先に此処で書く事が2点あります。
一つは、誤字修正で指摘を頂いたのですが、第3話の前書きにも書いてある通り、主人公達、もっと言えばトレーナー等が「そう『ゆ』う」とか言っているのは誤字ではなく、あえてやっています。ご了承ください。
もう一つは単なる質問なのですが、こちらも第14話の前書きにて書いた事なのですが、設定の矛盾やら何やらで過去話を改訂した際にそれを報告した方がいいのか、という事です。やった方がいいのであれば、次回から前書きにて書いていこうと思います。(ちなみに今回の話を書くにあたり、第1話を改訂しました。ご確認ください)
幼少期、私は両親の勧めでレースに参加した事があった。
「走れるのならいいかな」と思い出てみたそのレースは……最初、酷く苦しいもののように思えた。
沢山の子に周囲を囲まれて、騒がしくて、窮屈で……不協和音、とでも言えばいいのだろうか。
とにかく、そんな状況の中にいるのはとても、とても息苦しかった。まるで、海で溺れるかのような不自由さがあった。
――だから、私は水面へ勢いよく浮かび上がるように、誰もいない場所……即ち先頭へと出ていった。
はたして、そこにあったのは静かな景色だった。
聞こえるのは、風の音、リズム良く地を踏みしめる心地よい音、そして心臓の鼓動。
目に映る世界には、自分以外の何者もいない。
あるのは――私が私らしく、誰よりも自由であれる、私だけの世界。
――心地の良い孤独だけが、そこにはあった。
******
トレーニングを終えた後、夕焼けが沈みかけているグラウンドの端に設置されたベンチに、僕達は腰掛けていた。
僕とサイレンススズカさんの間には、人一人分のスペースが空いている。そうゆう風に敢えて空けたのだ。同じベンチに座る事すら畏れ多いのだ。察して欲しい。
「……」
「…………」
「………………」
「……………………」
そして、かれこれ30分ぐらい、この気まずい沈黙の空気が流れている。
いざ話をしようと考えると、どうしても喉から言葉が出て来なくなってしまうのだ。
どんな話をすればいいのか、いや、そもそも僕如きが気安い話をサイレンススズカさんにしてもいいものなのか? いやいやそもそも僕はサイレンススズカさんに悩みがあるからこそ話をするという話になったわけで、別に気安い話をしにきたつもりはないのだ。しかし……僕如きに相手が務まるような話なのだろうか?
そんな考えが頭の中を巡り、結局何も言えないまま時間だけが経過していく。
「……あの」
「アッ、はい!なんでしょう!?」
そんな風に僕が言葉を探していた時だった。唐突にサイレンススズカさんが切り出されたのは。
それに対し、緊張のあまり声が上ずってしまった。恥ずかしさで顔を伏せたくなってしまったが、今は大事な時間だ。それは我慢する。
「少し、お訊きしたい事があるんです」
「はいッ! なんなりと!」
正直求められる回答を導き出せるかという自信は、ない。……だが、こちらを見られているサイレンススズカさんの真剣な眼差しを前に、そんな弱気な事は言えまい。
僕は覚悟を決めるように喉を鳴らすと、サイレンススズカさんの小ぶりな口から言葉がでるのを待つ。神妙に、待つ。
サイレンススズカさんは、しばらく何かを逡巡するかのように視線を泳がせると、意を決したように口を開いた。
「……トレーナーさんは、私の事、どう思ってますか?」
******
「信道。お前は賢い子だ。私などよりも遥かに、賢い子だ」
「信道。お前は出来る子だ。私はそう信じている」
「信道、私はな。お前に成功してもらいたい。そして幸せになって欲しいんだ」
幼い頃から、あの男は僕にそんな事をずっと、ずっと言い聞かせるように言ってきた。
そう言われていた幼い頃の僕は、まるで主体性もなければ面白味もないような少年だった。
あの男からすれば、我が儘一つ言わないような利口な子供で。
僕自身はと言えば……どこかズレた感覚を抱えながら、しかしそれに答えが出せず、結局親の言いなりのままに生活していた、つまらない子供だったと思う。
そんな僕が明確に変わったのは、間違いなくあの日……あの男に連れられ、祖父の家に行った時の事。
「信。いいもん見せてやる」
にっこりと微笑みながら祖父が差し出してきたのは、昔懐かしのビデオテープ。
中に記録されていたのは――星の戦士の戦いの記録。
