彼女の顔を見たとき、安心感を得たのは事実だったけれど、ふとわたしのこころのなかで抑えられていたイメージが再度湧き起こった。瞬時にこころの世界が混沌と化し、わたしは四苦八苦してどうにかしてそれに蓋をしようともがいた。また『なにか』がわたしの海で回遊するのがわかる。どうしよう、怖い……
「……ひより、ちゃん?」
「っ!!」
我に返る。醜い笑みのまま直立不動のわたしを、小春はさぞ心配したにちがいない。……いや、心配ならまだいい。もし彼女に軽蔑されていたらと思うと、わたしはその歪めた口をつぐむよりほかなかった。小春を見るだけでこんなに苦しくなるなんて、わたしは度しがたい罪人だ。こんなわたしなんて、蔑視されて当然なんだ……。さまざまな感情やイメージが錯綜して、抑えきれず奇声を発しそうになり、その衝動を身体が別の行動に転化しようとしたためなのだろうか、目尻に自然涙が浮かんだ。
「……ごめん、ね。なんでもないんだよ。なんでも…………」
目をつむって、振り絞ってことばを発した。一筋の水滴が、頬を伝った。『なんでもない』なんてウソだ。わたしは小春に醜悪なイメージを重ねてしまっている。彼女を見ると、お父さんを連想し、自分のボロボロな手を思い返す。どうしてこんなことがわたしを痛めつけるのか、自分でも説明できない。それが苦しくて、情けなくて、どうしようもなかった。それに、小春はなにも悪くないのに、『ごめん』と言うことで彼女に一種の罪悪感を背負わせてしまったことに気づき、なおさら自責の念に苛まれ、意味のない涙を増やした。
「……『ごめん』だなんて、言わないで。ひよりちゃんはなにも悪くないんだから。………わたしはね、きょう、ひよりちゃんと映画がみたいだけなの。二人でみたらたのしいだろうなあって。もちろん、ひよりちゃんがよければ、だけどね」
小春は、持ち前の明るいトーンより低めに、でもいつものやさしい声でわたしにそう言った。きつく閉じていた目を開くと、先ほどの声色をそのまま反映させたかのように、彼女は柔らかい笑みを浮かべていた。でも、少し泣きそうな顔でもあった。わたしはことさら罪悪感を感じたけれど、それは小春に心配させてしまったからであって、つまるところ、彼女はわたしを軽蔑せずに気にかけてくれていることを示唆していた。わたしは、こころのなかに安堵の感情がまた芽生えたことを感じた。いまだに負のイメージは拭いきれないけど、それ以上に小春と会話をつづけたい意志がまさっていたので、わたしは震えた声色ながらも返答した。
「………ありが、とう。………そ、その、映画、だっけ?………わ、わたしも、みる……」
「っ!!ありがとうっ!ひよりちゃんっ」
彼女にいつもの快活な笑顔が戻った。
「う、うんっ………。その、なんの映画、みるの?」
正直なところ、映画も引き金のかたまりだ。わたしはイメージを引き起こさせるあらゆるものを避けていたから、無論映画は忌避すべき対象だった。それでも………彼女とみたいと思った。
「うんっ。これなんだけどね……」
彼女はパソコンとともに両腕で挟んでいたパッケージを片手に持ち替えてわたしに見せた。さきほど目視していたように、男女がバイクに乗っているジャケットで、後部に横座りする女性が男性に抱きついていた。パッケージの上部にはタイトルが見えた。
「……“ROMAN HOLIDAY”?」
「そう!邦題は『ローマの休日』。知ってるかな?」
「タイトルだけは………」
「ふふーん。名作映画なんだよ?主演女優のオードリー・ヘップバーンがちょーかわいくてね!……まあ、わたしもみたことないんだけど」
ずっこけかたは知らないけど、わたしはずっこけそうになった。
「きょうはパソコンでこれをいっしょにみようかなってね………部屋に入っても、いい、かな?」
「う、うんっ。もちろん………。……っ!!」
