天津風を連れた私は、元舞鶴鎮守府所属だったことに加えて前日から視察を重ねていたこともあり、勝手知ったる我が古巣だと懐かしさを覚えながら言葉を紡ぐ。
「私がいた頃は、天津風さんは教育部隊にいましたよね」
「……はい」
彼女はまだ落ち着かない様子で泣きはらした重たそうな瞼をぐしぐしと擦り、不安げな顔を見せる。
自らの所属している鎮守府以外で軽巡洋艦大淀がやってくるなど、凡そが大本営からの任務通達やそのときどきの計画進捗確認だったりと、良い話は少ない。
いくら私が舞鶴鎮守府の所属であって顔を知っている仲間であっても、元帥でもある海原提督に伴われて来るなど良い話のはずがないと考えているのだろう。
海軍元帥となった彼の素性は荒唐無稽が過ぎるもので、元々は軍人でもなければそういった戦場の知識など学校で習った程度のサラリーマンだから、緊張する必要はありません。
少し働き過ぎるきらいがありますが、それは私達艦娘のことを想ってのことで、ここに来たのも仕事をするつもりが天津風さんの涙を見て、
――なんて、言えるわけもない。
未来の命運を握るのは、私達艦娘の他、非現実な一人の提督だ、なんて。
海軍のなかで最重要とされている機密は、私達と彼の正体である。
そも、私達自身も彼が一般企業で働いていただけのサラリーマンという話を本人の口から明かされてもなお半信半疑のままなのだから、そういった事情を汲み取れない今の彼女にとって混乱を加速させる情報になってしまうだけだ。
確かに彼は真面目で誠実だが、私達のことを【艦隊これくしょん】なるゲームのキャラクターとして知っているファンとして片付けるには考えられない熱量を持っている。恥ずかしながら、毎日のように褒められ、自分を犠牲にしてまでも好意を示すような生き方をされては無下にもできないというものである。
おかげ様で柱島泊地の艦娘も自己肯定感はうなぎのぼりで、皆の性格は自由奔放なものになった。それが、元々の性格だったのかもしれないけど。
艦娘保全部隊の二人だけでは手に負えないからと、戦艦長門を筆頭にした風紀委員まで発足したのだから手に負えない。
「大淀、さんは……その、捨てられ……あっ、いや……異動、して? から……大丈夫だったんですか……?」
「はい?」
「あっ! いや、ごめんなさい、何でもない……です」
――明後日の方向へ思考が逸れていた。
何も決してまもるさん……んんっ。海原提督が如何に常識外れの辣腕で魅力的な男性であるかで頭が埋め尽くされているわけではないし、柱島泊地の艦娘達が問題児だらけだと頭を抱えているわけでもないのは信じてほしい。
新兵装を見て妙にアプローチする艦娘が増えたのも危機感を覚えるところだが、いやいや、違う、そうじゃない。
私は誰に言い訳をしているのかしら……。
「ごめんなさい天津風さん、少し、考え事をしていただけですから」
そう言って微笑みかけ、連れ出すために繋いだ手を振って示せば、彼女は繋いだ手と私の顔を見て言った。
「なんだか、変わりました、ね……」
「そう、ですねぇ……変わったのかもしれません。色々と」
私の雰囲気を指しているのか、それとも顔つきや目つきを指しているのか定かではないけれど、きっと一見した全体を指しているのだろうと肯定する。
彼女の言う通り、私は変わった。柱島泊地にいる艦娘も、今までに見たことのある別拠点の同型艦とは似て非なる存在と思ってしまうくらいに明るくなった。
それと同じくして――個を深く考えるようになってしまった。
しまった、というのは、良い意味であるのだが、それはそれとして、今は彼女の心配を優先するべきだろうと声をあげる。