星と人の狭間に在りながら、そのどちらかに偏る事なく、しかしそれ故のギャップに苦悩しながらも怪獣や侵略者と戦い続け、人類を救った始まりの戦士の物語。
「爺ちゃんはな、スターマンの友達なんだ」
そう言いながら、祖父はあの男にバレないよう、こっそりと秘密の部屋に連れて行ってくれた。
そこには、多種多様なスターマンのグッズが並べられていて――そして、あのマスクもあったのだ。
金色の星のような形に、小さな覗き穴があるだけで目が無く、しかしその代わりに人間の柔らかな口元を持った、初代スターマンのマスクが。
「それはな、スターマンが星に帰った時、彼に託されたんだ」
「欲しいってならやるが……ま、アイツの特撮嫌いは筋金入りだからなぁ。下手すりゃ捨てられるかもだから、今はこの人形しかやれなさそうだな」
「だから……そうだな。信。お前が大人になったら、これを取りに来い」
そう言いながら、祖父は僕に色褪せたスターマンのソフビ人形を渡してくれた。
そのソフビを見て、そしてマスクを見る。
いくらか経年劣化による傷やら何やらが見て取れるそれは、しかし僕にとっては、この部屋にある何よりも輝いて見えて。
――その日から、僕は初代スターマンという、ヒーローにして神たる存在に魅入られたのだ。その頃の僕の中は、神という概念すら無かったけれど。
――救いというものは、確かに存在するのだと、そう思ったのだ。
******
何故、ただ訊くだけなのに迷う事があったのだろう。
トレーナーさんへの質問を口に出すまで、私は訳の分からない迷いを感じていた。
まるで、これを聞くとトレーナーさんに……なんて言えばいいのかしら。変な目で見られてしまうんじゃないかと、そう思ってしまった。
変な目、というのはつまり、トレーナーさんに嫌われてしまうかもしれない、という事。
突拍子の無い発想だと思われるかもしれないけど……不意に頭を過ぎるのだ。あの時、私を恐ろしいものを見るかのような目で見ていた、あの子の顔、目が。
もしかしたら、トレーナーさんも普段の調子からは分からないけれど、ずっと私の事をそう思っていた……なんて事も、あるかもしれない。
そう考えた時……何故だか私の心は、妙なざわつきを見せる。
不思議だ。あの子にそんな目で見られた時は、ただ不思議だとしか思わなかったのに、トレーナーさんにそう思われるかもしれないのが、嫌だと感じている自分がいる。
それは、周りの子が時折異性を相手にしている時に見せる甘酸っぱい感情のようなものではない、とは思う。
私を自由に走らせてくれる恩人が……私に丁寧に、真摯に接してくれる人が、裏では私に負の感情を抱いているんじゃないか。
その裏の部分を想像した時……あの時、私に言葉を掛けてくれた優しさが嘘だったんじゃないかと、そう考えてしまう。
その程度には、私は彼に対して好ましい感情を抱いているらしかった。
――……だけれど、私は。
「………………は?」
はたして、トレーナーさんは変な目で私の事を見て来た。……もっとも、それは恐れがあるというよりも、色々と困惑した様子で、だけど。
それが意味する事を考えてみる。……トレーナーさんは、私がこんなにも真剣な気持ちで質問したにも関わらず、まるで『
どうしてそんな風に見られるのか、よく分からなくて。だから余計に混乱してしまう。
「……あの?」
「へ? ……あ、いやッ、その、えーと……」
惚けていた様子のトレーナーさんに声を掛けると、トレーナーさんは我に返ったように忙しなくあちこちに視線を向ける。かと思えば、顔を背けて咳き込みだし、心配になってしまう。
「え、えっと、何か変な質問、しましたか?」
「いッ、いえ! 違うんです! その、別に何か意識しているとかそうゆう訳では……ゲホッ、コフッ」
意識するとは、一体何を意識するのだろう。
……もしかして。
「……その、トレーナーさんも私の事……化け物、だと思ってたりするんですか?」
そう訊いてみると、トレーナーさんは途端に身体を固まらせた。
「……失礼、なんと?」
「化け物、です」
そう答えると、トレーナーさんは困ったように「聞き間違いじゃなかった……」と頭を抱えながら呟いた。
「……何故、そんなことを?」
「皐月賞の時、私と一緒に走ってた子がそう言ってたんです」
