柱島泊地日記帳   作:まちた

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学び

「金森、支度をしろ」

 

 一介の若き憲兵の生意気な物言いに憮然とする力も無かった。

 金森は言われた通りに立ち上がり、将校であったが故に形だけ支給され続ける白いシャツの袖へと腕を通す。重たい軍服の上着がないだけ楽とも言えようが、既に数ヵ月と白いシャツに折り目の消えたクリーニングもしていない黄ばみはじめた白いズボンばかりで、囚人服となんら変わりのない感覚だった。

 

 連日続いていた取り調べも海原と電話してからぱったりと止み、そこからは不気味で静かな日々が続いた。

 若い憲兵がいくらかいる故に疑心のままに罵倒されることなど日常茶飯事だったのに、それすらもなくなったのだ。

 ただ淡々と、飯だ、風呂だ、運動だ、の三つを繰り返すだけ。

 朝、昼、晩と決まった時間に飯を食う以外に昼過ぎに中庭に放り出され、高い高い塀の向こう側に見えるビルと空を眺めるのにも慣れてしまい、金森は魂が徐々に抜けていくように気力を失っていった。

 

 いくつもの疑問符が頭の中をつつきまわしても、どうせ死ぬ、の一言で終わる。

 

 後は死を待つだけだった。

 

 今日こそが、その日だと思った。

 

「やっとか」

 

 そう呟いた金森は扉に背を向けたまま狭い居室で着替えていたのだが、がしゃん、と扉が開いた音に驚いて振り返る。

 

「これは忘れ物だそうだ」

 

「なん――がぁッ!?」

 

 振り返ってすぐに視界は暗闇に閉ざされ、鼻っ柱を折らん勢いで殴打される。

 つんとした強烈な痛みと、どろりとしたものが鼻と口を濡らしたが、突然のことにそれが鼻血であるとか、殴られる前にかけられた声は若い憲兵のものではなく、松岡中将のものであるなど考えられず。

 反射的に暴れかける金森の両腕はあっという間に手錠がはめられ、さらに後頭部を殴られる。今度は、拳などではなかった。銃床であろう金属質な、ごき、という音を最後に金森は意識を失う。

 

 

 

* * *

 

 

 

「ぅ……ぉ、あ……?」

 

 うめき声を漏らして目を覚ました金森は、まず眩しさに驚いた。

 がやついた周囲の音、そして――目の前に座って新聞を広げる男の姿に、驚愕した。

 

「た、だの……!? 何をして――!」

 

「おう、金森。久しぶりだな。裁判以来だからそうでもないか」

 

「貴様ァッ……!」

 

「落ち着かんか。全く、憲兵どもも手荒なものだ……鼻の調子は」

 

「っ!?」

 

 自分が座らされていること、さらには目の前に湯気を立てたコーヒーが置かれていることに気づくと、金森の思考はゆっくりと回り始める。

 金森には目もくれず新聞を読みふける忠野に言われて鼻元に手をやると、かさりとした乾いた血の感触がしたが、酷い痛みが残っているわけではない。

 テーブルの上に置かれた黒い頭巾を忌々し気に叩き落として言う。

 

「血は、止まっている……くそ、憲兵の奴らめ、()()()までぶん殴りやがった……!」

 

「そうかそうか。後で診てもらえ」

 

 診てもらえという言葉に、思考はどんどんと先細っていく。

 周囲の景色は金森が二度と見る事のないと思っていた、街の景色だった。

 

 場所はどこだと見回す金森だったが、忠野がウェイトレスを呼ぶ声に顔をぐりんと向ける。

 

「コーヒーのお代わりをもらえんか」

 

「はーい、ただいまー」

 

 若いウェイトレスは目を細めてしまいたくなるくらい眩しい笑顔で駆け寄って来て、忠野の前に置かれたカップにコーヒーを注ぐ。

 

「なん、なんっ、なんだ、これは、忠野……!」

 

「海軍の体制変更に伴って予定が大幅に変更されてしまってな、お前を迎えに行くのが遅くなっただけの話だ」

 

「は……?」

 

 ぱたりと新聞をとじて、忠野は煙草を取り出して火を灯す。

 それから煙草の箱を金森に向けた。戸惑う金森に忠野は笑う。

 

「もしや、これを機に禁煙しようと考えていたか?」

 

「い、いや、も……もらおう」

 

「っははは、まあ簡単には止められんよな。私も禁煙に成功した経験は一度や二度じゃ利かん」

 

「ふぅぅ……忠野、説明してくれ、ど、どういうことだこれは」

 

「うん? だから言っただろう。海軍の体制変更で迎えが遅くなったと」

 

「そういう事じゃない! 俺は憲兵に」

 

「あーあー、そんな事は分かっている。で、この私は誰だ?」

 

「は?」

 

「この私は、誰だ? 知っているだろう、金森」

 

 忠野はこういった話し方をする男だった。そう思い出した金森はかぶりを振って、それに乗っかる形で言葉を紡いだ。

 こうしなければ話を進めない気だろう? という顔をして。

 

「情報部の、忠野中将閣下、だろう」

 

「そうだ。情報部は私のもので、一部を除く殆どは私の手中にある」

 

「……」

 

「故に、憲兵がどこの誰を捕まえようが、私が出せと言えば出すのだ。これでいいか?」

 

