梅雨が明けたと報じられて幾日もしないうちに、柱島泊地は大雨に見舞われた。
さりとて周辺海域の哨戒、警備を行わないわけにはいかず、大淀は哨戒班に憐れみの目を向けながら頑張ってとしか言えなかった。
早朝、マルゴーゴーナナ。総員起こしより早くに出立した哨戒班の見送りを終えた彼女は、新たに海原が設置した秘書艦室へと足を運ぶ。
常任の秘書艦なのだから専用の部屋くらいあった方が良いだろうとは海原曰く。
そこには執務室と同じく放送用の器材がいくらかと、大本営より用意されたノートパソコンが一台。それから、任務通達用のプリンターが数台設置されており、総員起こしの放送準備を始めると同時にガコガコとプリンターが任務の記された用紙を吐き出した。
壁に掛けられた時計をちらと見やり、大淀は殆ど使うことのないデスクの引き出しからペンとバインダーを取り出して置くと、放送機材のスイッチを入れ、総員起こし用の音源を流した。ぴったりと、一秒の狂いも無く、マルロクマルマルになった瞬間の事である。
「総員おこーし!」
深呼吸の後、起床ラッパの音源と共に柱島中に響く大淀の声。
機材のスイッチを切ると、大淀はプリンターから紙を取って、海原から言いつけられた通りにそれを仕分けていく。
海原から端を発した、デイリー、ウィークリー、マンスリー、特別任務と四つに分けるという手法は、分かりやすい事もあってか、日本に所属している全拠点へ瞬く間に浸透した。
大本営はこれを良しとして――海原も井之上と同じく元帥なのだから認めざるを得ないのだが――各拠点へ徹底厳守するよう通達し、拠点運営はかなり改善されたと耳にしてからというものの、大淀はより一層気合を入れて提督を補佐せねば、と付きっきりになっているのだった。
そも、彼女は別の意味でも提督の傍から離れたくないというのが本当のところだが。
今日は、そんな彼女にとって忘れられない一日となるのを、誰もまだ知らない。
* * *
「えぇ……とうとう申請書を……?」
「うん? どうした大淀」
「あ、いえ……その……」
朝食を済ませた大淀は、執務室にて過日の演習報告書を確認している時、それらに紛れていた軽巡洋艦神通の演習申請書類を見つけて思わずため息を吐き出しながら呟いた。
海原が書類から顔を上げて反応を示し、大淀はばつが悪そうに言葉を濁した。
神通が単独演習を望んだのは大淀の呟きの通り今回だけではない。
しかし、前までは単独演習が出来れば……と遠慮がちに報告書へ記されているだけだった。
これについては海原も知っているし、考えがあるような「単独でなあ」という呟きを残していたりもする。
だが報告書に書いてある神通の個人的見解、または意見というだけ。故に演習に表立った動きは無かった。
ここに来てとうとう神通も意見を通そうと踏み切って正式な申請書を演習報告と共に提出している。
こうまでされては提督としても動くしかないだろうか、と思いつつ大淀は演習申請書を海原へ差し出した。
「神通一人で、大勢を相手に演習したい、か」
「はい……」
神通は佐世保鎮守府に所属している高練度の艦娘阿賀野と演習するために、柱島泊地に所属する全艦娘と演習し、付け焼刃になろうとも練度を向上させたいと無茶を言った事がある。水雷戦隊の意地か、神通個人の意地であるのかは分からないが、彼女が自らを限界まで追い詰めねばならないと躍起になっていたのを思い出して、大淀は溜息を吐いた。
「神通さんを悪く言いたいわけではないのですが、突拍子も無いと言いますか、どうして自分を追い込むような訓練をしたがるのか分かりません。演習する相手も単独の相手に本気を出せるわけがないでしょうに――」
「六人……六人編成、か……ふむ。許可しよう」
「ですよね。単独演習なんて……えっ!?」
てっきりダメだと一蹴するものだとばかり思っていた大淀に対し、海原は顎をひと撫でしただけで承認の判を押した。
まさか提督は自分を追い込むような彼女の心理を理解している――?