「私だけじゃなく、赤城さんや加賀さん、夕立さんも変わりましたよ。でも、本質は変わっていません。私達は艦娘であり、海軍の軍人として日々軍務に励んでいますとも。前日からここを視察していましたが、ここは……相変わらず、といったところですね」
「……」
相変わらず。一言に込めた負の感情は、天津風も感じ取れたのであろう。
私と繋がる手にほんの少しだけ力が入って、すぐさま抜けていく。
「機械的な哨戒や訓練……演習については少し面白いものが見られましたが」
私が舞鶴鎮守府にいた頃との違いがそこにあった。
私がいた時も演習は行われていたが、その頃から陣形の声掛けや、砲雷撃戦での周囲の安全確認の意味のある「砲撃戦用意」などという声が無かったのだ。
しかし全員が決まりきった行動を取る。安全は確保されていたし、攻防の形が出来上がっていた。
良く言えば完成された形。悪く言えば――戦場を想定しているのではなく、囲碁や将棋の盤面上を動く駒のように見えた。外から見ることでしか理解できない発見だった。
生きている気配が全くと言っていいほどしなかったのだ。
あれらを見て感嘆を示す軍人は多くいそうなものだが、第二次大侵攻という戦場を駆けた私にとって違和感を覚える光景だった。
深海棲艦は知能を持ち、選択を迫って来る。しかも選択は常に連続している。
一に対して二の選択を。三に対して四の選択を。そんな悠長なものではない。
一から十まで連続した選択肢が現れ、十一から二十まで先を考えて選び取る。
そうした中で五と六、いや三と八の選択肢が入れ替わり、状況が一変する……言葉にすれば複雑だが、こういうものであるとしか言い表せない、滅茶苦茶と思えるものこそが、戦場だ。
舞鶴鎮守府が数多の深海棲艦を退けてこられたのは機械的な戦略あってこそで、柱島泊地とは違う特色と言うべきなのかもしれないが、前提督を持ち上げたくはないけれど、金森提督であったから可能だった戦術だ。
金森提督が湯水の如く資源を投入し、失ったそばから新たな艦娘を投入して攻勢の盤面を維持し続けたからこその戦果と言っていい。
こう考えられるのも、今になってやっとというのが、歯がゆいものである。
「面白く、なんて……」
「あ、ああ! 違うんです天津風さん、その、他意はなくてですね? 鎮守府それぞれに特色があるんだと気づけた収穫のある視察であったと、そういう話ですから」
「そう、ですか……」
「……」
それから、彼女はまた顔を伏せてしまう。
購買に到着してから元気づけようと甘味や飲み物をすすめてみたりしたが、私の声に反応こそしても、はいとしか返事しない。
好きだの嫌いだの好みの問題で答えている風でもなく、すすめられるがまま。
結局、使われた形跡が殆どないイートインスペースに連れて来て座らせ、購入したお菓子と飲み物を置いて沈黙の時間を過ごすこととなった。それも数十分。
手持無沙汰で流石に気まずかったので「二人で食べましょう」と購入したお菓子や飲み物の中からサイダーを一本手に取って口をつける。
強めの炭酸が喉をぷちぷちと通って行く爽やかさが、陰鬱な空気も弾けさせて消してくれないかと願った。
「どうぞ、天津風さんも一緒に食べましょう? ほら、天津風さんが好きだったお菓子も――」
「でも、私だけ、こんな」
「先輩からの奢りだと思って、ね?」
「でも……」
う、うーん! どうしたものか……!
前鎮守府の後輩だからと言って先輩風をふかしたのが良くなかったのだろうか?
いやいや、彼女は自分一人だけ嗜好品を口にするのが申し訳ないといった様子だから、ならば全員分購入して後で配布するからと言えば――!
