「ん……ぉ……」
室内はじめついたままだが、音もなく真っ暗な部屋は俺を深い眠りに落としてくれていたようで、目が覚めた時は驚くほどにすっきりとしていた。
しかし身体の方はそうでもなく、まるゆを抱えたまま石畳の床に座っていたものだからバッキバキである。
「い、で、いででで……」
上体を捩り体勢を変えつつ、意識の覚醒を促すように首をひねる。
視線を落とせば、まるゆは未だにスヤスヤと眠ったまま。
規則正しい呼吸音が聞こえてこなければ死んでいるようにも見えるくらい生気がないように思えて、手を伸ばしてまるゆの鼻の近くへ持っていく。
手のひらに細い息が当たるのを確認してほっと一息つき、ポケットから携帯電話を取り出した。
起き抜けで眠気の残滓はあるままだが、仕事から逃げ出す時のように執務室のソファで仮眠をとるよりも数倍、いや数十倍酷い現実逃避をかまして爆睡したのだから、相当な時間が経っているかもしれないと考えたのだ。
「……うわぁ」
金森にそそのかされて地下室へ足を踏み入れた正確な時間は分からないが、少なくとも昼をだいぶ過ぎたあたり。そうして今、携帯電話の画面が示す時刻はフタマルサンナナ。
完全に寝すぎです。本当にありがとうございました。
いやむしろこんな状況で現実逃避をかまして眠れたこと自体驚きなのだが、それにしたって夢の一つも見ない熟睡とは。
自分で言うのもなんだが、ベッドの上でもないのに気力がこうも簡単に回復するくらい追い詰められていたのだと考えると改めて……海軍、やべえ仕事である。
さらにはその仕事に追い詰められたからと言って現実逃避に爆睡をかましてから考えればいいや! という精神を体現した俺、自分にドン引き。
「流石に、まあ、うん、戻るか……絶対怒られるわこれ」
寝起きこそ意識がぼんやりしていて現実逃避してしまうのでは? と考えられそうなものだが、社畜ならば経験があることだろう。
睡眠を挟むと余計な事を考えない分、冷静かつ常識的な判断をするものなのだ。
さらには判断力が三割くらいアップする。(まもる比)
特に寝坊して会社に遅刻しそうな時。
「ぃよいしょ、と……」
「う、ぅん……」
「あー、すまんな、眠いなあ、そうだなあ」
子供をあやすように言いながらまるゆを一度地面に寝かせたあと、上着の胸元についているいくつものバッジを外してズボンのポケットへ押し込む。それから上着を脱いで地面に敷き、まるゆをその上に寝かせた。
「隊、長……」
うーんこのモグラちゃん、いくら動かそうがスヤスヤである。可愛い。
まるゆを見下ろしながら立ち尽くしていても仕方がない、と携帯電話を再び取り出し、画面を睨む。
バックライトの眩しさに目を細めて眉を寄せながら、どうにか脱出する方法を考えねばと無意味にメールを開いてみたり、電話帳を開いてみたりするのだが、そも、この場所が地下であり圏外なので携帯電話そのものとして役に立たず。
せいぜいがカメラのライトで周囲を照らす程度のものだが、気持ちの悪い室内には椅子とテーブルの残骸だけで探索も意味が薄いように思われる。
黒色の壁が光を吸収しているようで、やはり薄暗い。
しかしながらこの地下室から出なければならないわけで……まるゆがここに閉じ込められている期間を考えたら長峰少佐に確認を取らねばならないことも山積み。
こんな事になるなら脱出ゲームとかで遊んでおくんだったなあ……やる時間とか無かったけど。
脱出ゲームをプレイしていれば、いつか地下室に閉じ込められたって大丈夫!
――なんて考えるわきゃねえだろ! 誰がいつこんなとこに閉じ込められるんだよ、普通に生活しててよぉッ!
