アラームがけたたましく鳴り、少女の意識が急激に引き上げられる。
勢いよく上体を起こした少女は、素早い動作で背伸びをし、力を抜く。
「……ふぅ」
軽く息を吐くが、気は抜かない。間もなく、彼女にとって大事な日がやってくるから。
少女はベッドから降り、洗面台へ向かう。そして、水を流し出したと思うと、手で水を受け、勢いよくその水を己の顔面に叩きつけた。
冷たい水が顔面の皮膚、その毛穴に染み込むかのような感覚があり、意識が更に覚醒していく。
「……よし!」
鏡に映る調子の良さそうな己の顔を見て、少女は満足げに頷いた。
――少女は、ウマ娘である。
彼女は、走る為に生まれて来た。
小さな頃は走れればそれでいいと思い、ウマ娘同士によるかけっこ大会で負けても、全然気にもしなかった。
それに変化が起きたのは、6歳の頃に生で見たトゥインクルシリーズ。
両親が「何か良い影響があれば」という想いで連れて来てくれたのは、トゥインクルシリーズでも最も盛り上がると言っても過言ではないG1のレースの一つ。
初めて来たレース場の空気は、観客の熱気に混じって、どこかピリピリとした緊張感があった。
最初はそれを肌で感じながらも、頭ではどうしてなのか理解できずにいた少女だったが――
『わぁ……!』
レースを見て、それを実感した。
ターフの芝を、その直下の土ごと力強く蹴り上げながら走る、自分よりも年上のウマ娘達。
そこには、同い年のウマ娘とのかけっこにはない、もはや命を懸けているとしか言いようがない程の気迫、そして――スピードの世界があった。
少女の耳に、歓声や悲鳴が入り混じって届く。しかし、そんなものはどうだって良かった。
ある男の言葉を借りるなら、その時少女は、彼女らの走りに『星』を見出したのだ。
『どうだい?』
父親が優しく語り掛けてくる。
『……私は――』
それから数年経ち、少女に転機が訪れた。
憧れの舞台、トゥインクルシリーズ。その第一歩であるトレセン学園からの推薦入試の招待が送られてきたのだ。
基本的に、トレセン学園に入るウマ娘は二種類に分けられる。
一般的な義務教育の学校における中等部程度の年齢で入学するか、高等部程度の年齢で入学するか。
無論、後に現れるとあるウマ娘のように、小学生の年齢でありながら飛び級で入学を認められる特異なケースも存在するが、ここでは割愛する。
そして、少女はその内の前者であった。
あのレースを見た後から、彼女はトレセン学園に入学する為に彼女なりに計画を立て、それを達成する為に必死で努力した。
同年代の子供同士でやる遊びのかけっこから卒業し、街のウマ娘育成クラブにも入った。
そこで切磋琢磨し、彼女は常に好成績をマークし続けた。だが、それだけで満足してはいられない。
レースで言う好走とは、1着のみならず、2着や3着のような所謂『惜しい』部類も入る。彼女はそんな、周囲から「よく頑張った」と言われるような程度の結果で終わりたくなかった。
だから、更に努力した。クラブのコーチが教えてくれないような範疇のレース理論を、頭の中に叩き込んだ。
その後、クラブの中で彼女に敵うウマ娘はいなくなった。彼女は、クラブのトップになったのだ。
そんな彼女の強さを見たコーチは、トレセン学園に推薦状を送った。少女の未来への期待と、それから……彼女が頭角を現した事による、周囲への影響を鑑みて。
そうした流れで学園側から推薦入試への招待が来たのも、少女の思い描いたプラン通りであった。
勿論、全てにおいて彼女の思い描いたチャート通りだったという訳ではなかった。
現実とは厳しいもので、全国各地からトレセン学園にやってくるウマ娘のレベルの高さを前に、思わず舌を巻いたものだ。
一人前かそうでないかを表現するのに、卵という単語を用いる事がある。
既に周囲では頭一つ抜けた存在であると自覚していた彼女は、自身は卵の殻を破った存在だと思っていたが、現実では彼女は未だに卵の中で蹲る赤子でしかない事を思い知らされた。
だが、そこで諦めてなどいられない。彼女は更に邁進した。
