この無音に等しい空間で仕事をするのも、あと数日の我慢だ。
そう自分に言い聞かせながら、私は《舞鶴鎮守府大規模改築》と記された書類にペンを走らせる。
ここ舞鶴鎮守府へ着任して一週間と少しが過ぎた頃に井之上元帥閣下からこの話を直接持ち掛けられた時には、驚愕と緊張で声が出なかった。
そんな大事をたったの一言で、まして私などに! と。
もちろん、日々訓練に明け暮れ、真面目に、誠実に尽くしてきた自負はある。
それでも日本国のみならず世界中を襲う脅威に対抗する現在の日本海軍は、昔の自衛隊とは違う。さして新しい記憶ではないが、座学の時にだって軍制に立ち返るとして国民から多大な批判と不安が寄せられたと習ったのだ。当時の政府を思えば、相当の決断であったのが窺える。
徴兵――などという事は大っぴらに行われたりしなかったけれど、いわば表向きがそうであったという体なだけで、街中ではどこに行こうが日本海軍、日本陸軍の募集ポスターが迷惑ポスターの上から貼られていた。あの光景はもう、ポスターではなく壁だったと言っていい。
――これだけ日本が変わったのだから、さぞ屈強な者達が集まって結託し戦っているのだろうという私の予想は、悲しくも大外れという結果だったが。
小中高と普通科に通っていた普遍的な私が海軍を目指すようになったのは、世界中を襲った大侵攻を経験してから……などという話は、今更だろうか。
どこにでも転がっているような話だ。深海から姿を現したファンタジーとも呼ぶべき恐ろしい存在が死を振りまき、悲しみが世界を覆った。
幸運なことに内陸である岐阜出身だった私の周囲で亡くなった近しい人はいなかったが、それでもテレビやネットを一色に染め上げた存在に恐怖と憎悪を燃やしたのは言うまでもない。きっかけはたったそれだけである。
話が逸れたが、これら以外に様々な経緯があって、私は今、舞鶴鎮守府の提督という椅子に腰をおろしているわけだ。
女だからとなめられて訓練では小馬鹿にしてきた同期をぶん殴って連帯責任として両手足が痺れるまで走らされ、腕立て伏せをさせられたあの頃が懐かしい。
もう一度やれと言われたら
改築予定は、このためにある。
「……ん、んんっ。けほっ、こほっ」
無意識な咳払いですら、吸い込まれるように音が消えていく。
私が着任する以前にここを取りまとめていた金森中将閣下が私的に改装を施したというのは、誰の目にも耳にも明らかだった。
二重張りの窓は、雪国でもなければ不自然なもの。
防弾防爆の面で……とそれらしい理屈を考えたって変だった。何せ鍵が内側についていないのだ。それらの窓は私が座る机の左手側にある一番上の引き出しの中に備えられたスイッチと連動しており、これまた面倒なことに押している間しか開かない。
要は私がスイッチを押している間に別の誰かが動いてくれなければ満足に窓の一つもあけられないのである。
室内には豪勢にも最新式のクーラーがあるため、窓を開けずとも温度湿度ともに快適なものだが、それにしたって、言葉を失ってしまう有様。
私が上官達――今や元上官か――から着任前に聞いた話では、舞鶴鎮守府を含む全国の拠点で一斉摘発があったとの事で、もちろん私も存じていたが、その中でも巨大な拠点である舞鶴は一層酷いものだったらしい。
剛勇の知将とまで言われていた金森中将閣下は、ここ舞鶴で私利私欲の限りを尽くしていたというじゃないか。
それも私達国民のために海から蘇ったなんて言われている艦娘に暴力まで振るっていたと聞かされては、金森中将閣下と呼ぶ声も慇懃無礼になってしまう。
勘違いしないでもらいたいのは、私は決してそういった慇懃無礼な女ではないということと――……はあ、だめだ、気が滅入る。
人は無音の空間に放り込まれると気が狂うだなんて与太話を聞いたことがあるが、あながち嘘ではないだろうと本気で考えていた。
