姉と違いこいしはたまに地上へ遊びに行くことがあった。特に目的もなくふらふら歩いていって、くすねた団子を頬張ったり里の人にいたずらを仕掛けたり。今日は妖怪の山の獣道を辿っていた。その果てに、慎ましい獣の巣穴や、人に忘れられて久しい廃屋に着く。この日見つけたのは、無人にしては手入れされているかのようにきれいな家屋だった。そこから白狼天狗の若い男が二人、にそにそ笑いながら出てくるのが見えた。無人ではないようだ。
二人が見えなくなったのを確認して家屋の戸を開ける。中は居間がひとつあり、そこに落ちている布の塊から腕が出ているのが見えた。
「もし?」
返事がない。上がって確認すると、それはぶかぶかの衣装を着て倒れている、若さとも幼さともとれる雰囲気のある女だった。一度目が合ったが興味なさそうにまた視線を床に落とす。
この服からただものではないことはすぐにわかる。決して神々しくも聖なるものでもない、怨霊にも似た禍々しい気すら纏っている。
「お前も遊びに来たのかい」
「お客さんにうんざりしてるようね」
「遊び方がね。水浴びに行ってくるわ、気持ち悪いったらないんだから…… お前も犬畜生には気をつけなさい」
丈の長すぎる裾を両腕で持ち上げながらよれよれと河原へ向かう。このあたりは流れも緩くなっている。
流されたのではないかと心配になるくらい待ったあと、また同じように裾を持ち上げて河原から戻ってきた。
「連れてこられたの」
「向こうから来たのさ。まったく、山の主気取りどもは遠慮も恥も知らん」
地下に向けて二人飛ぶ。
「遠慮と恥くらいならなんとかなるわ。うちで話しましょう」
「よほど暇なのね」
「げっ、何でよりによってそんなのを連れ込むかな……」
御殿に着くなりさとりが早速小言をぶつける。
「霊が一体増えたってそんなに変わらないでしょ」
「流石のお燐も一目散に逃げてったけど」
「私をなんだと思っているんだ、ただの霊だよ。その辺の」
「どう見てもその辺の霊とは違うのよね」
一室の地べたに腰を下ろす。ぴったりの服を用意することもできたが、やばそうな霊がへんてこな格好をしているのが面白いのでそのままにした。
「野次馬をします。どうしてあんなところに?」
「消極的な自暴自棄になってるの。このまま動かなければ自分は勝手に消えるのかなって」
「そうなった理由は」
「野次馬も程々にしたほうがいいわ。知らなくていいこともある」
「ここまで私は連れてきちゃったし、あなたはついてきちゃった。もう逃げられないわ。私は知らなくていいことから、あなたは私から」
「……地下にいるあなたならあんまり関係なさそうだし、いいかもね。四千年前、私の家族が――」
「四千年前!?」
「ええ。自分の歳を知ったのは最近だけどね」
こいしも自分の歳をよく知らない。妖怪の発生時期など確かめようがない。
「自分の家が遺跡として掘り起こされる気持ちはどんな感じなの」
「四十世紀も後で家の基礎なんかを見せられても誰の家だったかなんてわからないのよ。地形も変わってるし。自分が暮らした街だったかすらよくわからない。それで……くだらん争いで息子が殺され、私はその主犯の側室として娶られてね」
「で、殺したの」
「殺していれば私が仙霊として今の今まで実体を持ってなどいない。正室だけが不老不死の薬を手にし、月へ逃げたのさ。そうして男の方は妻にも裏切られたことになり、さらなる弟子の裏切りで死んだ」
「あー、ヒキガエルの?」
「そう。あいつは月の住人に自分を守らせた。何千年と戦いを挑んで、一度たりとも姿を見せたことはなかった。肝っ玉までカエルみたいに縮んだんだろうと思っていたよ…… それが半年前」
「思い出した。月の裏を占拠していたのよね。あれで追いやられた兎が地上で餅をついてたって、妖怪の山のケチな現人神が言ってたわ」
「ケチで失礼とは、いかにも若人らしいな。問題はこの後。……嫦娥のことは月の誰も、一度でも目にしたことがないそうだ。誰も。何千年も前に神ではなくなっているからあの現人神第一号、神日本磐余彦の母ですら呼び出すこともできない。あいつとは月の帰りにちょっと談笑するんだよ」
「それにどんな問題が」
「大問題だ。都市のどこに匿われているか知らんが、どこにいるにせよ、四千年もいれば、それにかかわる人や物の流れが、奴が実在するという情報を必ず漏らす。このところ綿月の二人も都市要塞の維持に意味を見出せていないようだった」
「あなたにそう話せば、侵攻を諦め、都市のリソースを軍事に無駄に割き続ける必要もなくなるってことね」
「ああ。隠しようがないし、隠す必要もない。それで私は完全に存在意義を失った。……いつの間にか嫦娥への復讐よりも、難攻不落の都を落とすことを目的にしていたような気がする。そこの奴らへの迷惑も考えずにね。いずれにせよ、戦う理由がなくなった」
「……初めは憎しみが高じて仙霊になったのよね。だとしたら今こうして相対して話ができていることが不思議だわ」
「力はほとんど失ったさ。この体はもはや抜け殻も同然。もともとこの服もぴったりだったんだけど。最近は幻想郷が気に入っていてね、仙界よりこっちにいることが多い。それで、人気のないあのボロ屋で何ヶ月も寝っ転がって汚い天井を見上げていた」
「あの天狗たちは?」
「どうやって嗅ぎつけたんだろうね。突然ふらっと現れて、うるち米を丸めて焼いた餅とか、食べ物を置いていくようになったのさ。まあ、見返りもなしにとはいかなくてね。私は腹も空かないんだが」
「一人でちーんってなってるところに付け入ろうとしてたのね」
「いろいろ結構荒いんだ。自分のことも含め、全てに関心を失っていたから好きにさせていたが、人も妖怪も、一度何かを許すと付け上がるもので」
「人って図々しいのよね。嫌なことはこらって言わないと」
「嫌というか、その下賤さや図々しさにただ呆れていただけで、飽きればいずれ来なくなるだろうと思っていた。飽きもせずむしろこちらが飽きてきた矢先さ。こうして拾われたのは」
あっけらかんとしている。恨みの全てが嫦娥に向かっているのか、恨みという感情そのものが弱まっているのか、はたまたその両方か。恨みは十中八九他害の原因となり、様々ある手段で解消せねばならないが、彼女の場合恨みこそ彼女そのものであるといえ、恨みの解消とは即ち自身の消滅だ。そのはずなのだが。
「……考えるほど、あなたがどうして今消えずに済んでいるのか不思議でならない。突拍子もない仮説だけど、もしかして、その体はもうこの世界で、生き物と変わらず肉体として存在し始めてしまっているんじゃないかしら」
「……それをどう受け止めればよいかわからない。目的はとうに失われた。これから何をすればいい」
「人生は死ぬまでの暇つぶしっていうわ。元の肉体は滅されているようだけど。好きに生活すればいいのよ。お友達はまだ存在しているのかしら」
「死んでからの友人が何人か。最近お気に入りの兎がいるの。向こうはこっちのことを全く良くは思っていないようだけど」
「その体で抱きついてみるといいわ。仙霊とは思えない愛嬌よ」
「あそこの主人にぶっ飛ばされないといいわね」