柱島泊地日記帳   作:まちた

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教え②

 同日、時刻ヒトマルヒトヒト。

 

 東京都豊島区、東池袋。

 オフィス街と住宅街が入り組むその地の一角に、物々しい雰囲気の建物がある。

 

――巣鴨拘置所。そこは軍事刑務所でもあり、陸海軍にて重大な犯罪、軍規違反を犯した者が収容される場所である。

 第二次大侵攻より前には伽藍洞とも言うべきただのハリボテだったその場所は、見るも無残なボロ屋だったのが嘘のように小奇麗に改装されていた。

 小奇麗というのは外観だけの話で、中身はと言えばボロのままではある。外観と内装の対比が不気味さを醸し、多く配置されている陸軍所属の軍人が警備に当たる様は通行人を自然と減らし、辺りは閑散としたものだった。

 

 道を一つ二つと抜ければ人通りが一気に多くなるところから、近隣住民からは《地獄通り》とも呼ばれているらしいとは、近所にあるコンビニに買い物へ出かけた時に偶然立ち話を聞いた軍人の言である。

 

 言い得て妙、というより、その恐ろしい名前が浸透して欲しいと零す男が一人。

 

「ここまでの道が地獄通りというのならば、ここは地獄だ。地獄の沙汰も終わったというわけだから、貴様がいくら口を閉ざそうがどうにもならんということでもあるが、どう考える?」

 

「……ふん」

 

「っくくく、たかだか数ヵ月程度で口を割るとは思っていないが、やはり貴様も軍人の端くれではあったという証拠で嬉しく思うぞ――金森ィ……?」

 

 金森正平(かなもりしょうへい)――日本海軍所属の、()中将。

 かの者は多くの軍規違反を犯したとして軍事裁判にかけられ、名目二十年、死刑を免れてここ巣鴨拘置所に収容される運びとなった。

 死刑こそ免れているが、二十年という長い月日をこの拘置所で過ごすとなれば希望など既に無い。どれだけ模範的な生活をしようとも減刑などあり得るはずもなく、海軍大臣の井之上と、陸軍大臣、内閣総理大臣から、法務大臣と四大巨塔、いやさ、四枚の分厚い壁が金森を囲っている。

 

 軍人として死ぬ以外で考えうる最大限の絶望の中にいるのだ。

 

 しかし金森は一向に口を割る気配など無かった。

 

 艦娘の轟沈数の差異から、ありとあらゆる不正、人類存続が危ぶまれた第二次大侵攻における楠木少将との接触についてなど、彼は情報の塊でもあるため、死刑にできなかったというのが政治的、軍事的な真意であるというのは、野暮だろう。

 

 取調室として使われている頑強な鉄格子のはめ込まれた窓が一つしかなく、たった六畳ほどの一室にて、金森の正面に座る男――陸軍法務部中将は笑う。

 《猟犬》だとか《狂犬》だとか呼ばれるようになった松岡忠(まつおかただし)は、その名に恥じぬ鋭い眼光と健康的で獰猛な歯を見せつけるようニヤリと笑いながら、机の上に置かれた金森の手首をガツンと音を立てて殴りつけた。

 手錠がぎりりと締まり、ぐ、と声を漏らす金森だったが、それでも態度を崩さず、また鼻を鳴らす。

 

「っは、殺せないならば尋問、拷問……陸軍は成長の欠片も無いのだな。どうした、ほら、もっと殴れ。殴り殺してみろ。ん?」

 

 腐っても軍人。時が経てど軍人。

 収容されたばかりの時は肥えていた金森も、異様な痩せ方をしていた。

 顔は膨れたまま、胴回りの脂肪だけが落ちて余った皮がだるんと乗っている姿は地獄と呼ばれる巣鴨拘置所の住人に相応しいもので、この地において安寧など無かった。

 

「自暴自棄になれば殺してもらえるとでも思っているのか? 安心しろ、自分とて軍規違反はしていなかったとは言え、軍規に殉ずるかと問われたらば否と答える側の軍人だった。お前を責め立てる道理など無い……が、悪いがこれも俺の仕事なのだ」

 

 ガツン! ガツン! ガツン!

