「……すぅー……はぁー……」
目を閉じたまま、深く息を吸い、深く息を吐く。それを都度、三回繰り返す。
そして、目を開く。
そこに広がるのは、目が痛くなる程の緑色。
そこに立つのは、自分を除いて7人。
その内の一人……ターフと同じ緑を身に纏うウマ娘を見やる。
「……サイレンススズカ」
少女と同じように軽く流してきた彼女は、周囲を一顧だにせず、ゲートへと歩いていく。
真っすぐと前を向いて歩くその背中からは、一欠片の緊張も感じられない。
それを見ながら、ヒソヒソと話すウマ娘が二人程。大方、「貫禄がある」とかなんとか言っているのだろう。
それ以外は、少女と同じようにストイックにサイレンススズカに挑もうという気概があるのか、各々ストレッチをしたり、深呼吸をして心を落ち着かせているようだった。
……確かに、サイレンススズカが何を考えているのか、気になるところではある。
これまで、トゥインクルシリーズにおけるレースの全てを、影をも踏ませぬ大逃げで制して来た、孤高のウマ娘。
学年が違う事もあって、少女は彼女と接触する機会は全くと言っていい程無く、少女自身馴れ合いをするつもりはなかったので、何かしらを訊きに行く事もまた然り。
だが、それとは別に興味はあるのだ。一体、どのような経緯があって、大逃げという博打めいた作戦を取るようになったのか。
少女の経験に基づいた理論や理屈を重んじる頭では、大逃げを選択する理由が皆目見当がつかなかったから。
そう、レース的な興味関心であって、人間的な興味関心はそこまでないのである。
(……まぁ、この土壇場で聞きに行けやしないけど)
しかし、言ってやりたい事はあった。
だから、少女はずんずんとサイレンススズカの後を追う。
そして、ゲートを見据えるように立つ彼女の後ろに立つと――
「――サイレンススズカ、先輩!」
少女とて、先輩を相手にタメ口をするような不敬な真似はしない。
故に、普段よりも少しだけ声を大きくして、そう呼び止める。
すると、サイレンススズカはゆっくりと振り向き――
「――ッ」
心底、冷たい目で少女を見た。
気が立っているとか、そういう類ではない。ただただ、何の感情も籠もっていない。それでいてその瞳は――
(な、何!? この目!?)
元々、サイレンススズカというウマ娘の周囲からの評価としては「走るのが好きな事以外、何を考えているのか分からないミステリアスなウマ娘」というのが主なものだった。
それ以外に関しては、生徒会副会長の片割れにして『女帝』と呼ばれるあのエアグルーヴと親交がある、という程度で。
……だが、少なくとも今の彼女を見た少女は、そんな印象を抱けなかった。
何故なら、その瞳にはありありと――明確な敵意が宿っていたからだ。
いや、はたして純粋な敵意と言っていいのだろうか?
敵意にしては、温度があまりにもない。
敵意というのは、ベクトル的には怒りに似た感情だ。そこには「相手を絶対に倒す」という
しかし、サイレンススズカの瞳には
まるで、路傍の石ころを見るような、無機質さすら感じる視線。
……そうだ。路傍の石ころを見る目だ。それも、歩いている先にあって、「ああ、邪魔だなぁ」と思っているようなタイプの。
(……駄目だ、舐められるなッ!)