ずっとドア付近で立たせていることに気づき、わたしはつい了承してしまったけれど、部屋はゴミで散乱しており、カーテンも締めきっているひどいありさまだった。そして……小春の部屋を仕切る戸をわたしはテープで固定させていたのだ。ひきこもりの最初のころ、わたしの様子を確認するために家族が間仕切りを開けようとしたこともあったから、なんらかの方法でいま戸が閉ざされていることは小春もすでに知っていたかもしれない。でも、彼女がいざ実際にその双眸で開かずの仕切り戸を確認すれば、傷つかないはずがない。わたしは部屋に入る小春を止めようとしたが、突然のことだったから、身体が硬直してなにも言えなかった。
わたしは小春からの非難、嫌悪や落胆の表情を予想した。だけど、小春はなにも発しないばかりか、嫌な顔一つせず部屋に入ってわたしのベッドに腰かけた。ベッドは仕切り戸の向かい側に移動させていたから、壁に沿って座ると目の前に養生テープだらけの間仕切りがありありと見える。しかし、小春はそれを無視する風でもなく、さも存在するのが当たり前かのように自然に前を向いて、パソコンとDVDを膝に置きながら、両足をぶらさげてパタパタと交互に動かしていた。
「ね、ひよりちゃんっ。ひよりちゃんのベッドで二人寝転がって映画みない?」
わたしは呆気にとられていたが、小春の声でまた我に返った。わたしのベッド……長期間ひきこもってきたから、シーツもかけ布団もずいぶん洗濯していない。それにわたし自身、なるべく自室から出たくないのと、手に対する恐怖が身体全体に及ぶのを恐れて、湯船に入る頻度も低かった。だから、ゴミで散らかる部屋全体からはもちろん、きたないベッドやわたしの身体からも局所的に異臭がするだろう。かといって、カーテンや窓を開けるのはどうしても嫌だった。下手に音や光の情報を取り込んで、わたしのあたまを混乱させたくなかった。何度も言わざるを得ないが、ほんとうに、どうしてここまで躍起になって情報をシャットアウトしようとするのか、わたしにも完全に理解ができない。こうして、またわたしは困惑し、こころのなかで右往左往して小春に対して発すべきつぎのことばを必死に模索していたけれど、いっぽうの小春は依然としてなにも気にする様子はなく、わたしのベッドに寝転んでうつ伏せになりながらうれしそうに足をバタつかせていた。
……本当に小春は気にしていていないのだろうか?はっきり言って、当事者のわたしから見ても、この部屋は異常だ。わたし以外の人間にとってはなおのこと不気味なはずなのだから、きっと彼女は自分を殺して無理をしているにちがいないのだ。あらゆる外的情報から隔離されたうすぎたない独房に罪のない小春を呼び込んだのは大きな誤算だった。そして、その独房以上にけがらわしいわたしと接触させてしまったことに対して、情けないほど申し訳が立たず、わたしは後悔と羞恥の念に押しつぶされ、再び視界がじわじわと滲みだした。『ごめんなさい』………わたしは震える口元からせめてのも謝辞をまた発しようとした——
「大丈夫、ひよりちゃん」
「………え?」
「大丈夫、大丈夫だからね。わたしはひよりちゃんと映画がみたい、それだけでいいの。だから、ひよりちゃんも、わたしも、大丈夫。だいじょーぶなんだよ、ねっ?」
小春はベッドに横たわりながら、わたしのほうを向いてそうささやくと、わたしにも寝転がるのを促すように、ポンポン、とシーツの上をやさしく叩いた。
………「大丈夫」がなにを指しているのか、このときはわからなかった。けれど、これまでの人生で幾度となく耳にしてきたその単純なことばは、小春の声に乗せて、わたしのこころに音溝を刻んだ。すると、彼女の声音が子守唄になったのだろうか、泳ぎ疲れた『なにか』は眠りについたようだった。わたしは角のない彼女の微笑みに吸いよせられるようにベッドに向かい、いっしょに横たわった。………向かい合って見つめあう。小春の顔をこんなに近く見るのは、いつぶりだったかな。きれいな顔だ。こんなにキレイなのに、わたしは彼女からずっと目を背けていたんだ。
「……よし。それじゃあ、鑑賞スタートだ〜!!」
しばらくしてから、小春は枕元に置いていたパッケージからDVDを取り出しパソコンに読み込ませると、エンターキーを人差し指で小気味よく打った。