「東京観光でもして帰るか?」
そう聞いた海原に、大淀は二つ返事で快諾したかったのだが、後に詰まっている予定を考えて我儘を通すことは躊躇われた。
「舞鶴に向かう時間もありますので」
東京新宿にある大本営にて井之上元帥と会ってから時を待たずして艦政本部のある霞が関へ移動し、今度は大阪と舞鶴へ――。
大将、こと元帥となった海原は多忙を極めており、大淀を伴って方々へ出かける機会は多く、今も柱島泊地を出て既に二日経過している。
海原が不在の間に鎮守府を任された長門や鳳翔、龍驤から出がけに「頑張って」と激励された大淀は意味を理解して頷いてみせたものの、試作機として受け取った
感触と言えど、まだ装備は大淀の指にはまってはいない。ただ持っているだけである。無くさないように、と艦政本部に所属する明石達から色気も感慨もなく新兵装だと受け取ったそれを手に、本部から再び大本営に戻って井之上元帥に報告、それからまたすぐに新宿駅へ向かうというタイトスケジュール――にもかかわらず、海原の歩みは軽快そのものだった。
何度も取材を受けた成果か、道中でも堂々とした軍服姿には大淀も背筋がぴんと伸びるほど。だが、その中身が変わったかと問われると――。
「大淀?」
「は、はいっ! まだ新幹線の搭乗予定時刻には間に合うかと思われます!」
道すがらに海原から心配そうな声をかけられた大淀は大袈裟なまでに両肩を跳ねさせて、勢いにずれた眼鏡を指で支えて返事する。
聞かれてもいない事を答える大淀に、海原は困った顔で笑った。
「そうじゃない。休憩は必要無いかと思ってな」
「いえいえいえ、全然、はい、大丈夫です!」
「うむぅ……では、少し休憩するか」
「えっ?」
断ったつもりが休憩しようと新宿駅へ向かう道を逸れて歩きはじめる海原に慌てて追いすがる大淀は、ビル群をすり抜けてくる冷たい冬の風に流れる黒髪を耳にかけ海原を呼び止める。
「あのっ! 提督、私は大丈夫ですから!」
海原は首だけを振って大淀へ視線を合わせるように軍帽を少し押し上げると、口元を緩ませて言った。
「私が休みたいのだ。我儘を許してくれ」
「……え、あ、ぅ」
大淀は海原の表情を見て言葉を紡げなくなり、ただ一言。
「ずるいですよ、もう」
と、呟いたのだった。
海原は自らを随分と腑抜けてしまったとよく口にするが、大淀を含む柱島一同、そして軍部からして一切変わった様子はないように思えた。
相も変わらず尋常でない仕事量をそつなくこなし、大本営から申し訳なさそうに何度も呼び出されてようと仕事を殆ど残さないまま余裕綽綽といった顔で鎮守府を空ける。
ある意味では鎮守府に残る艦娘達を信頼しているからとも受け取れるが、割り振られたルーティン以外の仕事は残っておらず、近海警備や資材確保遠征、デイリー開発などと名付けられた(海原が言うには艦隊これくしょんでの名称らしい)任務を除けば、海原にしか片付けられない決裁書類をデスクに積むだけ。
よくそれらを目にしている秘書艦たる大淀は、やはりかつてはただの会社員だったという事実を受け止められず、海原こそが自分の、そして私達の提督なのだと結論付けるほかなかった。
それに彼は、ここ最近になって特に――
「っと、大淀、少しいいか」
「はっ」
いつのまにやら人通りの少ない道を歩いているのに気づいた大淀は海原の数歩後方でぴたりと止まった。
背を向けたままの海原を見つめて、どうしたのだろうと思考と同時に視線を巡らせた時、声が漏れそうになる。
海原が立ち止まった先には、教会があった。
「大淀、装備を」
「えと」
「……」
装備を、と短い言葉。意味が分からないほど初心ではないつもりだった大淀でも、ここにきて途端に顔が熱に侵されていく。
思いの丈を伝えてからどれくらい経ったか。少なくとも季節をいくつか跨いで、深海棲艦との熾烈極まる戦いをいくつも乗り越えてきた。
