私の音が聞こえない   作:深山瀬怜/浅谷てるる

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2022年文披
1.トワイライト・ピアニスト(黄昏)


 この練習室は、黄昏時になると強い西日が差し込んで来る。それを嫌う人が多いため、夕方はいつも空いていた。私はいつもそこを狙って予約を入れる。理由は単純で、私はその西日が好きだからだ。幼い頃にピアノを練習していた部屋と似ている。西日が差し込んだときに壁に映る影だけを見ていると、自分がまるでピアニストになったかのような気分になれた。舞台の上の憧れの姿。理想のピアニストになれた気がして楽しかった。だから私は、黄昏時に西日を浴びてピアノを弾く。もう演奏家の夢は諦めたけれど、それだけは変わらない習慣として残っていた。

「バルトークのルーマニア民俗舞曲か」

 曲が終わると同時に響いた声に振り返ると、練習室のドアがいつの間にか開いていて、肩より上で切り揃えた髪に白のメッシュを入れた女が立っていた。ライダースジャケットに革のパンツ。おしとやかな格好をした学生が多いこの大学では異質とも言える服装をしたその人は、学内でも有名な先輩だった。風見(かざみ)樹里(じゅり)――私にとっては姉弟子にあたる人だ。

「樹里さん。どうかしたんですか?」

「ここにいるかなーと思って。遥希(はるき)に話があるんだ」

 樹里が練習室に入って来る。ピアニストのイメージとは少し違うが、彼女は歩いているだけで雰囲気がある。ピアノに座った姿もかっこいい。一音も出してないうちから、ただものではないと感じさせてしまう。

「話って何ですか?」

「遥希、合唱の伴奏とかやってみる気ない?」

「合唱……ですか」

「M大の混声合唱団なんだけど、昨年は私がやったんだよね。で、今年もって言われたんだけど、ほら一応就活生じゃん?」

「一応じゃなくて就活生ですね」

 地方の音大生の就活は大変だ。演奏家になれるのは一握りの実力者のみ。音楽に関係する仕事に就ければ万々歳。多くは音楽とは全く関係のない仕事しか掴めないけれど、そういった仕事は他の大学の出身者とも争わなければならないので、難易度は上がる。樹里はのんびりと就活をしているが、私からしてみればそんなにゆっくりしていて大丈夫なのかと思ってしまう。

「そういうわけで、どうかな? 私としては一番実力を知ってる遥希に任せたいんだけどさ」

「すいません。お断りします」

「報酬も聞かずに断るか……」

「出るんですか、お金?」

「大学合唱団なんてほぼボランティアね。その時間コンビニでバイトした方が稼げるけど、出るには出るわよ。あとは……良い経験にはなるかな」

「でも所詮素人集団ですよね?」

 棘のある言葉に、樹里が苦笑いを浮かべる。嫌な言葉だとは思ったけれど、紛れもなく本気ではあった。

「まあね。音楽的に突っ込みたいところは山のようにあるんだけど……青春と結びついてる音楽って感じで私は好き」

「私、合唱嫌いなんですよ」

 分け隔てなく、音楽なら何でも好きな樹里とは違う。

「そうなの? 何で?」

「授業で合唱やりますけど……基本的に自分の音は死ぬじゃないですか」

 一人で演奏することが多いピアノなどの楽器とは全く異なる。一人の声が突出しているようでは合唱にはならない。音楽として成立させるためには己の声の角を取り、他人の声と混ぜ合わせなければならない。それが私にとっては苦痛だった。

「それは何か合唱ってものを誤解してる気もするよ」

「そうですか?」

「まあさっき遥希も言ってたように素人集団なのは事実だからさ、そんな難しく考えなくてもいいと思うよ」

 樹里は樹里で失礼なことを言う。けれど樹里が昨年の伴奏を楽しんでやっていたのだということは、その表情から伝わってきた。

「私からすれば遥希は力入りすぎなんだよ、いつも。夕方ここで弾いてるときが一番上手い」

「それは――」

「とりあえず、一晩ゆっくり考えてみてよ。他の人探すのも面倒だし」

 もしかして、人を探すのが面倒だから私に押し付けるつもりなのだろうか。樹里の妹弟子で、私が一番良く話す相手だから私に白羽の矢を立てた。そのくらい単純な理由なのかもしれない。

「一応楽譜もあるから渡しとくね。音源はネットで調べたらどっかの合唱団のやつが聴けるって」

「一晩でも気持ちは変わらないと思いますけど」

「まあそう言わずに」

 樹里は強引に楽譜を押し付けてきた。樹里は押しが強く、こうなってしまうと受け取る以外に止める方法はない。私は溜息を吐いて楽譜を受け取った。

「じゃあそういうわけだから。明日また返事聞きに来るね」

 台風一過。樹里がいなくなると練習室は静寂に包まれる。夕日はもうほとんど沈んでいて、黄昏時の魔法の時間は終わりつつあった。

「……あと一曲、くらいかな」

 樹里に押し付けられた楽譜を横に置き、私は鍵盤に向き合う。

「合唱なんて――」

 樹里に言っても、私の気持ちはわかってはもらえないだろう。合唱は嫌いだ。音を揃えるためとはいえ、皆が同じような表情で歌っているのを見ると寒気すら感じる。どれだけ必死になって演奏しても、放たれた自分の音は誰かの音と混ざり合ってわからなくなってしまう。その中に入ることを考えるだけで気持ち悪くなる。たとえ伴奏という、私一人の音しかないパートであっても、その上に乗るのが合唱だと思うだけで嫌だ。

 気持ちを落ち着けるために深呼吸をして、それから鍵盤に手を乗せた。シューマン『子供の情景』より「トロイメライ」――この時間を締め括るにはちょうどいい曲だ。子供の頃から私はこの曲を好んで弾いてきた。壁に映る影は、私を素晴らしい演奏家にしてくれる。華やかな舞台の上に一人で立ち、大勢の聴衆を相手にするピアニスト。

 それは、魔法でも使わなければ絶対に届かない私のかつての夢。

 自分が凡人であることは、音大に入る前には既にわかっていた。それでも努力は実ると自分に言い聞かせていた。本当は、どうやっても敵わない才能があると気付いていたのに。

 日が落ちて、影が消えていく。私にかけられた黄昏の魔法がとけていく。曲が終わる頃には太陽は完全に姿を消していて、ぼんやりとした外の明かりを、樹里に押し付けられた楽譜の表紙が反射していた。

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