選抜レースで優秀な成績を収め、ベテランのチームトレーナーにスカウトされた彼女は、トゥインクルシリーズへのデビューを目指し猛特訓を重ねた。
そして、少女はデビュー戦にていきなり勝利した後、1戦重賞を挟み、1600mで争われるG1、朝日杯フューチュリティステークスに出走。
2バ身差で勝利した彼女は、周囲からマイル路線での活躍を期待されていた。
……だが、彼女の目指すところはそこではない。
『……私は、あの舞台に立つんだ!』
彼女には、目指しているレースがあった。
そこに向かう事を考えれば、マイル路線に向かう事は諦めも同義。
故に、彼女はトレーナーに強く、強く願った。
トレーナーも最初は諸々の事情から難色を示した。
……が、スカウトしてから彼女の頑固さを知ったからか、それとも別の理由か。いずれにせよ、最終的には折れた。
その後、年を越し、晴れてクラシック級に上がった彼女は、2000mのG3、きさらぎ賞に出走。
元々、ジュニア期において2000m戦である京都ジュニアステークスに出走し、1着から2バ身差の4着だった少女は、当然周囲からの評価もあまり芳しくなかった。
だが……周囲の評判など気にせず、勝利を望めるだけの精神力が彼女にはあった。
結果、アタマ差で辛くも勝利を収めた彼女だったが、しかしインタビューで次のレースへの決意を表明した。
その時起きたどよめきを、彼女は覚えている。
同時に、そんな周囲の思惑をひっくり返してやりたいとも。
「あたしは――勝つ! 勝つんだ!」
そして今日から2日後、彼女は幼き日に見たあのレースに挑む。
当然、相手も強いのが揃ってくるだろうが……しかし彼女は、同世代でも数少ないG1ウィナーだ。
そう簡単に負けはしない。いや、
己の走る意味を、己の夢を、己の全てを。
そして、世に知らしめるのだ。
――己こそが、
世代最速を目指す彼女の挑むレース、その名は――
******
「……こうなる、か」
「どうかされましたか、トレーナーさん」
聞き馴染みのある声を掛けられ、水筒の水を飲もうとしていた僕は咄嗟に顔をそちらに向ける。
見れば、サイレンススズカさんが小首を可愛らしく傾げながらこちらを……見ている! ああっ……いけない、努めて冷静であれ、努めて、冷静に……。
「ああ、いえ。なんでも。今日は早いんですね? 課題は大丈夫なのですか?」
「はい。早く走りたくて、ササッと終わらせてきちゃいました。……今度のレースは、もっと速く走れそうな気がしますから」
「うふふ」と、走る事が心底楽しみな様子のサイレンススズカさん。
彼女が昂るのも、無理はないだろうと思う。
何せ、これから彼女が挑むのは、最も速いウマ娘を決めるレース。
――G1、『皐月賞』。
レース場と距離は、ホープフルステークスや、先日走った弥生賞と同じ中山レース場の芝2000m。
週末の天気情報が確かなら、馬場は恐らく良バ場になるだろう。
つまり、彼女の高すぎると言っていいスピードが最も活かせる状態になる訳であると同時に――
「……しかし、同じレース条件を三度も、となると。まるでタイムアタックをしに行っているようなものですね」
「タイムアタック、ですか。確かにそうかも……そういえば、過去に私よりも早くゴール出来た人がいたって本当ですか?」
おお、急にサイレンススズカさんの目が鋭く――!(※本人に自覚は無い)
サイレンススズカさんは普段は優し気な目か、あるいは何を考えておられるのか掴めないような目をしておられるのだが、こうして『速さ』に纏わる事柄になると途端に目が鋭くなられる。
その視線に僕は
寧ろ、彼のお方の本質の部分を垣間見たかのような、そんな感動すらあった。
「……ええ。ホープフルではレースレコードのみの更新でしたから。でも重バ場で更新なんて、それだけでも凄い事ですよ?」
「でも、その人の方が私より早いんですよね?」
……やはりサイレンススズカさんは、偉大な求道者であらせられる。