ペンが走る音一つすら大切にしたいと思えるくらいに、静かすぎるのだ。
私が書き込む書類には、大規模な改築になるために順序を決めてほしいとの旨が書かれており、こつ、こつ、とボールペンで叩くようにしながら迷う。
これから先、朝から晩までこもりっきりになるであろう執務室から改築したいに決まっている。けれど、金森(中将とも閣下とも呼ぶべきじゃないだろう)の横暴っぷりに疲弊している艦娘を優先してあげるべきだとも冷静に考えている。
最優先事項であったのは、使いまわされた形跡はあるがメンテナンスがされておらずボロボロとなっている工廠と入渠施設の改築だったが、これについては艦娘へ通達して真っ先に改築させた。
日々の任務が出来ない事は日本国の停滞を意味する。
大袈裟でもなんでもなく、それだけ巨大な拠点の一つであるのだから、工廠、入渠については文句が出たって改築させようと思っていた。
無論、杞憂だったけれど。
井之上元帥からは「どのような順番であれ必ずそのようにする。問題があらばワシに言え」とまで心強いお言葉を賜っているため、誰に何を言われようとも強気に出られるといったところが本音である。
「やっぱり、あの子達の部屋から、か……」
独り言を零しつつ、書類が散らばる机の上の端にあるファイルへ視線が移る。
舞鶴鎮守府に所属している艦娘達のデータがまとめられたそれには、顔写真もついており、一見して本当にただの少女にしか見えない彼女らと、私が初めて舞鶴に来た時に見た彼女らのギャップに、大きなため息が出てしまう。
疲弊し、憔悴し、摩耗し、意気消沈し……負の感情を詰め込まれたかのようだった。
挨拶なんて出来たものじゃない。名乗れど、機械的な動きで答礼し、こちらが質問をしたら怯えながらも答えるが、個人の事に言及すれば、途端に気を失ってしまうのではないかと焦るほどに呼吸が荒くなっていた。
『本日よりここを任された
女であろうが軍人である。
私は私なりに激励の意を込めて気合十分な挨拶をしたつもりだった。
『我々は協力し! ともに戦い抜く仲間である! 忘れるな!』
歓声も、拍手も、そのような形さえ無かった。
空を切る音もなく、すっと乱れぬ敬礼が返ってきただけで、全員の目は虚空を見つめていた。私を見ては、いなかった。
「……ダメダメ、弱気になるな、燈!」
思い出しただけで得体の知れない感情が心臓を撫でる。
私が初めてテレビで見た艦娘は強く、逞しく、どこまでも気高く、美しかった。
でも、現実の彼女らは、そうじゃなかった。
私はそれだけで打ちのめされた。いかな敵であろうが任務ならば必ずや遂行してみせると鍛えに鍛えた精神力が、あっという間に削られるほどの悲しみがあった。
「順次、あの子達の居室を改築、と……んー、この際だから備品も新調してあげるべきね」
ゆるく浅く頭を振ってからペンを踊らせ、私は引き出しの一つを開き別のファイルを取り出す。それは、舞鶴鎮守府の備品などの購入履歴である。
細かに記された膨大な量の記録は資料室へ詰め込まれているが、今この手元にある履歴は直近のものばかりで、ここから発注を飛ばしている業者を
また、大きな溜息が一つ。
何を隠そう、このファイルに記されている業者ともども金森と手を組んでいたというのだから始末におえない。
かの井之上元帥閣下の手腕をもってしてもここまで細部に手は届かず、こういった細やかな部分こそ私のような佐官が処理せねばならないのだから、軍人というのはままならないものである。戦うだけが能にあらず、とは誰の言葉だっただろうか。
「ここもダメ、ここも、ダメか……んー……」
今度は畳まれていたノートパソコンを開き、近隣の業者を探し始める私。
名簿にある業者はかなりの大手で、そこを避けるとなれば規模は限られる。
備品と言えど私を含め多くが所属しているのだから大量発注になる上に、大本営を頼って信頼のおける業者を手配してもらうとなれば時間が掛かり過ぎる。