本人はそのつもりはないのかもしれないが、しかし現状、サイレンススズカにとっての自分は、取るに足らない相手としか認識されていないに違いない。
少女はそう思い、キッ、とサイレンススズカを見る目に力を入れる。
「私、今日貴方に勝ちますから!」
それだけ告げ、少女は踵を返し、自分の入るゲートの方へと向かう。
――絶対に、サイレンススズカを超える。
その志を胸に燃やしながら。
「…………なんだったのかしら」
一方のサイレンススズカと言えば、ぽつり、とその一言を漏らすのみ。
その不思議そうな表情はまるで、少女が去り際に放った宣戦布告とも取れる言葉に、心底驚いているかのような。
……或いは、言葉の意味を本当に理解できていないかのような。
しかし、そんな表情も感情もすぐに消え、自然の流れそのものであるかのようにすぐさま意識を切り替えると、ゲートに向かって歩き出す。
その顔は、いつもの走りが楽しみという顔ではなく――
「……先頭の景色は、誰にも渡さない。誰にも……」
******
『――ゲートイン完了。態勢が整いました。さぁ、世代最速を決める皐月賞――』
ガコン、という音が、静まり返ったスタンド席にまで届く。
『――スタートしました!』
正面のモニターの中で、ゲートからウマ娘達が飛び出していく。
その中でも飛び抜けたスタートダッシュを決めたのは、当然のようにサイレンススズカだった。
だが――
『――おぉっと!? サイレンススズカに
その3馬身程後ろに、青い勝負服のウマ娘が追従しているではないか。
しかも、その勢いは前進するにつれて明らかに増していっている。
明らかに前方のサイレンススズカをマークしに行っているその走りに、スタンド中からどよめきが起こる。
「意外だと思うか? あんな走りを認めるなんて、と」
「多少は」
権藤の問い掛けに対し、淡々とした語調で早永は返す。
一片の動揺も感じられない、まさにいつも通りの様子の早永に、権藤は僅かに笑う。
「……ああ。最初は止めたさ。そんな走りは無茶だと」
「なら、何故」
早永がそう問い返すと、権藤は一拍置き――
「……誰かに影響されたの、かもな」
不器用な笑みを浮かべ、照れ臭げに後頭部を掻きながら言う権藤に、早永はただ「そうですか」と返すのだった。
******
(よし、脚が良く動く!)
体感で800mぐらいは走った頃合い。
前方のサイレンススズカの背中が徐々に近づいていく視界に、少女は口元に弧を描く。
そう、これこそが、サイレンススズカを打倒せしめんと考え抜いた末に編み出した作戦。
他の逃げウマ娘には目もくれず、ただサイレンススズカを追い抜く為の秘策。
聞いた情報によれば、サイレンススズカは先頭に異常なまでのこだわりを持つのだという。
まぁ、ウマ娘であれば誰でも先頭を取りたいものだろうから、異常なまでのこだわりの部分に関しては特に気にしなかった。
精々思うのは、「最終的に先頭に立てば、途中どこにいたっていいんじゃないのか?」という疑問ぐらいなもので。
だからこそ、彼女は密かにサイレンススズカの走りを研究していた。それだけではなく、この戦法に関してもメディアに向けては今の今までずっと黙っていた。
あえて晒してサイレンススズカ陣営の動揺を誘うという作戦も考えはしたが、ゲート前でのあの様子を見る限り、その選択肢を取らなくて良かったと少女は思った。
あれは、思ったより頑固なタイプだ。作戦どうこうよりも、自分の走りを優先させる、そんな感じがした。
その点に関しては、少女には臨機応変さがあり、最も得意とする先行以外の脚質に順応するだけの柔軟さも持ち合わせていた。
(正直、デコボコがあって走りづらいけど……大丈夫。この日の為にスタミナをつけて来たし、ハイペースに付いていけるようにトレーニングして来た!)
だからこそ、900m地点を通過してもなお、サイレンススズカの後ろに付いていけている。自分自身の感覚を信じるなら、この時点でサイレンススズカは自分の存在を感知しているだろう。
後は、もう少し詰められればもっとサイレンススズカにプレッシャーを掛けられると同時に、彼女の身体を風除けにしてスリップストリームの恩恵を受けられれば御の字なのだが――
(……それにしても、思ったより縮まらないわね……そうでなくちゃ、面白くないんだけど!)
走る中で湧き上がる高揚感が、サイレンススズカを追従する為に酷使される脚を支える。
950m地点。既に、差は2バ身程まで縮まっている。
しかし、まだ足りない。もう一歩。もう二歩。前へ、更に前に。
そうして先へ進もうとする意志を脚は力強く反映し、960m、970mと先へ進むにつれ、少女の研ぎ澄まされた牙がサイレンススズカへと――現時点での最速のウマ娘の背中へと迫っていく。
(――行ける、行ける、行けるッ!)