そう自分で口にして、思い出す。あの時の事を。
「それにあの子、私の事を……上手く言えないんですけど、怖いものでも見るような目で見てきて。でも、ただ怖がってるような感じでもなくて……」
そう。あの子の視線には私への恐怖と、それから……私を敵として見るかのような、そんな感情が籠められているように思えた。そんな視線を向けられたのは、生まれて初めての事で。
すると、トレーナーさんの目つきが……鋭くなって……。
「……一体どこのウマ娘ですか」
剣呑な雰囲気を隠そうともしないトレーナーさんに、私は慌てて止めに入る。
「あ、あの! 私、気にしてませんから! ……気にはなりますけど」
言葉の冷静さの裏に見え見えの怒りを滲ませたトレーナーさんをなんとか宥め、私は言葉を続ける。
「……そう、気になるんです。どうしてあの子は、私の事を化け物って呼んできたのか」
……自分でも分かっている。きっとその答えは、彼女に直接聞かないと分からないものではあるのだろう、と。
でも、流石に直接訊きに行けそうにはない。そもそも、何処の誰かもよく覚えていないから。
それに、仮に訊きに行けたとしても、多分本当の事は話してもらえない、ような気がする。これに関しては直感でしかないけれど、そう考えるとやっぱりどうしようもない事なんだと思う。
だからこそ、相談すべきかどうか悩んだ。……悩んでいる時点で、私にとってのトレーナーさんがどういった存在なのかを自覚してしまい、罪悪感が湧いてくるのだけれど、どうしても踏ん切りがつかなかった。だって、私にとってそれは、ただの疑問以上のものではなかったから。
そんな些細な事をトレーナーさんに訊いてもいいのか、という躊躇いが、私に口を閉ざさせていた。
「本当なら話すつもりは無かったんですけど……エアグルーヴ達に後押しされちゃって。トレーナーさんと話をした方がいい、って」
そう苦笑しながら言うと、トレーナーさんの表情も少しだけ和らいだように見えた。
「……なんというか、奇遇、ですね。私も同僚に、担当と話をしろと急かされてまして。……丁度良かった、のかもしれません」
ふぅ、とトレーナーさんが息を吐いた。
「……まず先に前置きしておきますが、私はそのウマ娘ではありませんので、これから話すのは僕の主観に基づいた意見になります」
その言葉に、私は頷く。
「それは、そのウマ娘のプライドが故、だと思います」
「プライド?」
首を傾げる私に、トレーナーさんは「ええ」と短く応えた。
「実力を備えているウマ娘は大抵、相応にプライドを持ち合わせているものです。特に、G1に出てくるような者なら猶更です。そのウマ娘も、皐月賞を勝つつもりで出てきた……つまり、最も有力視されていた貴方に勝つつもりで参戦したのでしょう。……争いとゆうのは、同じレベルの相手としか起こりませんから」
ですが、と言葉を区切る。
「結局負けた。圧倒的な差を着けられて。……そもそも争いが起こりようのない、レベルの違いを見せつけられた」
トレーナーさんは、そのウマ娘が何着だったのかは知らない。けれど、私が2着に差を着けて勝ったという事実は知っている。
「そのウマ娘の頭の中で『本当なら自分が勝つ筈だったのに』とゆうプライドの高さが故の考えが過ると同時に……本能的に、貴方との実力差を痛感したのではないでしょうか」
「しかし……そんな現実と向き合い、受け入れるとゆうのは……実際難しい事です。元来競争心の強いウマ娘なら、その傾向は強く、顕著に現れる。ですが、事実というものは変えられない。なら、どうするか?」
「……『相手は優れている自分を更に上回るような、とんでもない『化け物』だった』。脳がそうゆう認識にする事で、己の自尊心を保とうとする。並の相手なら負けはしなかった。だが、相手が悪かったのだと、そんな具合にね」
「相手が常識を逸した化け物めいた強さなら、負けたとしてもある程度自分も納得できるものですから」とトレーナーさんは付け加える。
……成る程。つまりあの子は……
「自分の心を守る為に、私の事を……」
「あくまで、憶測の域を出ないものですが」と、トレーナーさんは言う。
「
「……そう、ですね」
私は考える。……トレーナーさんの言葉を鵜吞みにするなら、少なくともあの子にとっての私は、普通じゃないウマ娘のように見えていたのかもしれない。あるいは、そうとでも考えなければ、自分が負けた事に納得できなかったのかもしれない。