そのほかの拠点を差し置いてでも注文すればいいとは忠野中将閣下のジョークであったが、本当にそうしてしまいたいくらいに、細かすぎる。
舞鶴だけじゃなくその他拠点だって同じ状況なのだろうから文句を口には出さない。
出さない、が。
私はすぐにノートパソコンを閉じて散らばった書類をさっとまとめて机の端へ積み上げると、立ち上がって腰を伸ばす。
それから室内に備え付けられた鎮守府に不必要と思われた高そうなゴテゴテとしたコーヒーメーカーとウォーターサーバーへ歩み寄ってコーヒーを淹れた。
残されたコーヒー豆はどうにも高級品らしく、薫り高いそれらがふわりと部屋に漂えば、異様な雰囲気が和らいだ気がした。
一口、また一口。言葉無く、声無く、また一口。
淹れたては熱かったが、別段猫舌なわけでもなかったため、ただただ気分を切り替えるためだけに胃へ流し込む。
こうした任務をこなして数週間。
閉じこもってばかりで艦娘とのコミュニケーションすらままならない。
大抵、艦娘が執務室を訪ねてくる時は入渠の許可をもらいにくる時か、報告書を提出する時だけで、それらも怯えながら来られるものだから対応を考えあぐねるばかり。
そう言えば、秘書艦を付けろと言われて指名した天津風はどうしているだろうか、とぼんやり思考を巡らせる。
彼女と会ったのは挨拶の時を除けば哨戒任務と報告書提出の時だけという、他の子と同じ頻度で、言葉を交わしたのだって「了解しました」くらい。
金森からどのような扱いを受けていたのかさえ聞き取り出来ていませんとあれば、どの面を下げて上に報告をあげられようか……。
しかしこれもまた任務。
「はぁ」
ずれた眼鏡を指で押し上げてソファへ置き去りにされた軍帽をちらりと見る私は、それを手に取って、力なくぽすりと被った。
「うん?」
すん、と鼻が動く。
コーヒーの香りを押し退けるようにして、空調とは違う風が流れた気がした。
どこからだろうと顔を振った時、はたと時計が目に入る。
「……あ」
時刻は昼前を指しており、私は一気にコーヒーを飲みほした。
そうだ、今日は海原元帥閣下が不正調査のために来るのだった!
ここでの仕事ぶりも見られるだろうし、下手をすれば艦娘たちの状況を見て戦意に問題ありとして処分が下されるかもしれない!
私がこう考えてしまうのは、やはり第二次における大戦果に加え、幽霊のような存在だった彼が海軍内どころかメディアを通して全世界に突如として姿を露わにしたからである。
常在戦場――彼を表すのに適した言葉は無いが、一面を捉えた言葉はどれかと言われたら、私はこう言うだろう。
記者会見で姿を現した時、画面越しですら萎縮してしまったのは記憶に新しい。
確かその頃は舞鶴に異動することになって、自分の荷物を隊の皆に手伝ってもらってまとめている時だった。女性の集まる部隊で、軍人であろうが女は女。テレビに映るモデルやアイドルなんかを見ては恰好良いだの好みだのときゃあきゃあ言うのもご愛敬な和気藹々とした部隊だった。しかしあの時、私を含め、全世界が画面越しに圧し潰される感覚を味わったことだろう。
まあ……あんな姿を見ては萎縮するなという方が無理である。
噂では、腹を爆弾で噴き飛ばされた次の日に医師達を押し退けて病院から鎮守府へ戻り艦隊指揮を執ったとまで言われている。
地獄の閻魔を脅して仏を泣かせ、魑魅魍魎を踏みつぶして黄泉比良坂から駆け足で戻った軍神とまで言われていては、恐れるなという方が無理な話である。
これらは脚色され背びれ尾ひれがついた荒唐無稽な噂だが、それを信じさせる威圧感があった。
そんな人がこれからここにやって来るのだと思うと身が引き締まる。
ここを任されたからには、艦娘と共に海を往く運命と定められたも同義。
奮起出来ぬのならば、代わりに私がその姿を見せねば、と気合を入れて頬をぱしんと叩く。