少女の中で、確信が生まれ、成長していく。そして、間もなく1000m地点を通過し、その差が1バ身まで――
――……ユズラナイ
「――ッ」
ぞわり、と少女の背を悪寒が走る。
――ユズラナイ、絶対ニ
******
『――さぁ、なおも先頭二人による熾烈なデッドヒートが続いております! サイレンススズカがこのまま先頭を行くのか、それともここで初めて抜かされてしまうのか!?』
ターフビジョンに映る隊列としては、先頭の二人が後続を置いてけぼりにするかのような形。縦長になり過ぎて、後方のウマ娘が画面に収まっていない程に伸びていた。
まるで二人だけで最速を決めんとするかのような先頭のマッチレースめいたチェイスに、観客も徐々にヒートアップしていく。
だが……彼女らのトレーナーは異なっていた。
「……想定よりも追い付けていない。それに……サイレンススズカのペースも
権藤は普段以上に渋い表情を浮かべ、その顔に皺を増やし――
「当然でしょう。サイレンススズカさんもまた、成長しているのです」
早永は、さもそれが当然であるかのように、眉一つ動かさず、口元も緩む事無く、淡々とそう語る。
ブルボンも無言だが、考えている事は早永とほとんど同じだろうと、権藤は思う。
(……しかし、サイレンススズカとてプレッシャーは感じる筈。なら、目には見えずともスタミナの消耗もまた増している筈だ。そこが付け目だぞ……)
レース前での権藤の想定では、もう間もなくサイレンススズカのスタミナが切れて来て、少女が彼女を追い抜くと考えていた。
少女は道中で追い抜く事にこだわっていたが、何も追い抜く必要はない。
ウマ娘には、人間にはない優れた感覚がある。古き時代においては、その鋭敏な感覚を駆使し、自らに迫る脅威から逃げていたという話もある。
だが同時に、そこには焦りという感情が生まれるもの。
焦りは時に判断ミスや力の加減を忘れさせてしまうものだ。
本能的に焦りを感じる事で一時的に脚は速くなるだろう。だが、その分スタミナも消耗してしまう。それは恐らく、サイレンススズカも例外ではない筈だ。
サイレンススズカのこれまでのレースを見る限り、そのような経験はないのは分かっている為、余計スタミナを使ってしまうだろう。
故に、ここからだ。
ここからが、少女にとっての正念場だ。
そして、残り1000mを通過し、実況が1000m通過タイムを読み上げる。
『1000m通過タイムは……58.0! 恐ろしいまでのハイペースです!』
弥生賞の時よりも早くなっているタイムに、観客も騒然としだす。
しかし、それ以上に観客を動揺させる出来事があった。
「……おい、あれ!」
ある観客が指を指して叫んだ。
見れば、ターフビジョンに映る青い勝負服のウマ娘とサイレンススズカの差が
「……何?」
そう、
(馬鹿な。アイツのスタミナが先に尽きた? いや、ペースとしては想定より少し早い程度。それにこの距離ならまだ体力は残っている筈。なら……)
その時、権藤の脳裏に恐ろしい予想が浮かんだ。
(……まさか、サイレンススズカはこれよりギアを上げた上で、スタミナを持たせられるというのか?)
そんなまさか、と権藤は思う。しかし、彼の担当している少女はまだスタミナを残している。あれでバテるような鍛え方をしていない。
それなのに差が広がるというその状況を説明するには、それしか考えられない。
それはつまり――
(あの状況でもまだ余裕があるというのか、サイレンススズカ……ッ!)
