったのだ。 

 

 自然。ソレは畏怖された。神童だと持て囃されていたのは最初だけ。神聖で無感情で無機質だったソレはその名を呼ばれることもなく、腫物のように化物扱いされた。

 

 両親は最初こそ人間離れしている息子をそれでも愛そうとしていたが、ついにソレの名前が呼ばれることはなかった。それも仕方のないこと()()()()()()()()()()()()()()のだから。

 

 ソレが名を呼ばれ親に抱きしめられることはなかった。

 

 ──ソレが退屈し村から出ていこうとした日、すべてが動き出した。

 

 生まれるは双子。掟によって『忌子』とされ処分されるだけの存在。それだけの存在が、ソレを変えた。

 

 ソレは見た。己に負けぬ力を。それが己が為ではなく誰が為に振るわれるところを。

 ソレは知らない。それがなんなのか。それがなんと呼ばれる感情なのか。

 

 ソレは赤子に興味を持った。

 赤子のいる家に通い詰め、それを観察した。

 

 そして赤子が成長し言葉を話せるようになった頃。

 ソレは気まぐれに名乗った。両親にも言わなかった自身の魂に刻まれた名を。幼児の名を聞くために。

 

 言いにくかったからか。生来の癖か。偶然か必然か。

 

 ──幼女はソレにあだ名を付けた。──名を与えた。

 

 それはきっかけに過ぎなかったかもしれない。しかし確かにソレは、『ライ』は何かを得た。

 それは『感情』か。それは『愛』か。あるいは──『己自身』か。

 

 それ以来、ソレは『ライ』と名乗り始めた。

 

 少しづつ感情を覚えていった。名を呼ばれる喜びを知った。一人の悲しみも知った。『ラム』たち双子を『忌子』として冷遇する里に対して怒りを覚えた。双子と過ごす楽しさを知った。

 

 そうして恋を知った。

 

 ──己にきっかけを名を居場所を与えてくれた『ラム』。

 ──己に感情を恋を絆を教えてくれた『ラム』。

 ──他人に厳しく身内に甘い『ラム』。

 ──何者にも(へりくだ)らない『ラム』。

 ──その毒舌とは裏腹に優しく情の深い『ラム』。

 

 ──そんな『ラム』が愛おしくて仕方がない。

 ──知れば知るほど好きになる。

 

 声を聴くだけで頬が緩み、名前を呼ばれれば幸せな気持ちになる。その髪の揺らぎに心が震える。その瞳に写れることに感じ入る。それが好きでなくて何だと言うのか。人を愛することに理由も理屈も必要ない。好きになってしまったから好きなのだ。

 だから…

 

 ──俺はラムを、愛している。

 

◆◇◆

 

 ラムは聡明で勇壮で優しいから。ラムと同じような境遇で、しかし双子のラムと違って一人ぼっちで孤独な鬼を放っておけなかった。ラムは強いだけの鬼に話しかけた。

  

 それからというもの私がどこに行っても付いてこようとして格好つけているつもりなのか我だなんだと名乗り始めたりして、私の前で見栄を張り始めた。……本人は格好いいと思っているようだが、誰から学んだのか口調は爺くさく居丈高である。

 

 男の子は見栄を張るものだということは幼き時分でも分かっていたが、その様相はまるで本当に鬼神の生まれ変わりのようでどこか不愉快だった。

 

 彼は強い。私よりも、おそらくこの世界の誰よりも、そう思えるほどに彼の強さは常軌を逸していた。しかし、そう見栄を張っているだけで、———彼はどこか弱弱しかった。精神的に不安定だと言ってもいいかもしれない。

 

 彼は飢えていて、そして探していた。それは救いだったかも知れないし目に見えぬものだったかもしれない。あるいは己自身であったかもしれない。確かなのは彼がそれを私に求めていたということ。

 

 しかしいつからか、彼は求めることをやめた。それは諦念でも飽きでもない。彼は答えを見つけたようだった。ラムがレムの姉様であるように、ライもまた得たのだろう、大切な何かを。

