弟に夜這いすると、
弟が父親に相談し、
姉は引き離されました。
『――お姉ちゃんを虐めたいでしょう?』
『――お姉ちゃんを苦しめたいでしょう?』
姉と離れてから5年経つ。ようやく私は、姉の言葉は正しかったのだと理解した。私に崇高な願望なんてものは存在しなかった。父よりも誰よりも『姉』が、私の事を理解していたのだと思い知った。どうしようもなく私は、おぞましい。この世に生を受けた時から私は、他人の絶望を快楽としていたのだ。
もはや、これ以上の生は無意味だろう。何をしても私の性根は変わらない。そう判断した私は、妻の下へ向かった。私が選んだ、私の妻だ。妻を迎えた義務として、先に逝くことを伝えておかねばなるまい。私の妻は体に欠陥がある。余命は短く、病床に伏していた。
「妻よ、私は――」
「やっほー、綺礼! お姉ちゃんが帰ってきたよー! 綺礼の愛しのお姉ちゃんだよー!」
そう言って姉は、扉を蹴破ってきた。文字通り、扉を蹴破っていた。無惨に砕かれた扉が、ガラガラと床に転がる。よほど急いできたらしく、姉は息を切らせていた。その様に唖然とする私へ、その勢いを止めないまま姉は飛びつく。そうして5年前と変わらず、成長の見られない平たい胸を、私の体に押し付けた。
「綺礼、キスしよう! おかえりのキス!」
「止めてください、姉さん」
突き出される姉の顔を、私は押し返す。しかし姉の体を引き離そうと試みても、姉の体は少しも動かなかった。柔らかいのは表面だけで、姉の腕の強度は鉄のようだ。固く私を拘束し、捕えて逃がさない。この5年間で私も鍛えていたものの、それを超える馬鹿力だった。
「挨拶のキスくらい、外国じゃ普通だって!」
「時と場合を考えてください」
妻の前だ……いや、姉は私が結婚していると知らないのか。5年間から姉は、手紙を交わす事も禁じられている場所にいたらしい。父に姉の行方を聞いても教えてはくれなかった。そんな姉と格闘する私を見て、妻は笑い声を漏らす。その声に気付いて姉は『いま初めて妻の存在に気付いたような様子』で、ベッドで横になっている妻を見た。
「私の妻です」
「へー、もう結婚したんだ」
「結婚して2年ほど経ちます」
「でも、今にも死にそうだね」
何の迷いもなく、その事実を姉は指摘した。
「……姉さん」
「病気で死ぬ前に、綺礼が殺してあげたら?」
当然のような口調で姉は言う。病魔に冒され苦しむ妻の前で、そんな異常な事を平然と口にした。5年前と何一つ、姉は変わっていない。異常な私の姉らしい、これが私の姉だった。私や姉のような存在が、なぜ崇高な父から産まれたのか理解に苦しむ。私や姉は拾い子なのではないのかと疑いたい。
「だって病魔に殺されるよりも、大好きな綺礼に殺された方が幸せでしょ?」
「姉さん、妻の心を痛めるような真似は止めてください」
「貴方も病魔に殺されるよりも、綺礼に殺されたいって思ってるよね――だって、綺礼を愛しているんでしょ?」
なぜ愛している事が、妻を殺す事に繋がるのか。愛しているのならば、妻に生きて欲しいと思うものだろう。私も妻に生きて欲しいと思っている。逆に死ぬべきは私なのだ。他人が美しいと感じるものを、醜いと感じてしまう私だ。もはや私に生きる価値はなかった。
「私は綺礼を愛しています」
神へ誓うように、妻は告げる。
「でも私は綺礼に、殺人の罪を負わせたくはありません」
妻よ、私の存在そのものが罪なのだ。
「綺礼のため。綺礼に罪を負わせないため。自分を殺させない――それも愛ね」
姉は嬉しそうに言う。妻の言葉を聞いて、心からの笑みを浮かべていた。それが姉の得た『答え』なのだろう。愛こそが、姉の願望だ。愛のためならば殺人を肯定する『悪』であり、愛しているから殺人を行わない事を肯定する『善』でもある。どうしようもなく悪でしかない私とは異なる、愛の化身だった。
「綺礼は、どうしたい?」
「私も妻と同じ気持ちだ」
愛しているのなら、私に妻を殺せというのか?