その考えに至った途端、権藤は自分の心臓の鼓動が跳ね上がるのを感じた。
そして、チラリと隣の早永の顔を伺う。
その顔には一切の感情は無く。
しかし……一種の確信めいたものが、その目に宿っているように見えた。
そして――舞台は最終コーナーへと移る。
******
少女は焦っていた。
背筋に悪寒が走った直後、急にサイレンススズカと自分の差が、恐ろしいスピードで開きだしたのだから。
スタミナが切れかけて来た、という感覚は無い。寧ろ、まだ走れる。まだ、ギアを上げられる。
それだけならまだ良かっただろうが……彼女の背筋を走った悪寒は、彼女を焦らせるのに十分な成果を出した。
嫌な予感にも似た焦りに襲われた少女は、ひたすらにサイレンススズカに追い縋る事だけを考え、ピッチを上げる。それも、事前に想定していたよりももっと上の回転数に。
遠くで見ている権藤が「やめろ」と言って来そうな選択だが、今の少女からすれば最善の選択……というより、それしか選択肢が無いのだ。
(早く、早く、もっと!)
自分がサイレンススズカの後ろに付く事により、彼女が今よりもペースを上げる事は予想出来ていた。
今までのレース映像を見返し、実際に走り、イメージのサイレンススズカを思い描き、彼女を追い越すトレーニングを積んできた。
――しかしその想定は、あくまでも
(……クソッ! 私とした事が……!)
彼女は、作戦が通用したと、成功したと
だが、それは自分の走りが出来ていたというだけであり、よくよくサイレンススズカの走りを見れば、そのペースがほとんど乱れていないのに気付けた筈だ。
今だって、ペースが乱れて脚を早めたというより、ただ加速しているだけのようにも思える。
事実、後ろから見る限り彼女のフォームすら全く崩れていない。
(この、ままじゃ……!)
間もなく最終コーナーを過ぎ、最終直線に入る。
中山の最終直線は短い事でお馴染みだが、そこには急な坂がある。
しかし、サイレンススズカの登坂力の高さは既に過去2戦で証明されている。
ここで追い抜けないと、恐らく――
(ッ、負けて――)
「負けて、たまるかァ――ッ!!!」
少女は吠えた。
雄々しく、猛々しい獣のような叫びと共に、少女は更なる加速を見せる。
だが――全くと言っていい程、差が縮まらない。寧ろ、広がっているかのような感覚すら……否、本当に広がっているのだろう。
見る見る内に、サイレンススズカの背がコーナーの柵の向こう側に消えていく。
「ぐ……!」
歯を食いしばりながら、少女は懸命に腕を振る。
汗が右目に入り、染みる。しかし、拭う余裕すらない。
気付けば、まだ余裕があった筈のスタミナが急速に無くなっていっているような、そんな感覚を覚える。
脚の筋肉が悲鳴を上げ、全身から力が抜けそうだが、根性だけで身体を動かし、足を前に踏み出す。
それでも、あの緑と白の勝負服には追い付けなくて。
(どうして……!)
ガリィ、と何かが欠ける音が口内から聞こえた、気がする。
そうしてようやく少女が最終直線へと入った時、少女の視界に映るサイレンススズカの姿は、既に己の親指程の大きさしかなかった。
「――あ」
その小さな後ろ姿を見た時、少女の中で何かが弾けた。
「――あぁぁあアアア゛ア゛あ゛あ゛!!!」
再び少女は吠える。己の肉体に喝を、鞭を入れるように。
しかし――嗚呼、現実は非情、残酷。
僅かに彼女の背中が近づくだけで、一向に追い付く事が出来ない。
そこには確かに道はあるが……クレバスが如き残酷なまでの溝により隔絶されていた。
そして――
******
観客席からも観客達のざわめきの声が上がる。
最早それはレースではない。
ただ1人のウマ娘による、最速を狙うタイムトライアル。
しかし……
「……行け! 行けーッ! サイレンススズカーッ!」
「走れ! ぶっち切れーッ!」
次第に困惑の声が減り、一つの欲求へと収束していく。