 

 求めることをやめたライはしかし……

 

 ──未だにラムを愛していた。

 

 それは鬼の本能、暴力と破壊を愛する鬼の(さが)。鬼とは強さに惹かれるものだ。それは勘違い、それは本能のまやかし、それは初恋の錯覚だ。自身と対等足りえるのがラムしかいなかったが故の結論……ではないことはもうわかっている。

 

 ライは、ただラムを見ていた。笑顔で。幸せそうに。満ち足りた顔で。私を見ていた。

 

 そこに化物の影など微塵もない。ラムは賢くて強くて可愛いがそこまで愛される謂れはなかった。彼がなぜそこまで自分に執着するのか分からなかった。

 

 ラムが彼に与えた慈悲は一度だけ。それ以降は冷たくあしらってきたはずだ。ラムはレムの姉様なのだから。彼の救いにはなってあげられない。

 

 彼はずっと必死だった。私の関心を得ようと私に好かれようと。その為にレムを利用しようとしたことに怒りを見せたこともあった。しかしそれは間違いで。彼は私より先にレムの心の弱さを、そして強さを心得ていた。

 

 ──それはきっと彼もまた弱かったから。一人の哀しみを知っていたから。

 

 それからレムは彼に心を開くようになって、私も少しだけ関心を寄せた。

 ともに過ごし、ともに暮らした。

 双子を冷遇する里に怒る彼を見た。レムに笑いかけるラムを見た。楽しそうに、———私を見る彼を見た。

 

 ──ラムは彼を見ていた。そして知っていった。

 

 ──それは馬鹿で、鈍感で、純粋で。

 ──それは強くて、自由で、尊大で。

 ──その癖弱くて、見栄っ張りで、思慮深かった。

 

 ──レム以外で初めて、ラムが心を割いた相手。

 ──頼りになる兄のようであり手のかかる弟のような存在。

 

 ラムは婚姻後を深く考えないようにしていた。どうしたってあの集落で過ごす以上それは避けられない事だったから。けれどそうはならなかった、あの炎の夜があったから。

 再び自身の前に表れたこの男を私はどう思っているのか、今一度考えなければいけない。

 

 ──ラムはライを……──

 

◆◇◆

 

 

「ん………」

 

 目を開くと、そこには風に揺れる黒があった。

 

 

「──起きたか?」

 

 上から来る声はライ。頭の後ろには温もり。その温かさは気怠げのラムを逃がさない。

 

 

「──はぁ。ラムを膝枕できることを光栄に思いなさい」 

 

「カッカ。そうだな」

 

 ラムはライに膝枕されていた。相変わらず身体は動かない。それは代償かそれとも褒賞か。

 『憤怒』はどうなったのか。どれくらい寝ていたのか。問いただしたいところではあるが、この調子だともうすべて終わっているのだろう。しかし聞くことは聞いておかなければいけない。

 

「そんなことよりあれからどうなったの」

 

「『憤怒』をぶっ飛ばして一件落着だ。安心してもうひと眠りするがいい」

 

「馬鹿ね。ちゃんと説明なさい。──私の初めてを奪ったんだから」

 

「む。それを言われるとな、仕方ない」

 

 そう言って鬼は()()()のことを話し出した。

 

 

◆◇◆

 

 

「どうしてそこまで一つになることを拒むのですか?」

 

 単純な疑問。それは理解したいという心。分かり合いたい、愛し合いたい、『愛』を確かめたいという想い。本当に善意のみでそれが語られていたのなら、ともすれば分かり合えるかもしれないが奴らに至ってはそうではない。

 

「一つになることは分かり合うこと。一つになることは差別を無くすこと。それは素晴らしいことではありませんか?」

 

 上辺だけだ。その者は嘘を言っていない。その邪法によって確かに理解を得られるのだろう、差別はなくなるのだろう、しかしそれだけだ。

 