と、激おこまもるが顔を覗かせそうなので身体をさっさと動かす。
寝る前に通気口らしき部分をあけてみてほしいとむつまるが言っていたのを思い出し、ライトで照らしながら天井付近に取り付けられた金網をひとつずつ確認していく。
やはり風が吹き込んでくる気配はない。通気口ならば微風であれ吹き込んできそうなものだが、どこにも繋がっていないということはあるまいし……と、顔を近づけると、ふわりと何かの匂いに気づく。
「なんだこれ、りんご……いや、消毒液……?」
果物のような匂いから甘さを抜いた香りがして、もしやこの先は食堂にでも繋がってるのではと考えたのだが、そうすれば音の一つくらい反響して聞こえて来たっていいはずなのにと否定が浮かぶ。
ならばこれは一体なんの香りなのだろうと思いながら、金網の四隅にあるネジに触れた。
ざりざりとした感触がする。ライトで照らすと、若干さび付いているのが見えた。
これは簡単には外せないぞ……と、ドライバー代わりにならないか携帯電話の裏蓋を外して角をネジの駆動部へ突っ込み捻ってみるも、しっかりと取り付けられているようで、蓋がぐにゃりと変形してしまう。
無理に回そうとすれば蓋が割れるか、と携帯電話へ付け直した時、あ、と声を上げてポケットへ手を突っ込む。
「これなら……――」
勲章のバッジである。丁度良く細くて薄いそれは、この環境下で一番ドライバーの形状に近い。不敬極まると怒られそうなものだが、緊急事態だから許してくれるだろう。誰が許すかは知らんが。
本当に脱出ゲームの様相を呈してきたなと考える一方で、懐かしい事を思い出して苦笑いしてしまう俺。
なにも頭がおかしくなったわけではない。いやちょっとおかしいかもしれないけどそういう意味ではなく、狂ったわけじゃないという意味である。
だから起きぬけた瞬間に何やってんだお前という目を向けないでくださいむつまるさん。
まゆるを動かしたり上着を脱いだりして起きてしまった様子のむつまるは、まるゆの傍からふわふわと飛んで俺の傍へ来ると、溜息交じりに言う。
『まもる、何笑って遊んでるの……』
「遊んでねえよ! 寝る前に開けろって言ってたのお前だろ!」
こそこそと反論する俺。
『楽しいの? 大丈夫?』
「大丈夫だし楽しいわけじゃないって……昔の事を思い出しただけだ」
昔の事をな、と噛み締めるように言ってから、その頃よりマシな状況とは言いにくいのに、むつまるの言うように笑ってしまうくらいには、実のところちょっとだけ楽しいと思っている自分がいる。やっぱ頭やべえのかなと若干心配になる。自分のことなのに。
「昔な、仕事をしていて、どうしても時間が足りなかったことがあった。早朝から必死に仕事に取り組んでも、日付が変わっても終わらなかったんだ」
『前のお仕事の話……?』
「ああ」
ネジの駆動部は硬かったが、徐々にネジ山に隙間が出来てきたのか、回り始める。
「警備の見回りから隠れたりして、必死に仕事を進めた時を思い出した。こうやって真っ暗な中、明かりもつけずにああでもない、こうでもないとな。警備に見つかれば追い出されてしまうとヒヤヒヤしながら仕事をしてたのを、思い出したんだ」
『まもる……大丈夫……?』
「大丈夫どころか、今の俺は軍人で提督だぞ? 俺より大変な仕事をしている奴だっているんだ、ここで泣き言なんて言ってられん」
でも心は社畜のままです! ご安心ください!