『現世代最速と謳われるウマ娘が、世代最速を決めるレースでどれだけのタイムを叩きだすのか』。その結果を早く知りたい。
後続のウマ娘も追い上げて来てはいるが、恐らく、というより確実に、サイレンススズカに追い付く事は叶わない。
ある種の残酷な共通認識があるからこそ、彼等のサイレンススズカに対する期待は高まる。
……そう、他のウマ娘を応援する為にやって来ていた僅かな観客すら、サイレンススズカの圧倒的な走りに魅了されつつあったのだ。
そんな熱狂の中の一画、比較的冷めた者達が三人。
(……終わり、か)
権藤は、既に諦めていた。少女の勝利を。
そして……
少し前なら、当然の結果として受け入れていた筈なのに。
(……しかし、それでもアイツの姿を目で追ってしまうのは、私が多少なりとも成長した証なのか、それとも……)
そこまで考えた権藤だったが、やがて思考を止める。ここで答えは出ないだろうから。
そうこうしている内に、サイレンススズカが彼らの前を、その俊足をもって通過する。
あまりにも一瞬。まさしく、一陣の風が如し。
『先頭はサイレンススズカ! セーフティーリードを保ったまま、今、ゴォォール!』
緑の疾風が、ゴール板を通過する。
その迫力たるや、ゴール前を陣取っていた観客が思わず強烈な風を浴びたかの如き反応をする程。
そんな彼女に少し遅れるように通過したのは、権藤の担当――ではなく、別のウマ娘で。
彼の担当ウマ娘がゴールしたのは、そのウマ娘より1バ身程遅れての事だった。
恐らく、途中で
そんな彼女の、ウマ娘としてはやや小柄な方な身体がゴール板を通過するのを見送る、その最中。
以前、このレースを勝った事のあるミホノブルボンは、この結果も予想が付いていたのか、まるで表情を変えずサイレンススズカを見ていた。
そして、早永は――
「……お前、何を……?」
サイレンススズカの方を向き――
まるで、神仏に向かって行うそれのように。
観客席が歓声に包まれる中、そこだけが厳かな空間と化していた。
しかし、それを見ているのは権藤ただ一人。
恐らくミホノブルボンに関しては、早永の行動を
それを、権藤が異様な物を見る目で見るのは当然の帰結であった。
だが、その視線に気付いているのかいないのか、当の本人である早永は全く気にせず――いや、寧ろ僅かに口元を緩め、幸せそうな顔をして。
「……ああ、やはり貴方様は――」
そんな独り言が、喧騒に溶けて消えていく。
(……早永。一体お前には、サイレンススズカが何者に……
疑問を口に出すのは容易かったが、権藤はそれをしなかった。問いただしたが最後、彼は自身の思うトレーナーとしてのあるべき姿を、失ってしまうような気がしたから。
(……トレーナーとして、あるべき姿、か)
今の早永の姿を見ていると、己が考えるそれすらもあやふやな形に戻っていってしまうような、そんな言い知れない不安が過る。
……しかしながら、サイレンススズカに合った最速の走りをさせる彼の手腕は、トレーナーとして見習うべきなのもまた事実であり。
そんな彼がサイレンススズカに対して、敬意にも似た何かを抱くならば……それもまた、一つの在り方なのだろうと、権藤は考え直す事にする。
「……早永」
そして、権藤は今も拝んでいる早永に声を掛けた。努めて冷静に振る舞いながら。
早永は、そんな権藤をチラリと横目で見やる。
「おめでとう。今回
そう言った権藤の顔は穏やかだった。穏やかではあるが……早永は彼の目に、敗北を受け入れながらも、確かな闘志のようなものを感じ取っていた。
そんな権藤の態度を見て、早永は――
「……少しは、らしくなられたようで」
拝む手を降ろしながら、僅かに微笑んだ。
「全く、その態度。私でなければ殴られているところだぞ」
「殴って結構。その時は、その程度の器だったと認識するだけです」
人からすれば傲慢にも見える態度。しかし――権藤はそこに、早永なりの彼への信頼の形を見た。