「あなただってそこの女の子のこと、知りたいでしょう? 好きな人のことを知りたいと思うのは当然のこと。心を一つにして分かり合って、理解し合って。想いを一つにして悲劇を無くし差別を無くす。喜びを分かち合い共に生き、悲しみを分かち合い共に死ぬ。それこそが『愛』。それこそが『幸福』。違いますか?」

 

 一つになり分かり合うと言いながら押し付けてくるのは一方的な持論。その者、『憤怒』に端から分かり合うつもりなどない。彼女にとってその『愛』は絶対なのだから。 

 

「そうまでして拒む理由が私にはわからない。ああ、何故かあなたには権能が効かないようですし。権能無くして分かり合えない人間という生き物のなんて怠惰なことか」

 

 『傲慢』によって精神を保つ鬼に『憤怒』の権能は効かない。先ほどは村人たちが権能の範囲内にいた為許容量を超えて全身にダメージが入ったが、今はもう周囲にはラムとライと『憤怒』の三人しかいない。故に権能による道連れはもう効果がなく、それで殺せるのはラムのみだ。

 逆に言えばライたちが『憤怒』を殺せば死ぬのはラムだ。故に膠着状態。『憤怒』は一人疑問の言葉を発している。

 

 一方ライたちは……

 

『──どうするの。角が一本増えたところであの不可思議な力をどうにかしないと倒せないわよ』

 

『そうさなぁ。一つだけ策はあるが……』

 

 ──『強欲』によって繋がった心によって心の内で作戦会議していた。

 

 今までそのままにしていた片角を無理やり再生し使用できるマナを増やし膨大なマナのごり押しで腕を生やし身体を再生させたライ。その代償は殊の外大きく、腕は生えたもののその様はまるで病人のような細腕。腕だけではない、全身が痩せ細っている。

 それは偏に、

 

 ──オドを使用したためだ。

 

 これぞ有限の奇跡。一生に一度の荒業。急速に失われた生命の源に身体が反応し、(しぼ)んでしまったのだ。今のライはもはや継続戦闘のできる状態ではない。ラムの『傷』も未だに背負っているのだから当然だ。

 

 ライにできるのは一撃。一刀。一殺。どうにかして『憤怒』の権能からラムを外し、刀の一振りにてとどめを刺さなければならない。

 その為の方法は、——あるにはある。

 しかし……

 

『──ラムは怒るだろうなぁ』

 

『それが必要な事ならラムは許すわ。そうでなければ死ぬだけよ』

 

『かっか。それは怖い』

 

 これからすることを教えればラムは確実に怒るだろう。我としても不本意なのだが、現状最早取れる手がない。流石の我とて心臓を潰されれば死ぬ。『憤怒』がいつそれをしないとも限らない。オドを消費している今それをさせるわけにはいかんのだ。

 

 故に鬼は決断する。覚悟する。息を整え、心を整え、そうして意を決してその名を呼び言の葉を紡ぐ。

 

「──ラム」

 

 愛しい名。唯一無二の名。それは己にとって絶対の名。

 呼ぶだけで心沸き立つ恋しい、その者の名前。愛称も別称も必要ない、完成された美しい名前。

 

 その掛け声には堪えきれない愛しさが詰まっている。味わいたい愛しさ、喰らい尽くしたいほどの愛慕、己が喰らいたいと思う女などこの女をおいて他にいない。

 籠められるは愛情、意味するのは祈り。

 

 こんな状況でなければ、とそう思わないわけもなし。

 しかしそれでも……。

 

 

「──目を瞑れ」

 

 

 真剣な声音でそう言ったライに、ラムはおとなしく従った。

 しかしすぐさま、その瞳は開かれることになる。

 

 ──眼前に写るのは一人の男の顔。

 ──唇に伝わる熱。

 

 その瞳には今、その男しか映っていない。

 急な無法に、極大魔法をぶつけて然るべき蛮行に、しかしラムは動かない。

 動けないのか、動かないか。その答えは世界だって知ることはない。 

 

 ──たったの数秒。瞬きの時間。

 