紙コップをくしゃりと潰してゴミ箱に投げ捨てると、私はまた机に向かって任務を再開した。
* * *
ゴンゴン、と重たい音が室内に響いた。
籠った音に反応したが、思考がまっすぐ書類に向きっぱなしになっていた私は、てっきり大本営の軽巡洋艦大淀に自室待機命令が下されているはずの艦娘の誰かが、任務前に言い忘れか報告書か何かでやって来たのだと勘違いしていた。
「入れ!!」
室内から外へ向かって出すにしては大声を上げる。そうしなければ届かないので、仕方が無い。
喉がひりつき、咳払いを一つ。
扉が開かれた先から飛び込んできた声に、数秒、固まった。
「柱島泊地の海原だ」
声が、出ない。
「本日の予定通り不正調査並びに鎮守府の視察に来た次第。準備は出来ているか、長峰少佐」
私は間抜けな顔をしていたかもしれない。
書類に向かってペンを立てたまま、入室してきた人物を見れば、それはもう、新聞記事に載っていた文言に、今ならばその通りだと直接頷いてやりたいほどの圧を背負った男がいた。もしかするとそれでもなお、足りない。
護国の鬼神。稀代の知将。
井之上元帥閣下ですら首を振るまでもないと言わしめる男。
日本海軍所属――いや、それは少し前までの話か。
彼は第二次大侵攻から躍進を遂げ、井之上元帥閣下と二大の巨塔となった。
日本海軍筆頭、全艦娘の最終指揮権を握っている、戦場における最高指揮官。
海原鎮元帥である。
室内に漂っていた異様な空気が一気に霧散し、コーヒーの残り香すらもかき消された。
これは表現でも何でもなく、本当に風が吹き込んできたのである。
ただ扉の向こうから室内に向かって圧の違いで風が発生しただけかもしれないが、それにしたって説明のしようがない風だった。
ひらひらと書類が音を立て、潮の匂いが室内を満たす。
実際に目にして、私は彼の背後にいる軽巡洋艦大淀も相まってか、幻を見た。
海だ。
いつか見た、艦娘が水飛沫を上げて駆けていく大海原がやって来たと思った。
私の身体がまるで自分のものじゃないように立ち上がる。
「ッ!! 本日はご足労いただき、感謝いたします、海原元帥閣下!」
先ほどと同じくらい大きな声で言えば、彼は見定めるように私を見つめた後に、ふん、と鼻を鳴らして呆れ返った様子で言う。
「……気を張りすぎだ。楽にしろ、楽に」
楽にしろとは社交辞令。そんな事は身に染みていますと、私は急いで
「今、お飲み物を準備しますので!」
と言ったのだが、彼は短く「結構だ」とだけ言って、さっさと応接用ソファへ座ってしまう。
ならば任務の話だな、と私は大淀殿に向かって手でソファを示しながら言った。
「はっ……失礼しました……! お、大淀殿も、どうぞ、おかけください」
「ありがとうございます、長峰少佐。お気遣いなく」
今まで見たどの大淀よりも柔らかな笑みを浮かべた彼女は、するりと海原元帥閣下の背に周り、置物のように静かに佇む。
最前線で戦い続ける男と、艦娘。全てにおいて次元が違うと嫌でも分からされてしまう。
「すぐに書類を持ってまいります!」
手を煩わせるわけにはいかない。今日はあの金森とかいう男の不正の尻拭いにわざわざ出張ってくれているのだから、出来る限り迅速に行動し、自分が役に立てる軍人であると印象付けねば。
そうして舞鶴の
だが、やはり緊張はする。
無意識に手が震え、足に力が入らない。
無理矢理に身体を動かしてキャビネットへまとめておいた着任前の記録を引っ張り出しながら、どのような調査を行うのだろうと考えた。一種の、現実逃避とも言おうか。
業者と結託して金品を不正に巻き上げていただけにあらず、艦娘への不遇という言葉では収まらない乱暴を働いていたらしい金森の事だ、記録の精査のほか、海原元帥閣下が持ってきている年季の入った革製の茶色いバッグに詰め込まれているであろう軍部の記録との照合にて一つ一つ正していくのかもしれない。