権藤の知る早永信道という男は、例え目上が相手であろうと恐れ知らずに挑む一面があると同時に、信頼と信用を一緒くたにせず、誰に対しても平等に接する聡明さも持ち合わせている。
事実、早永にとっての権藤は、ウマ娘関係についてはあまり信用はしていないが……先輩後輩という人間関係においてはそれなりに信頼できる存在なのだ。権藤は、しっかり反省が出来る男だと。
だから、早永は彼を煽るような言葉を選ぶ事が出来るし、権藤はその煽りの中身をしっかりと理解した上で受け止めていた。
そもそも、早永が権藤を『先輩』と呼ぶ時点で、それは如実に表れているのだ。
「……そうだ。折角またG1に勝ったんだ。そろそろ飲みの席に来ないか? お前の話を聞きたいというトレーナーも、少なからずいるしな」
「僕の話など、つまらないものですよ」
「しかし、G1を勝たせられる人間の言葉は、どんなものであれ重く、面白いものだ。それに、酒を飲めば多少は――」
「僕が酒を嫌悪しているのをお忘れで?」
権藤が酒の話題を出すと、早永は彼を薄目で睨んだ。
「……そうだった。すまない、今のは忘れてくれ。だが酒は飲まずとも、何かしら食べる事は出来るだろう? 来るなら、私が奢ろう」
「……それなら、考えておきます」
一方で、早永が周囲から『問題児』と揶揄されるだけの、謂わば周囲との協調性に欠ける性質があるのも、また事実で。
それを加味した上で言うなら、権藤は早永という男をあまり出来た人間とは思っていないが、トレーナーとしては信用していた。
「……さて、そろそろ」
「ええ。……ブルボン」
「はい、マスター」
そう短いやり取りを残し、早永とミホノブルボンは人垣を掻き分けながらサイレンススズカの元へ。権藤は地下バ道へと向かって行く。
(……しかし)
権藤は思う。確かに彼は、早永の事はトレーナーとして信用している。
……だが。
(あのサイレンススズカへの態度。あれではまるで――)
トレーナーとウマ娘。その関係性は基本的に上下関係であり、決して対等という訳ではない。どれだけ目線を下げようと、そこには立場的、種族的な隔たりがあり、どう足掻いても対等にはなり得ない。
今の早永とミホノブルボンのそれが一番分かりやすい。
しかし……早永とサイレンススズカの場合はどうだろう。
「杞憂であれば、いいんだがな」
権藤の口から思わずそんな呟きが漏れる程に、今の早永はどこか……危うい存在のように感じられていた。まるで、昔の方がまだマシだったように思えるかのように。
……あるいは、彼は巧妙に隠していたのかもしれない、と。
少なくとも、これまで早永はそのような行為をするような男という認識は無かったし、これからも「冷めてはいるが、ウマ娘に対しては真摯に接するところのあるトレーナー」という印象のままだと、権藤は心のどこかで信じ切っていた。
だから、早永にそのような態度を取らせるサイレンススズカというウマ娘に、権藤は一抹の不安を感じると同時に、僅かにだが興味が湧いていた。
確かに、サイレンススズカの大逃げは凄かった。一トレーナーとして心躍るものが無かったかと言われれば、嘘になる。
だが、それがいつまでも通用するものかと、一般的なトレーナーの感性がそう訴えかけてくるのと同時に……あの後輩に手を合わせて拝ませる程の何かがあるのだろうと、その後輩の影響を多少なりとも受けた心がそう囁いてくるのだ。
そうして、権藤の姿は人混みの中に消えていった。
******
「ぜェ…………ふぅ……はぁ……」
少女は、安定しない呼吸をなんとか整えようと必死だった。レース後の消耗とダメージによって全身から滝のような汗が流れ落ちているのもお構いなしだ。
そんな彼女の頭の中を支配しているのは――サイレンススズカにまるで歯が立たなかった事への感情。
それは、あれ程念願だった皐月賞に勝てなかった事以上に、彼女にとって大きなものだったのだ。
(……間違いなく、途中までは良かった)
まるでニューロンが右往左往するかのようなイメージが彼女の脳内で蠢く中で、なんとか考えを纏めようとする。