 それは証明の時間だった。それは答えだった。

 

 それは愛の証明。五年の答え。

 

 

 荒れた森の中の街道に。

 

 手を取り合い、頬に手を添え、キスをする、

 

 ──ただ一人の女と、ただ一人の男がいた。

 

 意識が遠ざかる中、ラムが最後に聞いたのは。

 

 ──お前を奪う。

 

 その言葉だけだった。

 

 

◆◇◆

 

 

「あら、あらあら、あらあらあら。お若いですね。私まで若返る気分です。ありがと」

 

 二人の突然の行動に困惑と警戒を綯交(ないま)ぜにするシリウス。あれだけの手練れ、この状況で無意味なことをするはずがない。死の覚悟をして冥途の土産に、と言う雰囲気でもない。

 

 二人は数舜であれど隙だらけ。鎖もなく片腕もなく、満身創痍なシリウスでも突けるほどの隙。しかしシリウスは動かない。そんな隙を晒してまでそれをするということは、すなわちそれだけの価値があるということ。

 この膠着状態を打破しかねない。故にシリウスは決断する。思考は数舜、今すぐに終わらせる。

 

「ごめんね。──これで終わり」

 

 そう言って今度こそ。

 

 『憤怒』は己が心臓に手を突き刺しその脈動を、命の鳴動を──止めた。

 

 それは自己犠牲であり、道連れであり、接吻する二人を見てライがまず間違いなくラムを庇うと理解した故の行動。シリウスの目的はライの殺害。夫の邪魔立てをする不穏分子の排除。妻の献身。勤勉な夫に見合う妻としての責務を果たすこと。ラムの危険度も想定よりも遥かに高く、殺しておくべきだがこの状況で高望みはできない。

 

 二兎を追うものは一兎も得ず。それは慢心、それは怠慢、それすなわち怠惰。故に確実にライを仕留めることを選んだ。──己が命を犠牲にして。

 

 それ故に相手の死は確実。『死の運命』を捻じ曲げることはできない。防ぐとしてもオドの大半を使い果たすだろう。どちらにしろ死は免れない。

 

 目的の達成を確信して、胸に手を突き刺したまま今にも倒れそうにその場に立つシリウスは其の方に目をやった。

 そうして見えたのは……。

 

 

「──六分一だからな。さながら六道が一──餓鬼道と言ったところか」

 

 腕に眠りについた愛しい女を抱え悠然とその場に立つ、餓鬼がいた。

 

 

◆◇◆

 

 

「ど、うっ、げはッごはッ」

 

 胸から手を抜き地面に崩れ落ち血反吐を吐く女。

 

「はぁッ、どうして──ッ!!」

 

 倒れ伏す女は、『憤怒』の大罪司教、シリウス・ロマネコンティが口にするのは疑問。それは何をしたのか、何が起きているのか──なぜ死んでいないのか、そんな疑問の結集。

 『死』に抗えるはずがない。『運命』に抗えるはずがない、否、抗っていいはずがない、そんなことあってはならない。それは『愛』なのだから。『憤怒』の力なのだから。『愛』には報いなければならない。『憤怒』は果たされなければならない。

 

「──どうして。どうしてどうしてどうしてッ! どうしてッ!! どうしてッッ!!! なぜナゼ何故なんでなんでなんで?! なんで??!!」

 

 疑問は不理解に。不理解は嘆きに。嘆きは絶望に。絶望は理不尽に。理不尽は怒りに。怒りは激情に。激情は憤慨に。憤慨は激怒に。激怒は『憤怒』に。

 

「いけません…ダメ、ですあっては、ならない…許されては、ならない! いけないいけないいけないいけないいけないいけないいけないいけない、ダメ絶対…──フザケルナ──ッッ!!!!!」

 

 死に体で、満身創痍どころか半分死体となってまで、否、死に掛けてからが怒りの激情の『憤怒』の本番。

 

