サイレンススズカさんと偶然にも図書室で(一方的にだが)再会した、その数日後の事。
これまた偶然にも「サイレンススズカさんが模擬レースをやる」という情報をキャッチした僕は、書類仕事をほっぽりだし、慌ててグラウンドへと向かった。
グラウンドに着いた時、まだウォーミングアップの段階だったらしく、間に合った事に心底安堵した。
――本当に、そうかい?
視線の先では、体操服に身を包んだサイレンススズカさんと、そのトレーナーと思しき女性が話をしていた。
そして、僕はそれに耳を傾ける。
「今回のレースの目的、分かっているわね? スズカ」
「えっと……デビュー戦を想定した、
……は?
「そう。貴方のデビュー戦は来月に迫ってるわ。そこでは、今までのような
……なんだって?
「だからこそ、ここで新しい走り――『
……何を、言っているんだ?
聞こえてきた言葉に、僕は耳を疑った。疑いたくなかったが。
スピードを、制御すると言ったのか? あの人は。あの、圧倒的なスピードを?
ここで言う制御とは、明らかにサイレンススズカさんが最初にやったような大逃げとは真逆のものを指しているのだろう。
そして、恐らくは――
そこまで考えていると、何故だか眩暈のような感覚に襲われ、その場で膝を着いてしまう。なんとか手すりにしがみ付く僕に、今度は胃液がせり上がって来るかのような気持ち悪さが襲って来、思わずえづいてしまう。
「あ、あの、大丈夫ですか……?」
そんな僕を心配してか、誰かが声を掛けてくる。
見れば、見知らぬウマ娘が僕を心配そうに見つめていた。
「だ、大丈夫。少し、眩暈がした、だけ、だ。少しすれば、直る……」
「え、でも保健室に連れて行った方が――」
「いいから!」
情緒が不安定になっているのか、思わず僕は叫んでしまった。
それに驚いた彼女は、ビクリと身体を震わせると、恐る恐る「す、すみません……!」と、その場を後にした。
……彼女には、悪い事をした。今のは流石に良くない。
遠くで先程のウマ娘が、他のウマ娘と何やら話をしている。どうせ僕が怒鳴った事を話しているのだろう。
それよりも……サイレンススズカさんの方が重要だ。
僕はなんとか手すりを杖代わりにして立ち上がると、コースの方を見やる。
今度はサイレンススズカさんと、エアグルーヴが話をしているようだった。
後から調べて分かったのだが、エアグルーヴは既にデビュー済みのウマ娘で、現在はクラシック級を走っている。
しかも今日までの時点で重賞を一つ勝利しており、桜花賞は熱発により回避してしまったが、それでも次のオークスでは一番人気に支持されるのではないかと言われている程の実力者なのである。
そんな彼女を相手に走るのだ。同期ですら勝つのは難しいだろうに、デビュー前の彼のお方が、しかもスピードを制御した走りでだなんて……。
そこまで考えて、僕は首を振る。
いいや、僕は彼女の練習風景を見た訳じゃない。もしかしたらサイレンススズカさんの本来の適性は逃げではない別の脚質で、それでもって何かしら勝つ為の策があるに違いない。そうに、違いないのだ。
――まさか、本気で信じているわけではあるまい?
気付けば、模擬レースに参加するウマ娘達がスタート位置に着いている。
それを僕は、固唾を飲んで見守る。
そして――
******
……あれから、僕は何をしていただろうか。
仕事も手に付かず、何の目的も持たないまま、フラフラとあっちへ行ったり、こっちへ行ったり。
毎朝、初代スターマンのマスクに向かってやっていた礼拝も、ここ数日はサボってしまっている。
それ程までに、あの出来事……サイレンススズカさんの圧倒的な敗北が、心に突き刺さっていた。
――サイレンススズカ、模擬レース8着。
あのレースを見ていた僕は、思わず目を覆いたくなった。
サイレンススズカさんは、スタートから先頭を――
他の出走ウマ娘の何人かがそうするように先行のポジションをキープし続けた彼女は、最終直線に入ってもなおそのポジションのままで……そのまま、後ろから迫るバ群に呑まれていった。
勝ったのは、当然のようにエアグルーヴ。だが、そんな事はどうでもいい。
僕にとって気掛かりなのは、サイレンススズカさんの事だ。
遠目だったから良く見えなかったが……恐らくトレーナーから下った『スピードを制御しろ』、あるいは『脚を溜めろ』という指示を忠実に守っていたであろう彼女は、しかし酷く窮屈そうに見えた。
そして最終直線。次々と後ろから追い抜かれているその瞬間。
……彼女の顔は、絶望に染まっていた。
それが意味するところを、僕は知らない。
あまりにも、あの方の事を知らな過ぎた。
その事が、僕の後悔を加速させる。
――それだけじゃないだろう?
そして同時に……僕はどうしようもない怒りを、憤りを感じていた。
僕があの方のトレーナーになっていれば。
あの方のご尊顔を、あのように歪める事はなかっただろうに。
……そんなものは、ファンが語る「自分がトレーナーだったら」というたられば妄想話と同レベルでしかないのに。
こんな時、多くの人は酒をあおったりするのだろう。だが、生憎と僕は酒を飲まなければ、煙草もやらない。嫌悪しているからだ。
だが、この時ばかりは酒に酔って酔い潰れるか、あるいは心の赴くままに暴れたい気分だった。
それを理性が許さず、ますます苦しむばかりで。
――昔、こんな台詞があっただろう?
――『哀れだな、スターマン。人間などという矮小な存在を依り代にしたばかりに、その強みを活かせず死んでいくのだから』
ただただ、胸の空虚感だけが僕の全てを支配していた。
そんな時。僕は三度、サイレンススズカさんと遭遇した。
サイレンススズカさんは、黙々と走っておられた。
恐らくは自主的に走っておられるのだろう。
しかし、その脚には軽やかさの気配は無く、その顔には選抜レースの時や、図書室で浮かべていたような微笑みは無く――
「……あっ……」
――そして脚を止めた時、彼のお方はその場に崩れ落ちてしまわれた。
咄嗟に、僕は駆け出す。
「ッ、大丈夫……ですか!?」
なんと声を掛けるべきか悩みながら、僕はなんとか言葉を絞り出す。
そして、サイレンススズカさんに触れてしまっていいのか逡巡しそうにないながらも、何とか彼女の身体を支える。
ジャージ越しに触れる彼のお方の身体は、あれだけのスピードを出せるとは思えない程に細く、しかし筋肉質で。
だがそのご尊顔には……まるで生気がない。
心なしかその目は虚ろで、唇もカサついているように見える。
「あ……す、すみません。なんでもないです、大丈夫です……」
呟くようにそう口にするサイレンススズカさん。
どう考えても嘘だ。大丈夫と言うには、その語調はあまりにも機械的過ぎる。
「大丈夫な、訳がないでしょう……!」
だから、そんな言葉が口をついて出てしまった。
――そして、僕達はその瞬間、初めて目が合った。
「……あの……どうして、泣いてるんですか……?」
……彼女の瞳に映る僕の顔はぐしゃぐしゃで、酷く醜かった。