彼女の言う通り、現時点で中山レース場の芝2000mにおけるコースレコードの保持者は別のウマ娘なのだが、サイレンススズカさんが今の絶好調とも言えるコンディションを維持したまま皐月賞に臨めれば、コースレコードの更新も夢ではないと思っている。
……いや、レコードなどというものも、サイレンススズカさんにとっては通過点でしかない。
単純に、自分が速いかどうか。それに尽きるのであろう。
だから――
「……ええ、そうですね。あくまでもタイムだけを見るなら、の話ですが。しかし、先頭を走り切るだけなら、恐らくは容易いかと思われますが」
あえて、愚かにも挑戦するような事を言う。
彼のお方の答えなど、分かり切った事だというのに。
「……トレーナーさん」
「はい」
「私、先頭のまま走り切りたいです」
「はい」
「ですが……タイムの上で私より早い人がいるって事は、私の前をその人が走ってるって事ですよね」
「そうなりますね」
そこまで言い切って、サイレンススズカさんは頷く。
「なら私は、その先を行きたい。そして――その先にある景色を見たい、です」
そう締めくくったサイレンススズカさんの顔は、決意に満ち溢れていて――
「……うつくしい」
「え?」
しまった、また心の声が漏れてしまった。
僕は誤魔化すように咳払いをすると、パソコンを畳む。
「……まだブルボンが来ていませんが、彼女からは「用事があるので遅れる」と連絡を貰っています。ですから、先に単走でトレーニングを開始しましょう。コースは、脚への負担を考えてウッドチップで。よろしいですね?」
「はい。では行きましょう」
そうして、サイレンススズカさんは僕に背を向けると、己の制服に手をかけ――
「サイレンススズカさん」
「? はい?」
努めて冷静に、努めて冷静に努めて冷静に――!
「……あのその僕が全面的に悪いのですがえー……僕が出ていくまで、待ってもらえませんか?」
「……?」
制服に手を掛けながら、心底不思議そうな視線を送ってこられるサイレンススズカさんの様子を見て、僕は確信した。
……まさか、ブルボンと同じタイプ……人の視線をあまり気にしないタイプだなんて……!
その後、僕は
サイレンススズカさんは、やはりよく分からないといった表情を浮かべられたものの、了承して下さった。……本当に大丈夫だろうか?
******
「……よし、良いタイムだ」
トレーナーがそう口にしたのを聞き、少女は思わず満足しそうになる。
だが……少女はすぐに気を取り直す。
少女は、飢えなければならないから。もっと、もっと。
「まだ……まだです! もう一本!」
「……気合が乗っているのは良い事だが、無理は禁物だぞ」
少女の要望に対し、トレーナーは冷たくそう返してくる。
……少女は思う。「私のトレーナーは、きっと優秀な人なのだろう」、と。
トレーニングの構築に関しても、ウマ娘の状態を見る目に関しても、ベテランらしく高水準だと、他のチームのトレーナーがそう言っていたのを耳にした事がある。
……だが、如何せんウマ娘の気持ちについてはあまり分かっていないようだ、というのが少女の視点での感想だった。
チームの先輩によれば、「あれでも大分
「……私、どうしても勝ちたいんです、皐月賞! 私がトゥインクルシリーズで走りたいって、そう志すようになった切っ掛けのレースだから!」
少女の述懐に対し、トレーナーは黙したままを貫く。その表情は、少女からすれば相変わらずの険しい顔だ。
「皆がダービーこそは絶対に勝ちたいとかって思うように、私にとっては此処こそが落とせない。譲れないんです! ……皐月賞だって、一生に一度の舞台だから」
日本ダービー。それは多くのウマ娘にとっての憧れと栄誉の舞台。しかし、彼女にとってはダービーよりも皐月賞の方が思い入れがあった。
運がある事よりも、彼女にとっては速くある事の方が重要だったから。
だからこそ――
ふと、少女の耳にざわざわと喧騒が聞こえてきた。
そちらに視線を向けてみれば、スーツ姿にマスクを着けた男と並んで、栗毛の髪をたなびかせるウマ娘の姿が遠目に見えた。
周囲のウマ娘達が一時的にしろトレーニングをやめてそちらを見てしまう理由を、彼女は知っている。