そうなると、着任前の記録も、出撃記録の他、演習記録も必要になるだろう。
演習に際して弾薬の消費も記録に残されているし、入渠するのにだって資材の消費が発生するために、その資材がどこから、どのようなルートで舞鶴にやってきたかの記録だってある。
その他には……そうだ、出撃記録のほかに、資料室へ収める前に目を通していた着任前の報告書もいくつかあったはずだ。
キャビネットが空っぽになる勢いで両腕いっぱいに書類を取り出している私に、冷たい声がかけられる。
「長峰少佐」
早くしなければ。
「は、はっ! もうしばらくお待ちを! 今すぐに――!」
もう一枚、いや二枚、と取り出したところで、さらに呆れたような海原元帥閣下の声。
「長峰、落ち着かんか、お前は」
手早く、のみならず。
仕草の一つも気遣えとばかりに言う厳しい言葉に、いや、しかし、と口ごもる私。
同じ軍人故か、教育隊の上官を思い出してしまう声色に、ぐっと喉が詰まる。
「はぁ……長峰……お前……」
どうしてか、見捨てられると考えてしまった私はさらに萎縮してしまいそうになったが――それに続く確固たる意志を問うかのような声に、背筋が伸びる。
「長峰少佐。我々の仕事は何だ? 言ってみろ」
何故、今?
考えるまでも無く、脊髄反射で答えた。
「っは! 艦娘と協力し、深海棲艦を退け、国民を守る事であります!」
そうして……
「その艦娘を差し置いてバタバタと走り回って、どうやって提督として指揮を執るつもりだお前は。私もあまり人の事は言えんがな。とにかく落ち着け。お前を手伝うために来たのだ、我々は。いいな?」
……お叱りを受けた。
いや、待って。手伝うために、来た……?
「し、かし……不正の調査を、せねば、艦娘の子達も……」
そうだ、この訪問は不正調査のはず。
大本営から仰せつかっているのは、海原元帥閣下とともに金森の不正の仔細を知り、どのように改善するのかをはっきりさせるという任務だ。
領海内の哨戒や日々の出撃だってままならない今、それらを如何に早く済ませるかが舞鶴鎮守府の活動再開に繋がる。
国民には口が裂けても言えない。
艦娘は意気消沈している。それは前任のせいで、戦えもしません、など。
「誠実な心を持っているようで、嬉しく思う。だがな長峰少佐、我々は常に冷静でなければならん。どのような局面であれ、決して隙を見せるな」
隙を見せるな。仰られる通りだった。耳が痛い。
ある程度の地位となった今よりも少し前に、自分も同じようなことを部下に向かって生意気に口にしていたのを思い出し、恥ずかしくなった。
「隙を見せれば最後、我々は――仕事どころではなくなる。鬱陶しい小言かもしれんが、分かってくれるな?」
「仕事どころでは、なくなる……」
鸚鵡返しする私に、海原元帥閣下は頷く。
「そうだ。艦娘にも申し訳が立たんだろう、そんなことになれば」
「……」
彼が、ここの状況を知らぬわけが無かった。
全艦娘の指揮官であるのだから、それは当然の話で、隙を見せるなと私に言う意図もまた、舞鶴という拠点を任せられている事実は、国民からしてみればそれ相応の地位と信頼があるのだと見られていることに同じ。
なれば私の一挙手一投足が艦娘に繋がり、また私の発する一言一句が、舞鶴鎮守府の意思となる。
これこそが、格の違い、である。
さらには――
「長峰少佐。ここに就いてまだ日は浅いだろう。艦娘とは話しているか?」
何もかも、彼の手の内。
まるで私が舞鶴に来てからの事を全て見透かしているかのような鋭い眼光が、さらに言葉を詰まらせた。
「え、ぁ、っと……」
部隊一番の気の強い女と言われた私が、笑えるものだ。
手のひらの上で踊るどころか、戦場にすら立てていない現実を突きつけられている。