「それは、お前……!」

 

「っくくく、物事にはリアリティが必要だからな。さて、ここでは出来ん話もある。そのコーヒーを飲んだら移動するぞ。何か食うなら、ここで済ませてもいいが」

 

 ぱあっと表情を明るくして金森はコーヒーに口を付けたあと、ウェイトレスを呼びつける。

 規則正しい生活が強制的に続けられたせいか、さして空腹など感じていなかったため、軽食を注文してそれを犬のように貪った。

 周りの目を気にする余裕などなく、ただ喜びと安心があった。

 

「舞鶴はどうなって、むぐ……どうなってる」

 

 サンドイッチで口の中をいっぱいにして殆ど噛まずに呑み込みながら問う金森に、忠野は畳んで置いた新聞記事に視線を落としてつまらなそうに文字をなぞりつつ答えた。

 

「長峰大尉――今は少佐だったか。その女性士官が舞鶴に着任している」

 

「長峰ぇ……?」

 

「眼鏡を掛けた別嬪さんだよ。今の舞鶴鎮守府は異臭騒ぎで閉鎖中……外部倉庫群に加えて外部倉庫周辺の民間工場やオフィスを一時的に借り上げて近隣地域の一部を舞鶴鎮守府として運用している状態だ」

 

「っ」

 

 異臭騒ぎ、という言葉に喉を詰まらせたのを見て忠野はへらへらと笑った。

 

「お気に入りだったか知らんが、大改築せねばならんので取り壊しは避けられんぞ。それでお前、どこで催涙薬剤を手に入れた。それに未報告の深海棲艦の残骸も発見されたぞ」

 

「……」

 

「作ったのか?」

 

「いや……」

 

「なら、楠木からのプレゼントか」

 

「……」

 

 無言は肯定とはよく言ったもので、金森の表情を見ただけでそうと断ずるに充分なものだった。

 

「楠木の事を言っても仕方がない、というやつだな。どうあれ日本で購入しようとなればどうしたって足がつく。私が調べても分からんという事は日本国外から仕入れたものだろうと予想を口にしただけだが、間違いじゃないならそれでいい。しかしな金森、あれはやりすぎだ。鹵獲されたか引き揚げられたような深海棲艦の残骸を解体した形跡も見つかったとあれば、握り潰すほかないじゃないか」

 

「くっ……楠木がヘマをしなければ――! それに貴様とて知らぬ存ぜぬを通していただろうが!」

 

「私が知っていたとなれば立場が傾くだろう? 馬鹿のフリをするなよ金森。私にもお前にも立場があった、だから知らなかった、そうして組織の瓦解を避けていたと口にせねば分からん阿呆じゃああるまいが」

 

「……ちィッ」

 

 ぐしゃんと汚い音を立ててサンドイッチの残りを一口で食べきると、コーヒーをぐっと煽った金森は大きく溜息を吐いた。

 

「食べ終わったか。さて、では行こう」

 

「ど、どこへ行くんだ」

 

「艦政本部だ。今は情報部も兼任しているから新築したんだ。過ごし易いと思うが」

 

 立ち上がった忠野に追いすがる金森。

 オープンテラスであったためか、テーブルへ金を置いて悠々と歩いていく忠野の行動に金森は表情を再び明るくした。

 

 

 

 カフェらしき場所から徒歩十数分で到着したのは、なんてことはない、普通のオフィスビルだった。二十階建てほどの小奇麗なビルは、どうにもまだ建築途中のようで、ブルーシートが屋上付近ではためいていた。

 

 中に入ると、ビニールに覆われた床や、鉄骨、多くの作業員が目に入る。

 海軍の軍人や軍属らしき者も多くおり、ともに作業をしていた。

 

「話すことは多くある、が……お前にあてがう部屋を用意したのでそこで全て話すとしよう。コーヒーだろうが酒だろうが構わんが……ああ、いや、酒はまずいか……アルコール以外ならば用意出来るが、注文はあるか?」

 

 エレベーターに乗り込み、忠野はなんの刻印もされていないボタンの一つを押す。

 ごうんと音を立てて動き出したエレベーター内で、金森は鼻元を指でかいて乾いた鼻血を落としながら「コーヒーでいい」と言った。

 忠野はスマホを取り出して「コーヒーを二つ用意してくれ」と言ってすぐにスマホをしまう。

 

 ああ、戻って来た、まだ俺は終わっちゃいない!

 蛇のような奴で気に入らないとは思っていたが、なんだこいつ、案外使えるじゃないかと金森はほくそ笑んだ。

 

「艦政本部も情報部も、となれば楽じゃない。まあ、井之上元帥閣下や海原元帥閣下に比べるべくもないのだろうが、役割分担とはかように重要なのかと頭が痛くなるよ。お前の処遇も憲兵に投げっぱなしにするわけにもいかんからと、こうして海軍の尻拭いに奔走させられる」

 

「……や、やりすぎ、は、認めるが」

 

 忠野は驚いた表情をしてみせた。

 

「なんだ金森、反省しているのか」

 

「ああ、艦娘を抑え込む以外にも人権派を徹底的に潰すべきだったのだ……!」

 

「……ほう?」

 

 忠野の声が地に落ちる。

 金森は熱のこもった声で歯の隙間から押し出すように言った。

 

「八代も拘留中か? それとも既にやられたか?」

 

