たぶん、一番来てほしくない相手が来た。熱水の川をまたいだ大橋を守る、地獄の底の底までその美貌の噂をとどろかす少女。
「あなたが来るのも時間の問題だと思っていたわ。最近橋の上にいなかったもの」
「来てほしくなかったみたいな言い方ね」
そう思ってほしくなければ思われないような態度をとればいいでしょう。喉まで出かかってやめた。彼女は人間ではない。卑屈な性格こそ、彼女を橋姫として存在せしめているもの、いわば本質の一つである。
「いいえ。思ってもそんなこと言っちゃだめよ。なんて話したらいいかわからなくなるわ」
口をつぐみ鼻でため息をついた。顔色が変わったのか影が濃くなっていく。
「やっぱり元気少ないね。とりあえず座りましょう」
普段はどこまでも言い返してきて収拾がつかないのだが、それもできないくらいにまでなっているらしい。
「……」
黙っていれば可憐なやつで、いくらでも鑑賞していられる。卑屈なくせにご立派なプライドを持っているのか涙を流すまいとする、その姿にさえ見とれるほどだ。
そして唐突に、
「もう何しててもいらいらするの」
「んー……、今もそうなの?」
「そう言ってるでしょ」
「それはいつぐらいからなの」
「わかんない」
橋姫ならば『いらいらする』のが仕事みたいなものといえる。妖怪として発生してからずっとストレスを被り続けてきただろうから、今更相談に来ることもないはずだ。しかし現に来ている。本人がわかっているかは知らないが、相談の原因となったいらつきは、最近できたものとみていいだろう。
「……なんとなく貴方の様子がいつもと違うなって思ったのは、そうね、一ヶ月くらい前かしら」
「っ、気づいてたなら声かけてくれたっていいでしょ」
「ごめんなさい。でも地底ってただでさえめちゃくちゃだから、困ってる人をあまり自分から探しに行かない方がいいの」
「……私はただの『街にいるその他大勢』だったってわけ?」
「そんなこと言ってないわ。一回落ち着きましょう」
「どういう意味」
「考えるのをやめるのよ。貴方今ネガティブすぎるわ。貴方に対してみんなが悪く思ってるわけじゃないの」
嘘をついたような気分だった。みんなが悪く思ってるわけじゃないと言っておきながら、自分自身は彼女のことを警戒していた。
「……たまに一緒に飲んでた鬼が、私のこと下賤な妖怪だって人間に言ってた。私のことを本当はどう思ってるかなんて知りようがないじゃないの」
元サトリとして聞き捨てならぬ言葉だった。先の嘘が、人の心の内など知ったところでただ失望するだけで、知らないで勝手に人の良心を信頼していた方がよっぽどましだということを踏まえての、最大限の優しさを込めた嘘だということを、この愚鈍な姫は知りようもない。
「いつか裏切られるとしても、一度は信じてみましょうよ。裏切られたならその時に怒ればいいでしょう。……ただの綺麗事じゃないってことは、わかるわよね。人の心を知った上で私は言っているわ」
「私は人の心を知らないから、同じ立場になったとして同じ意見を持てるかどうかわかんない。それじゃあんまりじゃない。……なんにも言えなくなるでしょ」
『大人になればわかる』と大人に諭された子供のことを思い出した。大人になってのことなんか知りようがないから反論のしようがない。だからむりやり説き伏せられた気がしてくるのだそうだ。
「……ごめんなさい。不誠実なやり方だって自分でも思うけど、今言ったことは本心だってこと、信じてほしい。少なくとも…… 貴方、昔よりずっとファン多いわよ。前なんかすぐ人を呪い殺してたじゃない」
「呪えなくなったのよ。最悪。やられっぱなしでやり返せないんだもの。どうしたらいいっていうのさ」
やられっぱなし。彼女に面と向かって悪意をぶつける勇者などそういない。とすると、存在するかも定かでない悪意を勝手に受け取って『やられ』ているのだろうか。しかしそうは言っても、本人にとってそれは紛れもない被害なのだ。ただそれで呪われる側にとってはたまったものではない。
「えーっと…… 他の方法で鬱憤は晴らせるのかしら。たとえば人じゃなくて物にあたるとか、あとはここに来てもらえばいつだってお話できるし。どんなにもっともらしい理屈があっても、私はそれを勧めることはできないわ」
「物壊して晴らせたら苦労してない。貴方に愚痴こぼしたって恨みが消えるわけでもない」
「別の目的があってきたのね」
「ええ。……貴方の能力で、この卑屈な性格の元を絶ってほしいの」