そんな大淀の考えを見透かしているかのように、海原は押印した申請書を返して言った。
「艦隊これくしょんでは、単艦放置という行為がしばしば見られてな。高練度の艦娘を一人、ないし二人だけの編成で演習を行う事がある」
「ほ、放置って……どうして演習に放置という行為が?」
海原にとってゲームの話でも、今や現実。
的を射た提案であるか否かは実際にやってみねばわからない、海原はそういう口振りだった。
「放置と言っても、ゲームなのだからログアウトくらいするだろう? 私が執務室から出て行くのと何ら変わりはない。ログアウトしている間、待たされている状態を放置と言っているだけだ」
あなたは殆ど執務室にいるではないですか、という言葉が喉元まで出かかった大淀は、はい、と返事をする事でそれを呑み込む。
「私がログアウトしようが、他の提督に演習を申し込まれる事がある。その場合、設定していた第一艦隊が演習の相手となって参加するのだが、第一艦隊を高練度の艦娘一人か二人に絞っていれば、相手は多くの経験値を楽に得ることが出来るんだ。これはシステムによった話になるが……相手にとっちゃボーナスステージのようなものだな。高練度になればなるほど経験値が得られる、その理屈は分かるな?」
「高練度の艦娘でも、一人ならば、低練度の艦娘で編成して数で押せるかもしれない……勝利すれば、低練度の艦娘は多くの経験値を得られて、容易に戦力を底上げできる、と……理に適っていますね」
「うむ。では、今どうして私が許可したのかだが……この世界でいう練度という数値は艦娘の実技試験の結果が大部分を占めている。艦政本部の話によれば、実技試験を行う場所は各拠点ではなく、指定された設備のある場所でなければならないと。実技試験の合否によって練度が一つか二つずつ上昇していく……現実とは言え随分と手間のかかった数値だ」
海原は大淀に渡した申請書とは別の、手元にある演習報告書を指で叩いて示して一枚抜き取ると、読み上げた。
「○月○日、軽巡洋艦、駆逐艦の混合編成――第一艦隊旗艦鬼怒、以下、名取、松風、弥生、水無月……第二艦隊旗艦由良、以下、木曾、深雪、白雪、浦波。結果は第二艦隊の勝利……それから、演習に際した各々の所見が述べられている。後日予定されている実技試験へ行くのは深雪と名取だったか。片や勝利した艦娘、片や敗北した艦娘だが、大淀はどちらが試験に合格すると思う?」
海原の言わんとしている事を考えた大淀の頭の中では一瞬で理屈が組み立てられ、ああ、と手を打つに至る。
「どちらも合格出来る程度の経験は積んでいると思いますが、個人的には名取さんが一足早く合格するかな、と……提督は、演習で経験を積むのに練度とは別の視点が多くあるとお考えなのですね?」
「ふふ、流石大淀だな。私の事をよく分かっている」
冷房の効いた室内で、書類が水滴に濡れないようにと海原が飲んでいるのはホットコーヒーだった。私達に関わるからといって書類の一枚まで気遣って飲み物までこだわる彼の口から出た誉め言葉に、大淀は涼しい室内なのに頬に熱を感じて顔を伏せた。
海原はコーヒーを一口飲んでから机の端にマグカップを置いて言葉を紡ぎ続ける。
「そうだ、システム的に練度が上がるわけではない。私の知っている単艦放置という行為で多くの経験が得られるのも、相手側であって、放置している側ではない――が、しかし、神通は改から改二へ至っている事実がある。私の想像していた演習とは違うものだったが――」
あっ、と大淀が弁明しようとする前に、海原は「咎める気は無い。ただ、今度からこのように申請してくれたらいい」と真面目な顔で言った。
「それで、私は考えた。演習の形式を見直す必要があるかもしれんな、と。無論、これは構想段階で実践に至っていない事だ。どのように組み替えようかと考えていたのだが、これもいいタイミングかもしれんと神通の演習申請を許可したわけだ」
「その、構想とは……」
「私にとってお前達は既にゲームのキャラクターなどではない。血の通った艦娘という一つの存在だ――ならば、簡単な事じゃないか? 要は経験を積むことが出来れば、練度の向上に繋がるのだからな」
