「こんにちは」
ノックして扉を押し開けて、律儀にお辞儀までしたのは、フランドール・スカーレット。
「こんにちは。今日は帽子どうしたの」
「ナイトキャップは外で被らないわ」
律儀な割に、目を合わせようともしない。一人がけのソファへ歩いていって、どかと座った。
「……」
こいしは知っている。これは吸血鬼らしい横柄さではなく、彼女の単なるマイペースな性格によるものだ。フランドールは姉と違い、表に出て威張り散らすなんてことには興味がない。それどころか、向かいのソファへ座ろうと少し目を離した間に変に浅く座り直して、口をつぐみ机の一点を見つめている。
一体何をしに来たのだろう。向こうから来たのだから何か話題を用意しているのだろうと勝手に考えていた。
目を伏せたままようやく笑顔を引きつらせて、
「ごっ、ごめんなさい。おしゃべりしに来たんだけど、えっと、ここに来ればなんとかなるってばかり思ってて……」
なんとなくそう考えていたのはフランドールも同じだったようだ。相対すればなんとかなると思っていた。
「そんなに気負わないで、なんでもいいのよ。昨日食べた『パン』のこととか、お姉さんのこととか」
「なんでも…… ええ……」
膝に肘をついて両手を握り、口で息をしている。妙に緊張しているのは明らかだった。そして彼女ほどではないにせよ、こいし自身も緊張していた。面と向かって会話するのはこれが初めてで、自分の中では未だ得体が知れず、噂ばかり先行する要注意人物であった。
彼女を見かけるときは決まって遠巻きで、事もなげなふうを装って何度も姿を見せるが、こちらを視界の端に収めているだけで一切関わろうとしてこない。だからこの場には相当な覚悟を持って来たのだろうと思われた。
「……ゲームでもしてみる? いろいろあるけど」
「ほんと?」
書棚に積まれたボードゲームをひと山持ち上げて机の傍に置く。それらを一瞥して、
「……完全情報ゲームばかりだわ。トランプはあるかしら、ブラックジャックをしましょう」
「もちろん」
札が揃っているかどうか怪しいトランプをこいしがシャッフルしているうちに、
「わかってる人の混ぜ方ね。ヒンズーシャッフルだけじゃあんまり混ざらないものね」
「これ癖なの。出目が偏ってても、前使った時のことを覚えてなければランダムと考えていいんじゃない?」
「確かに、ランダムかどうかを気にしちゃあだめね。出目が不可知であることを以て乱数と認識しないと、きりがない」
「詳しいのね」
「昔、疑似乱数としてのトランプが気に入らなくて、真乱数だと思い込める値の取り出し方を求めたことがあったの。魔法瓶に入れたコロイドの運動の向きを五四分割して、トランプの出目として扱ってみたけれど…… 結局、未来の出目を知らない状態で出てきた値がランダムに見えるなら、それで十分だってことに気がついたわ」
配った手札を開ける。10、4。堅実にいくとしたら困る出目だ。絵札を全て10として計算するために、手札が12以上ではヒット(山札から一枚引くこと)したときの勝率が大きく下がる。しかしゲームとしてはリスクを伴った勝利を取らなければ楽しくない。そして、場を暖めるなら自分も楽しむほうがいい。
「これくらい分岐の細かい不完全情報ゲームが一番好き」
フランドールにとってブラックジャックは分岐の細かい不完全情報ゲームらしい。確かに場面ごとの勝率を考えたときの分岐は細かいが、普通は今こいしが考えたように、現在の手札の合計からヒットとスタンドを考えるくらいで、山札に残っている札のことまで考えられる者はそういないだろう。そこまでして実際にどれだけ勝率を上げられるのかさえ、こいしにはわからない。
「そうだ。ゲームが終わっても、それまで引いたカードは山札に戻さないことにしましょう」
遂にこいしは笑い出した。フランドールが何を考えているかわかってしまった。一試合分の札を引いたくらいでは細かい分岐を考えてもそこまで勝率が変わらないのだろう、それで己の記憶力と計算力を試すべく、一度だけ用意した山札から札を引き続けることにしたに違いない。
「ははは、本気ね。引かれたカードを全部覚えておくつもりでしょう」