「八代は生きているぞ。収容所は別だが」

 

「では海原についたらしい清水や山元はどうなってる」

 

「山元は呉鎮守府に据えられたまま、清水も似たようなものだ」

 

 エレベーターの扉が開かれ、忠野が歩き出すと金森は後ろについていきながらさらに声を上げる。

 

「海軍の体制変更というのも突然過ぎる! 呉が押されようが佐世保は南方からくる深海棲艦を追い払っていただろうが! 宿毛湾にだって撃退用にわざわざ道具を出してやっていたというのに……ッ!」

 

「道具、か」

 

「ああそうだ、アレがあれば深海棲艦は近寄っては来ない! 楠木が開発したものだから間違いないし舞鶴でも実証済みだ。あの戦果を見ただろう!」

 

 確かに、と忠野は笑った。

 舞鶴は常に戦果を挙げ続けていた。神出鬼没な深海棲艦を決して鎮守府に近寄らせず、安全地帯からどんどんと送り込まれる艦娘の群れに深海棲艦が攻め込んできたのではなく、深海棲艦が攻め込まれているとまで称されたほどだ。

 

「道具というのは、執務室のやつか?」

 

 ほれ、あの、と言いながら左手の手のひらを上に向けて、右手の人差し指でボタンを押すようなジェスチャーをする忠野に、金森は不敵な笑みで頷く。

 

「あれは素晴らしいものだ。ただの電波一つで深海棲艦どもが面白いくらいに進路を変えるのだ!」

 

「楠木はそれを、なんと?」

 

「深海棲艦の司令塔らしき個体から幾つかサンプルを採り合成した電波らしい。人型から得られた情報が一番有用だったと俺に譲ってくれたのだ。あいつらは電波によって進路を決定し、攻撃対象を定める」

 

「それは分かっているが、どうして電波を発することで進路を変更できるんだ。攻撃目標が目の前にいれば電波を受けても攻撃してきそうなもんだが」

 

「ああ? 艦政本部ではそんな事も分かっておらんのか?」

 

「あいにくとな」

 

「っは、なら楠木は秘匿したままくたばったのだな。電波は電波でも、あれは《深海棲艦が助けを求める声》なのだそうだ。っくく、化け物の癖に、助けを求める声には攻撃せんのだと。面白いとは思わんか!」

 

「……実に興味深い」

 

「楠木は認めたがらなかったが、あいつも生真面目な奴だったからな。攻撃性個体群の中でもあの電波を発生させることが出来るのは人型のみと言っていた。人型と言えば強力な個体だ、そりゃあ司令塔の助けを求める声に攻撃するほど馬鹿ではないとも言える。それをあいつは使いたくないと駄々をこねるんだ! あいつらは助けを求めるべきじゃないとな! っは、何を馬鹿なことを……化け物が人間社会に与することもおかしいのだから当然だろうがそんなこと! なあ!」

 

「金森、ついたぞ」

 

「お、おお、そうかそう、か……」

 

 自慢気に身振り手振りを交えて語った金森が見たのは、だだっ広い空間に、四方を透明な壁に囲まれた部屋のようなものがぽつりとある場所。

 異様に天井が低く黒いことを除けば、それは金森が舞鶴鎮守府にいた頃の執務室とそっくりだった。

 周囲にはその透明な壁の部屋以外は椅子が一つとテーブルが一つあるだけ。

 

 それだけじゃなく、金森はその透明な部屋に見覚えがあった。

 

 大きなダブルベッドに、壁にいくつもおかれた時計や酒瓶、勲章の数々。

 ご丁寧なことにそれらの支えすらも透明なもので構成されている異様な部屋に、ごくりと喉が鳴る。

 

「なんだ、忠野、これは何なんだ……」

 

「何だ、だと? おかしなことを言うなよ金森。お前の部屋じゃないか」

 

「は……?」

 

「おかしいな。長峰少佐の証言通りの部屋にしたはずだが……少佐は記憶力に関してはずば抜けていてな、時計の位置まで指定してきたのだぞ? うーむ、どこが間違っているか教えてくれんか、すぐに修正させるから」

 

「ま、待て、待て忠野、お前は俺を助けに来たんじゃ――」

 

「うん? おかしなことを言うな、助けたじゃないか。その証拠に陸軍憲兵ばかりの収容所から、海軍に戻れた。だろう? いや、私はな金森、お前の部屋を再現した()()に間違いがあるなら修正せねばならんからと聞いているんだ」

 

 金森は胸元をおさえて息を荒げ、どういうことだと何度も呟く。

 それを尻目に忠野はオールバックに撫でつけられた白髪交じりの髪をかきわけるようにガリガリとかいて言う。

 

「うーむ、これではデータに変動が出ると明石達に叱られてしまうな……よ、よし、金森、コーヒーを飲みながらでいいから少し待て、な! おーい! 誰か手の空いている奴はいないか!」

 

 白々しく慌てた様子を見せた忠野が声を上げると、部屋のどこかからぱたぱたと足音が聞こえてくる。

 金森がびくりとそちらに振り返ると、そこには桃色の髪をした艦娘が一人。

 

「はいはーい! お帰りなさい忠野中将! って、あら、もう来たんですね金森さん! いらっしゃいませー!」

 

「き、きさ、貴様、貴様は、あ、あか……」

 