……トレーナーさんの言うように、捉えようによっては――かつてマルゼンスキー先輩が言われていたそれのように――最大級の賛辞と捉える事も出来る、かもしれない。
……でも……。
「……私、そう思われる程凄いウマ娘なのかな、って」
確かに、その子が何を思って化け物と呼んできたのか、その気持ちが分かったような気はする。けれど……実感が湧かないのだ。
今のところ、気持ち良く走れてはいるけれど……これが私の目指している走りかと言われれば、そうじゃないと返す。
私の目指す場所は、どこまで行ってもあの『景色』が見える場所なのだ。
スペちゃんは私の事を憧れだと、凄いウマ娘だと褒めてくれていたけれど……そこに今だに至れていない私が、どうして凄いウマ娘だと言えるのだろうか。
そう考えて言葉を発すると、トレーナーさんは気まずげに視線をチラチラと外しながら、「恐れながら、その言葉、私以外の前では言わぬ方がよろしいかと」と口にした。
「? 何故です?」
「……それが、
言っている事が良く分からない。分からないが……私よりもトレーナーさんの方が人と接するのが上手そうなので、素直に従っておくことにする。
「……ええと、あの子の言葉の意図は、何となく分かった気はします。……その上で、改めてお訊きした――」
「化け物などとは決して思っていません」
「――いんですが……」
……なんだか食い気味に否定された。
「あの、まだ言ってないんですけど……」
「失礼。ですが改めてお訊きになるとすれば、最初に仰っていた質問関連かと思いましたので、つい」
「つい……」
そんな衝動的に返してしまうような質問なのかしら、これ。
「……化け物とは、思ってないんですか?」
「思う筈がありません」
「……手に負えない、とか、そんな事は――」
「ありえません」
自分で言うのも何だが、私はあまり、協調性がある方とは言い難い。だから、そういう意味でも手に余るんじゃないかと、そう思って口にしたら、それも即答で返されてしまった。
……なんというか、決して怒鳴ったり叫んだりしているわけじゃないのに、一つ一つの返答に圧を感じてしまうというか……。
「……あの、怒って、ます?」
「……怒っていない、と言えば嘘にはなります。気持ちは察しますが、それはそれとして、貴方を化け物呼ばわりするなど到底許しがたい事ですから」
「それに」とトレーナーさんは繋げる。
「……その、私がこのような事を言うのは大変浅ましいと自覚はしておりますが……貴方からの信頼を、まだ得られていないのだなと、そう思ってしまい……まだまだ信頼を勝ち取る努力が足りない自分自身への怒り、といいますか……」
――その言葉を聞いて、私は。
「……すいません」
「何故、謝られるのです?」
だって、私は。
「……私が、
そう言うと、トレーナーさんは……顔を背けた。マスクと顔の角度で良く見えないけど、多分……顔をしかめた。
「……あっ、違うんです! その、貴方が信頼出来ない人間だとか、そういう訳じゃないんです! ……これは、私の問題で」
……そう。私の、問題だ。
私は、トレーナーさんを信頼していない。……
その証拠に、私は未だに彼の事を何も知らないし、知ろうとすらしていなかった。
「……私、以前までどうしてトレーナーが必要なのか、考えたことが無くて。……いえ、多分今も。レースに出る為にトレーナーと契約を結ぶ以上の意味を、まるで見いだせなかったんです」
私がそう言うと、トレーナーさんは顔を背けたまま、俯いた。
……トレーナーさんが悪い訳ではない。悪いのは……私だ。
「……だから私、きっとトレーナーさんに甘えてたんだと、思います。トレーナーさんは私を縛ろうとせず、ありのままでいさせてくれる。私を、自由に走らせてくれる。……その事に、安心しきって。「このままでいい」って、そう思ってしまって」
トレーナーさんは顔を背けたまま、ただ黙って私の話に耳傾けているようだった。
「今の関係に何か不満があるわけでも、不便だと思った事もありません。……ただ、私は貴方に与えられるだけで、何も恩返しできてないな、って」
私がそう言うと、トレーナーさんは弾かれるように勢いよく私の方を向いた。
その目には、普段の優しさがまるで感じられない程に力が籠っていて。