「それは……?」
「敵と交戦する際に負けぬようにと訓練を積む。どんな状況下でも冷静に陣形を組み、連携して相手を倒さねばならない。しかしその時、一人、ないし二人や、三人の場合もあるかもしれん。六隻編成同士で戦ってばかりで訓練の質が高いと言えるか? そこから導き出されるのは――ありとあらゆる状況に対応出来る多少の無茶が必要という事実だ。本当に倒れるまで無茶をさせるつもりはないし、無茶と思われる事を徐々に現実的にする事こそが訓練だと私は考えている。改二に至っている軽巡は神通のみ――彼女にしか分からない事もあるはずだ。多勢に無勢を望むような彼女ならば、限界を見極める事も可能だろう」
実戦を想定して訓練が行われるのは言わずもがな。海原はそれとは別に、さらに実戦的な状況を想定しているのだ、と分かって大淀は納得した。
「それですと、演習の予定を大幅に組みなおして通達をしなければ――」
「それには及ばん。神通がせっかく申請を出してくれたのだから、まずは過日と同じく多人数戦をしてもらい、詳しい報告書を提出してもらう。私見でもいいから、どれだけの損害が出るかも報告してもらい、組み込みが可能そうであれば、今ある演習に加えて申請した艦娘を対象に、第一艦隊、第二艦隊の演習後、その二艦隊を相手に演習を行えばいいのだ。集中強化をするのに出て行く資源は必要経費と割り切って、申請した艦娘のみに抑えて一日に制限を設ければ、さしたる支出にもなるまい。それに連続戦闘の訓練にもなる。修正すべきは時間だな。マルキュウマルマルから単艦演習を組み込むのは昼食や昼の休憩がずれ込んでしまいかねんからな……うーむ……昼からの演習を延ばして、夜戦演習の開始時刻をずらせば問題無い、か……しかしそうすると、夜も遅くなってしまうな……夜間演習組の報告書は提出期日を翌々日までにすれば、自由時間を削らずに済むか……?」
予定表を取り出して唸る海原に、大淀はぽかんとしてしまった。
……この人は、本当にただの一般人だったのか? 軍人の血が流れているとは言え、ここまで実務において無駄のない男が会社で使い潰されていたなど考えられない。
唸る海原をじっと見つめて、大淀はおずおずと問うた。
「関係のない話で、申し訳ないのですが……」
そんな前置きに、海原は予定表から視線だけを上げて大淀を見る。
「何だ?」
「提督の前職は、一体どのような……」
「ほう! 聞きたいか?」
ぱさりと書類を置いた海原の目が輝いたのに、大淀はきょとんとしてしまう。
「は、はい……提督が辛かったと口にするほどのお仕事ですから、どんなものだったのかな、と」
「前に興味が無いと言われたから、話す機会も無いかと思ったが――」
「あの時は、その、別の事が気になってたので……」
「別の事?」
「いえいえ、言う程の事でも……んんっ……それで、提督はどのようなお仕事をなさっていたのですか?」
前職よりも自分達が出ているというゲームの話が気になっていたのだと正直に言ったところで、海原は笑って済ませてくれるだろう。
しかし、そうすると大淀はどうにも据わりが悪くなる気がして、もぞもぞと足を動かしつつ咳払いで誤魔化して話を促した。
海原は、ぎし、と椅子の背もたれを鳴らして楽な体勢をとり、マグカップを手に取って一口飲んでから窓を叩く雨を横目に口を開く。
「殆ど私の愚痴になりそうだが……」
提督から愚痴? 大淀は逆に興味をそそられ「是非」と少しおかしな言葉を返す。
海原は首をほぐすように撫でながら話した。
「勤めていたのは、ある総合商社だ。私はそこで営業を担当していて――」
「営業ですか……全く似合いませんね……」
「大淀、お前――」
大淀はハッとして手と首をぶんぶんと横に振った。
「わっ私にとって提督は提督ですから、スーツを着て営業しているようなイメージは無いと言いますか――!」
軍帽のつばを押し上げながら「まったく」と言って笑う海原。