……そういう話じゃあ、ないわよね。
ふう、と鼻息を鳴らしてサイダーの瓶をテーブルに置いてから、私は触れたくなくとも、この仕事で触れなければならない黒色のなにかへ触れた。
それは、彼女の心でもあるだろうし、この鎮守府にいる艦娘皆の心でもあるだろう。
それは、闇、とか言われるものだ。
軍人として有り体にいえば、それらの正体は【不正】であり、その不正によって理不尽かつあってはならない不必要な苦しみを押し付けられた彼女らの嘆きだ。
「あまりこういった切り出し方はすべきではないのでしょうが……単刀直入に聞きます。天津風さん、あなたは金森提督に暴力を振るわれていましたね?」
「っ……」
まあ、正解と言うべくもない。私だってそうだった。
いくら艦娘が丈夫であるからといっても、それは限定的なもの。
人から直接手をあげられたら簡単に傷つくと発見したのは一体どこの誰なのだか。
銃弾でも傷つかない。鉄パイプで殴打されようが表情一つ変えずにいられる。
そんな私達を一番最初に殴り飛ばしたのは、どこの誰なのだか。
今の天津風には目に見える傷など無いが、私のほか、赤城や加賀なんて理路整然としていないことを言われてはすぐに口に出して問うてしまう性格なので良く頬を張られたものだ。生傷が絶えなかった。
私は自分でも認めるくらいに細かい性格の艦娘が故に、小うるさいと言われてしまえばそれまで。基本的に命令ならばと従う赤城や加賀、夕立まで口出しするくらいに理不尽な命令であれど、逆らうのならば正義は我が手にありとばかりに殴り飛ばしてくるような男だったのだから、金森提督が更迭されるまでは苦しんだだろう。
長峰少佐が着任してから殴られて傷を作るようなことはなかったにしろ、人の手で傷つけられるとは、こういうことなのだと視覚的に理解させられるのもまた、苦しいと思った。
「ここで約束しておきます。もう決して、理不尽な暴力で苦しませることはないようにすると。井之上元帥閣下も、海原元帥閣下も、海軍の体制変更に尽力しておられますから、どれだけ小さな声でもいいですから、あげてほしいんです。その声が変革の一手になるのです、天津風さん」
「ひっ……ひっ……」
「あ、天津風さん……?」
彼女はテーブルに視線を落としたまま、短い呼吸ともつかぬ声を上げて胸元を両手で押さえ、背を丸めた。
過呼吸か、と私はすぐさま立ち上がって彼女に駆け寄り、背に手を添えてから少し離れたところに見える購買のレジに立つ軍属であろう男に向かって言う。
「すみません! なにか小さな袋をいただけますか!」
「えっ、あ、は、はい!」
白いレジ袋を片手に駆け寄ってきた男からそれを受け取って天津風の口元にあてていると、男は厄介ごとには首を突っ込みたくないとばかりにさっさとレジへ戻って行く。
冷たくも感じられたが、無駄な話を聞けば巻き込まれる可能性も否定はできないため、彼を責める道理はない。
今は彼女を見ねばと、呼吸が落ち着くまでレジ袋を当て続けて暫く、彼女は一度だけ深呼吸すると、レジ袋を持つ私の手に自分の手を重ねて遠慮がちに押した。
「だ、だい、じょ、ぶです……ふぅ、ふぅ……ごめ、なさ……」
「気になさらないでください。後輩のためなら、なんてことありません」
「ふー……ふー……っ」
軽口を叩けど、彼女の目は焦点を失っていくばかり。
これは相当に根深い。ここでぱっと聞き出せるような話ではなさそうだ、と彼女に見えぬよう眉をひそめてしまう私。
前日、前々日と泊りがけで舞鶴周辺の資源貯蔵用の倉庫の確認から、演習視察、哨戒の記録照合などを行って仕事は滞りなく進めていたつもりだった。