 炎がその身を包む。表面が徐々に黒く染まっていく。怒りに比例して高まり続ける炎に、その熱に身を包む包帯も服もその肉体までもが炭化していっているのだ。

 

 強すぎる炎は赤色から黄色へ。その身を焼き尽くす炎は黄色から白へ。

 『憤怒』の身体から白炎が噴き出し続ける。どんどんどんどんと炎は広がり、触れてもいない周囲の木々を燃やし尽くす。

 イカれた温度の炎に空間は歪み、視界はぼやけ『憤怒』を視認することすらできない。

 

 ライとラムを道連れにせんと拡大し増大し肥大し加速度的に増加し続ける炎にしかし、

 

「───。」

 

 ライは反応しない。目を閉じ息を整えている。

 己と最愛を今にも取り込まんとする炎が見えていないのか。

 いくら『強欲』でラムを庇い『傲慢』で自身を保てると言えどこの炎ではライも瞬く間に灰へと変わり、その後ラムも同じ運命を辿るであろう。このままではともに朽ちるのみだ。

 

「───。」

 

 あと数秒で届くであろうというところでライは動きだした。

 炎の迫る早さゆえか、比較してゆっくりに見えるほどの動きでライは、———刀を構えた。

 

 この状況で刀一本でいったい何ができるというのか。

 迫り来る炎。もはや髪が焼け落ちるほどの距離。

 そこまで来てようやく。

 

──鬼は瞳を開いた。

 

 瞳に写るは──桜と紅葉。

 

「──抜刀。『鬼哭啾々』」

 

 刀を振った。超高速の居合切り。

 刀は白炎の中を進む。刀が溶けるほどの高温の中で、しかし刃は真空を纏い融けることなく進み続ける。

 

 刀は『憤怒』のいる間合いへと入った。『憤怒』の周囲は白き炎光を超え青き終炎と化している。

 もはや『憤怒』は黒一色。そんな状態で唯一紫紺の瞳のみが遺されている。

 

 流石の高温に刀が溶け始める。よもや『憤怒』に達する前に融け落ちかねない。

 炎に包まれた腕は『傲慢』の力すべてを費やして尚黒く染まり繋がっているだけで精一杯だ。

 

 遂に──刀の先が焼け落ちた。

 これでは『憤怒』に──届かない。

 

 それを確認して、ライは冷静に、

 

「──哀れなり狂わされし女。永久に眠れ」

 

 しかし決別の(こと)を発する。

 

──刀は焼け落ち、届かぬ刃は……──切っ先に()()()()を纏い──『憤怒』を両断した。

 

 『憤怒』は上と下に別れそのオド諸共断ち切られ──その瞳を閉じた。

 途端、拡大していた太陽は消滅した、その温度の余韻だけを遺して。

 

 一刀のもと『憤怒』は堕ち、後に残るのは荒れた地、焼け落ちた森、上半身と下半身に別れた死体と死体の如く痩せこけ再び右腕を失った満身創痍の鬼。

 

 しかし空は変わらず青のまま、そして無傷の一人の少女。

 

 それを確認し鬼は笑い、限界を迎えその場に倒れた。 

 

 

◆◇◆

 

 

「──そう」

 

 粗方話を聞き終えたラムはそうとだけ呟いた。

 そして、

 

「──まだ何か隠してるわね」

 

 鋭く言い放った。女の勘と言うやつか。

 

「いんやなんもないぞ。──何もなかった」

 

「嘘が下手ね。人のことどうこう言えないんじゃないかしら」

 

「ハッ言いよる。ラムに嘘を吐くつもりなどない。──だからこれは嘘ではない」

 

「──。」

 

 ラムは頑なにはぐらかすライを睨む。

 しかしそれ以上の追及はしない。何かがあったことは事実だろうがラムに伝えるべきことはもうないとそういうことだろう。

 

 実際、それは言ったところでどうしようもないものなのだから。

 

 

◆◇◆

 

 

 極度の疲労に微睡む鬼を起こさんとする声が聞こえる。

 

「──起きて」

 

 それは母親の声だった。

 