「ほら、艦娘と協力をするのだと言うならば、秘書艦の一人や二人つけているだろう。その子を呼んでやらんか。世間話の一つでも挟もうじゃないか」
気遣われた事が嫌なわけじゃなかった。むしろ、安心したくらいだ。
かの御仁も人であるのだと錯覚させてくれる。まあ、人なのだが。
それを色濃くしたいが故か、気圧されて完全に私という存在が屈してしまっているのか、自分でも考えられないくらい弱気な声が出た。
「……失礼ながら、海原元帥閣下」
「海原でも構わんぞ」
冗談を飛ばされて驚き、慌てて首を振る。
「な、何を仰いますか! せ、僭越ながら、閣下……その……」
「うむ?」
「……秘書として艦娘を指名してはいるの、ですが」
恐る恐る言葉を選ぼうと思考を回転させていたが、ついぞ、最適な言葉など見つからなかった。
この人に、嘘は絶対に通用しないと確信があった。
故に、私は着任してからあっという間に首を飛ばされる結果となるかもしれないと考えながらも、勢いよく頭を下げた。
せめて、せめて苦しんだ彼女らを助けなければならない。
同じ軍人として。
同じ女として。
「申し訳ございません! 私が至らないばかりに、まだ、この鎮守府の艦娘とはうまく話せておらず……秘書に指名した艦娘も、部屋から、出て来ない、状態でありまして……!」
「部屋から出て来ない? どういうことだ」
不思議そうに言う海原元帥閣下に、私は言葉足らずだったと付け加える。
「あ、あー! いえ! あの! 違うんです! 違わないですが……いえいえ! 戦意維持に問題はありませんが! そのぉ……!」
落ち着けと言われたばかりなのに、必死になってしまう私。
部屋から出て来ないのは本当だが、四六時中部屋に籠って一切出て来ないわけではない。形だけとは言え警備の任務はあるし、日々の施設メンテナンスだって艦娘達がやっている。食事もしていれば、風呂も入る。
出て来ないというのは、個人的なものだった。
秘書艦をつけろと言われ、ならば前任の話を聴き取るついでに補佐をと指名した駆逐艦天津風は、あろうことか秘書艦を拒否したのである。
秘書、という言葉に反応して怖がっていたのは明らかだった。
任務の拒否など処分待ったなしだが、私にそんな気が起こるはずもなく。
どうして嫌なのか。何が嫌なのか。一体、私が来る前にここで何があったのか。
記録に載っていない、本当の声を聞かせてほしいと言った。
……結果は、この通りだ。
言葉を紡げば紡ぐだけ、海原元帥閣下の目が細められる。
「……長峰少佐」
「も、問題はありません! 私が上手くコミュニケーションをとれていないだけで、任務の方に問題は一切! ありません!」
彼女達に問題はない。任務だって遂行してくれている。違う、違うんだ。
傷つけられて、怯えているだけ。
怯えるな、恐れるな、ただ進め。
それを、この日本海軍、いや、世界中でどれだけの者が通せるだろうか。
そんな人がいるのならば、私に教えて欲しい。
私だって恐怖する。今のように。
私だって怯える。駆逐艦天津風のみならず、艦娘にすら声が届いていないように。
私だって、私だって、私だって。
……そう、誰だって、そういった波に揉まれている。
どうか分かって欲しいという切実な願いを届けようとする声は、一刀両断された。
「長峰」
「うくっ……!」
どんな事を言われるのだろうかと、ちらりと上目に海原元帥閣下を窺う。
相変わらず、無表情だった。
「秘書には誰を指名しているんだ」
「……駆逐艦、天津風を指名しておりました」
素直にそう言えば、海原元帥閣下は数瞬で全てを察したように鼻息を漏らし――
「ぇ……?」
――どこにでもいる、普遍的で、少しくたびれたような男の笑みを見せた。
思わず、誰にも聞こえないくらいに小さかったが、声が出てしまう。
「ふむ……であれば、天津風を呼んで話の一つでもしながら仕事をしようではないか。なあ?」
話の一つでも、しながら……?