ここに来て、実のところ一歩も進めていませんでしたと突きつけられているような落胆が私の中に湧き上がる。
「い、いつ、も……いつも、提督、は……よ、夜に、なると……誰かを、し、指名する、んで、す……ふぅぅっ……ふぅぅっ……」
思わず声が出た。あ、という短い声が。
彼女は、駆逐艦天津風は、苦しんでなお、私の言葉を呑み込んでどす黒い記憶に手を突っ込んでくれているのだと。
「指名ですか。それは、任務で?」
冷たく機械的な質問をしながらも、私の身体は自然と彼女を強く抱きしめていた。
大丈夫といくら言葉で言っても伝わらない時には、こうするのが一番であると知っているからだ。
「任務、じゃな、いです……あんなの、絶対、任務なんかじゃ、ないっ……!」
「夜伽でしょうか」
「……」
こくり、と頷いた彼女に、なるほど、と言いながら腕を回して頭を撫でる。
「いた、かった……怖くて、気持ち悪くて……でも、言うことを聞かなきゃ、また、あそこに連れていかれるからって……! ひぐっ……ぐす……」
必死に涙を我慢していたのだろうが、それでも零れてくる水滴は彼女の制服の裾を濡らしていく。
「あそこ……? それは、営倉ですか?」
こうして聞くことしか出来ないのがもどかしい。
一足飛びに答えに辿り着いて解決する能力があればと奥歯を噛みしめてしまう。
そんな能力を持つ人などいないと分かっていても、そう願わずにはいられなかった。
そうすれば彼女の涙を止められるのにと不甲斐なさにくじけそうになる。
しかしこうやって一つ一つ聞いて牛歩でも進まねばならない。
営倉――と言えば、懲罰的に収容される場所だ。
舞鶴鎮守府においては懲罰的に収容される場所というより、皮肉って言ってしまうと戦果が挙げられなかった場合の
巨大な拠点であるため、舞鶴鎮守府は資材倉庫を敷地の内外にもつ。
そのうち敷地外の資材倉庫は海岸沿いに並ぶように建っており、実はその殆どが敷地内にあるべきもの。
敷地内にある資材倉庫は名ばかりで、それこそ営倉として使われている艦娘にとっての第二の居室なのだった。
倉庫内を改装していくつかの狭い個室を造り、鉄格子のついた小さな窓に床に剥き出しとなったトイレとも呼べない半分に切られたドラム缶が埋められたその場所で、寝食を強制される。
これがまた、堪えるのだ。
不潔さは艦娘であろうが出撃後であらば大敵なことなど見て分かりそうなものだが、そうして苦しんだとしても艦娘は入渠すれば大抵の怪我や病気はあっという間に治ってしまう。
ある意味ではよく考えられた苦しませ方、とも言えるかもしれない。
怪我が悪化することはないにしろ、痛みは長く続くし自然治癒もしない。
臭いにも慣れたとて一日と間隔があいただけで、再び不潔極まる営倉に入れられたらえづきもするし食事も喉を通らなくなる。反抗の意思も失せるというものだ。
「倉庫じゃ、ない……と、思います……」
「あの営倉ではない……?」
長峰少佐が着任してからだろう。営倉に使われていた倉庫は全て内装が変わっており、入渠施設、建造ドックともに新品同様になっていた。
少佐もさぞ改造された倉庫に驚いたことだろうが、あの営倉でないとすれば、提督の私室でも指しているのだろうか?
あの趣味の悪い私室をあてがわれた少佐は気の毒だが。
壁一面に酒瓶と高級品であろう時計のコレクションが並び、ダブルベッドにどぎつい香水の匂いを染み込ませていたあの部屋を思い出すだけで、うげ、と顔をしかめそうになる。
夜警をしろと言われてあのベッドの傍で立たされたのは悪夢だった。
さらには太ももに手を伸ばされ……ああもう! 嫌な事を思い出した!