そう、途中までは彼女の理想通りの走り――即ち、サイレンススズカを追い詰める為の走り――が出来ていた。
しかし予想外だったのは、それによるサイレンススズカのペースの乱れは然程無く……否、然程どころか、
……確かに1バ身に詰めた途中から、サイレンススズカはギアを上げた。そこに至るまで、想像以上の時間を掛けてしまったが、目論見通りにはなった。
問題があったとすれば――サイレンススズカがまるで垂れて来ず、しかもギアを上げた状態をキープしたまま走り切れるだけのスタミナを有していた事。
そして……ギアを上げた際のスピードが想像以上の速さで、追い付くどころでは無くなっていた点だろうか。
(そして、今度はまんまと私が釣られ、スタミナを消耗する結果に……)
そうして考えていると、ふと口の中に異物感を感じ、なんとか吐き出そうとするが、舌が上手く動かず、仕方なく震える手でそれを取り出す。
はたして、それは白い粒……恐らくは、彼女の歯の一部だった。
レース中、奥歯から嫌な音がしたと思ったのは、歯を食いしばり過ぎて欠けた音だったのだ。
(……意識していなかったけど……それだけ力を、入れていたというのに)
それでも届かなかった。……サイレンススズカの背中には。
――だが、何故? 彼女はその疑問に思考を走らせるが……答えが出るより先に、彼女の体力が限界を迎えつつあった。もう既に、まともに立っていられないぐらいの疲労感。立って、背筋を正さねばと、そう固い意志で思っていても抗いがたい、柔らかな芝生への誘惑。
そして、遂には重力に逆らえず膝を着いてしまう。僅かに草の先端が剥き出しの膝に当たり刺激されるが、気に掛ける余裕も無い。
……疲れで定まらない目が、その芝生の隙間を……その下にある土を見やる。
遠目から見れば整備された芝生のように見えるが、近くでよくよく見れば、かなり荒れているのが分かる。
此処を、自分達は駆け抜けていったのだ。この、荒れたバ場を……ウマ娘にとっての戦場を。
言い訳をして許されるのなら、これ程までに荒れたバ場は想定外だったと言えるかもしれない。だが……それはサイレンススズカも同様だ。
自分とサイレンススズカに違いがあるとすれば、彼女は馬場が整った状態からずっと、この中山レース場を走って来た経験の差がある。
だが……それを言い訳にはしたくなかった。頭の回らない今の状態では、その明確な理由は思い浮かばないが……強いて言えば、そもそも何かしらの言い訳をする事自体、自分の惨めさを加速させているような、そんな気分になるのだ。
しかし……そんな敗北者となった自分を、認められずにいる自分もまたいて。
重い頭を動かし、視界に緑と白の勝負服を捉える。
自分ですらこうなのだ。あのウマ娘がどれ程疲弊しているのかを見てやろうと思った。
「――ふぅ……気持ち良かった……」
……はたして彼女は、サイレンススズカは、まるで一仕事をやり切った後の仕事人のように、あるいは思い描いた通りの絵や小説を書ききった創作者のように。
「サイレンススズカさん、その……」
「あ、トレーナーさん!」
「……怒られて、無いんですか?」
「怒る?」
「いえ、その……私が、余計な事を言ったばかりに……」
「……ああ、そんな事も、ありました、っけ?」
「ありましたっけ、て……」
「ふふ、走ってたら忘れちゃいました」
あれ程までの速さで走った後とは思えない程に、酷く、爽やかな笑顔を浮かべていた。
そんな彼女と、柵を挟んだ向こう側にいるトレーナーと思しき人物による会話が、嫌でも優れた聴覚を持つ耳に入ってくる。
「……そう、ですか。どうでしたか? 皐月賞は」
「うーん……バ場が荒れてたから、いつもと違う走り心地でしたけど、これはこれで楽しかったです」
「楽しかった、ですか。……貴方らしい御言葉だ。それに――」
サイレンススズカのトレーナーが、視線を別の方にやる。
それに釣られて見れば、電光掲示板に赤々と輝く、レコードの文字。