平和を求めている艦娘の一人に徹していた彼女は、雨の降るあの日を思い出して他の何をも考えられなくなり、言われた通りに大切に握りしめていた装備――指輪を差し出した。
「雰囲気は大事だろう」
「は、ぃ……」
海原の表情は、やはり変わりないように見えた。
いつものようなに気難しそうな、それでいて口元だけ優しそうに柔らかく、都会の中で一人だけ、まるでいつもの海を眺めているような目をしていた。
演習に励む艦娘達の声を聞きながら細められるような。
遠征から無事に帰還した艦娘達に向けられるような。
任務を成功させて安堵するみなを満足気に眺めるような。
そんな目が大淀を捉えた。
「――後悔は無いか」
今にも折れてしまいそうなくらい細くて不健康だった海原は、今見ても変わらないように思われる。
大淀が毎日かかさず顔を合わせているからそう思ってしまうのかもしれないが、それにしたって多少健康になり血色がよくなった程度で、かつて海原を襲った
なのにどうして彼が大きく見えるのだろうかと場違いに考えた時、連合艦隊旗艦である彼女の思考は後先も考えずに答えを提示する。
一介の艦娘である自分と、日本海軍省元帥の一人となった海原鎮との格の違い?
否。全くもって否。
男女が感じる自然な差である。
それは単純な体つきでもあり、性の違いであり、根底から覆すことは到底難しい思考の差。
海原は今、大淀と名のついた艦娘と接している一方で、柱島に所属する艦娘という括りのみならず、あの日、至らない自分を支えてくれと言葉を零した女性に対して問うているのだと、さらに明確な答えが浮かんだ。
ありません。
私はあなたをこそ愛したのです。
どれだけ傷ついたって前を向き、不義を許さず、ただ平和を求め戦うあなたをこそ。
時に妖精と戯れ、時に鬼をも凌ぐ威を見せ戦場を支配し、時にただの人なのだと思わされる脆弱な顔を持つあなたをこそ。
海軍をひっくり返してもなお足りないと言わしめる大淀の頭脳を以てしても、全てを表せる最適な言葉が口から出てこず、差し出した指輪と彼の顔を交互に見て、目にたまり始めた熱が零れないようにと顔を上に向けた。
海原は大淀へ一歩寄って、細指につままれた指輪をそっと取ってから、もう一度問う。
「大淀、後悔は無いか」
「私は、そ、の……後悔、なんて……」
それ以上は問わないで、と大淀の瞳が揺れる。
「これはただの兵装、そう、試作機の兵装だ。練度向上のための――」
大淀の胸中に浮かぶ迷いともとれない感情の塊を察したようにつらつらと口にした海原だったが、とうとう、大淀の瞳からぽつりと筋を作った水滴に声が途切れた。
「すまん。恰好がつかんな」
それから海原は、任務遂行中には見せないような顔をして言う。
「初めてなのだ、このような、その、ほら、分かるだろう。だからいつどのようにして嵌めるべきなのかも分からんし、見当すらつかん。雰囲気作りだって、私なりに、努力はしてみたの、だが……」
目が泳いだ先には、教会がぽつりとあるだけ。
都会のビル群から少しだけ離れた、人通りも少ない、いいや、殆どない場所で、遠くから自動車の走る音や、かつかつと人々が歩んでいく音があるだけだった。
海原が自分に兵装を嵌めるためだけにこれを考えていたのかと考えると、大淀の瞳はさらに濡れ、はい、はい、とただ返事をするのに精一杯になってしまう。
「泣かせるつもりは、なく、だな……ああ、くそ」
彼は大淀の右手を取り、数秒して声を漏らしてから、左手を取りなおす。
「こっちだな」
ああ、これで、本当に私の想いが、結実する。
「大淀」
「……はい」
「改めて――私と、ケッコンしてくれ」
「……は、い」
サイズの調整はされていないはずだったが、もしかすると他の大淀型でサイズを測っていたのかもしれない
感極まった大淀の瞳から多くの水滴が流れた。
しかし彼女は、間違いなく幸福そうな表情をしていた。