「商品を売りたい企業から仕事を取って来て、それを買いたいという企業を見つけて仲介するのが私の主な仕事だった。いわゆる、契約を取ってくる――という仕事だな。商品の価格を調整し、仕入れる数を数ヵ月、時には数年単位で調整しつつ、流通ルートを確保して利益を確定させる。私は国内を担当していたが、海外を担当している者もいて、毎日バタバタでなあ……」
「そうなのですか……でも、提督のようなお方がいるなら業務も楽だったのでは……?」
大淀の言葉に、海原は「そんな事はないさ」と鼻で溜息を吐いた。
「海外企業と提携していたから、やり取りをするのに時差のせいで家に帰らず会社待機するという事もざらだった。マルロクマルマルからフタヨンマルマル以降まで、とかな。私が勤めていた企業は海外とのやり取りを通訳を挟んでいる事もあったから、語学に秀でた者にしわ寄せがいくという事こそなかったが、その分まんべんなく仕事を振れると考える上席がいてな。それが、俺の直属の上席だったわけだが……。余裕のある分さらに仕事が出来るだろう! とよく怒鳴られたものだ。余裕とは言え、それは仕事をするのに確保せねばならん余力で、決して別の仕事に割いても問題無いというわけじゃなかったんだがな……」
「トラブルに見舞われた際の余力ですか?」
「ああ、その通り。それを加味した上での余裕、ならば話は違ったかもしれんが。結局、余裕を潰すように仕事が増え続けた結果、その時の人員では処理しきれない業務量になり、めでたく激務に――改善しようものなら提携契約した企業のいくつかを切らねば首が回らん始末だった。仲介を中断すれば風評にも繋がるし、経営陣は良い顔をしない。切ろうにも切れない企業と業務を続けるだけとなれば、売り上げはそこから伸びはしない――しかし上司の上司はさらに伸ばせという。営業事務やエンジニアが必死に効率化し、商品管理の人員を割き、営業に回して何とかグラフを持ち上げる。そうすると、どうなると思う?」
つらつらと語る海原のかつての環境を想像して、大淀は眩暈がした。
「さらに、戦果を求めた……」
「戦果……戦果か。ふふ、そうだな、上はさらなる戦果を求めて営業へ圧をかける。営業のみならず、エンジニアや事務にも、もっと効率を強化しろと無茶を言う。必要なら適当な人材を見繕って放り投げる。人が増えれば業務量を増やしても問題無かろうとな。しかしその人材だって企業で使えるようになるまでに教育が必要となるため、教育中は人員が増えた分、教育者が必要となって一時的に効率が落ちる。教育と業務のバランスが重要になるが……戦果を求められているのだから、自然と業務へ傾き、新たなる人材も中途半端な状態でだましだましに業務に携わるか、右も左も分からず置物と化す。すると、周囲にミスが増え――どうしようもないくらい、負のループだ。全ては人の仕事だ。向き不向きもあれば、互いの関係もあるし、これくらいなら出来るという上司もいれば、ここが限界だという上司もいる。人の手によって成立する仕事なのだから関係性は捨て置くべきでは無かったはずだが……当時の上席はそれを捨て、効率を求めた」
遠い目で話す海原を見た大淀は気まずそうに立ち上がって「コーヒーのお代わりでも淹れましょうか」と提案した。
すると海原は「ありがとう。すまんな、本当に愚痴になってしまった」と苦笑するのだった。
しばらくして給湯室から戻った大淀が座ったのを機に、海原が口を開く。
「お前達には苦労をかけっぱなしで申し訳ない。私も出来る限りの仕事をするつもりだが、互いが倒れてしまわぬように多くの仕事をお前達に振らねばならん。許せよ」
「私達は問題ありませんよ? というより、そこまで多くの仕事を振られた記憶も……」
大淀が眼鏡の下から指を入れて目元をかくのを見つめながら、海原はしみじみと言う。
「そう感じないくらいお前達が優秀だという事だ。前に比べて、私は随分と恵まれた環境にいる」
「……銃を向けられ、人類の存続を双肩にかけられて恵まれた環境と言い切りますか」
「実感が無いからこそ、かもしれんな。ふふ、いや、今のは聞かなかった事にしてくれ、私とて私なりに真面目に軍務に取り組んでいるつもりだからな。人も大事だが、私にとって同じくらいに艦娘も大事なのだ」
「もう……」