胸中で憤慨するも、その火はある思考に辿り着いて消えてしまう。
私みたいに殴られようが拒否した艦娘ばかりなわけがない、と。
天津風を見れば、その手は震えていた。
ああ、そうか。納得と同時に、どうにもならない感情が去来する。
「営倉ではないというと……その場所がどこにあるか、覚えていますか?」
質問を続けることで平静を保つ私に、彼女は首を振った。
「わから、ないんです……いつも、顔を、隠され、て……」
「顔を隠され……はぁ……」
「ご、ごめんなさっ――!」
「違います天津風さん! その最低な行為について、怒りを通り越して呆れてしまって、もう、本当に……よく耐え抜きましたね」
「う、ぅぅっ……ぅぅぅぅぅ……!」
駆け足に質問をしては傷を抉ってしまう。
ゆっくりでいい、少し時間が掛かったって構わない。
壊れないように、ただ、彼女が壊れてしまわないようにと抱きしめ続ける。
そして彼女を安心させるべく、
「憲兵隊も体制変更が掛かり、海軍と陸軍の仲は対外的には不仲であるというていが形成されつつあります。内陸の守護や被害復興を目的とした陸軍の中でも法務部といったら、今後の海軍にとって目の上のたんこぶとなるでしょう。その法務部を統括する軍人は軍規違反とあれば容赦なく自分の部下ですら捕まえる男だとか」
「大淀さん……?」
「松岡中将閣下の部下もまた厳しく鍛えられたもので、金森提督がどのように更迭されたか目にしていない私でも、想像に難くありません。佐世保鎮守府の八代提督は私の目の前で引き倒されて銃口を突きつけられていましたからね」
「……」
「強硬な手段を取るならば、同じく強硬な姿勢を取るまで、と言わんばかりでした。人の生き死にを揶揄するべきではありませんが……発砲許可まで下りていたというのですから、それだけ、この変革はただ事ではない、ということです」
おっと、これは独り言でしたが、聞かなかった事にしていただけますか?
そういうと、天津風はぎこちなく口角を上げて頷いた。
「で、も……まだ、怖いんです……私……」
「ええ、ええ」
大きく頷き、天津風をひょいと持ち上げて椅子に座り、私の膝の上に彼女を乗せる。
「ぁ、わっ……」
「では、こうして守ります」
「お、おも、重いです、からっ……!」
「ちゃんとご飯、食べてますか? とっても軽いですよ」
「うぅっ……」
恥ずかし気に、困ったように俯く彼女の後頭部に鼻頭を埋めて深呼吸する。
彼女も私と同じく、海の匂いがした。
頭の上にかぶせられたままの海原提督の軍帽をひょいと取り上げ、彼女の顔の横からにゅっと顔を出して、二人して軍帽の中央に堂々とした光をたたえるマークを見つめた。
浮かんでくる様々な感情と記憶。
しかし目の前にあるのは、かつての戦火に煤けた桜と錨ではない。
「これを被っていたあの人は、やっぱり怖かったですか?」
「……うん」
「長峰少佐も?」
「……まだ、少し」
同じ女性にすら恐怖を感じるとあれば、やはり軍服や軍帽といった象徴的なものにトラウマを抱えてしまっているのだろう。
そこで私は突拍子もなく言った。
「じゃあ、長峰少佐が普通の服装なら、どうでしょう?」
「普通の……?」
「はい。ブラウスに、スカートとか」
天津風はその姿を想像しているのか、しばし無言だったが、こくり、と頷いた。
「似合い、そう」
「あら、怖くないか訊いたのですが……似合いそうなんて、ふふ」
「えっ、違、私、そういう、あのっ……!」
「ふふふっ、いえ、大丈夫です、私の聞き方が悪かったのかも、ふふ、ふふふふ……」
「そんなに、笑わなくても……」
むう、と唇を尖らせた天津風は軍帽にそっと手を伸ばす。
マークをなぞるように指を動かしてから、引っ込め、もう一度指で触れる。
数度繰り返してから、私から軍帽をそっと取ると、それを裏返した。