それは私の任務で、いや、違う、彼が言っているのは、もっと気さくで、気楽で、本当に安心を醸すような――。
戸惑う私に、大淀殿の声。
「長峰少佐。本日は不正調査のほか――あなたを交えた艦娘のケアを行うために来ました。ですから、どうか力を抜いてください」
「艦娘、の、ケアを……? あ、お、大淀殿は、元は舞鶴の……!」
私の脳内にある記憶が掘り起こされ、行方不明、解体、轟沈、と不穏な言葉と艦娘の顔がいくつも過っていく。
そのうちから、いくつかの顔が思い浮かんだ。
駆逐艦夕立、正規空母赤城、正規空母加賀――軽巡洋艦、大淀。
金森が提督として横暴の限りを尽くしていた頃、ここ舞鶴鎮守府から異動となった艦娘の一人だ。
記録には命令違反をしたとばかり連なっているが、一目見て、真実は違うのだと理解する。
命令違反? 私の目の前にいる大淀殿が? 上官である提督の命令を?
大嘘だ。何せ、初対面である私ですら分かるほどに安心しきった顔をしている。
この人の背にいれば何も問題はないと、顔に書いてある。
「現在、日本海軍内の体制変更に伴い多くの艦娘が混乱のさなかにあります。提督を失い、また、仲間を失った彼女達に必要なのは――揺らぐことのない提督という存在です。ですから長峰少佐がどっしりと構えていないと、不安にさせてしまいますよ」
嗚呼。私は瞠目した。
艦娘からその言葉が発せられたことに、ではなく。
艦娘も人と同じく、揺らがぬ意志を持っている。
故に、故に、揺らがぬ上官を、揺らがぬ信念を持つ者を求めている。
それらを打ち崩した大馬鹿者は誰だ?
金森だ。
いいや――人だ。手を取り合うべき、人だ。
思考が奪われ、声を失っている私の目の前で、朗らかながらもしっかりとしたやり取りが交わされている。
私が意識を取り戻したのは、優しい声がかけられてからだった。
「長峰少佐、天津風を呼んでくれ。それから改めて、皆で茶でも飲もうではないか」
「ぁ、あぁ……! はい! 閣下! 今すぐに!」
今日は一言も話せないだろうと、上げられることも無いだろうと静かに鎮座している電話機を乱暴に取り上げ、私は内線のボタンを強く押した。
電子音が鳴って、数コール。
『……は、はい、駆逐艦寮、です』
背後にいる海原元帥閣下と大淀殿をちらりと見た後、私は意を決して言った。
「こちら執務室。長峰だ。駆逐艦天津風を呼び出してくれ、用がある」
* * *
「駆逐艦、天津風、で、す……」
執務室に彼女がやってきたのは、内線で呼び出してから数分後のこと。
任務とあらば即参上、が身に染みついているのは誰でも同じことだが、彼女らにとってそれは違う意味もあるようで。
「大淀……!? それに、あ、あの、え、と……!」
海原元帥閣下を見て、よからぬ想像をしたのだろう。
ひ、ひ、と短い悲鳴を上げたあと、彼女はその場でへたり込んだ。
「い、いやっ……に、任務は、遂行します……やだ、沈みたく、ない……解体しない、で……! あ、ぁあぁぁっ……!」
ぽろぽろと零れ落ちる涙に、私はぐっと唇を噛んだ。
「天津風、あなたを呼んだのは……――」
私が声をかけようとした矢先に動いたのは、大淀殿だった。
「お久しぶりです、天津風さん。私を大本営の大淀と思ってますね?」
ふふ、と大淀殿が優しく微笑みかけると、天津風は驚いて目を見開く。
「え、ぇ……? 大本営、の、人、じゃな、い、の……?」
「……金森
「おお、よ、どさん……沈められたって、きい、聞いて、ひ、ひぐっ……本当に、あの、大淀さん、なの……?」
「……夕立さん、赤城さん、加賀さんを覚えていますか?」
二人の会話は、海原元帥閣下を差し置いて続けられる。