「……恩返しなど必要ありません。貴方が貴方らしく走って下されば、それで良いのです」
マスク越しの口から出てくる言葉は、落ち着いたもので。
でもその実、そこに込められた感情は――
「何者の感情にも、思想にも左右される事なく、貴方が貴方らしくある。それだけで私は……幸せなのです」
……ああ。私を真っ直ぐ見ながら、こんな切実な感情を言葉に乗せるような人が、私を化け物なんて思う筈がないじゃない。
私は一度、瞼を伏せる。
……目を、開く。
「……貴方が良くても、私は良くありません」
その時、私は自分がどんな表情をしたつもりだったのか分からなかった。ただ、自分の声色が落ち着いたものだという事だけは分かって。
「貴方が良くても、私は、良くないんです」
だから私はもう一度、彼に同じ言葉を告げた。私、という部分をあえて強調しながら……彼の心を、包み込むように。
「……!」
一瞬。ウマ娘としての動体視力でギリギリで捉えきれるようなほんの一瞬だけれど、トレーナーさんが私から目を逸らした。
「……すみま、せん。私如きが出過ぎた真似をしました。どうか、お許しを……」
それは、おおよそウマ娘を指導するトレーナーから、担当ウマ娘に対して出てくるような言葉ではない。それぐらい、私にも分かる。
……彼は、優しい人。でも、私に向ける感情は、きっとそれだけじゃない。と、いうより……優しさよりも先に、何か別の感情があるような、そんな気がする。
その正体こそが、彼が私に取る態度の根源なのだと思う。
「……なら、話して頂けませんか? 貴方が、私の事をどう思っているのか」
我ながら、らしくないとは思う。走る事にしか興味が無かった筈なのに。それどころか、他人との関係や距離感――エアグルーヴやスペちゃんとの距離感も含めて――ですら、今までさして気にしてこなかったのに。
けれど……唐突、という訳ではない。
『……エアグルーヴ。貴方の言いたい事も分かるけど……トレーナーさんを悪く言うのは止めてくれないかしら』
あの時、エアグルーヴにトレーナーさんを悪く言われたと思った瞬間に感じた、怒りにも似た感情。あの感情だって、突然芽生えたものという訳ではない、と思う。
「……それ、は」
トレーナーさんは、酷く狼狽えているようだった。視線を彷徨わせながら、軽く咳き込んだ。
余程言いにくい……あるいは言えないような事なのかしら。
……トレーナーさんに限って、悪い事を考えているとは思えない。思いたくない。
だから――これから、それを確かめようと思う。
「……初めて話をした時の事、覚えてますか」
あの時、貴方は涙を流していた。
あの時、貴方は私の心に向き合ってくれた。
あの時、貴方は――
「あの時ぐらいだと思います。貴方が……本当の心の内を見せてくれてたのは」
あの時、貴方は私の置かれた境遇に怒りを感じ……苦しんでいた。
走る事に対する嫌悪感とも虚無感とも言える、あの嫌な感覚に苦しんでいた私に、寄り添おうとしてくれた。
そして……自分の好きな物を、喜んで紹介してくれた。それはきっと、自分の心を明かすようなもの。
「……あの時、貴方は私の心の内を理解しようとしてくれました。でも私は、貴方の事が……全然分かりません。分かろうとしなかったというのもありますけど……貴方は、私と距離を取ろうとしてましたから」
あの後――つまり私と改めて担当契約を結んだ後――貴方はどこか……別人のようによそよそしくなった。親切さはそのままなのに――寧ろもっと甲斐甲斐しくなってたかも――露骨に距離を空けてきて。つかず、離れずといった、絶妙な距離感をずっと保って。
貴方の親切心が偽りだとは、思わない。けれど、まるで何か……そう、
でも……恥ずかしい事に、私はそんな明らかな異変を他所に、自分が走りたいように走っていた。
エアグルーヴ達に言われるまで、まるで気にもしなかった。貴方が何かを抱え込んでいるなんて、想像すらしようとしなかった。
ただただ、楽しい毎日に満足していただけで。
「……貴方は私に優しくしてくれる。でも、その優しさの理由が分からないんです。……どうして、なんですか?」
貴方の優しさは、本物だと思う。
でもそれは――本当に純粋な好意なのだろうか。純粋な好意だけで、そんな……何か目上の存在を相手にするかのような態度を取るだろうか?