「……っと、やっと外れたな」
右下の回りきったねじを指でつまんで引き抜くと、今度は対角線にある左上のネジを外し始める。
普通に回しては駆動部を潰しそうになるので何度か上下を変え、振動を与えつつ回すと、今度は先程よりも早くくるりと一回転する。
「うちの部は予算がギリギリでな。備品なんてのも全部ボロだったんだ。錆びて使い物にならなかったりなんてザラにあったぞ? はさみだのホッチキスだのは備品に頼れないから個人で持ち込んでたくらいだ」
今となっては昔の話。ここでいくら愚痴をこぼしたところで過ぎた仕事が楽になるわけもなし。
文句を言うべきじゃあないよな、とまたも苦笑いして、どんどんネジを外していく。
時間は多少かかったが、ネジを全て外したあとに金網を掴んで引っ張ると、がしゃん、と音を立てて外れた。
金網の裏側を見てみると、壁側の面の方が錆びているのを不審に思い、むつまるに問う。
「内側だけどうして錆びるんだろうな? それにほら、この匂い、わかるか?」
金網にも匂いは染みついていたようで、リンゴのような香りが指に付着していて、もう一度嗅いだ後に金網と指をずいっとむつまるに向ける。
『……うーん、なんだろう? とにかく、ちょっと中を見てくるから待ってて!』
「あっ、おい!」
そのまま通気口へ突っ込んで行くむつまる。
手持無沙汰になって、結局まるゆの傍に戻って座るくらいしかやることのない俺。
「隊長、今の話って」
「っ!? んんっ、起こしてしまったのか、まるゆ」
唐突に声をかけられて「きゃあああ!」とか声出そうになったよまるゆ。
もう少し優しくそっと話しかけてねまるゆ。まもるとの約束だよ。
慌てて姿勢を正して――と言っても、胡坐をかいたまま背筋を伸ばしただけ――まるゆに身体に異常はないか訊けば、首を振って大丈夫だと言った。
「まるゆは丈夫です。それに、入渠の許可をいただければ問題ないです」
「入渠の許可も何も、傷ついているのに入渠しない意味が分からんが」
言いながら、携帯のライトをつけてまるゆの身体を照らす。
艦隊これくしょんのグラフィックでは服が破れたり煤けたりして中破や大破を表現していたが、小破は文字だけだった。
それと照らし合わせて言えばまるゆは小破か中破、といった様子。
「どうして損傷したままこんな場所にいたのかは聞いたが、金森から入渠の許可はおりなかったのか」
まるゆの言葉通りなら、
「……はい」
訊くまでもないことだった。
「そ、それより隊長、さっき妖精さんが見えました。妖精さんと、お話が出来るのですか?」
「ああ、出来るぞ」
「では、今の話は妖精さんと……」
「うむ。ちょっとした昔話だ」
社畜時代のほろ苦い思い出です。
「……どうして、笑ってお話、できるんですか」
「うむ?」
「どれだけ厳しい任務であったか、まるゆには分かりません、でも、どうして笑っていられるんですか」
「え、あ、うー、む……そう、だなあ……」
昔の事だしなあ……。
今の状況で笑ってることに関しては自分でもやべえなって思ってるよ。
頭おかしいよね、うんうん、まもるもそう思います。
むつまるもやべえなこいつって顔してました。
しかしまるゆの言う任務というものと俺の仕事は違う。
勘違いさせないようにと俺は慎重に言葉を選びながら話した。
「海軍の任務ではない。昔の仕事の話だ。もちろん、人のためになる仕事ではあったが……少し、いやかなり、特殊な仕事だったものでな」
「海軍の任務では、ない……?」
「ああ、誰でも出来る仕事だよ。はたから見れば普通のな」
「……」
一応軍機であるため仔細は伏せるほかないが、嘘は吐けない。
これで納得してくれと言う俺に、まるゆはさらに問うた。
「ま、まるゆの、ような……任務でもなく……?」
「お前の任務は輸送が主だろう? 昔の仕事で輸送なんて……」
書類を届けたり、商品を届けたり、契約を取ってきたりくらいで……。
「ま、まあ、輸送、とも言えなくはないか……」
「その他には、ど、どのような任務を」
目を輝かせるまるゆ。
やめてくれ、俺をそんな目で見るな浄化される。