そこに――紙切れが一枚、折りたたまれているのに気づく。
「あ、こ、れが、当たってたんだ……」
「なんでしょう、これ?」
二人羽織りの恰好のまま手を伸ばして取り出す私、二人でそれを開くと――それは、破かれたメモ帳の切れ端であろうものに【てーとく】という文字が。
「絵……?」
「これは……」
服を着た棒人間が二人走っているような絵の下には二つの文字で、島風、とあった。
一つは癖のある海原提督の字で、もう一つは彼女自身のもの。
「しま、かぜ……」
「ああ、思い出しました、ふふ」
ふと思い出される、柱島泊地の執務室での出来事。
なんてことはない日常の一端。
執務中の部屋に遊びにきた島風が、非番ですることがなくて暇だと駄々をこね、私がお茶を飲ませて宥め、適当に相手をして帰ってもらおうとした、そんな出来事。
海原提督は第六駆逐隊が残していった画用紙を渡して、絵でも描いてみるか? と言ったのだが、島風は彼女たちの画用紙だからと言って描くのを遠慮した。
ならこれを使えと破って渡したのが、このメモ用紙だった。
私が一番速いから、提督は二番目ね。
そんな事を言いながら楽しそうに絵を描いた彼女は、その数分後に飽きて外に走りに行ってしまったのだが。
「こんなところに入れておくなんて、変な人ですね」
「艦娘が、描いた……ん、ですか……?」
「ええ。島風さんに天津風さんは、もしかすると、お友達になれるかもしれません」
艦娘としての繋がりではなく、過去の繋がりで発した言葉だった。
「友達なんて、そんな」
「走るのが大好きな子ですから、大変かもしれませんけど」
私の言葉を最後に、沈黙が漂った。
日は傾き、彼女と座って黙ってサイダーを飲み、絵を眺め、未開封のままのお菓子を食べもせず、弄るだけ。
ふと、天津風の掠れた声がする。
「わた、しも、走るの、好きだったんです」
彼女は途切れ途切れに、島風の描いた絵を見て言う。
「好きだったん、です……風を、感じられて、好きだったんです……」
声は震えていたが、今度は涙を流していなかった。
震えが空気を揺らし、想いが行き場を失くした煙のように漂う。
「たくさん走りたい……風を感じて、海の上で、高い空を見上げて、今度こそ人を守りたいんです……」
艦娘だからかもしれません。言葉を切った彼女だったが、紡がれる声に、私はメモの切れ端を持つ彼女の手を強く握った。
「まだ……走れる、かな」
「どうでしょう?」
私は、それを言うべきではないと敢えて手を離す。
「……」
天津風はメモの切れ端を丁寧に畳んでから軍帽の裏へ収めると、くるりと、またマークを見つめる。
「……まだ、走りたい、です」
意志は、死んでいない。
「では、そうしましょう」
「えっ、大淀さ……きゃっ!?」
彼女を抱えて立ち上がると、地面におろしてさらに言う。
「走りたいのならば、走れるように道を整えましょう。それもまた、私の仕事なのですから」
「……うん」
私が言わんとする事を理解した天津風は、それでもまだ少しの恐怖がある様子で、胸元をぎゅっと押さえる。しかし目は、必死に前を見ようとしていた。
「わ、私っ……な、長峰少佐に、は、はなし、うぅっ……話してないことが、あるんです……! お、大淀さんも、いて、くれます、か……?」
「もちろんです。何なら抱っこしたままでも……」
「そ、そそそれはいいです! 大丈夫ですっ」
「あら、そうですか? ふふ」
うう、と不満そうな声を上げる天津風だったが、一歩だけ前進したかな、と私は彼女の手を握る。
「では、行きましょう。走れるように」
「はい……っ」
* * *
執務室に戻って来ると、そこに海原提督の姿はなく、書類に埋もれながらうんうんと唸る長峰少佐だけが居た。
「戻りました。あの、海原提督は……?」