当の閣下は、先ほどとは打って変わって、ここに来た瞬間のような軍人然とした険しい顔をしており、軍帽を目深に被って歯を食いしばっていた。
歯ぎしりに頬が動いたのが、離れていても分かるくらいだった。
「お、覚え、て……る、わ……」
「全員、生きています」
「ぁ……あ、あぁっ……わあぁぁぁあああああんッ! うぁぁあああぁぁああッ!」
糸が切れたように大声で泣き喚く天津風を抱き寄せた大淀殿は、とん、とん、とん、と彼女の背を撫でながら、彼女の頭に唇を近づけて言う。
「外部から、ここの記録を拝見しました。多くの仲間が、失われていることも……知っています。決して許される事ではありませんし、許すつもりもありません。私、いえ、私達は立て直しに来たのです、この、舞鶴を」
「ひぐっ、う、くっ……ぐすっ……たて、なおしに……?」
「えぇ、そうです。私達が戦い始めた頃のように、正しい姿へ」
ここにきて、ようやく海原元帥閣下が口を開いた。
「……駆逐艦、天津風だな。私は海軍元帥、海原という者だ。今は柱島泊地にて提督をしている。この舞鶴には大淀の仲間が多くいると聞いているが、お前もその一人で、間違いないな?」
「ひっ……」
怯えるようにし身を縮こまらせて大淀の腕の中へ逃げようと身を捩る天津風だったが、頭上から大淀の「大丈夫です。私を助けてくれた人ですから」という声に、そろり、と顔を出す。
「は、い……」
「うむ。此度は海軍における許されざる軍規違反、並びに艦娘へ対する不当な扱いの調査に来た次第だ。どうにも金森とやらが好き勝手していたらしいが、そうなのか?」
「っ……あ、ぅあ……ぁのっ……」
「金森から何を――」
金森、という名前を聞くだけで、天津風の顔色は一変。
泣き声とも違う荒い息を何度も吐き出し――過呼吸だ、と気づいた私が立ち上がる前に海原元帥閣下が軍帽を脱ぎながら立ち上がり、天津風と大淀殿の前に片膝をついた。
その軍帽を、天津風の頭の上にぽすりと被せた。
まるで、泣き顔を隠してあげるかのように。
「なるほど、承知した。よく頑張ったな、もう大丈夫だ」
そう言って軍服のポケットから携帯電話を取り出して立ち上がった海原元帥閣下は、こういうのもおかしいが、元帥なのだと理解させられる行動を取る。
「……」
静かに携帯電話を操作している顔が、みるみる恐ろしいものに。
それから――小さく、大淀、と呼ぶ声。
「……天津風さん、少し、歩きましょうか?」
「ぇ……? 歩く、って、どこに……」
「どこでもいいですよ? うーん、そうですねえ……では、購買などいかがでしょう? ほら、いつもこっそりお菓子を買いに出ていた――」
「ん……ぅん……うんっ……」
また、目に涙を浮かべる天津風を見て、私は言葉無く大淀殿へ向かって頷いた。
天津風達が執務室を出て、扉がぱたりとしまった瞬間、私は――目の前が真っ白になる。
比喩ではない。
思考が、全くできなくなったのだ――恐怖で。
携帯電話を耳に当てて数秒、海原元帥閣下から声が発せられた。
たった、それだけの事である。
「松岡か、今どこにいる」
地の底を這うような低い声。
「巣鴨か……では、丁度いい」
心臓が止まる、とは大袈裟な表現だとは思わないだろうか?
驚いた、驚愕した、仰天した、まあ、多々ある表現でも、銃弾一つ飛んでいく破裂音ですら、軍人にとっては日常で、程遠い感情の一つだ。
では、それらを凌駕するものとは何だろう?
私は、答えを知っている。
今、目の前で見ていて、聞いている。
その答えは、避けられぬ――死の声に対する、恐怖だ。
「――金森を出せ。今、すぐに」