 

「ぐっ、ぐぁっ……がぁっ……!」

 

「改めて質問する。舞鶴での轟沈数の差異はまだ正されていない。思い出せ。嫌でも、思い出せ」

 

 ガツン! ガツン! ガツン!

 

「ぐぅぅぅッ……!」

 

「安心しろ。ここには名医が揃っている。恐れ多くも海原元帥閣下をお救いした軍医も何名かいるぞ。つい最近になって異動になったとのことだ。幸運だな?」

 

 ガツン! ガツン! ガツン!

 

「や、やめ、やめろッ! クソッタレが! クソッタレの犬が! 兵器に情けをかけるキチガイどもが!」

 

 ガツン! ガツン! ガツン!

 

「あ、ぁぁッ……ぐ、ぅ……!」

 

 ガツ……コツン……。

 

「ふぅ……おや、どうした金森。手首から血が出ているじゃないか。全く困ったものだ、そうして腕を机に打ち付けるなどと《自傷行為》をしてもらってはこちらも対応せねばならんだろう?」

 

「うぅ……うぅぅぅぅ……ッ!」

 

 何度も何度も手錠の上から手首を殴りつけた松岡は、まるで何も無かったかのような涼し気な顔をして部屋の外へ声をかける。

 

「おい! 医療班を寄越せ! クソの始末の時間だ!」

 

 痛みを耐えるためか、ぜえぜえと息を吐き出す金森の目の前、松岡の背後にある重厚な扉が開かれる。

 現れたのは、金森が何度か目にしたことのある軍医だった。

 何も語らず、何も感情を示さず、ただただ呼ばれては治療するだけの、これまた不気味な男。すらりとした体躯に、機械的な動きが特徴の、眼鏡をかけた姿。

 ただその男、抜群に腕が良かった。

 治療の際にその軍医にかかれば痛みなど殆ど感じる事もなく、あっという間に適切な処置を施される。

 

 ものの数分で処置をした男は、声のひとつも発さずに革製の茶色い大きなバッグに包帯やら消毒液を詰め込んでさっさと出て行ってしまう。

 

 そうして、また――質問の時間がやってくる。

 

「数ヵ月もすれば流れ作業だな。これはいかん兆候だ。なあ?」

 

「く、そ……キチガイめ……がぁっ!?」

 

 恨み言を吐き出した金森の肋骨から腹部にかけて、机が強く押し付けられ、衝撃で後ろに飛ぶ。すぐ後ろには窓と壁しかなく、金森はその場で後頭部を強くぶつけた。

 

「陸軍は成長の欠片も無い、だったか? 貴様の言う通りだと常々思っているよ。自分らはこういったやり方しか知らんのでなあ……それで、まだ話す気にはならんか? え?」

 

 金森に向かって机を蹴った勢いで足を組んだ松岡は、机から落ちそうになった書類を器用に指先でキャッチしており、それをぴらぴらと振って示した。

 そこには多くの艦娘の名が記載されていたが、その横には轟沈、と書かれていたり、行方不明や解体、といった文字も見える。

 

「……」

 

「はぁ……俺も暇ではないのだ、なあ、金森。分かってくれんか? こうして貴様にだけ時間を割いて延々と茶を飲んでいるわけにもいかん。俺以外にだって話すチャンスは何度もあったはずだ。なのにどうして話してくれんのだ?」

 

「……」

 

「俺が巣鴨へ顔を出すのなんてまだ数度目だが、こうして()()()話し合いの場を設けてやったのは何度目だ。うん? 教えてくれんか?」

 

「……」

 

 じっと目を伏せて黙りこくる金森。

 分厚い鉄格子とガラス板の向こうから差し込む陽射しを背に受けながら、また、小さく鼻を鳴らした。

 

 その途端に松岡は立ち上がって瞬時にこぶしを握り締め、金森の顔面へ向かって振りぬく。

 横っ面を殴られた金森は勢いにのって椅子に座ったまま倒れ込み、リノリウムの床にべしゃんと口づけた。

 

「ぐ、ぶぅぁ……!」

 

