第1話 君と僕の名前
目が覚めてすぐ、上体を起こす。
寝覚めはそんなに悪くない僕は、それだけで意識を覚醒させる事が出来た。
しかし、それだけでは意識の完全覚醒には不十分である。そう断じている僕は、朝のルーチンを決めていた。
布団を片付けた後、歯を磨き、髪を整え、服を着る。
トレーナー故に、纏うのは黒のスーツだ。
そして、朝食を食べる――前に、リビングの隣の部屋に移る。
そこには、一つのマスクと、そして写真が飾られていた。
マスクは、僕が敬愛する特撮ヒーロー、初代スターマン。その撮影当時に使われていたプロップ(本物)。
写真は、僕が崇拝する存在が写ったもの。
それらに向かって、僕は正座をし、深く伏し拝む。
瞳を閉じる。
普段から外の環境音ぐらいしか聞こえない程に静かな室内に、より一層の静寂が訪れる。
その間、僕はただ祈った。今日も、彼女の為の僕であれますように、と。
大体、体内時計で60秒経った頃。
僕は顔を上げ、口を開く。
「今日も、よろしくお願いします」
こうする事で、僕の意識はきっと、完全に覚醒するのだ。
******
「おはようございまーす!」
「はい、おはようございます」
東京都内に存在する日本トレーニングセンター学園、通称トレセン学園。
その校門を潜るウマ娘達と、校門前に立つターフが如き緑の衣装が目立つ秘書然とした女性――駿川たづなが挨拶し合う。
実際理事長の秘書を務めている彼女がこうして後門の前に立っているのは、何も今日始まった事ではない、毎朝恒例の光景だった。
彼女がこうして校門前に立ち挨拶するのは、ひとえにウマ娘への愛情故。どんなウマ娘であろうと、彼女は平等に愛していた。
眠たげに目を擦りながら歩いてくるウマ娘。元気に駆けてくるウマ娘。務めて冷静に歩いてくるウマ娘。何故かセグウェイに乗ってやってくるウマ娘。
多種多様なウマ娘達が目の前を通る度、彼女の中に幸せの感情が生まれてくる。
――願わくば、今日も皆さんが健やかに過ごせますように。
たづなはその願いを込めながら、ウマ娘達に挨拶をする。
しかし、何もウマ娘にだけそのような態度を取るという訳ではない。
彼女らを育てるトレーナーに対しても、誠意を持って接する。
「……おはようございます、
「はい、おはようございます、
そう、それが例え――校内で『問題児』とされるトレーナーが相手であっても。
問題児、とは言うが、彼の人柄をたづなは良く知っている。というより、大抵のトレーナーの人柄については、頭の中にインプットされている。
彼はその風評に対し、寧ろウマ娘に対して優しい方だ。
ただ……とあるウマ娘に対する愛情が深すぎるのと、それ以外に対しての感情が薄い、あるいは無関心なのが心配になるぐらいで。
「今日もいいトレーニング日和で何よりですね!」
「……そうですね」
一拍置いて、彼は反応を返す。
いつもの事だ。彼は、普段からどこかダウナーな雰囲気を纏わせている。
……いや、ダウナーというよりも、常に平常心を保ちすぎている。
事実、たづなはある例外を除き、彼が驚いたり、怒ったり、挙句の果てには笑ったりするところを見た事がない。到底、人間を相手にしているような気分にはならないだろう。
まるで機械のようで近寄り難さのある人間。それが彼だった。
「あ、おはようございます。トレーナーさん、たづなさん」
……そんな近寄り難さすらある青年に向かって、平然と……どころか、親愛の情を持って挨拶してくるウマ娘が一人。
「スズカさん、おはようございます」
長く艶やかな栗毛の髪と尻尾に、緑のメンコ。それでいて、どこか儚げな雰囲気すら持ったそのウマ娘の名は、サイレンススズカ。当代きっての逃げウマ娘。またの名を、『異次元の逃亡者』。
そんな彼女を前にし、早永青年は先程までとはまるで違い、きびきびとした動きで礼をした。