冗談めいて聞こえるが、本意かもしれない。そんな海原の掴めない雰囲気に苦笑した大淀は、最初に比べて明らかに柔和となった彼に油断していた。
もちろん、真面目な時には、激昂して八代少将を蹴り飛ばした山元大佐すら震えあがるくらいの鉛が如き重たい空気を纏うが、今、執務室でマグカップを傾けて書類を眺める姿は、確かにどこにでもいるような人の好い男にしか見えない。
目元のくまが目立つ、疲れ気味の表情に――幾分か改善された血色の良さというアンバランスな風貌が、海原らしいというか、なんというか。
軍服姿であるからか、その見た目がまた生真面目な軍人らしくて、やはり会社員には思えなかった。
前世、もとい前の世界の事を思い出しているのか、雨の音に紛れる海原の息遣いに思う所があるように、大淀はふと問うた。
「前の世界に帰りたい、とは……考えたり……」
言い切る前に、彼女は後悔した。帰って欲しいなど欠片も思っていなかったからだ。
出来る事ならば、海原が元気に動ける間中、自分達の事を見ていて欲しかった。
海原は大淀に顔を向けることなく、視線だけを窓の外にやったまま、
「後悔はある。だが、帰る方法があったとしても、そのつもりは毛頭無い」
と言った。
「後悔ですか……?」
「ああ。向こうには両親がいるからな。夢で祖父とも話したが……どうしようもない親不孝者だよ、私は。仕事にかまけて連絡も碌にとらず、年の瀬も正月も盆も会社にいたような男だ――彼女の一人くらい紹介して安心させてやるべきだった。親孝行をする前に、向こうでは私が神隠しにあったと思われているか、死んでしまっているか……どちらにせよ、母も父も笑顔ではなかろうな」
「……ぁ、あの、そのぉ」
すみません、と大淀は黙り込む。
深海棲艦のいない世界で、彼はもしかすると、どこかの知らない誰かと付き合い、結婚し、平凡な幸せを象徴するような家庭を築いていたかもしれない。そう考えるとやるせない気持ちになるのだった。
彼女は海原が「気にするな」と言ってくれるのだろうなと考えた。しかし、彼は違った。
「大淀のような美人を紹介できれば、さぞ喜んだだろうな」
そう言って笑ったのだ。
いつのまにか失せていた熱が再び大淀の顔を覆い、冗談はやめてくださいと目を伏せる。
「すまんすまん、セクハラになってしまうな。ふぅむ……これがオッサン化していくという事か……?」
もとよりオッサンである。とはいえ、三十代になったばかりの海原は若いとも言える。
軍部の者は、井之上を除いたとしても、忠野や橘を筆頭に四十も半ばで、中には五十代だっている。
そんな中で唯一の三十代で元帥など、異質も異質である。彼はその呼び名を好いていないようだが、事実として日本海軍に所属している全艦娘の指揮官なのだから、異様さは際立つ。
オッサン化していく、というよりは、彼自身が持つ性質なのかもしれない、と大淀はぼんやりと考えた。
「ま、まぁ、一応、提督ご自身から褒賞の代わりとは言え、正妻と認めていただけましたし、セクハラなどでは――」
場繋ぎにと口にした言葉に、海原はカップを持った状態で固まった。
「ま、待て大淀、どうして突然制裁の話になるのだ」
「えっ……ご両親に紹介するなら私のような者が良いと言うものですから、鳳翔さんと私とで執務室で話した時に、正妻と……」
海原はさらに狼狽し、カップを置いて軍帽を被りなおして背筋を伸ばす。
「制裁の件は片が付いただろう? 私の仕事が至らんばかりに大淀を怒らせてしまったのだから、それで私に仕置きが必要であるという――」
明らかに噛み合っていない会話に、大淀は、ううん? と首を捻った。
海原の言う
褒美の代わりに仕置きなんて、ひん曲がった性癖でもあるまいし、なんて考えていたところで、大淀の胸中でせいさいという文字が変換されていく。そして――
「……て、提督、もしや、あの、制して裁く、と書く方を考えているのですか?」
「違うのか?」
――ボタンの掛け違いに気づく。
大淀は違和感が押し流されて胸がすくような気持ちになると同時に、湧き上がって来た勘違いへのどうしようもない阿呆らしさに、乱暴に立ち上がって声高に言った。