「こうして話し合いの場を設けたのは何度目だ? 教えて、くれるか?」

 

「ぐ、ぐふっ……ぶぁ……う、うぅ……!」

 

 倒れ込んだ金森に近づいて椅子ごと起き上がらせると、松岡は頬を弱く叩きながら言う。

 

「言え、ほれ」

 

「よ、ん、じゅ……ぅ……なな、かい……」

 

「よーしよし。偉いな。しっかり話せるじゃないか」

 

「……チ……ガイ……め……」

 

「……今のは聞かなかった事にしてやるから、次の質問に答えろ」

 

 ふいと背を向けてから椅子に座りなおした松岡の姿を見て、金森は強気な態度のままではあったが、心のうちでは舌を打ち後悔していた。

 

 こうした尋問の時間は収容されてから一日に一度、長くとも三日に一度は設けられており、収容される前の舞鶴鎮守府の運営について事細かに聴取された。

 しかし、松岡が来るとき以外は形式ばったもので、黙っていれば何時間と拘束されはしても朝から晩まで黙るだけで収容室……牢に戻れたのだ。

 

 だが、この男には通用しない。

 

 大義名分を背負えば狂った暴力であろうが正義となるなど身に染みて理解している金森でさえ、身震いしてしまう。

 

 まずもって、松岡に正義などという名分は存在しないのだ。

 

 こいつは、この軍人は――

 

「さっさと話してくれよ。俺もこの後の仕事が残っているのでな」

 

 ――この暴力でさえ、仕事だと言い張っていやがる!

 こいつに正義も悪も、クソも無い!

 

 包帯の下からじわりと滲む血と、口内を満たす鉄の味。

 ぎりりと痛む頬や腹部に意識を奪われながら、金森はそれでも、情報を小出しにした。

 その理由は単純なものだった。

 

 こうなったら全員を苦しめてやる、それだけだった。

 

「轟沈数の、差異、か……は、はは……! 貴様が、ペンの一つが無くなっただけで騒ぎ立てるような狭量な男だったとはな……は、はははっ! ぐっ……はははは……!」

 

 痛みに顔を顰めながら笑う金森に、松岡は一瞬きょとんとしたが、次の瞬間には書類を机に置きながら大笑いした。

 

「狭量とは、はっはっは! 確かに、ペン一つ程度が無くなって騒いでいれば狭量と言われても仕方がないか! はっはっはっはっは! これはまいった!」

 

 そして

 

「はっはっは……はぁ」

 

 ダァン! という破裂音。

 否が応でも金森の身体は硬直し、鼻腔を突き刺すような硝煙の匂いと、金森のこめかみから数センチずれた壁に空いた穴に恐怖する。

 

「仕事だから我慢してやるが、貴様の言う通り俺は狭量だ。必要とあらば貴様の両手足を切り落としてクソを垂れ流すことしか出来ない肉袋にしたって構わんのだ。口と頭さえついていれば話せる」

 

「う、うぅぅっ……うぅううぅぅううぅぅう――!」

 

 恐怖には五段階あるらしい、と突然穏やかな口調で話し始めた松岡に、金森の震えが大きくなる。

 

「死を受容するのに恐怖という感情を用いて、それらを五段階に分けた考え方らしいのだが……ああ、恐ろしい内容の話ではないぞ? ほら、世間話だ。楽にしろ、楽に」

 

 いつ取り出したのか、腰のホルスターへ拳銃を収めながら言う松岡。

 金森に聞かないなどという選択があるはずもなかった。

 

「俺もこの年齢で、こんな特殊な仕事に就いているものだから家族のことなど考えもできんでな……。たまには本のひとつやふたつでも読んで気を落ち着かせたり、学んだりすべきだろうと思って買ったものの内容なんだ。ほれ、親孝行をする前には親はおらず、とも言うだろう。少しは成長したんだと親を安心させるための、勉強というやつだ」

 

「ぅ……ぅぅ……!」

 

「人というものはいつか死ぬものだ。故に、日々を懸命に――ふふ、これでは話が逸れてしまうか。ああ、これは俺の性格でもなんでもないんだぞ? 本当だ。これはなあ、海原閣下に似てしまったのかもしれんなあ……ほれ、ここに居ても新聞くらい読んでいるだろう、貴様も」