社畜が浄化されて残るものは怨念と仕事だけだぞ。誰も幸せにならない。
「他にはと言われてもなぁ……まるゆには悪いんだが、軍機で話せんのだ」
ごめんね……文句は忠野と橘と井之上さんに言ってね……。
「そ、そうですよね、ごめんなさい! まるゆ、気になって、あの」
「いいや、気にしないでくれ。まるゆが悪いんじゃない。全部海軍が悪い」
はん、と笑って言うと、まるゆは困った顔を見せた。
「隊長は、海軍が嫌いですか……?」
えぇ!? なんでいきなり……。
「嫌いなものか。海軍が大好きとも言えんが、少なくとも決して嫌いなどとは考えていない。陸軍も嫌いではないし、どちらも必要なものだろう」
軍人大好き! というほどミリタリーに通じているわけではない。
でも艦娘は大好き。
「どちらも立派な仕事だ。だが、出来ればもう少し……平和な方がいいな」
しみじみと呟いてから、まるゆに顔を向ける。
「まるゆは、海軍が嫌いか?」
するとまるゆは、じっと俺を見つめた。
「嫌いかも、しれません」
それも、そうか。
これだけの仕打ちを受けたのだから、好きになれる要素が無い。
俺が海軍の人間であると知りながらも口にするくらいなんだから。
「そうか。だが、否定はできんな」
どんなクソ野郎でも名目上は金森は俺の部下にあたる。ならば無関係と断じて責任逃れはあまりに図々しい。
こうした声を受け止めるのも俺の役目なのかもしれない、と甘んじた。
「でも隊長は――」
まるゆが何かを言いかけた時、ぷし、と音が聞こえた。
次にエコーのように響くむつまるの声が近づいてくる。
『わぁあああああッ! ま、まもるぅうううう!』
「む……!?」
立ち上がってむつまるが突っ込んで行った通気口を見る。
かしゃんと携帯電話が落ちて、ライトが天井を照らしたことでうっすらと室内に光が満ちた。
それでもかなり暗いままだったが、通気口から飛び出してきたむつまるを目視した瞬間、悪ふざけでもなく、ただ事ではない雰囲気を感じ取る。
むつまるは俺の胸に飛び込んでくると、わたわたと「口と目を塞いで! はやく!」と怒鳴る。
一体何が、と問う前に、その答えが通気口から漏れ出した。
りんごのような香りが強く充満した瞬間、目に激痛が走る。
「ぐぅっ……!?」
俺は瞬時にむつまるを両手で包み込み、まるゆに「立て!」と怒鳴る。
「隊長、どうし――わぷっ!?」
立ち上がったまるゆの足元に敷いたままの軍服を拾い上げて上着のポケットにむつまるを押し込むと、今度はそれをまるゆの頭の上にかぶせた。
「むぐぅ、むぐぅぅ!? 隊長! どうしたんですか!」
「まるゆ! お前は潜水艦だろう!? ゲホッ……えっほ、げほ! ごほッ!」
両目は焼けるように痛み涙が流れ、喉を内側からなんども引っかかれるような不快感が襲う。
明らかに危険な気体だった。強いリンゴの香りを少し吸い込んだだけで鼻を突き抜けて頭痛までしてきた。
「息を止めろ! 出来るだけ! 長く! ゲッホッ! おぇ……!」
既に胃の中は消化されて空っぽだったようで、吐き気のままに中身をぶちまけても粘度の高い唾液に胃液が混じったようなものしか出て来なかった。
身体が全力で拒絶しているのを肌で感じるくらい、苦しい。
『み、みどり剤だよ! これ、みどり剤! 外になんて繋がってなかった! このままじゃ……!』
みどり剤ってなんだよと問う暇もない。
ポケットの中からくぐもったむつまるの声が言うも、既に俺に冷静さなんてものはなく、ただ苦しみから逃れんとする本能だけがあった。
くだらなくて、しょうもなくて、本当に頭がおかしい男であると自認せざるを得ないことだった。
はやくこの苦しみから逃がさねば――まるゆを。
自分より丈夫で深海棲艦との戦闘以外でそうそう傷つくことのない艦娘を前にして、脆弱な存在であるただの社畜、あるいは国畜の男が一人、冷静さを欠く。
「ゲホッゴホッゴホッ! おぇ! う、くっ……げほっ!」
「わあっ!? た、たいちょ――」
「喋るな! 舌を噛む……げほォッ……舌を噛むぞ! 息を止めていろ! 命令ゲッホ……命令だ!」
軍服を被せたまるゆを抱えて走り出すと、入り口の階段へ向かう。