愛を証明するために、私に妻を殺せというのか?
「自分の手で殺さないと、きっと綺礼は後悔するよ。だって愛しているんでしょう? 愛しているから綺礼は殺したいの。愛しているから苦しめたいと思っているの」
「それは――」
そんな事は分からない。姉の言う通り、私は妻を愛しているのだろうか? たしかに私は、妻の絶望する顔を見たいと思っている。しかし、この感情が妻に対する愛情を元とする物なのかは分からない。絶望する顔を見ることが出来るのならば、私は誰でも良いのではないか?
もしも『妻を愛しているから苦しめたい』と思っているとしても、『愛しているから』という理由は言い訳にならない。しかし、その境目を姉は、軽々と越えて行く。愛を常識とする姉に、一般常識は通用しなかった。こんな私ですら持つ良識を、姉は欠片も持っていない。
「――姉さん、私は生きるべき存在ではないのだ」
「そんな事はないよ。だって、私が綺礼を愛しているから!」
「愛しているから何だと言うのだ、姉さん! そんな物は何の役にも立たない!」
私が悩み、苦しんだ結果の『答え』を姉は否定する。たしかに姉は、5年も前から私の性根を知っていた。だからと言って、私の『答え』を否定する事は許せない。私は生まれるべきではなかった。もはや生きる価値などない。それは確かな『答え』だ。長年の努力の末に得た、私の『答え』だった。
「――そんな事はないわ、綺礼」
妻は言う。
「貴方は生きてもいいの」
その手にナイフを持って、
「貴方は悲しむ事ができるから」
自らの体に突き刺した。
「愚かな事を!」
妻の体から鮮血が飛び散る。病魔に蝕まれた妻の体は、危ういバランスで保たれている。小さな傷から細菌が入り、致命傷となる事もあるのだ。いいや、そんな問題ではない。妻の傷は細菌に感染するまでもなく致命傷だった。私は妻に駆け寄り、無駄と知りつつも止血を行う。
「……ほら、貴方は泣いているもの」
妻の言葉を聞いて、私は自身の目に触れる。そこには確かに涙があった……だが、違う。これは違うのだ、妻よ。私は自身の手で、妻を殺せなかった事を後悔していた。果たして私は『妻を愛しているから殺したかった』のだろうか。それとも『妻を絶望させたかったから殺したかった』のだろうか?
「――それも愛、これも愛」
歌うように姉は言う。妻の自殺を見ても、死に瀕している妻を見ても、いつもと変わらぬ様子で姉はいた。慌てることもなく、騒ぐこともなく、助けを呼ぶこともなく、妻の死を見届けた。そうして血塗れの妻に近寄り、愛おしそうに姉は死骸を撫でる。その様子を私は何もせず、ただ呆然と眺めていた。
「大丈夫、安心して、私が一緒に居てあげるから。いつか綺礼と一つになって、貴方の愛を満たしてあげる。だから今は、私の中で眠りなさい」
――メルトアウト
目の前で濁流が生まれる。姉が何をしたのか、私には分からなかった。気付けば私は水に飲まれ、グルグルと底へ沈んで行く。腕に抱いていた妻の体が、水の流れに奪われた。妻の死骸は濁流の底へ沈んで行く。それと反するように、私の体は何処かへ浮上していった。
――待て、待ってくれ!
叫ぶ声は形にならない。もはや私の声は、妻に届かなかった。ゴボゴボと泡を鳴らし、水を飲む。息が止まる、呼吸ができなかった。その間にも妻の体は底へ沈んで行く。暗い水の底へ沈んで行った。しかし私の手は短く、妻の体に届かない。水が体に纏わり付き、私の行動を阻害していた。やがて妻の体は、濁流の底へ消える。
その日、私は『答え』を失った。