 

 がたがたと椅子が音を立てるくらいに震える金森を穏やかに見つめ、まるで友人に話しかけるかのような雰囲気は、得体の知れない恐怖を生み出す。

 

「あのお方といったら、方々で仕事をこなす傍らで本など読んで過ごしているというのだから……。おっと、また話が逸れたな。そう、そうだ、死ぬ瞬間、という本があってな?」

 

「……」

 

「多くを見送ったある精神科医の著書なのだが、これまた考えさせられる本だったのだ。医療に携わるものならば読んで損はないとうちの軍医も言っていたよ」

 

 軍医とは、先ほどの無口な男のことだろうか?

 そうして意識を逸らそうにも、背を這いまわるような恐怖は消えず。

 

「死とは瞬間的な事ではなく、長期的なものであるらしい。それらを五段階に分け、最終的な死というものへ辿り着く過程が書かれた画期的なものだった。まず一段階目は、否認し、孤立するという」

 

 こんなくだらない話に耳を傾けてはダメだ! 奴の思うつぼだ!

 思えども思えども、松岡の声以外に音は無かった。

 

「自らの命が短いと知るや感情的になって否定してしまうのだと。しかし周囲はそれらに対して受け入れるしかない、まして自分のことではないのだから落ち着いたものだ。本人と周囲に温度差が生じるだろう? すると、孤立してしまうのだと書いてあった。どれだけ冷静に質問しようが、がなり立てて知らぬ、存ぜぬ、うるさい、とな」

 

「……あ、ぁ」

 

 何か、引っかかる。

 

「次の段階は、怒りだそうだ。どうしようもない事実として受け止めたところで、自分がその状況にあることに対して周囲に反発し、怒る」

 

 そうだ、自分は確かに兵器として扱ったが、戦果は挙げていた。それは間違いないだろう。

 だがどうだろうか、一拍の間を置いて思考が逆回転し始める。

 

 兵器として扱い、戦果を挙げて国民を守っていたが、そこに多くの介入があったのもまた事実。自分(金森)だけでなく、八代や郷田、山元や清水だってそうじゃないか。楠木にそそのかされたのは自分だけじゃない!

 

「怒りを通り越した三段階目に、取引、というものがある。死を先延ばしに出来ないかあらゆる手を尽くすのだそうだ。延命治療だったり、カウンセリングを通してのセカンドオピニオンであったり……まあ、人間らしいものだ」

 

 郷田や山元はどうなっている!? 清水は!

 収容されるならばそいつらだって同罪だ!

 私よりもそいつらの方が多くの情報を握っているぞ!

 

 そう、訴えたことを思い出した。

 

「そうして、本当にどうにもならないのだと悟ると、抑うつ症状が出る。絶望し、諦め、落ち込みに落ち込んで……中には食事すらままならなくなる人もいるのだと。それはそうだな、死を許容するなど到底出来ようはずもない。誰だって怖い、誰だって避けたい、でも避けられないとなれば飯を食う気も失せるというもんだ」

 

「ぁ、ぁあぁぁ……ッ!」

 

「最後……五段階目になって、ようやく受容し、価値観が一変して穏やかになるのだそうだ。こうして、人は生きて死ぬのかと考えさせられたよ。出来る事ならば、両親には苦しんで欲しくない。どれだけの苦難があれど、外的要因でこの段階をすっとばすような死に方などして欲しくないなと思った」

 

 金森は、数ヵ月間一度としてしなかった目をしていた。

 恐怖していた。次ぐ、松岡の言葉に。

 

「我々とは違う世界があるのだと知って、勉強になったよ」

 

 松岡は立ち上がってホルスターへ手を伸ばす。

 

「ま、まま、ま、て……ま、待て! 待ってッ! 待ってくれ!! 頼む!! 頼むから待ってくれ!!」

 

「……」

 

 ぱちん、と留め金が外され、革と金属が擦れる音が大きく響いた。

 