私の問いに、長峰少佐は簡潔に私と天津風が居ない間の出来事を説明してくれたのだが、あんまりの行動に天津風に恰好をつけた手前だというのに立ち眩みを覚えてしまう。
「あの人は、また、もぉぉ……!」
「大淀さん、海原元帥は……」
「だ、大丈夫でしょうが……長峰少佐、提督は資料室へ向かわれたのですね?」
「え、えぇ。はい。邪魔出来る雰囲気ではなく、陸軍の松岡中将閣下や情報部の忠野中将閣下と話しておられたので軍機である可能性も高く……仕事をしてくるからここにいろと命令もありましたもので……」
あの人は自分のお立場を分かっているの!? と、説教してやらねばという気持ちが顔を覗かせたが、理性がそれを抑え込む。
いくら天津風が泣いていたからとかき回すような真似をされては仕事が増えてしまう。あの人はどうにも、仕事にとりつかれている節がある。それが艦娘と関係があるとなれば修羅をも踏み潰さん勢いで行動するものだから追いつくのだって簡単じゃない。
資料室であれば調べものをしているだけかもしれないが、どちらを優先すべきか……ここで天津風さんを一人にして長峰少佐に話をさせることも考えられたが、そうすると私は彼女に嘘をついたことになる。一緒にいると言ったのだから。
海原提督を――まもるさんを信じて、まずは彼女のことを進めよう、と私は大きなため息を吐き出した。
「はぁぁ……海原提督の様子は後で見るとしましょう。まずは、長峰少佐、天津風さんのお話を聞いていただけませんか?」
「天津風の? それはもちろんですが……天津風、私に何か話したいことがあるの?」
「ぅ、その……」
執務室にきてから私の背に隠れっぱなしの天津風に後ろ手を伸ばし、手を繋ぐ。
応接用のソファへ連れて行って一緒に腰をおろすと、長峰少佐は執務机から立ち上がって水を三人分用意して、それを置いて対面へ腰をおろした。
「待つわ。何時間でも、何日でも。私は舞鶴鎮守府の提督だからね」
「……」
「話さなくたって問題は解決する。それが海軍の問題ならなおさら。あの日、私があなたたちに仲間だと言ったことを証明するためにも、尽力する。だからあなたの意思で、決めなさい」
真剣な表情で言う長峰少佐に、天津風は唇を震わせながら開いた。
「金森、提督のこと、で……」
「ゆっくりでいいわ。私は、ここにいるから」
天津風はちらりと長峰少佐の顔を見てから、おずおずと水の入った紙コップに手を伸ばして、口をつけた。
緊張や恐怖で口内がカラカラになっていたのかもしれない。
「私、いつ、も、金森提督に、そ、の……乱暴、されて……それで……」
「乱暴というのは、殴られたり、蹴られたりしたのね?」
天津風の首が縦に振られると、少佐は苦々しい顔をしながら眼鏡を押し上げる。
「それ以外、に、も……」
「以外にも!?」
大きな声にびくりと肩が震えた彼女に、少佐が慌てて手を振る。
「ご、ごめんなさい、大きな声を出して。私は話を聞かされているだけだから、本人の口から以外にも、なんて言葉が出てくると、ちょっとね」
舞鶴鎮守府での不正として目に見えて分かりやすい数字のつく資源や艦娘の増減について知る長峰少佐も、よもや彼女の口からさらに酷い事が飛び出てくるとは、予想していても衝撃がある、といったところか。
「……夜になると、部屋に、呼ばれて、服を」
ダンッ、と応接用テーブルに長峰少佐の手のひらが落ちる。
天津風が驚いて目を見開き、私も何事だと長峰少佐を見るが、彼女は眉根にこれでもかと深いシワを刻んだ表情で、怒りの籠もった声で言った。
「最後まで、したの」
最後まで、その声に天津風の瞳から水滴が落ちる。
「……」
テーブルに落ちた長峰少佐の手が拳を作り、震えた。
「わか、ったわ……そう、天津風、そうだったのね……よく、話してくれた」
「ひっ、ぅ、ぐすっ……は、い……ぁうっ……」