しかし、そこは途中で空間を断絶するような黒い天井で覆われており、現実逃避に就寝する前にも確認した通り、入って来た時に使ったファイルも機能しない。
冷静さを欠いていた俺はまるゆを左腕に抱えて、思い切り天井を殴り上げた。
ごん、と硬い音がして拳に衝撃が走る。
びくともしていないのは一目でわかっても、俺はもう必死で何度も天井を殴り上げた。
咳き込むたびに肺胞ひとつひとつが激痛を発し、舌の根元から喉にかけて不快感が行ったり来たり。両目の痛みに何度も瞬きをしながら涙を流し、普段からペンしか握っていないひ弱な拳をこれでもかと振り上げる。
がごん、がごん、と連続する音。
へこみどころか、傷すらもつかないのが暗がりでも分かった。
「た、隊長! やめてください! 隊長!」
「ゲェェッ……オェッ……ゲホッ! し、心配するなまるゆ! だい、だいじょ、ゲェッホッ! 大丈夫だ! 絶対に助けてやる! 問題はない!」
問題しかない。それでも俺はまるゆにそう言い切ってとにかく天井を殴り続けた。
響きもしない殴打の音が室内に消えていく。
足元がふらつきはじめ、眩暈を起こした俺は階段の上から落ちそうになるも、まるゆを落とさないように足に力を込めて前へ身体を倒した。
勢いで天井に頭をぶつけたが、そのおかげで眩暈が消える。
「ぐぁっ……げほっ……! くそ、開けよぉ……ゲッホッ……!」
何度も、何度も、何度も何度も殴りつける。
白い手袋の拳が真っ赤に染まってもなお殴る。
意識を失いそうになれば殴る。その痛みで覚醒した身体で殴る。
どれくらい殴っていたかは分からない。
ただ、頭の片隅で一瞬だけ、無我の境地って本当に何も考えない状態で、なら今の俺はその極致ではないんだろうな、と、それはもうくだらない事を考えていたことだけを、覚えている。
それらを塗りつぶすような、まるゆの金切り声も、耳にこびりついている。
「隊長! や、やめ――やめてください! 隊長! まるゆなんて、放っておいていいですから!」
「誰が放っておくか馬鹿者がッ!! 私は提督だぞッ! 安心してゲホッ……抱えられていろ! いいなッ!」
がこ、べこ、という音がやけに軽くなり始めた頃、俺は、
「音がします長峰少佐! 何か下から――」
「中央じゃない、下を掘れ! 下だッ!」
「は、はいっ!」
「音が近づいてき――う、うわぁぁッ!?」
「手、手が、人の手が! 少佐!」
「提督!?」
「海原閣下!?」
無我の境地とやらに、辿り着いたのだと思う。
* * *
黄泉比良坂を駆け足で戻った軍神。私はその言葉とこの光景を生涯忘れないだろうと、指示を出す事も出来ず立ち尽くして見つめていた。
将兵の一人がバールを放り出してしりもちをついて震えあがり、その他の将兵も十数秒、その光景を唖然して見ていた。
「提督! 提督!」
大淀殿が呼ぶ声に気づいているのか否か分からないが、ただ、真っ赤な拳が空間ごと抉るように突き上げられ、瓦礫を押し退けて外へ出ようとしていた。
ばしゃばしゃと瓦礫に膝をぶつけながらしゃがみ込んで、両手で周囲を掘り起こす大淀殿の行動にやっと正気を取り戻した将兵が「お下がりください! 我々が!」と突き上げられる拳の周囲にバールやスコップを突き立てる。
それから数分。地面が黒色の鉄とコンクリートの中間のような硬度のある素材で出来ていて、スコップやバールが欠けてしまわん勢いだという声を聴いた。
恐らくは大淀殿がそう言っていて、スコップが欠けてしまうだのと言ったのは将兵だ。
「――さ……――長……――長峰少佐!!」
「っ! ……も、申し訳ない! 私もすぐに手伝う!」
「お願いします少佐!」
大淀殿の呼び声に意識を取り戻した私は、見取り図を放り出して掘削に加わろうと一歩踏み出したが、ふと振り返って天津風を見る。
こんな地獄のようなものを見せなくてもいい。そんな思いで天津風へ執務室に戻るよう伝えようとしたが、彼女の目は見開かれたまま。
ここで掛けるべき言葉は、戻れ、なんかじゃない。私は意を決して言う。
「天津風、手伝ってくれるか」
「はいっ!」