そう尋ねるとやっと微笑んで、頷いてくれた。相変わらず顔をこちらに向けてもくれないが。それでも確かに、鮮やかな緋色の目を細めてみせた。
「じゃあ私先にいいかしら」
こいしが先行して札を引いた。せめて21にはならないよう祈った。彼女の楽しみの出鼻をくじくようなことにだけはなってほしくない。
4が出た。これ以上攻める口実もない。ディーラーも17を超えたらヒットできない。
「私もヒット」
引いて、彼女はさっきまでやっと緩んでいた唇を一文字に閉じた。わかりやすい奴だ。バスト(21を超えること)したらしい。
「スタンド(何もせず自分のターンを終えること。全員がスタンドしたら手札を開示し、勝敗を決める)」
「スタンド」
彼女の目はこいしの手元に釘付けである。バストしても、こちらの手札が何だったか、ひいては山札から何が引かれたのかに興味があるらしい。
「負けた! まあ、初めは特に運次第よね」
互いの手札を開示した。こいしは18、フランドールは6、6、10で22。
「最後に引いたのが10だったのかな」
「んん」
「引いたカードは表向けて置いとく?」
「ん」
次の手札は2とA。Aは都合によって1とも11とも解釈してよい。安心してヒットできる。
「じゃ、一枚もらいます」
9を引いた。Aを1とすれば12、11とすれば22だ。前回のフランドールのように、10が出ないことを祈りながらもう一枚引くしかない。
息をついてふと彼女を見やる。口を真一文字に結んで眉を寄せている。山札の隣に表向きに並べられたカードと自分の手札を見比べて、どうすべきか考えているのだろう。
フランドールが何かに反応するその度に、かわいいと思った。あまつさえ子供のように感じた。しかし彼女は吸血鬼、こいし以上に生きていてもおかしくはない(こいしは幻想郷縁起におけるフランドールの項を読んでおらず、彼女の年齢を知らない。自分が載っているものとは巻が違うためである)。彼女の知識からは結構だが、所作の部分からは年の功を感じられない。見た目相応か少し上の歳の人間が持ちうるおどおどした態度とどう自分の中で折り合いをつけるべきなのかがわからなかった。つい彼女のことを見た目相応の子供として扱ってしまうような気がした。
なんにせよ、ひとまず彼女のひどい緊張を解くことができたという点には安心した。これが一番大きな問題だったのだ。
「んー…… 引きます。まだあんまり(今までに引いたカードが)分岐に影響しないね」
そうして4ゲーム目。分岐を考えているのか、判断に少し時間がかかっているようだ。何かを呟いているのか、細かく唇を動かしている。
「ひとついいかしら」
「ん」
「どうやって山札の状態を覚えるのかなって」
「あー、んん。それぞれの数のカードが何枚引かれたかをAから10まで順番に暗唱してるの。さんいちさんにーいちいちさんにーいちはち、さんいちさんにーいちいちさんにーいちはち…… たとえば3が出たらさんいちよんにーいちいちさんにーいちはち」
常人離れしている。これを覚えておきながら、ヒットしたときに21を超える確率が0.5を超えるかどうかを計算しているのだろう。
「すごいね……」
えへへ。さんいちさんにーいちいちさんにーいちはち…… 曖昧で柔らかい笑みを一瞬だけ表して、また暗唱に戻る。
やっとわかった。彼女にとってトランプは、人を相手取った心理戦ではなく、単に盤面から最善手を選択し祈る遊びなのだ。完全情報ゲームで遊ぶことが先にあり、既に気が済むところまでそれを修めてしまったから、相手以外の場所に不確定要素がある不完全情報ゲームで遊ぼうと思っただけだったということだ。だから相手の顔を見る必要がない。
「思った通り。ゲームが進んでも管理する情報は増えない」
山札が尽きて、2勝5敗。判断の深さが勝敗に影響したと言っていいかもしれない。
「これがいつ何の役に立つかっていうと微妙ね。普通一回ごとに山札はリセットされる」
ゲームを終えた途端に饒舌になった。このゲームの結果に満足しているようだ。勝ったことではなく、考えたとおりの結果を得られたことに。
「山札がなくなるまでのゲームを事前に一万回シミュレートしてきたの。便利な時代になったものね。今日の結果はその集計結果にだいたい沿っているわ。楽しかった」