「私と鳳翔さんが言ったのは妻の方です! どうして制裁するのに提督の胸に縋らねばならないのですか! 私は! 提督の真っ直ぐなお考えや優しさに惹かれたから、じょ、冗談めいてはいましたが……だからこそ正妻としてお傍にいられたら幸せであると――!」
「っ!? お、落ち着け大淀! 聞き違えていた私が悪かった!」
肩で息をする大淀を落ち着かせるように、同じく立ち上がって、どうどう、とジェスチャーをする海原。
大淀はむすっとした顔で椅子に座り、腕を組んでそっぽを向いてしまう。
対して海原は小さな声ながらも不思議そうに大淀へ問うた。
「あの頃は出会って本当に間もなかっただろう。一般人という事を伏せて軍務にあたっていた時の私と、今の私に違いもあるまいに、どうして私の正妻などと……」
彼の言い分はもっともである。
大淀とて海原以外の男をいくらでも見て来た。舞鶴で、大本営で。
しかし深くまでかかわったのは、彼だけだった。
「……あなたをもっともっと、知りたいと思ったからです。誰よりも、一番近くで」
「知りたいのならば聞けば何だって喋るとも。だが艦娘であれ柱島に他の大淀が来たとしても、お前はお前、一人なのだ。もっとよく考えて――」
「だからです」
うん? と言葉を遮られた海原は身体ごと大淀に向けたまま静止した。
「私達は、人じゃないんです……艦娘です。私と同型艦は多く存在しています。その中でも、化け物だと言われ、兵器だと言われ、それでも戦わねばならないと意地を張って……柱島に流れ着いたのです。そんな私に、提督はそうやって目を向けてくれるから……人の真似事を、してみたくなったのです」
そう言ってまっすぐに顔を見つめてくる大淀に、海原は唸った。
「うむぅ……そう、か……」
「……」
「意気地のない男で、すまない」
「ぁ……う……そ、そうですよね、ごめんなさい、私――」
さらりと零れるように流れた髪を耳にかけて無理に笑った大淀を見ながら、海原はさらに唸った。
「言い訳のように聞こえるかもしれんが、聞いて欲しい」
「……はい」
「私は艦娘だ人間だと区別して考えるが、そこに決定的な違いがあるのかどうかを知らん。お前達は海を駆け、砲撃を放ち、時には人智を超えた力を発揮する。しかし人と同じく涙を流し、痛みを感じ、心を持っているように見える。いいや、私は心を持っていると、そう確信している。だから……そう、だな……私より多くの世界を知っているのだろうが、大淀や、他の艦娘達にも、色んな人がいる事を知って欲しい」
海原は語る。
「お前がどのような扱いを受けて、どのような境遇にあったかを知っている。お前も私が会社員である事を知った。そうして今がある。ならば改めて、お前が本当に一生を添い遂げても良いという男を探すのもまた、悪い事ではないと思うんだ。軍務一つに頭を抱える、うだつが上がらない私のような男ではなく――」
大淀は、
「……だから」
思いの丈をぶつける。
抑えつけられていた感情という濁流が全てを押し退けて、口をついて出た。
だが、それは消え入りそうな程に小さな声だった。
「だから……あなたを、愛してしまったんじゃないですか――」
「お、およど……お前、本気で……」
海原は艦娘の事となれば決して否定から入らない男だ。故に、思慮深く重い言葉は、大淀を揺さぶった。
それは透明な水滴となって、大淀の眼鏡を内側から濡らす。
涙は女の武器とはよく言ったもので、海原にはそれこそ特効があった。
ずるいと言われるかもしれないが、大淀にとって想いを伝える事はそれほどに重要なもの。
何度も踏みにじられた思考、何度も貶された存在、幾度も押し込めた感情を受け止めてくれる人は、多くを知る大淀でも、たった一人しか存在しないのだ。
「こういう艦娘は、お嫌い、ですか」
いつかのやり取りを、今度は涙ながらに。
海原はきっと嫌いじゃないと言うだろう。
そう知りながら小賢しく口にした彼女に、海原は言った。
「はぁ……甲斐性なしと言われんように、もっと努力せねばならんな」
「え……?」
顔を上げた大淀に、海原は至極真面目な顔をして頭を下げた。
「……今後とも、私を傍で支えてくれ、大淀」