ウッドチップコースに、栗毛のウマ娘が立つ。そして、彼女のトレーナーらしき男が合図をすると、そのウマ娘は軽やかに駆け出して行った。
……軽やか、とは言うが、そのスタートダッシュは合図とほぼ差異がない瞬間に行われ、そこからの加速も素晴らしいものがある。
見るだけで分かる、彼女のスタートのセンスの良さ。そして、彼女の戦法。
「……あれがサイレンススズカ先輩」
トレーニングでありながら本気が感じられるその走りに、思わず「綺麗だ」と口走ってしまいそうになる自分がいるのを自覚し、少女は
何を馬鹿な。あのウマ娘は……皐月賞での自分のライバル、敵なのだ。
少女がサイレンススズカと対戦するのは、皐月賞が初になる。
それまでも対戦するチャンスはあるにはあったが……トレーナーがあえて出走レースをずらした事で、彼女はこれまでサイレンススズカと戦う事無く進んできた。
だが、いずれは彼女とぶつかる事になるとは、トレーナーも分かっていたのだろう。故に、サイレンススズカがホープフルステークスを勝った時点で、彼らは打倒サイレンススズカに向けてのトレーニングを始めた。
つまりこの皐月賞というレースは、彼女の目標のレースであると同時に、サイレンススズカへの挑戦……否。
(皐月賞で、決着をつけてやる……! そして、証明するんだ! あたしこそが、
巷でのサイレンススズカ一強のムード。それは、彼女にとってはあまりにも屈辱で。
確かに、これまでのレースの結果を見れば、彼女の勝ち方の方が華があるのだろう。
大逃げをして、圧倒的勝利。それに夢を見る人の気持ちも、分からなくもない。
だが――それは、自分という存在を無視していい理由にはならない。
だから、ここで白黒つけるのだ。
その為に、過去のサイレンススズカのレース映像を何度も見て研究してきた。
あの圧倒的な走り。成る程、確かにジュニア級における最優秀ウマ娘にも選ばれるだろう。
だが……付け入る隙が無いわけではないとも、少女は見ていた。
「……どうだ。君から見て、勝てそうか」
不意に、トレーナーが少女にそう問いかけてくる。
「……可能性は、0じゃない。なら、
少女は、そう言い切った。
「……今度の皐月賞の
「はい!」
少女の決意に満ち溢れた顔に反し、彼女のトレーナーは渋い顔をする。
「……トレーナーは、
「…………ああ」
少し逡巡した様子のトレーナーは、しかし少女の問いに答えた。
「正直、私の目から見てもあのウマ娘の才能は計り知れないものがある。……そうだな。見立てが正しければ、マイルから2000m前後なら、いずれ彼女に及ぶウマ娘は、日本にはいなくなるやもしれん」
「……担当がいるのに、よくそんな事言えますね」
「私は、下手な希望は与えたくないタイプ
「だった」。その三文字に、彼の真意があるような気がして。
「……だが、思い知らされた。結局そんなものは、私の独り善がりでしかないと」
そんな少女のトレーナーの視線を追えば――そこにいるのは、サイレンススズカのトレーナーの後ろ姿。
聞けば、少女のトレーナーよりもまだ若く、経験も浅いというのに、既にG1を幾つか勝利しているという、そんな男の背中をトレーナーは見ていた。
「……ベテランだのなんだのと持て
「トレーナー……」
そんな、遠い目をしたトレーナーの横顔は――
「……やめて下さいよ、そんな顔するの! 老けて見えますよ! なんか……私をもっと活躍させる前に定年で引退しそうな感じで!」
「君も大概遠慮がないな」
そうは言いながらも、トレーナーは口元を緩ませる。
「心配するな。少なくとも
「本音は?」
「……あの生意気な後輩に、私の背中を追わせてやるまでは終われん」
チームの先輩に、少しだけ聞いた事があった。
少女のトレーナーとサイレンススズカのトレーナーには、浅からぬ因縁めいたものがあると。
だから――きっと、皐月賞は彼にとっても勝負の場なのだ。
「……勝ちますよ、トレーナー!」
「ああ。……トレーニングを続けるぞ」
二人の目には、静かに、しかし確かな闘志が燃えていた。