最初こそ正直驚きの目で見ていたが、今ではもう慣れっこだ。
「ふふ。もう、相変わらず固いんですから、トレーナーさんは」
「親しき仲にも礼儀ありなので」
「私は別に気にしませんよ?」
「僕が気にするんですよ」
「むぅ……」
スズカは頬を膨らませる。その理由は――
「……また、敬語になってます」
「あっ……」
しまったと、早永は分かりやすく狼狽し、マスクの下の顔を僅かに赤らめた。
「す、すみません……じゃなかった、ごめん。つい癖で」
「いいんですよ。そんな律儀なところもまた、貴方の良いところなんですから」
……たづなは常々思っている事があった。彼らの間には、確かに絆のようなものがある。
彼らの間に流れる空気は傍からすれば甘いようで、しかしどこか温度差があるのも感じていた。まるで、二人の間に見えない壁のようなものがあって、それで異なる空気が分けられているような――
「……はい、お二人とも! 仲がよろしいのは大変結構ですが、もうすぐ始業時間ですよ!」
その言葉は事実だ。始業時間が近くなり、増えてきた他の生徒やトレーナーらもチラチラと見ながら校門を潜っているのにも関わらず、この二人は放っておくといつまでも話し続けてしまう。
それは流石に、仕事に支障をきたすであろう。
しかし、たづなにとってのそれは、事実であると同時に方便でしかない。
仲の良好なウマ娘とトレーナーの会話は、見ていて飽きないものがある。
しかし彼らの場合……それに加えて、何か別のものを感じるのだ。何か、不穏なものを。
たづなはウマ娘達を心の底から愛しているが故に、その感覚を信じて疑わない。
だから、こうして二人を引き離そうとする。それが結果的に、二人のためにもなると信じて。
「そッ、そうですね。すみません」
早永は素直にこれに応じると、「じゃ」とスズカの方を名残惜しそうに見ながら手を上げた。
スズカも名残惜しいものがあるのか、「はい、ではまた後で」と、手を小さく振り、校舎へと入っていった。
「……ふぅ」
二人が去った後、たづなは安堵の溜息を吐いた。……ああして、少しでも距離を取らせなければ、いずれ大変な事になる気がする。
何せ――
(……早永さんもサイレンススズカさんも、時々怖い目をする時があるんですよねぇ)
怖い目、というのは、何かを警戒したり、怖がらせる為に敢えてやるような目つきではない。
なんと言えばいいのか、何かを熱望するような……そう、ひとつ間違えれば狂気すら感じかねない、そんな目をするのだ、彼らは。
サイレンススズカは、まだ分かる。彼女はレースでの勝利より、『先頭の景色』を見る事に拘るウマ娘だ。
彼女の『先頭の景色』に対する熱量は、並のウマ娘のそれではない。
それが高じてか、彼女はとにかく走りたがる。普段何をしているかと問われれば「走っている」と答えるし、では趣味は? と問われれば「走る事」と答える。
好きな事は――最早言わずもがな。
たづなは知っている。そういう、何かを突き詰めるタイプのウマ娘が辿り着く『領域』を。それは同時に、深淵を垣間見るのみならず、その奥底へと身を投じる事を意味する。
そして、早永というトレーナーは、そんなスズカに対して憧れ……どころではない、もっと歪で純粋な感情を抱えていた。
それ故に、彼はスズカが速さにのめり込む事を許容する。
スズカにその許容から脱せられ、そして己を省みるだけの自制力があれば、バランスの良いコンビとなり得ただろう。
だが彼らの場合……。
――深淵を見つめる時、深淵もまた見つめ返す。そして、それに魅入られたウマ娘は――
(……よしましょう。朝から悪い想像はするものではありませんね)
そう思いながら、たづなは再び笑顔を浮かべ、ウマ娘やトレーナー達を迎える。
――春が終わりを迎え、夏の気配が近づく中、今日もトレセン学園の一日が始まる。