天津風が加わった事によって艦娘二人分の膂力を得てからは、掘りだすまであっという間だった。
完全に口を開いた地獄へ続くかのような地下への道に立つ男、海原閣下は、ごつん、ざり、ごつん、ざり、とただ前を睨んで出てくる。
「て、提督……なぜ、こんなところに……」
全員が喉を鳴らして息を呑む。
彼は――ただ、こう言った。
「ま、るゆが……ゲホッ、泣い、て、いたんだ……艦娘が、泣いて……」
地下からもわりと上がる匂いに、う、と全員が口を塞いだ。
何があったのだと覗いてもただ暗闇が広がるばかりで様子など分かったものじゃなかったが、鼻や目を針で突くような刺激に覚えのない者などいなかっただろう。
――暴徒鎮圧用であろう催涙ガスが撒かれていたのだ。
それも
果物と消毒液を混ぜ合わせたかのような刺激臭は、かつて暴徒の鎮圧用に使われたもので、現在は教育用にいくつか似せたものがある程度で、実際に使う事は固く禁じられた兵器として通用する毒物に分類されるもの。
それも相当量で、致死するものではなかったが、閉じた部屋で撒かれようものならば致死性がいくら低くとも危険極まる。
目や喉を焼かれ続ければ失明の危険も考えられ、誘発された嘔吐によっての窒息すらあり得る。
その証拠に海原閣下の口の周りは大量の嘔吐による喉の損傷で血液まじりの唾液が見てとれる。
真っ赤に濡れた右腕をだらりと垂らしながらも、しっかりと抱え込むよう折り曲げられた左腕にある血の跡がある軍服が、もぞ、と動いた。
大淀殿が海原閣下に近づき、そっと軍服を捲ると、そこには震えて涙を流す艦娘が抱えられていた。
「だ、から……出よう、と……だいじょ、ぶだと……」
「隊長っ……た、隊長、出られました……出られましたよ隊長っ……!」
「あ、ぁ……そう、か……まるゆ……痛く、ないか……」
「大丈夫です、まるゆは、どこも痛く……ないです……!」
「……ははっ」
そりゃ良かった。そう言って、海原閣下はその場に倒れるように座り込んだ。
大淀殿が慌ててまるゆをキャッチし、救護班をと叫ぶ。
周囲の将兵が走りだしたのを機に、私は口元を覆ったまま海原閣下が出て来た地下への入り口へ近づいて覗き込みながら言った。
「天津風、君の言っていた特別拘禁室とは、ここのことか」
「は、はい、そうです……! やっぱり、まだここに……!」
「なんてものを作っていたんだ、金森提督は……」
トラウマが蘇ってしまうかもという私の考えは、海原閣下の拳で打ち砕かれ、吹き飛ばされていた。
天津風は未だ恐怖していたものの、それでもはっきりと言った。
「このガスを撒いて、何日も、ここで艦娘を苦しめていたんです。私達は死なないからと……言う事を、聞くようになるまで……!」
「拷問、凌辱……何でもありだな」
座り込んだ格好のまま気を失ってしまった海原閣下の背を見て、天津風は涙を流して言った。
「信じて、いいんですか……私は、本当に信じても」
覚悟を問われているのは、理解している。
しかし果たして私は海原閣下のように危険をかえりみず、このような事をやってのけられるだろうか?
分からない。
「……わから、ない」
「……」
だが、闇に触れた。
私の思い描く人を守るという軍人と、海を守ると進む艦娘を汚した闇に。
「でも、でもな、天津風」
眼鏡を押し上げて、私は初めて真正面から天津風を見た。
「戦えなくて立ち尽くすかもしれない。今だって驚いて動けなかった。それでも、逃げ出そうなんて気はないよ」
「……」
「戦えなくても、立ち続ける事に意味があるんだと教育隊で学んできた。だから私は……天津風の前に、皆の前に立ち続けるよ」
「ぅん……うん……っ、わか、り、ました……」
天津風はそうして、ぐし、と涙を袖で拭いてから大淀殿に抱えられたままのまるゆに近づいた。
「まるゆ、ごめん、ごめんね……私が逃げたり、しなかったら……!」
「天津風さん……えへへ、お久しぶり、です……怒ってなんかいませんよ……」
二人は涙を流して手を握り合う。
大淀殿は複雑そうでいて、それでも優しい笑みを浮かべて言った。
「あとの難しい話はぜーんぶ上官に任せて……今は休みましょう。ね?」