「嫌だ! 分かった! 分かった、悪かった! もうしない! できない! な!? 出来ないだろうこんな場所じゃあ! 悪さなんて考えもしない! やめてくれ! 頼む! 頼むから! あああああッ! ヤダァッ! ひぃいいぃぃいいいッ!」

 

 耐えられたはずの痛みが、我慢できないはずじゃないのに、我慢できなくなっていた。

 

「理解したか金森。これは海軍元帥、井之上閣下の温情であると。お前は段階を踏んで死を理解する時間を与えられた。それは他の軍人にも、艦娘達にも与えられない最大限の温情だ。さらにはここで死を迎えようとも凄惨なものにはしないという考えられない程の慈悲がある」

 

 松岡の流れるような手つきが自動拳銃のスライドへいき、ちゃりんと残弾を確認しているのが恐ろしかった。

 気にも留めなかった行動の一つ一つが、あらゆる形の恐怖となって金森の心臓を攻撃した。

 

「――我々に死への段階など存在せん。あるのは、ここで死ぬか、先で死ぬかの違いでしかない。貴様が軍人ならばここで頭を噴き飛ばしていた、が……」

 

 ホルスターへ再び収められる拳銃。

 

「……元軍人のお前には段階が発生した。死刑を免れたことを喜べ。改心出来ないのならば情報を喋ったあとでいくらでも好きに黙って静かに過ごせ。ゆっくりと、穏やかに死ぬまでな」

 

「ひぃ……ひぃっ……げほっ、ごほ、ごほごほっ!」

 

 驚くくらいに汗びっしょりになった金森を一瞥して、松岡は蹴り飛ばした机を片手で引いて元の位置へ戻し、腕時計を確認して言う。

 

「さて……金森。質問の時間だ。俺が相手ではないからと言って、誤魔化すなよ」

 

「うぅ……」

 

「おい! 交代だ!」

 

 松岡の怒鳴り声ですっ飛んできたのは、金森にとってはいつもの聴取相手だった。

 一つ違うのは――金森の目には、その男が死神に見えるということだ。

 

 

 

* * *

 

 

 

「申し訳ございません松岡中将閣下……ご足労いただいた上に聴取まで……」

 

「構わん。ようやく進展出来たのだ、銃弾一発で御の字だろう。薬莢はそちらで処分しろ。それと壁の修繕に業者を手配して――」

 

「あ、相変わらず剛毅と申しますか、いやはや……」

 

「あん? 何だ、代わりに金森を撃ちたかったのか?」

 

「いえいえいえ! 滅相もありません! そういった意味ではなく、口を割らなかった金森中将をああまで変えるとは、と」

 

「ただの、金森だ。間違えるな」

 

「ッ……失礼、いたしました……その、強情だった金森の口を割った手腕が、素晴らしいと……」

 

 拘置所の敷地内の隅に隠すようにして設置されたバケツの前で、松岡はそれを見下しながら言った。

 

「……掃除用か?」

 

 言わずもがな、バケツを指しているであろうことは明白だが、中には多くの煙草の吸殻がうずたかく積もっている。

 松岡に随行していた男は、気まずそうに「撤去を――」と口にするが、松岡がポケットから煙草を取り出したことに驚きながら、機転を利かせた。

 

「……掃除用であります」

 

「なるほどな、掃除用か。ならば転がっていても不思議ではないが、普段は片付けておくように。今回は不問とする」

 

「っは、申し訳ありませんでした」

 

 煙草をくわえて火を灯し、ふう、と紫煙が空を舞う。

 松岡は淡々と言う。

 

「今後また口を閉ざすようであれば、違う手を用意しろ。して、今回まとめられたものは?」

 

「こちらです。轟沈数の差異の修正ですが、一度海軍へ確認をとった方がよろしいかと愚考します」

 

 差し出された書類を受け取り、くわえ煙草の煙に目を細めながら読み込む松岡。

 それをじっと待つ男は、通りがかる警備に何でもないからと手を振って追い払う。

 

「確認は当然として、何名かは思い出せんとあるのは、なんだ?」

 