なぜあれほど緊張してまで目的もなくここまで来たかもわかった。そもそもこの問いが間違っていた。来ることそれ自体が目的であって、来てどうするかを決める必要が本人にはなかった。
「それはなにより。最初あんまり緊張してたもんだから、どうしたものかと思っていたわ」
「へへ…… 少しは外と関わりなさいって、追い出されちゃって」
パチュリーといい彼女といい、湿度の高い館である。人が長く籠もれば黴も生えよう。
「すごいスパルタね。きっとお姉さんが言ったのね。それからどうするの? ここだけじゃそこまで時間も潰せないでしょう」
「うん。この街に有名な鬼がいるらしいから、挨拶しようと思って」
街道を宿場のように取り仕切った気でいるあの鬼か。この街になんとなしの息苦しさを感じる原因である。我々のような嫌われ者を地下に閉じ込めたところで、結局それ同士で軋轢を生むだけらしい。
「ええ、まあ…… そうね、気が合うと思うわ。弱気を見せないようにね」
今回のテーマの一つが短期記憶です。ワーキングメモリーとも雑に言い換えられてしまいますが、実際にワークするときはワーキングメモリーを使うだけでなく、覚えておきたいことをできるだけ早く長期記憶に送るとより正確に覚えておくことができます。長期記憶へ送るには「周辺情報を知る」「情報を何度も反芻する」の2通りの方法があります。フランちゃんは後者を使いました。何度も暗唱しながら、更新される情報だけを更新して、また暗唱を続けます。「あー、んん。それぞれの数のカードが何枚引かれたかをAから10まで順番に暗唱してるの。さんいちさんにーいちいちさんにーいちはち、さんいちさんにーいちいちさんにーいちはち…… たとえば3が出たらさんいちよんにーいちいちさんにーいちはち」といったように。ことにWAISのワーキングメモリーのテストでは長期記憶の影響を排除していないので、うまく活用すると値が上振れます(短期記憶(短期間覚えておく機能)とワーキングメモリー(メモなしで作業するときに使う記憶機能全て)の意味の違いを考えるに、メモを使ってはいけないが回答にどれだけ時間をかけても許容されるというこのテストはやはり後者のワーキングメモリーを測っているのです)。フランちゃんが用いたこの方法を応用して、かけ算の筆算のプロセスを暗算してみましょう。心の中でかける数、かけられる数を念じながら、口では途中の計算結果を発音します。13と27をかけるなら、(13, 27...)「260...」(13, 27...)「260, 21, 70...」(ここで13と27は不要になったので捨てる)「260, 91...」「351」解けました。さらにどちらかがゾロ目の場合、覚える数を節約できますね。もしかしたら内言を日常的に発していない人には他の方法が合っているかもしれません。
他のテーマは限局的な興味と社交不安です。前者の言葉が使われるときその対象に他人は入っていません。他人以外への興味が強いので、人に対してその人についての情報を会話の中で聞き出すことをしません。人との会話は、自分が持つ非属人的な情報を共有するときや生活上必須の情報を交換しなければならないときにたいてい発生します。なので、興味が合わないか、合うかどうかまだわからない相手との会話で主体性を持つことが難しいのです。一転、会話の内容が自分の守備範囲に入るとそれまでの遅れを取り戻すかのように突然饒舌になります。単に属人的な話題の引き出しが少ないだけです。これは「オタク特有の早口」のひとつの正体です(ここまでオタク特有の早口)。
一応、属人的な情報に興味を示すことはあります。しかしそれはあくまで情報として興味があるだけなので、聞いてはいてもリアクションに乏しいです。「彼はピカチュウのぬいぐるみを気に入っていた」「引っ越しをしたらどのダンボールにもそのぬいぐるみが入っていなかった」「彼は悲しんだ」という情報でしかないのです。その人との会話や関係を継続するために覚えておくべき事柄でしかないので、なぜ今その話を相手がしてきたのかを推測しません。
フランちゃんがこんな様子だとなぜか愛らしさを増幅すると思いませんか?