「工作艦、明石ですー! あ、そうすると皆明石だ……えーっと、あんまり好きじゃないんですけど、海軍ではアカサタナで登録されてるので、私はサ号にあたりますね! 明石サ号です!」

 

 ニコニコした明石サ号と名乗った艦娘は忠野に顔を向けて首を傾げる。

 

「で、忠野中将、用事ですか? 調剤ならもう少しかかりそうですけど……」

 

「いやなに、金森の執務室を再現したアレに間違いがあるかもしれんのだ。そうするとお前達も困るだろうから金森に聞いて修正をだな」

 

「えー!? あれ作るのにどれだけ時間かけたと思ってるんですかぁ! もぉぉお! ちゃんと聞いておいてくださいよぉ!」

 

「すまんすまん、長峰少佐も忙しかったから引き留め続けるのも悪いと思って……再三、間違いはないか? と聞かれては気分も悪かろう。それに舞鶴鎮守府の艦娘のケアでバタバタしているのだから、任務ではない事に時間を使わせ続けるのもなあ」

 

「まぁ、そういう理由ならぁ……私達だってまだまだ調査しなきゃいけない事が山積みなんですから! 実験環境を整える時は迅速に! ですよ!」

 

「ははは、そうだな。ああ、それとコーヒーは……」

 

「それはもうあちらのテーブルに二つ置いてます! じゃ、金森さん、コーヒーを飲む時間くらいは取りますけど、あの部屋で間違ってるところを早速――」

 

「ひ、ひぃっ!? 忠野貴様、一体何をするつもりだ!」

 

「んだもう……大声を出すないきなり」

 

 耳を押さえて不快そうな顔をした忠野は金森を置いてテーブルへ近寄り、ひとつしかない椅子に座ってコーヒーを飲み始めた。

 テーブルはまるで部屋を観察するかのような位置にあり、金森の想像はどんどんと嫌なものを突き付ける。

 

「答えろ忠野ッ! 貴様、裏切るつもりか!」

 

「裏切るもなにも、最初からお前の味方だとは一言も言っておらんが」

 

「はぁ!?」

 

「質問には答えただろう? 思い出してみろ」

 

 術中。これが忠野のやり方である。

 思い返しても金森の質問には確かに答えていたし、おかしなことは無かった。

 

 ただ、彼はこうして金森をけむに巻いただけに過ぎない。

 

「一応時間通りには到着したはずなの、だがぁ……んー、まあ、憲兵も忙しいということかね」

 

 カップを優雅に傾けながら、忠野は腕時計を確認して呟く。

 

「き、さまぁぁぁああああッ!」

 

 どたどたと走り出した金森は、勢いよく拳を振り上げた。

 ばちんと音がしたが、そこに痛みに転がる忠野の姿はなく。

 

 コーヒーカップを持ったまま、中身も零さずのんびりと啜る音だけがあった。

 

 それに、金森の拳を片手で受け止め、みしりと握る姿。

 

「ぐぁっ……!?」

 

「そうだ、金森。艦娘や深海棲艦が常に変化し続けるように、我々にも変化が起こっているようなのだ。まあ、これも後で話すことになろうが、冷静に聞いて欲しい」

 

「は、離せっ! くそ、いぃぃっ!?」

 

 みしり、みし、みし。

 手袋越しに掴まれていて滑りそうなのに、その上から万力で押さえられたように動かせず、金森は悶絶しながら叫んだ。

 

「がぁぁぁあああッ! わ、分かった! 聞くから離せ! 頼むッ! 離してくれェッ!」

 

「ぴいぴいと、子どもじゃあるまいし……軍人が聞いて呆れる。収容所で運動くらいしなかったのかお前は」

 

 ぱ、と手を離されて、後ろへ逃れようとしていた金森はそのまま尻もちをついて顔を恐怖一色に染め上げる。

 

「まだ変化の薄い私で良かったと喜べ。そも、これのお陰で海軍は体制変更も相まって大騒ぎなのだぞ、まったく」

 

 苦々しそうに言う忠野の声に、遠くから明石の声が。

 しかしそれは先程金森に話しかけて来た明石とは別のものだった。

 

 金森に話しかけて来た明石は透明な部屋に入っていて、ああでもない、こうでもないとクリップボードを見ながら壁に飾られた腕時計をパズルのように入れ替えていたからだ。

 

 照明に照らされた中央の透明な部屋ではなく、だだっ広い空間の端の暗がりからだ。

 

「いいじゃないですかぁ! もしも溺れたら私達が助けてあげますから!」

 

「笑いごとではないッ! 海を泳げない海兵がいてたまるか!」

 

「あはははは! 海原閣下よりマシじゃないですか。柱島泊地みたいな場所だとお外に出るのも一苦労ですよ?」

 

「……あの方は問題無かろう。どうせあの一件で艦娘が放してくれんだろうからな」

 

「あ、あははー……そりゃあ忠野中将が片腕ボロボロにして帰って来たら、私達も似たようなもんかもしれませんから、ノーコメントで……」

 

「ふん。ああ、すまん金森、で、コーヒーは飲まんのか? 飲みながらでいいから明石に時計の位置を――」

 

 狂気の空間、そこに金森の自由意志など無かった。

 泣けど叫べど、もう逃げられない。ここで死ぬのか、と思った。

 