もし違うとしたら……その裏に隠されたものは一体、何なのだろう。
「…………」
……苦しげにしながらも、頑なに私の質問に答えないトレーナーさんを見ていて、段々と胸の内から苛立ちに似た感情が沸き上がってくるのを感じる。……どうして何も言ってくれないの、と、一方的で理不尽な想いが溢れてくる。
……それなら、私にも考えがある。
「……教えてくれないなら、私、走りません」
そう言った瞬間、トレーナーさんは目を見開いてこっちを見てきた。
……驚き、困惑、悲しみ。そういったものがごちゃ混ぜになったかのような想いが、視線に乗って私に伝わってくる。
「っ……」
途端に、私の胸の内に湧き上がるのは、罪悪感。……本当に、らしくない。私らしくない、ズルい台詞。
けれど、その感情に……無論、トレーナーさんからの想いにも、負ける訳にはいかない。
これは、レースと一緒だ。一度知りたいと思ったなら、最後まで突っ走れ。きっとゴールには、私の知りたい何か……『景色』がある筈だから。
「……トレーナーさん。貴方は私が、私らしく走る事を望んでいるんですよね? ……なら、なおさら今のままでは駄目です。今の私は貴方の事で頭が一杯で、走りに集中する事なんて……」
トレーナーさんを真っ直ぐ見据えて言葉を紡ぐ。
罪悪感を感じている筈なのに、彼を苦しめるであろう言葉がスラスラと出てくる感覚。
正直あまりいい気分はしないし……驚いてる。
でも、ここまで来たら引き下がれない。どの道私は、がむしゃらに前に進み続けるのが得意分野なのだから。
対するトレーナーさんは……私の言葉を聞いて、ぎょっとしているようだった。
そして、何故か少し気まずそうに視線をチラチラと逸らしだし……
「……酷い、殺し文句ですね」
やがて、彼はぽつりと呟いた。クスリ、と吹き出しながら。
「殺し文句?」
「……いえ。ご自覚がないのであれば、お気になさらず」
どういう事かしら? 問い掛けようと思ったけれど……そこから話が逸れていってしまうような気がしたから、止めておいた。
「……どうしても、お聞きになりたいんですね」
その問いに、私はただ頷く。
「……なら、先にお伝えしておかなければならない事があります。……私が何故、今から話す事を貴方に伝えたくなかったのか」
「それは、これが貴方へ勝手な期待を抱く言葉であると同時に……」
「……貴方にとって、呪いになるのではないかと思ったからです」
「それでも、聞きますか」と、トレーナーさんは私の覚悟を問うかのように、私をじっと見つめてくる。
それに、私は首を縦に振って即答した。
呪い、という言葉は確かに引っ掛かるけれど……トレーナーさんの本心が聞ければ、それで良い。トレーナーさんを正しい意味で信頼する為には、トレーナーさんが私に寄り添ってくれたように、私もトレーナーさんに歩み寄らなければ。
私の意志を汲み取ってくれたのか、観念したようにトレーナーさんは息を吐いた。
「……サイレンススズカさん。私にとっての貴方は、ヒーローであり――」
一瞬、間を置いて。
「――神、なのです」
――そう、トレーナーさんが口にした頃。日は既に沈んでいた。
******
『――さぁ最終直線! やはり最初にやって来たのはサイレンススズカ! しかし後続も負けじと追いすがる!』
『サイレンススズカ、伸びが苦しい! 流石に距離延長が響いているのか!? それでもまだ粘る、粘る!』
『サイレンススズカ――1着でゴォォール!』
『サイレンススズカ!
――肺に空気が入り込み、ズキズキと痛む。
――2400mを走り終えた脚も、筋肉が張り詰めているようで……まるで、自分のものじゃないみたい。今までであれば、筋肉そのものがまだ走れると言わんばかりに余裕を感じていたのに。
――頭も、少しぼんやりとしている。観客席からの歓声も、どこか遠くに感じる。
東京優駿。またの名を日本ダービー。最も運の良いウマ娘が勝つとされる、日本で一番有名なレース。
ここで勝つ事は、多くのウマ娘にとっての夢、らしい。
スペちゃんも、恐らくここを目指しているんだと思う。……エアグルーヴの前では絶対に言えないけど、レース自体の凄さに疎い私でも名前は知ってるぐらいだから、それぐらい凄いレースなんだと思う。
そんなレースを勝った私の心は――
「……はぁ」
まるで、