「おめでとうございます。貴方の走りは、貴方が超えたがっていた先達を超えられました。これで名実ともに、中山2000mでの最速の称号、ひいては世代最速のウマ娘の称号も、貴方のものです」
それを聞いたサイレンススズカの目が、ほんの一瞬だけ輝き、元の色に戻った。
「……そう、なんですね」
「? 嬉しく、ないのですか?」
思ったよりも落ち着いた様子のサイレンススズカに、トレーナーが不思議そうに問いかける。
「いえ。嬉しい、とは思うんですけど……それ以上にまだまだ走り足りないって感じがして」
少女は目を見開いた。
あれだけの速さで走って、まだ「走り足りない」と言えるのか、と。
確かに、スタミナの増強自体は想定してはいた。してはいたが……まさか、これ程とは。
「あれだけ追われていたのに、そこまでスタミナを消耗されていないんですね。流石です」
そう口にしたトレーナーに、サイレンススズカは不思議そうに首を傾けた。
「追われていた? ……そっか」
「走ってる途中で妙に背中がムズムズしてたんですが、私、追われてたんですね。あのムズムズが心地悪くて……でも、スピードを上げたら無くなったんです」
少女は、戦慄した。それと同時に、納得した。
今しがたまで、自分がライバルと思っていた存在は、そもそも自分の事など眼中に無かったのだ。
そして、サイレンススズカ曰く「ムズムズ」という形でプレッシャーを与えられてはいたが、彼女にはまるで意味を為していなかった。
そう考えて、あの時感じた悪寒の正体に辿り着く。
あれは、決して自分に対してプレッシャーを掛けて来たのではない。
あれは――サイレンススズカにとっては、
想いの強さなら、自分も負けていないと自負はしている。
だが、彼女のそれは強さというよりも……鋭かった。
ただ前へ、前へという純粋で単純で強い意志が、まるで研ぎ澄まされた刃のように形成されているかのような。
そして、今の少女にはサイレンススズカが、さながら研がれた剣を振り回す狂戦士のように映っていて。
「……―――め」
ふと、自然と少女の口から零れ落ちた言の葉。
それは、幸か不幸か、風に乗って緑のメンコに包まれたサイレンススズカの耳に届き――
「……え?」
不意に聞こえて来たそれに、サイレンススズカが振り返る。
視線の先には、その場で膝を着く、青い勝負服のウマ娘の姿。
よくは見えないが、垂れた前髪の隙間から覗くその目には、恐れとも、敵意ともつかない感情が入り混じっている……ような気がして。
「…………?」
「サイレンススズカさん、そろそろウイニングランですよ。……サイレンススズカさん? どうかなさいましたか?」
「あ、いえ。なんでも……」
トレーナーに声を掛けられ、サイレンススズカはその場を後にし、ウマ娘達――あの青い勝負服のウマ娘も含めて――が地下バ道へ引き上げていくのを待ってから、ウイニングランを始める。
(……あれって、どういう意味なんだろう)
皐月賞を走り終え、レース前まで抱えていた余計なものを振るい落としたサイレンススズカの心は、あまりにも無垢だった。
故にその疑問は、瞬く間に心の内に広がっていく。
幸いなのは、ランナーズハイのおかげか、それとも本質的なものなのか、偶然にもこの時のサイレンススズカが、その言葉が罵倒であると捉えなかった事にあった。
しかし、それでもあの青い勝負服のウマ娘の視線が孕んでいたほの暗い感情は誤魔化せない。それ故に、誉め言葉であるとも思わなかったのだが。
『……
不幸だったのは、その言葉と視線が妙に印象的で、まるでかえしの付いた銛が刺さったかのように心と記憶に残ってしまった事だった。
権藤トレーナー……正直、奇行にしか思えない行為を真顔でしだした早永が心配だし、既存の早永のイメージから大きく逸らさせるような行動に走らせた(と権藤は思っている)サイレンススズカに興味と恐れを少しずつ抱いている。
青い勝負服のウマ娘……サイレンススズカ、怖い。