 だが自分は死を求めていたはずじゃないかと気丈な考えが浮かぶも、即座に、砕かれる。

 

「金森? 大丈夫か?」

 

「ぁ、うあっ……! くそ、お、俺を、どうするつもりだ……!」

 

 尻もちをついたまま恐れ戦く金森の問い。

 

「どうする、か、それはまあ、私の口から言うのも酷というものだ。あまり虐めんでくれ」

 

 ははは、と笑う顔に、酷などという生ぬるい言葉があるわけもない。

 こいつは今からしようとしていることで何かを得ようとしている。

 

 そう考え、金森は手の一つでも噛んでやると唾を飛ばしながら怒鳴った。

 

「っは、はは! 簡単には殺さないつもりだな! 実験と称して拷問でもするつもりだろう! その拷問で俺が口を割るとでも思っていたのか!? 馬鹿め! 大馬鹿野郎め! 海原がどうなったかなど知ったことではないが、片腕がボロボロになったと!? 命からがらあの拘禁室から逃げ出せたらしいなあ!」

 

 海原と話してから松岡に何度か殴り飛ばされたが、それ以降動きは一切無かった。

 とすれば、相当な容態であると窺える。

 

 催涙ガスで苦しみぬいて片腕が壊れるくらいに暴れ回って、なんとか救出されたのだろうが、しばらくは使い物にならんだろうとゲタゲタと声を上げて笑った。

 

「ひ、ひひひははははは! あーはっはっはっは! 俺の言う事を聞いておけば深海棲艦を掌握し続け日本どころか世界をも意のままに出来たというのに、貴様らは愚か者だ! 艦娘も、深海棲艦も! 所詮は我々の道具なんだよ!」

 

「その道具の中でも自分に逆らえそうにもない娘を選び、慰み者にしたのか」

 

「ははは、は……あ……?」

 

「なるほどな。お前の性根がよく理解出来たよ金森。お前は大言壮語を吐き散らし、任務を忘れ情欲に溺れ、そのスカスカな賢しい頭と節穴と見紛う両目で逆らわぬ者を選び、時に部屋で(なぶ)り、時に拘禁室と名付けた地下室に連れ込んで催涙ガスで苦しめ洗脳じみたことをしていたわけだ」

 

 忠野はコーヒーカップを静かに置くと、テーブルに肘をついて、足をするりと組んだ。

 

「戦艦や重巡、軽巡、空母と言った気の強い艦娘は好かんか? それとも、真正面から断られて二度三度と怒鳴りつけても意見が変わらぬようであれば心が折れたか?」

 

「う、うぅうるさいッ! 黙れッ!」

 

「駆逐艦であれば自分よりも小さく上から見下ろせる。何度怒鳴っても意見を変えないとあれば強硬手段もとりやすい。そうした艦娘らを拘禁室へ連れ込んで催涙ガス責めにして安全な執務室からマイク越しに《言うことを聞けば止めてやる》と言えば、たやすく言うことを聞いてくれるようになったか?」

 

「あぁあぁああああッ! くそッ! くそがッ! 黙れぇぇえええッ!」

 

 行き場のない羞恥や悔しさ、怒りと言った感情で地面を何度も殴りつける金森を、哀れなものを見る目つきをして見下した忠野は続けて言う。

 金森が逃げ出さないのは、周りが見えていないのか、はたまた周りを見ていて逃げられないと考えているからこその、この行動なのか。

 

「いくらお前であれ少なからずくだらんプライドがあったわけだ。そのプライドを守るため、艦娘を虐げるのに必死で楠木から寄越された技術を使って、自分の秘密基地を作り上げたのだな? まるで、分別のない子どものように」

 

 準備出来ました、という明石の声と同じくして、暗がりから、ごつん、と軍靴の音が響き渡る。

 ぬう、と暗闇から姿を見せたのは、白い軍服では無かった。

 

 目深に被った緑の軍帽に金の紋章。その奥から猛禽類のような眼光が金森の心臓を射抜く。

 

「ヒィッ!?」

 

「……数日ぶりだな、金森ィ」

 

 松岡忠――憲兵という名の猟犬の手綱を握る男は、にぃ、と歯を見せた。

 笑ったのではなく、本当に歯を見せたのだ。まるで噛み殺してやると言わんばかりに。

 軍帽からのぞく髪から滴る水が、恐ろしさを増幅させるようだった。

 

「遅刻だぞ松岡中将。どうした、らしくもない」

 

「貴様ら海軍の身体検査のお陰で遅れたのだ。海軍は相も変わらずとろとろ、とろとろと、何が《苦しいとかありませんか?》《痛いところはありませんか?》だ、嘘つきだらけな上に任務まで満足にこなせんとは聞いて呆れる。髪の毛を乾かしましょうかなどと床屋みたいなことを言い始めたのだぞ」

 

「ははは、濡れたままでは風邪を引くだろうから心配してくれたのだよ」

 

「そこまでひ弱なわけがあるか!」

 

 刺々しい言葉に忠野は笑いながらちらりと金森を見た後、すぐに松岡へ視線を移してテーブルに置かれたもう一つのコーヒーを指差して言った。

 

「コーヒーを用意しておいたから飲むといい。座るか?」

 

「っはん、誰が貴様の用意したものなど口にするか。ここに来る前に食事も済ませてある」

 