「ぐっ…」

 

 目が覚めれば次の瞬間感じるのは痛み。

 権能もオドもマナも使い尽くし腕を治せぬまま気絶したせいだ。

 

 痛む身体を無理やりに起こし、鬼は声の主を探す。

 今はおそらく気絶して数分。

 辺りに人はいないはずだが。

 

「──あの、ごめんなさい」

 

 再びかかる声。

 ライは声の聞こえる方向に目をやった。

 

──そこにあるのは『憤怒』の死体だった。

 

 すぐさま融けて刀身の短くなった刀に手を添えるライ。

 すると『憤怒』は慌てて止める。

 

「待って、お願い待って、一つだけ確認したいことがあるだけなの」

 

 声は同じ。しかし先ほどとは言葉の持つ雰囲気が異なる。

 その違和感を肯定するように、『加護』が伝えてくる、

 

──『その人は別人』だと。

 

 

「──エミリアは……」

 

 出てきた名前に再び困惑する。

 

「──あの子は大丈夫ですか」

 

 その言葉に込められているのは心配の念。

 

 上半身だけになって、あと何秒生きていられるかもわからない状態で、彼女が聞きたがったのはエミリアの安否。

 

 ライは応えなければならない。

 だってそれは、自分にはわからないが、きっと。

 

「……無事だろうよ。根性のある男子が助けに行った。だからそやつはきっと──大丈夫だ」

 

 敵だあった者に対して、鬼は紳士に、短く、安心させるように答えた。

 

「……そう」

 

 その言葉には安堵があった。

 

「──よかった。ああ、やっぱり……すごーく優しい世界……」

 

 『憤怒』は……否、シリウスではない誰かは再び眠らんと瞳を閉じる。

 

「──あの人、も……逝った……みたい。私も……」

 

 あの人とは誰の事だろうか。

 この方ももうすぐ逝くのだろう。

 

「──ありがとう」

 

 そう感謝を述べて、誰とも知らぬ──母親が逝った。

 

 戦いは終わった。

 

 ※ ※ ※ ※ ※ ※

 

 それは伝える必要のないこと。

 エミリアという娘にもライは伝えるつもりはない。それは己が伝えるべきことじゃない。知らないでいた方が良いこともあるのだから。それでももし、彼女が知ろうとしたのなら。それは彼女自身の力で手に入れることだろう。故に、名無しの母親は、その存在は一人の鬼の中で眠るのみだ。願わくば、彼女に安寧があらんことを。

 

◆◇◆

 

 

 沈黙が続いている。

 

 相変わらず周囲には人も動物もおらず草原は静寂を保っている。

 あるのは風の音と心の音だけ。

 

 ライもラムもその瞳を閉じている。眠っているのではない。

 少なくともライはこの沈黙が嫌いじゃない。ラムはどうだろうか。

 

 会話のないこの時間がライにラムをより感じさせてくれる。

 その鼓動の音、息遣い、熱。視覚では得られないそのほかの五感でラムを感じることに集中できる。

 

 その心音は安心を与えてくれる。その息遣いに心地よさを感じる。触れ合う肌から感じる熱が鼓動をはやらせる。

 

 空白だった五年間を補うように、二人は言葉をなくしてしかし心を通わせる。

 

 それがひと段落したのか。ラムは話し出す。

 

 

「ライ。あなた──斬ったわね?」

 

「……なんのことだ?」

 

「はぁ、本当に嘘が下手。勝手なことをしないで」

 

「……怒っているか?」

 

「……いいえ、今は思考がすっきりしているもの。…それに必要であれば結び直せばいいだけよ」

 

「む」

 

「む、じゃないわよ。レムとあの屋敷で暮らすために必要なことなの」

 

「我と共に暮らそうではないか」

 

「あなたが家を持っているとは思えないけれど。どちらにせよ、もう遅いわ。レムがバルスに執心しているもの。そしてバルスはエミリア様に執心している。エミリア様は王候補で、ロズワール様はそのエミリア様の後見人。──ラムがレムの姉様である限り、ラムがあの場所から離れることはないわ。……それとも、また駆け落ちとでも?」