衝撃でずれた眼鏡をまた押し上げた長峰少佐は、深呼吸を繰り返した後に問う。
「他に、呼ばれた艦娘は分かる?」
天津風は頷く。
「時間をかけて、聞けるとこまで、聞き取り調査する。天津風、あなたは暫く休みなさい」
「え、わ、私――!」
「あなたが何を言おうが待機は変わらない。これは命令よ」
「っ……」
天津風は私に助けを求めるかのような視線を向けるが、私は口を開かなかった。
それを見て絶望するように瞳から光が失われかけるも、少佐の声に、目が見開かれる。
「あなたの傷を癒すことが先。その他の仕事なんていくらでも回せるわ。それが私の任務なんだから、私が休めって言えば何も考えず休んでいればいいの。どうしても何かしたくなったら、また言いに来なさい。いいわね」
「ぁ……」
ほら、ね? とようやく顔を向けると、天津風は言葉無く目で頷いた。
長峰少佐が「聞き取りに調書を用意して……あーもう新しい金庫も発注すべきかしら、これ……でも予算の分配が……彼女達の部屋にできるだけ……」とぶつぶつ言いながら眉を指でかきはじめた時のこと、古めかしい、ぼーん、というチャイムが鳴った。
執務室にあるアンティーク時計の音だと全員がそちらを向いた時、はっとして私は立ち上がる。
資料を見ているにしては長すぎる、と。そろそろ迎えに行くべきだ。
私は眼鏡のつるに指を這わせ無意識に海原提督の場所を探ろうとするのだが――
「あ、れ……?」
隣の資料室に反応はない。
失礼します、と執務室を出て、資料室へ駆けていく。
扉を乱暴に開くも、音すらしない。室内は無人だった。
もう一度、と今度は意識的に電探を起動して反応を探すが、離れた位置にある艦娘寮にいくつも反応が見られるだけで、海原提督らしき反応は見つからず。
もしや身分証明書を柱島泊地の執務室に忘れて来た? あり得ない話ではあるが、考えにくい。彼は身分証明書の類を部屋のどこかに保管することなど殆どなかったからだ。
常に軍服のポケットにカードを入れっぱなしで、取り出されるのは入浴で着替える場合のみ。
ずぼらなのか几帳面で慎重なのか分からない彼だが、この時に限ってカードを出して忘れるなんてあり得るだろうか。
そう考えながら探知範囲を広げても、反応は見られず。
執務室に戻って、きょとんとしている長峰少佐に「資料室にはいませんでしたが、他にどこかへ行くと言っていましたか?」と訊けば、首を横に振られる。
艦娘寮に行った? いや、ならば艦娘寮で動きがあるはず。
長峰少佐へ艦娘寮の見取り図を要求したあと、それと反応を照らし合わせてみるも、自室待機している人数分の反応しか無かった。
つるりと冷や汗が背を伝う。
「海原提督が、いません……」
呟く私の声に、長峰少佐は素早い動きで執務室の電話を手に取った。
「……こちら執務室。正門、異常はないか」
無意識に通話に意識を割り込ませ、会話を聞く私だったが、これでも冷静を保とうとしていた。
嫌な想像ばかりが頭に浮かぶも、必死に振り払う。
『一班、
「渡部、誰の出入りも無かったのか?」
『はい、本日は視察があると伺っておりましたので、少佐のご命令通り業者の営業なども全てお引き取り願いましたが』
「そうか……では、資材倉庫の方にある出入口の方で通行があったりしなかったか?」
『報告は受けておりません! 問題がありましたでしょうか?』
「あー」
長峰少佐が私を見たため、しばし逡巡したあと、頷く。
「出入りがあればすぐに知らせろ。艦娘含め、誰も出入りさせるな。追って連絡する」
『っは!』
長峰少佐が電話を切った後、私は出来るだけ静かに言った。
「まずは、探しましょう。あの人のことですからどこかにいるはずです。出ていないのなら、舞鶴鎮守府の敷地内にいるでしょう」
「了解しました。天津風、一緒に手伝ってくれ」
「は、はいっ」