「つれないなあ松岡中将。一緒に海原閣下に仕事を任された仲ではないか、なあ?」

 

「貴様は海原閣下に言われるがまま俺が調べ上げた証言を届いてないだのと隠蔽しただろうが! 忘れたとは言わせんぞ!」

 

「はて、そのような事があったかな……あの時、私は海原閣下から届いてないかと問われて、まだ届いていないと、そのような会話をした記憶しかないのだ。なんなら通信記録でも――」

 

「貴様の出す情報は信用できるが信頼はしてない!」

 

「はは、それもそうか。だがこうして場を設けたじゃないか。これからここで話すことに偽りは一切ないと誓うとも」

 

「それのどこを信用すればいいのだか」

 

「――元帥閣下両名に誓おう。それに、ここの艦娘を証人にしても構わん」

 

「……ならば結構」

 

 松岡は不満げなままではあったが、ツカツカとテーブルへ歩み寄って乱暴な手つきでコーヒーカップを取ると、一気に煽ってがつんとテーブルに置いた。

 

「で、あれが例の部屋か?」

 

 松岡が問えば、忠野は頷く。

 

「趣味の悪い部屋だ。しかしこれぞ()()()とも言えよう。感謝するぞ」

 

「松岡中将、お前……感謝出来たんだな……?」

 

「貴様にではない! これを作ったのは、ほら、艦娘なのだろう」

 

「それはそうだが」

 

「艦娘に感謝しただけだ。勘違いするなよボンクラ」

 

「これは厳しいお言葉をどうも。まあ、情報部だの艦政本部だのと名乗っておきながらこの体たらくだ、甘んじて受けよう」

 

「……我々憲兵も同じようなものだがな」

 

「ははは、互いに肩身が狭いもんだな。っと、そうだ……明石、一本いいか!」

 

 松岡と忠野は刺々しい言葉を交わしあう。

 その間に挟まる明石の「どうぞー」という場違いに明るい声に、松岡の表情が幾分か和らいだ。

 

「いいのか?」

 

 確認する松岡に、忠野は苦笑いした。

 

「いや、どこも禁煙、禁煙で落ち着けんから我儘をな。ここなら構わんそうだ」

 

「では、失礼して」

 

 そうして二人は懐から煙草を取り出し、火を灯して紫煙をくゆらせる。

 しばらく、ぽかんとする金森を置いて沈黙が続いたが、それも終わりを告げるのだった。

 

「さ、て……金森、時間だ」

 

「は? じ、時間?」

 

 

 

* * *

 

 

 

「だ、出せ! ここから出せ! くそぉぁあああああッ!」

 

 松岡にひっつかまれて《透明な執務室》に入れられた金森は、暴れ回った。

 出せ、出せ、と怒鳴りながら壁に掛けられたものを全て薙ぎ飛ばし、ベッドを蹴り、棚を殴り倒し、半狂乱に唾を散らす。

 

 壁を殴りつけようとも傷もつけられず、ただ、無機質なノイズにのって部屋に響く忠野の声が耳をひっかく。

 

《どうだ、懐かしかろう金森。自分の部屋なんだからくつろいで聞いてくれ》

 

「がぁぁあああああッ! クソッタレがぁっ! 出せぇぇえええッ!」

 

《すまんが松岡中将との取引でな、出すわけにはいかんのだ。証言記録の改竄、あ、いやいや、証言記録の通達時間の修正は軍規に反するのだが、松岡中将閣下の寛大なお心で不問にしていただいている身でな。死刑にならない代わりに、お前は今後、その部屋で過ごすことになる。さらには恩赦という特典付きだぞ、ラッキーだろう?》

 

「はぁっ……はぁっ……ぐっ……」

 

 ぜえぜえと肩で息をしながら壁に手をついて恨めしい憎悪の視線を壁の向こうに佇む松岡と忠野に向ける金森に、為す術など無かった。

 もう正常な判断など出来る状態でもなく、部屋に入れられる前に着せられた軍服も、どういった意図なのかさえ考えられない。

 

《……松岡中将、何か金森に言っておくことはあるか?》

 

《何故、今なんだ》

 

《そりゃあ、この後はいくら声をかけても、なあ》

 

《……言うことなど……いや、自分の過去を棚に上げて一つだけ、言わせてもらいたい》

 

 忠野が持つ小さなマイクが松岡へ手渡され、声が明瞭に室内に届いた。

 

《潜水艦、まるゆを覚えているか?》

 

「……」

 

 金森は睨むばかりで、声は無く。

 

《おそらく、忘れていたのだろうな。あれはよく人に忘れられる。かく言う俺も忘れていなかったかと言われたら堂々と首を縦に振ることはできん。だが、これでもまるゆは陸軍所属の艦娘だった。だから、私が代わりにこの面を下げて言わせてもらう。まるゆが、世話になったな》

 

 マイクを忠野に押し返したあとは、松岡は腕組みをして仁王立ちのまま金森をずっと睨み返していた。

 

《……との事だ。軍規だの義理だのとうるさい男だとは私も思っているが、海軍の広い心で許してやろうではないか金森。な? 今からお前は明石達が再現したその部屋の中で実験に協力してもらうことになる。難しい実験ではないから、落ち着いて聞けよ》

 