「……んん、それがどういう意味か自分でもわかってるのよね?」
異様なまでの嫉妬心をはじめとしたこの卑屈さこそ、彼女の妖怪としての本質であり、それを封じれば本質を失う。
そして彼女は頷いた。
「どうしてその選択にたどり着いたのか、教えてくれるかしら」
「だって、自分じゃどうにもならないじゃない。卑屈さなんてコントロールできない」
「……自分の卑屈さの根源が無意識にあると、そう思ったのね?」
「ああうん、そういうこと。そこにあるなら貴方の力でどうにかなるでしょう」
「そこにあるならね。でも実際わからないの。確かに妖怪の性質が私たちの内側にあるならそれは無意識にあるだろうけれど、そうじゃないかもしれない根拠があるの」
瞳を閉じるにあたって、自らが何によって成り立つか、散々考えた。かつての自分を見せられているようで、なんだかむず痒かった。
妖怪の心的性質は、人間における局所論では語り得ない。
「私たちの性質は、人間たちの認識によって決められるの。貴方が嫉妬深いのは、人間が橋姫のことを嫉妬深い奴だと思っているからでしょ。このプロセスはきっと私たち妖怪自身が持っているものではないわ」
「でも現に貴方はそれをどこかへ閉じ込めたじゃない」
「私が心を読むことをやめられたのは、能力が宿っているのがこの感覚器官だったからよ。貴方が両目を閉じられるように、私は三つある全ての目を閉じることができる。……能力を与える何かが貴方の場合どこに作用しているかはわからない。もし無意識に作用していて、私の力でどうにかできるとしても、その結果本質を失った貴方がどうなるかわからない」
「だめ? 今のまま苦しんだ方がましってこと? 能力を捨てた貴方はそれを後悔でもしてるの?」
「確かに私はサトリをやめたけれど、あれは危ない橋だったわ。自らの本質の一つを失って、それでも自分を自分として保てると言い切れる?」
脚を失っても生きられるかもしれないが、血液を失えば死ぬし、もっと根源的に、原子全てを失えばそれは消滅を意味する。能力を断つことがそれらのどのあたりに位置するかが見えない以上、迂闊にいじることはできない。
「ここまで聞いてまだ望むなら、自殺を申し出ているのと変わらないわよ」
ここで諦めさせても、頑固者のことだから引き下がれないに決まっている。
「今日は一旦帰りましょう。私をあてにしてきてくれたのにいきなりこんなこと言われたら、落ち着いちゃいられないでしょう。仕切り直すべきだわ」
彼女の見えない癖で下唇の内側を犬歯で噛んでいるようだった。眉を顰めて、目蓋いっぱいに涙を溜めている。
人知れずすがる思いを寄せた相手に手を取ってもらえなかったことが、ついに彼女のプライドを打ち砕いたことは、長い人生経験から痛いほどわかる。心を覗けなくてよかったと心から思った。覗けなければ、それはまだ自分の推測に過ぎないのだから。
机に両肘を立てて額を覆う。
人を頼ることを覚えてほしかった。だから、帰さないで、好きなだけ泣いてもらうことにした。泣くことに動じてはいけない。泣けないことこそが一番の弱みだろうから。
「帰れったって…… ここに来たら、変わると思ってたのに。このまんまでいるくらいなら、死んだ方がまし」
姉は人を憂えて、人と関わることをやめた。彼女はまだ、関係を諦められずにいる。だから、孤独が苦しみになる。
嫉妬とは、関係なくして生まれない。
やっと息の震えが止まる。
「涙拭いて、まっすぐ家に帰りましょう。どこにも寄っちゃだめ。今日いっぱいは誰が来ても出ないこと。電報だって一本も受け取っちゃだめだからね」
背中に腕をかけて、
「明日は橋に立ちなさい。一回でいいの。あなたが嫌な奴でもね、しばらくいなければみんな案外心配してくれるものよ。それから…… いつでもいいから、また必ず来ること」
結局、それが彼女の最後の姿になった。何もかも家に置いたまま、誰もその消息を知り得ない。
新天地を求めて街を出たのだとしたら変化のきっかけを自らに求められるかもしれないと思い始めたのだろうし、そうでなければ、レジリエンスを持ちえないとして絶望したのだろう。
現実の職業としてのカウンセラーは、クライアントとはカウンセラー-クライアント以外の関係を持てません。それどころか町中で私生活をうっかり晒すことすら嫌う人がいるほどです。
東方獣王園でそれぞれの幻想少女が広く関係を持っていることが示唆されました。頭が痛いです。