「もう行くんですか、桑山さん」
翌日の早朝。
洋館から少し離れた吊り橋付近を歩く桑山さんの背中へ、俺は声をかけた。
落とされていたはずの吊り橋はいつの間にか元通りになっていて、これも『A』からの手向けなのだろう。
「……お弟子さん?」
彼女は反応を示すものの、こちらへは振り返らない。
片手に小さな旅行カバンだけを持ち、軽装のせいか湿気を含む朝霧が妙に寒々しく見えてしまう。
俺の心にあるのは寂しさと奇妙な納得だけだが、みんなに挨拶もなく行ってしまう理由はやっぱり聞いておきたかった。
「一言くらい、いいんじゃないですか?」
俺の言葉にようやく桑山さんが振り向く。
その表情に浮かぶのは、悲し気な後悔と罪悪感だ。
「理由はどうあれ、あの事件で私が愛依ちゃんを傷付けた事実に変わりはありません。……なんにもなかった顔で、みんなと一緒にはいられないんです」
「……私は構わないと思いますよ。大崎さんがあんなにショックを受けたのだって、桑山さんとの楽しい記憶があってこそでしょう」
「ありがとう、ございます。でも、だからこそ、なんです」
「?」
意味深な返答に俺が首を傾げると、ようやく彼女は少し柔らかな微笑みを見せてくれた。
「だからこそ、まず愛依ちゃんに謝罪をしたいんです。彼女の求める償いを果たせたなら、その後合流したいと」
「……そう、ですか」
俺は軽く下唇を噛みながら、その決意の固さを思い知る。
そこまで考えているのなら、帰って来る事が前提なのなら、止める事などできない。
だから俺は姿勢を正し、真っすぐ桑山さんへ視線を向けて告げた。
「では、私から一つだけ助言を」
「……? 助言、ですか?」
「ええ。私はここ数か月、探偵の皆さんと交流を持ち、多くの時間を過ごしました。もちろん、その中には和泉さんもいらっしゃいます」
「は、はい……。ええと、それが……?」
戸惑いを見せる桑山さんへ、俺は静かに微笑んだ。
「わずかながら和泉さんのことを知る者からの助言です。……彼女は誠意を持って謝罪する人間を責め立てる人ではありません。だから」
桑山さんは息を飲んだが、俺は構わず続ける。
「部屋を空けて、待っています。みんなへは、『少し』合流が遅れると伝えておきましょう」
「お弟子さん……」
何か彼女の胸に届くものがあったのか、瞳を閉じ俯いてしまったが、やがて上げた顔にあったのは吹っ切れたような笑顔だ。
「ええ、ありがとうございます……! 行ってきますね、お弟子さん……!」
「はい、早いお戻りを」
胸に右手を添えて見せた俺へ桑山さんはもう一度微笑み、朝霧の中へ消えて行く。
わずかな余韻の残る中、俺の背後からとある声が届いた。
「お弟子さん……千雪さん、大丈夫だよね?」
心配そうな表情を浮かべて立っていたのは大崎さんだ。
その後ろには園田さん、幽谷さんの姿も見られる。
俺は一つ頷いて、目を細めた。
「相手は和泉さんですから。私達は信じて待ちましょう」
俺の言葉に園田さんが元気よく、うんうんと大きく頷く。
「そ、そうですよねっ! 私も今できる最善はそれだと思います!」
そして俺はその後ろで肩をすくめている幽谷さんへ声をかけた。
「幽谷さんもお気になさらず、ですよ。貴女が嘘を吐いた理由はみんな知っていますし、責める人もいないんですから」
「は、はい……。でも、落ち着くまで時間は、もう少し……かかりそう、です」
「ええ、ゆっくりでいいですよ。待つのは割と得意な方なので」
「……あ、ありがとう、ございます」
俺の返答に幽谷さんは俯きがちなまま答えたが、多分彼女のわだかまりも時間が解決してくれるのだろう。
なにせ――。
「これからみんな一緒に283パレスで生活することになるんですから。……ええ、きっと悩む暇なんてないほどの、騒がしい日々が待っています」
そう俺が苦笑すると、今度は八宮さんが姿を現し、朗らかに笑って見せた。
「あははっ、そうそう! 細かいことは気にしないのが一番だよ! お弟子さんの言う通り、何とかなるってわたしも思うな!」
その口調はみんなが知るものだったので、勢いに押されるまま俺達は笑い合う。
そして大崎さん、園田さん、幽谷さんが吊り橋へ向かって歩き出した。