「えぇ、何度聞いても、思い出せんようでして……それだけ杜撰な管理がされていたという事でしょう。話の殆どはどの艦娘に乱暴をしただの、躾だといって閉じ込めただのというものばかりでした。出撃のていを取り、雷撃処分ののち、資源として持ち帰らせたと証言も取れていますから、もしかすると記憶に無いだけで同じく処分されているものと見ています」

 

「……俺を馬鹿にしているのか?」

 

「えっ!? は、いや、そのようなことは――!」

 

 いきなり声を低くした松岡にびくりと震えた男は、直立不動で首を振る。

 

「ここ、これを見ろ。仮に不明となっている艦娘が雷撃処分されたとして、どうして資源を持ち帰らせるつもりだ」

 

 煙草を指し棒がわりに書類を示す松岡に、覗き込む男。

 

「と、言いますのは……」

 

 そこには、行方不明とされている艦娘の名前と、同日に出撃したとされる艦娘の名がつらつらと書かれている。

 はたと気づいた時、男は松岡が言わんとしていることを理解して、あっ、と声を上げた。

 

「行方不明は潜水艦……しかし出撃したのは、水上艦ばかりですね……」

 

「資源がぷかぷか浮いて来て、それを網ですくって持って帰るようなお使いだとでも思っているのか貴様? 艦娘が艦娘を沈めて、一部を持って帰って来ているという認識を改めろ」

 

「は、はい……」

 

「同部隊の仲間を撃ち殺して、使うから汚れも損傷も気にせず内臓を持って帰って来いと言われているのと同じことだ。いいな? 一切の漏れなく調べ上げることが我々憲兵隊の任務なのだ。可燃性のものがないからと言って敷地内禁煙なのを知っているにもかかわらずバケツを灰皿代わりに一服をかます程度の軍規違反ではない」

 

「……」

 

「……これについては私も同罪であるからして、まあ、まあ、あれだ。ほれ」

 

「……は、はぁ」

 

「喫煙所は作れんのかここは」

 

「う、上に通していただければ……。中将閣下も提言してくださいましたら、一室程度は……」

 

「……っち、無理だ無理だ。そこのファミレスとて禁煙になったのだぞ」

 

「え、えぇ! そうなので!?」

 

「っとに、肩身の狭い……この際、禁煙すべきかな」

 

「はぁぁ……喫煙者も考えものですな」

 

「貴様は、どうなのだ」

 

「っは、自分も……」

 

「であれば一服くらいして戻れ。許可は出来んが、俺は書類を見るので忙しいのでな、何も見えん」

 

「……」

 

 迷う素振りを見せる男に、松岡は初めて恐怖の無い、少し擦れた笑みを見せた。

 

「厳しくすれば良いわけではないなど分かっていても出来んものだな」

 

 ポケットからくしゃついた煙草の箱とライターを取り出して男へ押し付けると、ふう、とまた一息吐き出す。

 

「……ふぅむ、潜水艦、か」

 

「ふぅぅ……。はい、行方不明で雷撃処分としても違和感のある艦娘は、それのみでしょう。配属前の記録が残っている可能性もありますから、急ぎ調べさせます」

 

「海軍の記録の前に、一度陸を洗え。陸での記録が揃ったら、海軍の記録と照らし合わせるんだ。まとめられたら俺が大本営に突きつけに行く」

 

「か、閣下……何もそんな、しょっぴくような……」

 

「はは、ただの表現だよ、表現。俺は仕事を任されているのだ、決して失敗は許されん……それこそ、海原元帥にドヤされてしまう」

 

「海原元帥とは、あの、新聞の……?」

 

「そうだ。その海原元帥だ。貴様もいつか会う時があろう」

 

「拘置所に配属されるような一介の軍人に、海軍元帥が会うようなことなどありますでしょうか」

 

「可能性はゼロではない。あのお方は、必要とあらば地獄の底であろうがこじ開けるぞ」

 

「ひぇ……そ、そんな、はは、大袈裟な……」

 

「大袈裟なものか。これでも過少に表現している方だ」

 

「……」

 

 松岡は最後の一吸いだとばかりに火種を光らせ、もわり、と大きな煙を吐き出した。

 

 

 

 

 

 

 

 

「潜水艦、まるゆ……か」

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