「畜生どもがッ! 誰が貴様に協力などするかッ! 殺すならばさっさとしろッ!」

 

《えー、舞鶴鎮守府にて発見された特別拘禁室と称される部屋の機能を再現してある。その部屋の天井が執務室のものと別物であると気づいているだろうが、天井部分のみを舞鶴鎮守府から届けられた拘禁室の素材と同じものに変えてある。金森には今回、その天井を――破壊してもらう。時間制限は設けないので、気楽に考えてほしい》

 

「は、ぁ……? 天井、を、は、かい……しろ、だと……? ま、待て! 何を言っている! こんなもの破壊出来るわけがないだろうが! 拘禁室の天井は――!」

 

《そうだ。拘禁室で使われていたのは不思議な素材だった。鉄と同等かそれ以上の硬度でありながら、量産しようと思えば可能である素材であることは既に明石達の調査によって判明している。それは駆逐級の深海棲艦の外殻とコンクリートを混ぜたものであり、建築材の強度として申し分ないものだ。どんな神経をしていたら残骸を砕いてコンクリートに混ぜ込もうと思えるのかは定かではないが……んんっ、失礼、話が逸れたな。恩赦の内容は簡単だ。そちらからは見えないかもしれんが、その天井より上に空間がある。金森がいる場所から天井の向こうが見えた時点で釈放とする。天井を破壊したか否かの判断は、その部分に描かれた文字を私か明石達の誰かに伝えればいい。気の利いた言葉を選んだんだ。な? 簡単だろう》

 

「は、破壊できるわけがない! 無理だ! こんなものを破壊出来るのは艦娘しかいない! それも艤装を装着した状態の艦娘だ! くそ、出す気はないんだろうッ!」

 

《馬鹿を言うな。それでは実験の意味がないだろうが。破壊出来るからこそ実験して再現性を確認しようとしているんだ》

 

「そんなもの――!」

 

《海原閣下は素手で天井をぶち破ったらしい。私は実際にその現場を確認してきた。血だらけだったよ》

 

「は……?」

 

《この実験の本質だ。現在、海軍では大至急調査せねばならない事項にあたる。艦娘の指揮官となり妖精という存在が見えるようになった人間に変化が起きているのだ。一つは、身体能力の大幅な向上――だが、向上に伴う強度の変化は未だ不明のままだ、金森にはそれを証明してもらおうと、そういう実験だな》

 

「ふ、ふざけ」

 

 金森の声を遮り、話は続く。

 

《さらに不思議なことに、身体能力の大幅な向上とは裏腹に――水泳能力を失うとの話が出ている。清水を覚えているだろう? お前の部下でもあったのだし、先ほど話にも出た清水だ。どうやらその清水が水難事故に遭ってしまったらしくてな……ああ、安心して欲しいが、なんら問題はない。どうやら船上から転落してしまったらしいんだが、随伴していた龍鳳という艦娘が引き上げたそうだ》

 

「そんな事を聞いているのではないッ!!」

 

《そうか? では話を続けるぞ。金森は妖精を見た事があるか?》

 

「そんな非現実なものが見えるわけがあるかッ! キチガイどもがッ!」

 

《……そうか。明石、記録を》

 

 ぞろぞろと同じ姿をした桃色の影が部屋を取り囲み、クリップボードを片手にニコニコとした顔を向け、金森はいよいよ恐怖した。

 

「ひぃぃっ」

 

《それも有用なデータとなるそうだ。妖精の見えない状態の指揮官であったお前に身体能力の変化が起きているか否かは重要で貴重なデータになるから、安心してほしい。今後の海軍に大いに役立つだろう。この実験の目的は二つ、今言った身体能力の向上に加えて――クロロアセトフェノンに対する反応の変化を確認したい。これについては艦娘ですら等しく悶絶するものだから、データがあってもなくてもいいんだが、一応な、一応》

 

「そ、れは……ッ!」

 

《では――実証実験を開始する。問題があれば遠慮なく言ってくれ》

 

 その言葉を皮切りに、ぶしゅう、という音が室内に響いた。

 周囲の明石達が一斉にガスマスクを装着し、カリカリとクリップボードにペンを走らせ始める。

 

「がぁぁああッ!? ゲホッ!? ゴホッゴホッ!! め、目が! ぐあぁああああッ! くそ、くそ、くそくそくそくそ! クソォォオオアアアアアアアッ!」

 

 ベッドに駆け寄りシーツをはぎ取って口元に当てようとした金森だが、その瞬間に強烈な香りに襲われて顔を離し咳き込んでしまう。

 咳き込んだ瞬間に催涙ガスを吸引し、さらに咳き込み、のたうちまわった。

 

「ぐぁ、香水――!? ゲェェエエホッ! オェエェェエエッ! ゲホッゲホッ! や、やべでぐれ! 頼む! だのむがらっ! ゲホッ! も、もう艦娘に暴力なんでふるわないがらっ! ゲホォッ! ゲェェッ!」

 

《ああ、すまん、この実験前に食事をさせたのは失敗だったな。まあしっかり吐けたのだから問題はないか。早く天井を破壊しろ、新鮮な空気もそこにあるぞ》

 

「ぐぞっぐぞがッ! ゲホッ! あああああああッ!」

 

 異様に低い天井に向かって腕を伸ばし拳をぶち当てるも、その感触は無慈悲なまでに硬く、ごり、と音を立てた。

 