「じゃあ、お弟子さん。甘奈達も一旦、帰るね?」
「でも、すぐに荷物をまとめて、みんなで来ますから!」
「こ、心の整理は、しておきます……」
「は、ははっ、それは……まあ、本当にゆっくりでいいですよ……」
俺の引きつった笑いを可笑しそうに眺めながら、三人は吊り橋を渡り、去って行く。
やがて取り残された八宮さんが、静かな口調で話し始めた。
「一晩かけて考えたんだ、身の振り方」
「……決まりましたか?」
彼女はいつもの明るさを少し潜めて、続ける。
「うん、ここでお世話になろうかなって。一人じゃなく、群れの中で自分の色を探して見ようと思う」
その答えに俺は目を伏せつつ、いつも通りの口調で答えた。
「それもいいと思います。櫻木さん、風野さんだけではなく、みんな喜んでくれますよ」
「……そうかな? わたし、上手く距離感とか掴めないかもって思うけど」
「それも一つの色です。少なくとも私には綺麗に見えていますから、相談があればいつでも乗りますよ」
すると八宮さんは声を中性的なものへ変え、答えて見せる。
「ふふ、言うじゃないか。こちらこそ、業界的な知識や技術であれば協力するよ。ギブ・アンド・テイクとは言わない。欲しいだけ、持って行くといい」
「え、欲しいだけ……って」
予想外の提案に慌ててしまったが、八宮さんはこちらを見て悪戯っぽく笑うだけだ。
「見返りは要らない。……私なりの信頼さ」
「え、ええ……?」
なんだかまた、釣り合いが取れないというか破格の条件だなと感じつつも、俺は内心で彼女が語った言葉を思い出す。
『真乃とか灯織とか、他のみんなは自分の色を知ってる。自分の居場所を知ってる。……けど、わたしは知らない。だから、立ち位置が分からないんだ』
……結局のところ、俺が提供できるのは場所と時間だけで、答えは彼女自身が見つけなければならないのだろう。
だが、今回の俺がそうであったように、行き詰まってもこれからは助言をしてくれる仲間がいる。
新しい視点から世界を見れば、違う姿も現れてくるはずだ。
「あははっ、でも、もう答えは出ちゃったかなーって気もしてるよ?」
いつの間にか俺の知っている八宮さんに戻っていた彼女は、明るい笑顔で頬を綻ばせる。
「え、もう、ですか?」
「うん! だって、さっきお弟子さんが言ってくれたでしょ? 『綺麗に見える』って!」
そして吊り橋へ足を乗せ、先へ進みながら大きく手を振った。
「それで充分って思えたから! だからわたしは、ここで生活しながらみんなの色をもっと知りたいんだ! いいところも、わるいところも全部見つけて、綺麗だよって言ってあげられるように!」
「……! そう、ですか!」
朝霧の中へ消えて行く彼女に、俺は最後の言葉を投げかける。
「それこそ、謎があったら解き明かさずにはいられない探偵の性ですね! 油断のできない、刺激的な日々を送れそうです!」
その言葉が八宮さんへ届いたかどうかは分からない。
みんなの姿は朝霧の向こう側へ行ってしまい、洋館側に取り残されたのは俺一人。
耳が痛くなるような朝の沈黙だったが、俺の胸は静かな高鳴りを覚えていた。
「さて。……忙しくなるな、これから」
なにせ、25人だ。
全員分の部屋があるとはいえ、むちゃくちゃもいいところ。
はづきさんは戻るらしいけど、『A』は姿を消し、怪盗283を始めとした大所帯となる。
「まったく、身体がいくつあっても足りなさそうだ」
俺はそう呟き、洋館こと283パレスへ一人、足を向けた。
いつの間にか朝霧は晴れ、頭上に青い空が広がり、滲むような白い雲が瞳へ映る。
やがて視界に現れた283パレスの外観を見上げた時、ふと誰かに呼ばれた気がして振り返った。
「……え?」
そこにあったのは一つの幻。
玄関前の広場に25人全員が揃い、目を細め、こちらへ幸せそうな笑顔を向けていた。
しかし、瞬きをした間にその光景は立ち消え、視界は元に戻ってしまう。
俺はしばらく目を瞬かせてしまったが、一つ息を吐いた後、再びパレスのドアノブへ手を掛ける。
そして最後に、
「賑やかなのはいいけど、誰が部屋の掃除をすると思ってるんだか。それだけで一日が終わるっての」
と、左右の人差し指で口角を引き上げながら、ぼやいたのだった。