 

「──そうさな。それもまたいいかも知れないが……またお前さんに妹を見捨てろ、我を選べ、なんて言えんさ」

 

 そこで一度、言葉を区切った。

 

「……そういえば、あの告白が最後だったな。……五年だ。あれから五年もこうしてお前を見ることが出来なかった。……もう逢えないかもしれないと、そう考えるだけで。──俺は心が震えたよ。死んでいるかもしれない。忘れられているかもしれない。既に想い人がいるかもしれない。そう考えたら探す足が止まりかけた。怖かった」

 

「口調が戻ってるわよ。好きな女の前でくらい最後まで格好つけなさい」

 

「ハッ我の口振りが嫌いなくせによく言う」

 

「そんなうだうだと話されるよりマシよ。女々しい」

 

「ほんに口の悪い女だ。──ありがとな」

 

 気合を入れ直すようにライは自身の両頬を叩く。

 

 

「──お前が好きだ」

 

「───。」

 

「お前と、ラムと一緒にいたい。共に生きたい。ラムがレムの姉であることを誇りに思っていることは知っている。レムを誰よりも大切にしていることは知っている。──それでももし、レムが姉離れし自分で自分の道を歩き始めたのなら。レムの姉であること以外に余裕ができたなら。──俺と生きることを考えて欲しい」

 

 ずっと考えていた告白とは、違った。今日まで考えてきたかっこいい言葉とは違う。ただ思いを口にするだけの、ただそれだけの告白。

 

「──。」

 

「──。」

 

「──。」

 

「──。」

 

「……ラムは」

 

「……ああ」

 

「ラムはもう強くないのよ」

 

「ああ」

 

「それどころかツノナシの代償で……」

 

 言いながら違和感を感じたラム。あるはずのものを感じない。代償、倦怠感、『傷』。

 

「──っまさか」

 

「ああ、驚く顔も可愛いな」

 

「茶化さないで。あなたまさか……」

 

「──言っただろう?──お前を奪うって」

 

「──。本当に勝手な男」

 

「かっか」

 

「あれは私の……」

 

 ラムに合ったはずの傷跡はなくなっていた。それはもうラムは鬼ではないということ。

 

「贖罪、か?」

 

「──。」

 

 ラムは、妹から力を奪ってしまったことを悔やんでいた。故にその力を妹の為だけに使った。しかし、ラムは角を失った。妹から貰った力を放棄してしまった。──その責任と共に。

 あの日した安堵は…妹との仲を裂き、ライの救いにもなれない、暴力と破壊、殺戮と闘争を訴え、責め立て、誘惑してくる忌むべき角を、おぞましい血を、それらを断ち切ったあの日に感じてしまった安堵は、一瞬でも楽になりたいと、レムの姉であることをやめたいと思ってしまったということ。

 ツノナシの侮蔑は、『傷』の代償は、ラムにとって贖罪に他ならないのだ。

 しかしそれはライが知るはずのないこと。

 

「──赦すよ」

 

「ハッあなたが赦したところで、」

 

「分かってるだろう。あの子がお前さんを恨んでいるはずがない」

 

「……私とあの子が得るはずだった力を私が奪ったのよ。私は持て囃され、あの子は一人劣等感に苛まれた。守れなかった。助けられなかった。──私はあの子の姉様なのに」

 

 誰もラムを恨んでなどいないのに、ラムが贖罪に身をやつすのは誰でもない己自身が自分を赦せないから。

 

「……似た者姉妹よのう」

 

 一人落ち込むラムの頭をなでる。

 

「そう怖がらずとも、お前さんら姉妹の絆が切れたりはせんさ」

 

 だからちゃんと話合えと、そうライは言う。

 

「妹の前で見栄を張りたいのはわかるがな」

 

「──随分と知った風な口を利くじゃない」

 

「ずっと見ていたからな」

 