「ぐぅううううッ! い、いだい……いだいぃぃッ! ゲホォッ!」

 

 そこに救いは無い。ただ、明石達がデータを収集するためにペンを走らせるだけ。

 明石達の隙間からうっすらと見える忠野と松岡は、さぞ愉悦に満ちた顔で見ているのだろうと怨念を込めた視線を向けたが――。

 

 彼らは既に眼中にないと言わんばかりに、別の明石にコーヒーをいれてもらっているではないか。煙をくゆらせ、会話している。

 

「ぐぞ、ぜ、ぜっだい、出て、やる、ゴホッ! ゴッホォォッ! オエェェェッ」

 

 がつん、がつん、と天井を殴るも、ヒビも入らない。

 もうダメだ、ここで死ぬ、そう思っても、催涙ガスでの窒息を狙うには絶望的だった。

 咳き込めば咳き込むほど胸や喉が痛むが、その分しっかりと酸素を得るために吸い込んでしまう。身体が反応してしまうのだ。

 目がどれだけ痛んでも涙がそれを流す。その涙に染みてもさらに涙があふれ、激痛は変わらず継続する。

 

 咳き込み過ぎて喉が切れて血反吐が出ても殴り続けた。

 しかし、びくともせず。

 

「む、無理だッ! ごんなもの無理にぎまっでる! ゲホッ! 頼むがらごろじでぐれええぇぇえええぇえッ!」

 

 懇願する金森の叫びに、一人の明石が動いた。

 振り返って何かを忠野に伝えてその場を離れる。

 

 吐しゃ物にまみれてうずくまった金森の目の前に、がらん、と何かが投げ込まれた。

 

 バールだ。

 

「こ、これ、これをづがえば……ッ」

 

 ひっつかんで猛烈な勢いで天井に突き立てれば、かきん、と金属音がして傷がついた。

 

「ぁ……」

 

 金森がつけた傷は小指にも満たず、ひっかいたような跡がついただけ。

 これではどれだけ時間がかかるか分からない。しかし、撒かれた催涙ガスが止まったことで、さらに金森の動きが激しくなる。

 

 今のうちに、今のうちに天井を少しでも崩さねばと火事場の馬鹿力が発揮された。

 

 小指程度の傷が、第一関節まで埋まるほどになると、そこからどんどんと掘っていく。

 

 バールを持つ手が無理に振り回した衝撃で血と吐しゃ物に塗れても止まらずに掘り続けた。

 これなら、これなら、と何度も頭で念仏のように唱えた金森を、再び催涙ガスが襲い来る。

 

「ぐ、そ、またかぁぁあああああッ! ゲェホッ! ガハァッ! ざぜでだまるがぁあああッ!」

 

 文字通り決死に暴れ回った結果、天井にとうとう、小さな穴が開いた。

 どれだけの時間が経ったのか、いや、そんなには経っていないはずだ。

 せいぜい数時間の苦しみだった。

 

 金森は死に体でぜいぜいとベッドを引っ張って来て上にのり、天井へ顔を近づけて小さな穴をのぞき込む。

 

「はぁ、はぁ……み、見えた! 文字がみえだぁああッ! 忠野ぉおおおお!」

 

《おぉ! 素晴らしいぞ金森! それで、そこにはなんて書いてある!》

 

「ゲホッ、エホッ……はぁ、はぁ……」

 

 立ち上がって明石達を割って部屋の前まで来た忠野に、金森は言う。

 

「わ、わた、しは……」

 

《ああ、ああ、ゆっくりでいいぞ》

 

 天井に貼り付けられている紙には大きな文字があり、小さな穴からでも何とか読むことができた。

 

「私は、この、日本海軍と、人々の、ために立ち上がった艦娘に、報いる、ため……」

 

 金森の声から力が抜けていく。

 

「この、実験の、続行、を、のぞみま、す……?」

 

《金森、それは本当か?》

 

「あ、ああ! げほっ、そうだ! そうやって書いて――!」

 

《なんと見上げた愛国心か……素晴らしいぞ金森。なあ、松岡中将》

 

《そうか、ついに反省をしたというわけだな。では健闘を祈るぞ、金森ィ》

 

 嘘だ。

 天井から恐る恐る透明な壁の向こうを見た金森の目には、今度こそ笑った松岡の顔があった。

 

「ち、違う、違うだろ……これを読んだら、俺は、ここから……」

 

《死ぬことはないが無茶が必要な実験だ、頑張れよ金森》

 

 忠野が顎を振って指示すると、明石達はまたぞろぞろと部屋から離れていく。

 

「ま、待て……待ってくれッ! 待てェッ!」

 

《では、私も松岡も任務があるので戻らせてもらう。食事は朝昼晩と出るから、安心して実験を続けてくれ》

 

 がごん、と天井が動き出し、スライドして傷一つない天井が金森を覆った。

 忠野と松岡は部屋へ背を向けて歩いていく。

 

「頼むゥッ! ま、待てぇええええッ! 出してくれぇぇえええッ! いやだぁぁあああッ!」

 

 集音マイクのノイズ音、それから、綺麗な女の声に、金森から「ひゅ」と変な呼吸が漏れ出した。

 

 

 

 

 

 

 

《実験を続けましょう、金森さん! 明石達にお任せください!》

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