「ハッ、すとーかーでろりこんだなんて救えない変態ね」

 

「かっか。そうだな。──でも好きだ」

 

 再び。

 

「好きになってしまったものは仕方がない。」

 

「──直球すぎる。好きだからって何をしてもいいとでも思っているの」

 

「この想いを押し殺して後悔するくらいなら、想いそのままに伝えた方がマシだ。──俺はお前が好きだ。俺はラムを愛している」

 

「──ラムは、私は、わからない」

 

 答えは出ない。

 

「あの子はもう私の手を離れようとしている。いいえ、あの子には私の手なんて必要なかった。角を失って、レムよりか弱くなって初めて自分が傲慢だったと思い知った。──あの子は強い子よ。私の自慢の妹」

 

 レムはスバルに救われ変わった。レムは一人自分の道を歩き始めた。

 では、ラムは。

 

「私は、レムの姉様でなくなったら何をすればいいの…──」

 

 それがわからないのだと、ラムは言う。

 ラムにとって姉という役割は言葉の通り生まれながらの事。──それ以外の生き方をラムは知らないのだ。

 だから契約に縋る部分もあった。

 

「レムの姉であり続ければいいだろうさ。先に逝く親とは違う。お前さんらは姉妹なのだから。今まで通り、助け合って生きていけばいい。わからないならともに考えればいい。悩みも責任も分け合えばいいさ」

 

 ライは続ける。

 

「俺は、ラムと共にいたい。お前が悩んでいる時一番に相談に乗ってやりたい。お前が苦しんでいる時、誰よりも早く助けに行きたい。お前と一緒なら、俺はなんだってできる。俺にお前と共にいることを許してほしい」

 

「──どうしてそこまで」

 

 ラムはわからない。何故そこまで愛されるのか。

 

 それは名前を付けたからか、それはラムが強いからか、それはラムが孤独な鬼を救ったからか、それは幼きラムが諦観と無感情に絶望していた子供にとって何よりの光だったからか。

 

 全部正しいかも知れない、すべて間違ってないかもしれない。

 でも、

 

「──ラムを好きになったから。俺はラムが好きなんだ」

 

 ──それ以上の理由が必要か?

 

 そうライは言った。

 めちゃくちゃである。好きだから好き。愛してしまったから。何より大切に想えたから。

 

 一目見たその時から気になって、いつも彼女のことを考えて。その髪が、その指が、その瞳が、その声が、その強さが、その弱さが、全部が全部好きだから。

 好きで好きで仕方がないから。

 

 だから好きなのだ。

 

「……本当に、勝手ね」

 

「ああ、そうだな」

 

「私のことが好きなのね」

 

「ああ」

 

「ラムは、まだわからない。敬愛できるひとができた。私に好意を持つ子がいる。五年も開いたんだもの、すぐに答えは出せないわ」

 

「……ああ、そうだろうな。それよりそのお前さんに好意を持っているとかいうガキはどこのどいつだ」

 

「話を逸らさないの。──答えが出るまで。それまでは、許してあげるわ」

 

「……ハッ」

 

 一瞬間を置き出てきた声には、喜色がにじみ出ていた。告白が成功したわけではない。想い人の愛を手に入れられたわけでもない。しかし──想いは通じた。

 なら、あとやることは一つだけ。

 

 

「──絶対に惚れさせてみせる。期待しとけ」

 

「ハッ期待せず──待ってるわ」

 

 

 鬼族の神童はもういない。そこにいるのはどこにでもいる、普通の女の子。

 

 これはただ一人の男とただ一人の女が、共に生きていく、

 

 ──そんなもしもの物語。

 

 

 

 





 これにて完結。
  
 ここまで読んでくれた人ありがとうネ。
 どこかの誰かの暇つぶしになれたら幸いデス。 

 また別のリゼロの短編書くのデ、よかったら読んでみてくださイ。
 感想くれた方、誤字報告してくれた方、ありがとうございマシタ。

 以上。
 お疲れ様デシタ。

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